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ヤマダヒフミ自選評論集

主人公の内面を客体化して、小説作品を自立させる

伊藤計劃「虐殺器官」における一人称の語り口は、ドストエフスキー「未成年」の一人称に似ていると思う。一人称の使い方は僕にとっても重大な小説技法なので、分析してみよう。まず、二つの作品の冒頭を並べる。


                         ※


 『わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない』 (ドストエフスキー「未成年」)



 『ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。


 たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった。はい、ということばとぼくの名前。そのふたつがそろったとき、ぼくの母親は死んだ。

 これまでぼくはたくさんの人間を殺してきた。おもに銃と弾丸で。

 刃物で殺したこともあるが、正直言ってあまり好きなやり方じゃない。』 (伊藤計劃「虐殺器官」)


                         ※


 どちらも抑制のきいた、響きの良い語り口を採用している。どちらも読んだ事のない読者に紹介しておくと、両小説とも、未熟さの目立つ青年が主人公となっている。この「未熟さ」を作者は意図的に、前もって計画している。


 ドストエフスキーの方から行こう。ドストエフスキーのこの小説は「未成年」というタイトルにその思想が集約されている。だが、「未成年」の語り口は全体的に生真面目で、真剣で、冷静、理知的な文章である。


 一般的な論点に移るが、例えば、あなた自身が未熟な人物だとしよう。すると、あなたは自分が未熟である事を意識できない。あなたは、自分の精神的定位を基準に世界を見つめている。あなたがもし、自分が未熟だと気づく事ができるのであれば、あなたは十分に成熟していると言える。


 例えば、子供の世界というのはそれ自体でひとつの世界を成している。子供の世界は「未熟だ」というのはあくまでも大人から見られた子供の世界の話だ。子供の世界は、子供の世界として百%、十全に機能している。人間は自分が未熟である事を意識しえないし、意識しえた時、その人は過去の未熟さから脱した時だと言えるだろう。


 「未成年」の主人公はタイトルどおり、「未成年」である。主人公は妙に生真面目で、冷静で、理知的な語り方をする。しかし、そんな語り方しかできないという事が、主人公が未成年である事の証なのだ。彼は未熟であるが、自分の未熟を絶対に認めようとせず、大人と対等に張り合おうとする。自分はいつも冷静で理知的で、威厳に満ちているという姿勢を示そうとする。その姿勢は語り口にも現れている。しかしだからこそ、この人物はまだ未熟さの残っている人物だ。つまり、ある個人の未熟さ、未成年たる所以は、語りの内容としては表されない。


 ある個人が未熟であるとするなら、それは「語り口」として、「語られず示されるものだ」というのが作家ドストエフスキーの洞察だった。だから、ドストエフスキーは最初から最後まで主人公の心理をしっかり抑えて、洞察しつつ、書いているのである。つまり、主人公は一重に自分を語っているだけだが、作者は主人公の内面と、それを抑える作者の内面と、二つの内面を同時に持っている。


 同じ事は「虐殺器官」にも言える。虐殺器官のナイーブな語り口は、主人公の未熟さを示している。主人公は三十才なのだが、まだ成熟できていない。彼は殺し屋として恐ろしく有能なのだが、精神は未熟なままに留まっている。それは彼が消費サイクルに飲み込まれており、システムの一部となっていて、人殺しの仕事も単に「仕事」として任務を遂行するだけなので、いつも本当の自分に出会えないからだ。責任と苦痛を除外された個人は、人として成熟する事ができない。だから、恐ろしく有能な殺し屋もどこか青臭い語り方をせざるを得ない。ここに作家伊藤計劃の洞察がある。


 つまり、伊藤計劃にしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは語りの外部に位置しながら、何故主人公がそんな語りをしなければならないのか、よく理解していた。ここに作家としての根底的な技術がある、と僕は見たい。


 「小説というのは誰でも書ける」という話がある。それは確かに、一見そう見えるし、そんなレベルの小説がベストセラーになる事もある。しかし、根底的に作家である事、その技術を身につける事は他の分野のエキスパートになるのと同様、非常な難しさを伴う。それは、文体を弄ったり、物語を妙に長たらしくしたり、知識をつけて云々…という事ではなく、小説というものがそのような形で表される事に、作家がきちんとした根拠を持つ事、そこに作家の技術がある。この場合、ドストエフスキーと伊藤計劃は主人公の語りの意味を理解している。これを普通の小説とくらべてみよう。


 『階段を駆け降りホームに着いた途端、京都の十二月らしい風が頬に冷たい爪を立てながら、吹き去った。マフラーを風に巻きつけ、ホームを端まで歩いた。端に着くとちょうど、熱気で曇った車内の窓にへばり付く乗客の固まった視線を一瞬だけ覗かせる満員の新快速が、風を起こしながら通りすぎた。』


                              (シリン・ネザマフィ 「拍動」)


 手元にあった文芸誌から適当に選んでみた。こういうのを「うまい文章」というのかもしれない。確かに、芥川賞候補になって芥川賞ぐらいは取りそうな文章だ。


 冒頭の部分から、読者は主人公の内面に同化される事を求められる。しかし、読んでいても主人公と作者の感性、情念、心理が分離しているとは感じない。「ホームを端まで歩いた」という文章は主人公が歩くのを、作者が客観的位相で見ているというよりは単に作者=主人公が「ホームを端まで歩いた」としか読めない。


 「レンコンのはさみ揚げを注文してから、しばらくどうでもいい話が続いた。山本先生が知っていた文学部屈指の美人助手が半年前婚約した話だとか、そのゼミに所属していた男子学生のがっかり具合が学校中の話題になっている話など」…


 こうした描写が続くわけだが、こういう文章の時、「どうでもいい話」と思っているのは、主人公であると共に、作者であるようにしか見えない。最近の作家の大半はこういう書き方をしているように思う。そこでは、どんな主人公を設定しようが、結局、作者が自分自身を相対化する力が弱いために、作者と主人公が同一化されていってしまう。もちろん、主人公は作者の「一部」ではある。だが、作者と主人公が全面的に同一化する必要はない。主人公の語りが作者の主観の垂れ流しにしかなっていない作品というのはよく見かける。そしてそれは、表面上は「未成年」や「虐殺器官」と同じように見える。しかし、根底的な部分でそれは違っている。


 こうした事は当然、作品の主題、内容にも影響していく。伊藤計劃やドストエフスキーの作品では、作品全体を統御する視点がある。それらの作品では、ある個人がある社会条件で、どのような推移をたどるのかという作家的洞察がある。彼らは物語をうまく作ったわけではない。むしろ、ある内面を持った個人がある社会で生きようとした時、どんな物語が現れてくるのを推察し、それを見つけ出したと言った方が良いだろう。伊藤計劃の場合は未来の社会において、責任と苦痛が除外された個人が再び自分自身であろうとする悲劇をテーマとし、ドストエフスキーにおいては当時のロシア社会でこのような、観念的な青年が出てくる事を理解していた。


 一方、シリン・ネザマフィ的、その他の「日常描く純文学系作家」は洞察しない。彼らは日常に埋没する。シリン・ネザマフィの「拍動」をめくると、そこに日本に済む外国人の文化的軋轢のようなものが扱われている。シリン・ネザマフィというのは日本名ではないから、作者自身そんな体験があったのかもしれない。しかし、ここでどんな体験があり、どんなテーマを問題としようと、そこで現れているのは作家個人の問題でしかない。作家個人の問題でしかないというのは、作家が自分自身を相対的に、客体的に扱う事ができていないから、作家個人の問題にとどまるというほどの意味だ。


 作家が自分に起こった事を活字にする事でたやすく普遍性を得られるというのは間違いだと考える。自分が人殺しをしたから、人殺しの話が書けるというのは、小説は事実を書くという割り切り方をしているから出てくる考え方だ。ただ、実際の所、読者もそんな見方をしている。


 例を二つあげる。最近、二つの小説が売れた。一つは又吉直樹の「火花」。もうひとつは最近話題になっている「夫の〇〇○が入らない」。(〇〇○は調べてもらおう) 一つ目は作者自身が芸人であり、作品も芸人の話というのが圧倒的に大きい。ここでどんな事が起こっているかと言うと、作品の自立性のなさを、作者(芸人)の身体性が補っているという事だ。芸人としての又吉直樹はテレビで見て知っている。その像を作品に写し出して読むために、作品は作品単体以上の価値があるように思われる。「あの」又吉直樹が「こんな」作品を書いたか、という評価につながっていく。


 二つ目の作品はタイトルの時点ではっきりしているが、タイトルと事実の奇異さで受けているという事だろう。しかし、「事実の奇異さ」「タイトルの奇異さ」で受けているのはそもそも問題だ。この小説の読者は作品をノンフィクションとして読むだろうし、彼らはそれが事実でないと知ったら、落胆するだろう。夏目漱石研究者は夏目漱石の経歴に必死に不倫の事実を読み取ろうとするが、それは話が逆だ。夏目漱石の小説の偉大さが見えているから、作者もそういう経験があったにちがないと感じ、そういう過去を探し求める。だが、些細な事実ではなく、偉大な作品を目の前に置いて、その真価を僕達は見出すべきだ。今の状況ではなんのために文学があるのかわからない。こんな状況では、吉本とジャニーズにかわりばんこに芥川賞をあげればさぞ文学界は盛り上がる事だろう。(最近、文學界はタレントに文章を書かせたりしているので、案外、絵空事ではないかもしれない)


 話を元に戻そう。伊藤計劃とドストエフスキーの作品が、作者が語りを統御している立体的な作品とみなすと、シリン・ネザマフィはじめとした作家の作品は平板な作品と言える。作品に倫理的指向性が感じられないのは彼らが倫理的な人間ではないから、ではない。そうではなく、平板な作品を書く作家は自分の内面を対象化できていない。これを話の最初に戻すと、彼らは本当に未熟であるから、未熟な個人を描く事ができない、と言う事ができるだろう。


 伊藤計劃、ドストエフスキーの作品には平板な作品にはない「意味」がある。それは作者の世界洞察から出てくるものだ。作者は世界を洞察しつつ、ありうべき物語を書いている。ありうべき主人公の内面を書いているが、それは描くべき価値のある内面だと作家が信じているから描いているのだ。一方で普通の作家は自分の内面を価値があると無条件に信じている。いや、彼らはそれを信じると感じる事すらできないほど自分の内面と溶け合っている。それがために、彼らの作品がどんな広大な野心なものに満ちているものであり、どんな政治的テーマ取ってこようと、作品は平板で卑小なものにとどまる。


 最近起こった大きな地震やテロをテーマにしているから、作家は世界に「コミット」しているなどというのはあまりに馬鹿げた話だ。作家は世界に直接言及する必要はない。が、作家は世界を「踏まえる」必要がある。この世界はどんなものかという認識の上に主人公が屹立する。そうして始めて、意味のある作品が生まれる。


 「作品」は自分と他者とを統合できる手段であるが、ここに立体的な指向性がない場合、単に作者の主観の垂れ流しを我々は聞かされるはめになる。この場合、作者と読者の立場が近ければ共感もできるだろう。作者が特異な感性、経験の持ち主ならそれを面白がれるだろう。だが、それは「普遍性」ではない。普遍性とはおそらく、自分を越える事で、他人をも越える何かだろう。この時、小説は立体的な立場を持つ事になる。主人公は作者が価値あると、理性的に判断する事によって現れてくる。すると、読者はこの理性的判断を最後には認めなければならない。では、何故、認めなければならないか。それは作家の理性的判断が、つまる所、個人や世界のあり方を踏まえた偉大な洞察だからだ。


 小説家というのは単に、自分の経験や主観を垂れ流して、世の中に是非を問うものではない。他人と自分との間の立場、価値観の断絶を感じて、それを物語という形式によって越えていく事ができる存在である。だからこそ、主人公は作者とは違う内面を持って、自主独立しなければならない。言い換えれば、作者が、自分に希望を抱いている間は、自分の主観を世界に訴えかけ続ける事ができる。作者が世界に直接呼びかけてももう無駄だと悟る時、彼の中でもう一人の主人公が立ち上がる。おそらく、この主人公は、作者と世界の断絶を正に「生きる」のである。その例としてはカフカを出せば十分だろう。カフカは世界と私の断絶において、「私」の正当性を直接訴えなかった。また同時に、世界に完全に服従する事を潔く認めたわけでもなかった。そのどちらにも行けないという辛い思いを、カフカの主人公は正に「生きた」のだ。だから、彼の作品では主人公は生きているか、少なくとも生きようとしている。ここに作家としての像が見えてくる。


 多くの読者が面白がっている観点、作家が自分を飾り立てるために作品があると考えている場所、そうした場所からは傑作は生まれてこないだろう。傑作とはおそらくーー作者自身が一度死んだ所から生まれてくるに違いない。作者の屍の後に、主人公は自立してあるきだす。ここに世界と作家の断絶が埋まる事になる。だがこういう作品を生む前にまず作家はこの断絶を身をもって体験しなければならない。そのためには作家はまず人生を生きなければならない。そして人生の辛さを思い切り身に刻まなければならない。

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[良い点] わざと馬鹿になってから、それから賢いふりをして描けば未熟な人間は描けますね。 それは作者が馬鹿である訳ではない、と。 まあ、それはそうだろうなあ、と思いました。 [気になる点] 自分よりも…
[一言] (=`ω´=)氏の感想について、ここで感想するのも問題かなーと思いながらも、(=`ω´=)氏の意見を通した、このエッセイへの更なる感想としてなら、アリかなーと思いつつ、コメントしようと思い…
[一言] 書かれた内容についてはおおむね同意できる。 というか、作者と作中の登場人物が別個の内面を持っている、なんて、当然すぎて今さら指摘をするまでもない前提だと思っていましたが。 両者を同一視する人…
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