人とオオカミ。
「我々の敵はオオカミだ」
年老いた男は唾を飛ばしながら声を張り上げた。
この世界では人とオオカミは敵対する関係にあった。人は人と、オオカミはオオカミと、群れを成して暮らしてきた。しかし、人とオオカミが別に暮らしているからと言ってこれまでに関わりがなかったというわけではない。むしろ住む土地やその広さなど生息域について取り決めていなかったためか、オオカミが人里に降りてきたり人がオオカミの群れの中を通過したりすることは日常茶飯事だった。両者ともはじめのうちこそは威嚇をしたり臨戦態勢を取ったりしていたが、次第に慣れ最近ではお互いに道を譲りあう関係だ。ではもう敵対関係ではなくなったのかと問われれば、そうではない。人とオオカミは今でも根の深いところでは相手に殺意を持って暮らしている。そして冒頭のセリフにつながる訳だ。
「我々の敵はオオカミだ」
と。
過去に何かをされたという記録も、過去に何かをしたという記録もないが長い間人とオオカミが敵対しているという記録だけは残っている。原因もないのにいがみ合いの喧嘩をしている、そんな現状に僕自身は何の疑問も持たず上の意見に賛同していた。言われるがままに体を鍛え、言われるがままに魂を削り、言われるがままにオオカミから町を守る部隊へと所属していた。そして周りの仲間も僕と同じようにここまで生きてきたのだと思っていた。
そんな幻想が崩れたのは僕が隊に入ってから一年の事、同期の仲間のうちの一人が僕を人気のない場所へ連れ出した時の事だった。
僕を連れ出した彼は入隊してから出会った仲間ではあったけれど、同期の中では一番仲がいいと思っている奴だった。彼はどんな人間に対しても思っていることを隠さずに伝えるような性格で、上司からは生意気な奴だとよく言われている。そんな彼が人気のないところで話す内容に心当たりなどなく、もしや何か脅されるのではないかと内心びくびくしながら彼の言葉を待った。そして彼は
「お前だから言っておくけど、俺もうすぐここから居なくなるから」
と、告げた。
何も隠さずに用件だけを話す様子はとても彼らしく、最初は言っていることが正確に理解できなかった。
「新しい仕事でも見つけたのか?」
ちんぷんかんぷんなまま適当に思いついたことを口にすると、彼は馬鹿だなと苦笑し、きちんとした言葉を返してくれた。
「俺はオオカミの群れに行く。人をやめに行くんだ」
その言葉は分かりやすかったけれど、分かりやすすぎてやっぱり理解できなかった。
「人とオオカミは違う生き物だぞ?」
そんな当たり前のことを尋ねて、言ったことを後悔した。
「そういう事じゃない、そんな事はガキでもわかる。本当にお前は馬鹿だな。いいか、お前も知っての通りオオカミと人は敵対して暮らしている。だから俺は人を捨ててオオカミ側の人間になりに行くんだ」
それは矛盾しているのではないだろうか。馬鹿だと罵倒されたが、彼の方がよっぽど馬鹿だ。人はどう足掻いてもオオカミになることはできないのに、オオカミ側の人間になるなど体を噛みちぎられに行くようなものだろう。
「言っておくが、すでにオオカミ側に人間は移り住んでいる。あの老いぼれ共は必死にそれを隠しているが世間に知れ渡るのも時間の問題だろう。どうせお前はこういう事に疎いだろうから教えてやろうと思ってな、まあこんなこと隊の中で言った日には首が宙を舞うだろうから気を付けろよ」
まじか。長年ジジイにどやされていたこいつが言うと冗談には聞こえない。だからこんな人気のないところにわざわざ連れだしたのか……。にわかには信じられない事だったがそれを確認する機会もないまま彼は隊を去って行った。実際は神隠しにでもあったかのようにその姿を眩ませたのだが、上からの報告には脱退したとされていた。彼が上の人間にオオカミ側に入ると告げたのかは定かではないが、どちらにせよ消えた人間は自らの意思でここを去っていったことになるようだ。そういえば最近脱退する奴が多かったなと思っていたが彼らも同じようにオオカミ側の人間になったのだろうか?
それからというもの、自分もオオカミ側の人間になるべきなのだろうかオオカミ側に行ったらどうなるのだろうかなど、オオカミについての悩みは尽きず、鍛錬にもあまり集中できない日々が続いていた。そして、悩んでも結論は出ないと思った僕は敵陣へ偵察に出ることにした。
丑三つ時。
あたりは寝静まり木の葉の擦れる音だけがかすかに聞こえる。僕は寝床から顔を出しあたりの様子をうかがった。というのも、ここが個人部屋でなく四人で共有して使用している部屋だからだ。まあ今は彼が居なくなった分三人で使用しているが、人間一人が居ても居なくてもあまり変わらないだろう。僕以外の二人が寝息を立てていることを確認し、僕は素早く部屋から抜け出した。
外に出ると月明かりだけを頼りに森を奥へ奥へと進んでいく。木の枝に上着が引っかかったり、蛇のように地面にうごめく木の根に足を取られながらも進み切った先には賑やかな村があった。そこは暗い森の中でぽつりと光をともし、まるで祭りでもやっているかのようににぎわっていた。数軒の屋台に子どもからお年寄りまで年齢など関係なく笑いあっているさまは平和そのもので、このような平和のために日々鍛錬を積んでいるのだと思うと自分の仕事に誇りが持てた。僕も紛れて遊んでいくかと村に近づくと、村人たちはざわざわと何かを警戒し出したのだった。何事かと再び身をひそめ様子をうかがっていると、人の波が左右に分かれその原因が姿を現した。
オオカミだ。
夜中だからだろうか、きっと近くを通りかかった際に食べ物のにおいでも嗅ぎ付けてやって来たに違いない。そうと決まれば僕の出番だと立ち上がりかけたその時、聞きなれない鳴き声がした。
「この近くに人間が近寄ってきておる。危険だから早く立ち去れ」
耳にはアウオウと聞き取れない音が入って来るだけなのに、頭にはそのオオカミが発している言葉が浮かんできた。
人間が危険だと?
なぜそれを人間に伝える?
ここに居る人間は人間ではないのか?
いくつもの疑問が頭をよぎるがその答えをくれる存在はここには居ない。そしてふと彼の言葉が頭をよぎったのだった。
オオカミ側の人間になりに行く。
ではこれが、こんなにも幸せそうに暮らしている人々が、敵対するオオカミ側についた人間だとでもいうのだろうか。そして、彼らの幸福を壊しにきた人間というのはもしかしなくても僕の事なのではないだろうか。自分の仕事に誇りを持てるどころか、僕の目指すものを自らの手で壊しに来ていたとは思ってもみなかった。
僕は大きな木の陰に隠れ、オオカミが去るのを待った。きっと部外者を排除しようと捜索しているに違いない。早くここから離れたいが人より耳の良いオオカミだ、少しの物音でも聞きつけてやって来るに違いない。それに隊で学んだことには、オオカミは人の本心を見抜けるといっていた。もしこんな不純な動機で群れに近づいたとなれば、殺されても文句は言えまい。死ぬ覚悟も決めつつ時がたつのをじっと待った。
空に光が漏れ始め山々の間から太陽が顔をのぞかせたころ、僕は止めていた息をやっと吐き出せたような感覚に襲われた。この時間ならさすがのオオカミもどこか遠くに行っただろうと気を抜いていたのがいけなかった。
「おい人間、やっと見つけたぞ。我らの村に手を出しに来るとは……一体、何が目的だ」
右後ろからアウオウと耳慣れない音がする。振り返る必要もない、これはオオカミだ。
何も考えまいと心を無に近づけようとすればするほど、それは裏目に出てしまう。
「そうかおぬし、人間を疑っておるのか」
嫌な汗が背中を伝う。
「同族すらも信用できぬとはやはり人間は下等な生き物だの」
お前たちにそんな事を言われたくはない。
きっと言葉にしなくてもオオカミには伝わっているのだろう。奴はハッと鼻で笑い僕の正面に姿を現した。
「そういう所が下等だといっておるのだ」
真っ白なつやのある毛並みに、ザクロの様な透明感のある深紅の瞳は人が持つことのない気高さと美しさを兼ね備えていた。僕はそれに見とれてしまい言葉を発することはない。ただ、これが、これがオオカミなのかとそのすべてを目に焼き付けるように凝視した。
「もしやおぬしオオカミは初めてか?なら、我をオオカミととらえるのは間違っておる。我はオオカミではあるが、他のものと比べると特異な体質だからな。我のようなオオカミは他にはおらん、他のものは大抵くすんだ毛並みをしておるのでな。もしこちらに来たいというのであれば我が話を付けてやろう。お前の友達とやらにも会えるかもしれんぞ」
それだけを言い残すとオオカミは草むらの中に姿を消していった。
彼のことまでお見通しという事は、どこまでオオカミに知られてしまったのだろうか。人間の事を下等だと口にするくらいだ、オオカミが馬鹿である可能性は少ないだろう。でもその前に夜中抜け出したことをどうごまかそうか。