温泉旅館の非日常
初短編です。
私はここ、ひょうたん温泉を切り盛りしている誇りである両親のもとに生まれた一人娘、高篠楓。
そんな私は両親に来てはいけないと言われていた月に一度の日がある。
その日はこれまでと違い、知りたいという欲望が押さえつけられなくなった。
私は裏に回り、露天風呂なら覗けるはずだと思ってだめもとで覗いたことがある。
そこで覗いたものは異形のものたちだった。
逸話で出てくる甘いものをあげると家のお手伝いをしてくれるという妖精や、桃太郎が退治したと言われている頭に角が生えた鬼。それから耳が長い者ややけに体が小さい者、大きい者。
私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。
その時、浴槽に使っている異形の者たちが一斉に私の方に振り向いた。
そう思ったとき、私は気を失ってしまったらしい。
目が覚めたときには両親が視界に映り、その涙を目じりに浮かべた様子から相当心配をかけたんだな、と思った。
「ごめんなさい」
この一言が言えずにもう3年が経った。
あの頃は高校の受験に合格し浮かれていたからあのようなことをしたのだと思う。
今でも少しだけ後悔しているけれど、私の常識が少し変わった一日だったのでどっちつかずと言ったところだ。
そして私は今、高校3年生を卒業した次の日を迎えていた。
私は区切りとして、高校を卒業したら両親の跡を継ぐと決めていたので、この日にあの日のことを謝ろうと思っていた。
でも、私が呼び出すはずだったのに両親に呼ばれてしまった。
私がいつまでも謝らないから跡を継ぐなといわれるのかと思い、内心では結構な量の冷や汗を搔いていた。
私は呼び出された部屋に行くと、両親はもう椅子に座って待っていた。
私も正面に置かれている椅子に座ると、お母さんが話を切り出した。
「楓、よく聞いて。あなたにはこの温泉を継いでほしいと思っているの。それでね、あの日かえでが見たことは全て本当のこと。今日は月に一度の日だから改めて見せるわね」
お母さんの話が終わるとお父さんの話が始まった。
「この、月に一度の日は俺たちの家が温泉を始めた時からあると言い伝えられている。家ができたのは江戸時代と歴史は古い。しかし、その頃からずっと通ってくれている異形の者もいる。普段のお客様と同じように接客するんだ」
両親との話が終わり、私は謝る間もなく温泉の受付に連れて行かれた。
そこには既に、多数の異形の者が待っていた。
「ようやくお出ましでござろうか。この者が彼の血の新たな後継者ということでござるな?」
一人の、異形の者の中では比較的人間に近い者が両親に話しかけ、両親はそれに頷いた。
彼の血の後継者とはきっと江戸時代の私の祖先のことだろうと思う。きっとこの人が常連さんに違いないと思い、通常のお客様と同じように挨拶をする。
「ようこそおいでくださいました。当温泉をご利用いただきありがとうございます。本日もごゆるりとおくつろぎください」
高校1年生のときから接客しているのだ。それなりに様になっていると思う。
私の接客を見て例の者がふむ、と私のことを見定めている。
その目にはどんな嘘も見抜かれるような真実の目が宿っていそうだ。
「確かに、確認し申した。『■■■■■■■■■■■』」
その者が私に手をかざし、何か聞いたことのない言葉を唱えたと思った途端に私の体から淡い光が零れるという現象が起こった。
慌てて両親に振り返るも「自分も通った道だ」と目で語っている。
両親が大丈夫というのであれば大丈夫なのだろう。それに、心なしかこの光は心が落ち着くような気がする。
どんな効果があるのかはわからないけれど、私の知識に当てはめようとするとどうしても魔法と呼ばれるものに行き着いてしまう。この時、不思議現象は、科学で証明できないものは魔法だと思うことにした。
「ありがとうございます。これで娘も異形の日で働けますわ」
お母さんがそう言うと、例の者は抑揚に頷いて踵を返した。
「じゃあ、今日は見学ね。来月から一緒にしてもらうわ」
そうして、私の非日常な新しい1日が始まった。
温泉に入るための受付に座るお母さんの隣でその様子を眺めている。
彼ら異形の者たちは木製の、普段のお客様が入ってくる扉から出入りしている。
その扉からは14時に開店してから1時間ほどしか経っていないというのに次々と異形のお客様が入ってきていた。
「不思議でしょ?あの扉がどうしてこうなったのかはさっきの魔法を使った人にもわからないみたいなの」
私が開閉を続ける扉を凝視していたためか、お母さんが話をしてくれた。
「やっぱり、魔法だったんだあれ」
「そうよ。あっちの世界には魔法があるらしくてね。ここに来る人たちはいい人ばかりだから魔法をかけられたり、連れて行かれたりはしないから安心してね」
「うっ…行ってみたいって言ったら怒る?」
魔法が使える世界。魔法使いがいて、地球の人間とは違う姿形をした人間。
それらは私の興味を惹きつけていた。
「ダメ。というか行けないのよ。さっきの人にかけてもらった魔法はね、こちらからあちらに行けないようにするためと私たちに危害を加えようとする人たちから守るものなのよ」
危害を加えようとする人?
ここに来る人は全員親切な人じゃないのかな、と思ったけれど、向こうに温泉がないなら連れて行かれるかもしれない。
あ、でも私たちは経営してるだけで源泉なんて見つけられないのにどうしてだろう?
見つけられると思ってるということなのか。お母さんにこれ以上聞くのは忍びないから推測に抑えておこう。
「これを」
「はい。ではごゆっくりどうぞ」
考え事をしている間に、先ほどまでは無かった列が出来ていた。
お母さんは慣れた手つきでマイペースにこなしている。
「それは?」
お母さんは毎回お客様からお金を貰っていなくて何かをもらっている。とても気になった。
「これは向こうでの食材よ。こちらの通貨とあちらの通貨は違うからこうして食材と温泉を物々交換してるの」
優しい声音で教えてくれるお母さんは異形のお客様にも大人気のようだ。私に向けてだけれど、ここに座ってから初めて笑顔を見せてくれた。
その笑顔と同時に列から「今日はいいもんが見れたな…」という声が聞こえている。
「こっちの娘さんはあんたの?」
「そうですよ。はい、どうぞ。ごゆっくりね」
受付でお母さんの作業を見ながら隣に座っているので、開店当初からお客様に何回か聞かれている。
そんな質問に答えながらも、お母さんは揺るぎないペースで列を捌いている。
「ほぉ〜、てことはこっちにも並んでいいのか?」
列に並んでいる一人の男性が声を掛けてきた。けれど、私には判断できないのでお母さんの方をチラリと見る。
「そうですね…。楓、出来そう?」
どうやら私がいつも通り出来れば問題ないみたいなのでコクリと頷いた。
「そう。ではお待ちの方は二列に並び直して頂いてよろしいですか?」
お母さんの問いかけに応えるように二列に綺麗に並び直された。高校生でもこれほど早く並び直すのは無理だと思う。
それと…何故か私の方に並んでいる人が多いのはどうして?
「ほら、挨拶なさい」
小声でお母さんに言われハッとする。そう言えばまだ自己紹介をしていない。
慌てて立ち上がり念のため一礼をしておくことを忘れない。
『おぉぉ…』
どこに歓声の要素が…?
「初めまして。私は楓と申します。不束者ですがどうぞよろしくお願いします!」
チラッとお母さんの方を見ると何度か頷いていた。きっと満足のいく挨拶だったと思う。これでも一応高校卒業してるし!
「楓さん、コーヒー牛乳を貰えるかしら?」
「はい。こちらになります」
ちゃんと出来たかな?と思ってお母さんを見るともう自分の作業に戻っていた。私も気合を入れなおす。
ここの宿ではコーヒー牛乳の類は自動販売機に売っていない。それをずっと疑問に思っていたけれど、異形の人の話を聞いて納得した。
この人たちはお金を持っていないから設置すると買えないのだ。だから業者さんから購入するにはしているけれどそれを自動販売機で売ったりはせず、冷蔵庫に入れているのだ。冷蔵庫から取り出して渡すだけでいい。そのお代はどうなっているのか気になったけれど、それも含めて異形の人たちは食材を持ち込んでいるんだそう。
「楓さん。僕と結婚してください」
思わず咳きこんでしまう。
どうして急にそんなことを?と思い顔を見てみると悪戯が成功した悪ガキの顔をしていた。
「もう!お客様!からかわないでください!」
というかこの人、違う、こんな子どもまでここに来るんだね。
「ごめんごめん。いや~君のお母さんと同じ反応だったよ、これが親子っていうことなのかな?」
そうだよ、私たちは親子だよ?
…ってあれ?
「お母さんがここで働き始めたのは少なくとも20年は前なんじゃ?お客様みたいな子どもがどうして知っているんですか?」
クックッとまた笑い始めた。それに釣られて周りの人も笑っている。私の言っていることが間違っているような、そんな気がしてきた。
「僕はこれでも60歳を超えているんだよ。エルフってわかるかな?ほら、耳が長いでしょ?こういう種族をエルフっていうんだけど、向こうの世界だと長命種って言って寿命が300年あるんだ」
エルフは聞いたことがある。そこらへんの創作でもよく出てくる作品で魔法が得意とも書いてあるはずだ。
「そうだったんですか!」
思わず興奮してしまい立ち上がってしまう。赤面して座ると周りからヒューヒューと口笛が聞こえてきた。本当にどうしてこんなことに、と俯いているとエルフの人が口を開いた。
「長命種はエルフ以外にも、ほら、そこの体の大きい人はワイルドという種族でね、エルフよりも短いんだけど200年くらい生きるんだよ」
エルフ以外に寿命が長い種族は初めて聞いた。これからここで出会える人はどんな人なのかとても楽しみになってきた。けれど、毎回こんな感じでからかわれていては仕事にならないなぁとも思う。
「そろそろ次のお客様がつかえているので」
「そうだね。じゃあまたくるよ」
エルフの人はみんなおもしろいのかな?
次の人は普通の人に見える。耳はこっちと同じだし、変わったところ言えば腰に剣を指してるところかな?それに結構お年寄りにも見える。
「儂は君と同じだよ。普通の人間さ。そろそろ行きたいんだがいいかね?」
「あっはい!失礼しました!どうぞごゆるりとお寛ぎください!」
老人は手を振って男湯に向かっていった。それにしても鋭いなあの人。私そんなに顔に出てたかな?
「いらっしゃいませ。では、はい。これですね。ありがとうございます。ごゆるりとお寛ぎください」
異形の人たちは私のことを興味津々で見てくるけれど、エルフの人以来絡んでくる人はいなかった。私が食材を出してもらうようにお願いする前に皆出してくれて、余計な話をしなかったらスムーズに仕事をこなせた。きっとお客様が鳴れているから誘導してくれたりしていたのだと思う。
「今日はこれで終わりね。じゃあ後片付けお願い」
お母さんに片付けを指示され、指示通りに片付けて行く。
片付ける物は主にお客様がコーヒー牛乳を呑んだり、ソフトクリームを食べたりしていたものだ。ビンは軽くゆすいでから臭いを消すために水を中に入れて置く。これで二日ほど放置してから洗うんだそうだ。それが終わるとソフトクリームのゴミ専用のゴミ箱を持って焼却炉へと向かう。ここの温泉には焼却炉があって灰を業者さんに処理してもらうだけでいいのだ。余計なものは燃やせないけれど、紙を処理できるだけでだいぶ楽だ。私も受験勉強でお世話になった練習用の紙を捨てた覚えがある。
油断していたからか、ちょっとした物音に気づくのが少し遅れた。
「おい。ここはなんだ?」
野太い声が聞こえ、振り向くとそこには角をはやした鬼がいた。
今にも襲い掛かってきそうで、どうしたものかと周りを見てみるけれど誰もいない。お母さんは1人で残っているお客様の相手をしているだろうし、こういう場合の対処の仕方はどうすればいいのか。
「お客様。受付はあちらになっております。こちらは従業員専用のため、立ち退いていただけると助かります」
私はこの対応が正解だと確信した。まぁ、相手が普通の相手だったらだけれど。
「ジュウギョウインセンヨウとはなんだ?ここはどこなんだ?なぜ森の奥地にこれほど立派なものがある。答えろ」
ああ、と私は納得した。この人と話し合いは出来ないと確信を持った。
かといって戻さないという手段は取れない。ここから先は本当にダメなのだ。焼却炉の向こうは居住区域だし、ここで引き返さなければならない。
「申し訳ありませんが、来た道を引き返してください。こちらは立ち入り禁止なので」
少し口調を強くして様子を見てみる、という手段を選んだ。これで退いてくれるなら嬉しいけれど、そう簡単に行けば話し合いが出来るだろうなあとしみじみ思う。
鬼相手に悠長だと思う。でも、鬼より見た目の怖いお客様も今日は来ていた。それも常連客だったのでなれるように努力した結果、危機感のない私が完成してしまった。
「しぶとい。俺の質問に答えろ。ここはどこだ」
一応、質問に答えているような気がしないでもない。ここは従業員専用ということで押し通すしかないか、それとも背中を押して帰るのを促すか…迷っているうちに冷や汗が背筋を辿った。
「ここは従業員専用という場所です。お帰りはあちらになっていますので、どうぞお帰りください」
私がそういうと、鬼は気を悪くしたようだ。
「お前、うるさい」
ヒッと声にならない悲鳴を上げる。鬼が拳を握って振りかぶったのだ。物語のような鬼の力に殴られては私は即死してしまう。ついつい涙を浮かべてしまった。それが決定打となったのか鬼が拳を振り下ろした。
「な、なんだこれは!貴様!やはりただものではないな!?」
鬼の声が聞こえて恐る恐る目を開くを私の周りに光の膜が張っていた。
「なにこれ…綺麗…」
感嘆の息を吐き、もはや鬼のことなど忘れてしまっていた。
そんな時、温泉の方から複数の足音が聞こえこちらに向かってくるのだろうと推測でき、今の状況を思い出した。
「あっ…やめ…」
鬼が今度こそはとさっきよりも大きく腕を振りかぶっていた。その後ろからは異形のお客様たちが走ってきていた。
「■■■■■■■■■■■!!」
私が初めて見たエルフの子どもが何かを叫んだ。
その直後、鬼の動きが止まり、その体には光った鞭のようなものが巻き付いていた。
「大丈夫!?」
別の女性のお客様が側に寄ってきて介抱をしてくれる。
この人も確か常連の1人だったはずだ。見た目はカマキリみたいだけど腕は斬ろうと思った時しか斬れないらしく、今は安全なはずだ。
「大丈夫、です。はい」
途切れ途切れに言葉を紡ぎ、無事ということを報告する。
「よかった…。じゃあ一緒に温泉に入りましょう!今日くらいはお母さんもいいって言うはずよ」
私はコクリと頷くことしかできなかった。
カマキリの人からお母さんに何があったのか事情説明され、温泉に入る許可が出た。
「ほら、せっかくの週に一度の温泉なんだから楽しく入りましょ?」
私はその言葉に引っかかり、ついオウム返しのように聞き返してしまった。
「そう言えばこちらでは一か月だったわね。あちらとこちらでは時間の進みが違ってね、あちらでは一週間に一度、こちらでは月に一度にここへの道が開かれるの。そんなことは置いといて!さぁ、楽しく入りましょう?」
新事実に驚いてしまい、またコクリと頷くことしかできず、でも今度は心配をかけるようなことはなかった。
私たちは露天風呂に行くと、そこにはたくさんの人がいた。室内よりも屋外である露天風呂の方が大人気だそうだ。
私たちが湯に浸かるとわらわらとたくさんの人が寄ってきた。実に様々な人がいて話の内容もこちらの世界ではありえないことばかりでとても楽しく、時間も忘れて入ってしまっていつの間にか寝てしまっていた。
「おはよう」
私が目を開けると、お母さんの声が聞こえた。布団の感触から私の部屋だということがわかった。
「ごめんなさい。寝ちゃった?」
「そうね。まあ初めてだから仕方ないわ。お客様は次会えるのを楽しみしてるって言ってたから、来月はちゃんと仕事するのよ」
「うん。わかった!」
私が元気よく返事すると、お母さんは反対に気持ちが沈んでいるように見えた。
若干静かな空気が流れ、先に口を開いたのはお母さんだ。
「ごめんなさいね。今日に限ってあんな人が来るとは思っていなかったの。稀に乱暴な人も来るけれど、お客様が対処してくれるから心配しなくていいわよ。あの光の膜は最初に魔法をかけてくれた人のでね、あらゆる攻撃を無効化してくれるみたいなの」
お母さんは笑って「私も何度か経験したことあるわ」と言って笑いかけてくれた。それが救いとなり、私は次からでも大丈夫だと思った。
それから2年が過ぎた。
「じゃあ、今日はお願いね。ちゃんとするのよ?」
「任せて!お母さんとお父さんは楽しんできてね!」
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい!」
旅館に併設されているこの温泉では従業員は別で雇っているけれど、記事やインターネットに載っているのは温泉旅館となっている。温泉旅館が休みの日でも、この温泉は有名だから下手に休みを取れない。そのため、年中無休でゴールデンウィークの前後やお盆を外して少し休みを取ったりしている。
だから、ここの温泉の休みはほぼないと言っていい。私は楽しいと思っているしお母さんたちもそうだから基本温泉は毎日開いている。でも定休日は一応あり、世間一般的には月に一度と認識されているけれど、その日は異形の日だから休みではないから働かないといけない。そうなると、長期休暇以外で休める日がなくなるのだ。
お母さんとお父さんは二人きりで旅行に行ったことが少ないらしく、温泉を引き継いでからは一度もいけてないそうだ。私はそれをどうしても実行に移してほしかった。例え日帰りでもいいからと。長期休暇はまだまだ先だから異形の日に旅行の日程を無理やり捻じ込んでやったのだ。
そのうち、私も1人で温泉を回していかないといけないのだからとなんとか説得したので、今日は初めて1人で仕事をする。
私に恋人でもいればいいんだけど、そのような人はいない。でも気になる人はいる。今日はチャンスなのだ、お母さんたちがいないからあまり邪魔されないはずだと思い、気合を入れていると14時になった。
「いらっしゃいませ」
「あら?今日は1人なの?」
案の定、聞いてくる人がいた。他にも続々と入ってくる人は私にどうしたのかと聞いてくるので同じことを言っていく。
「そうだったんだ。じゃあ今日は初めて1人で店番ね!頑張って!」
「はい!ありがとうございます!」
カマキリの人もエルフの人もいつかの老人も来てくれた。エルフの人はとても便りになる。あれ以来、心惹かれているのだ。助けられて好きになるというのは軽いと思われたり安いと思われたりするかもしれない。例えそう思われてもこの気持ちを伝えたいと思っているので、隙を伺う。
「いらっしゃいませ。ではこちらに食材を。ありがとうございます。どうぞごゆるりとお寛ぎください」
お客様にフォローされることは確実に少なくなっている。この調子で頑張って行こうと思った時、ちょうどお客様の列が途切れた。
私はその隙を見て急いでエルフの人を探す。
「いたっ!」
助けてくれたエルフの人を見つけ、駆け足で近寄ると相手も気づいたようだ。こちらを見て微笑んでくれている。それだけでも私は天に昇っていきそうになるけれど我慢だ。
「あのっ、わ、私と…違う。まずは…そう。えっと、私、あなたのことが好きです。どうしてもこの気持ちを伝えたかったのです。受け取ってもらえませんか…?」
少し涙目になってしまい、声も震えている。断られていることがわかりきっているのだ。こちらの世界とあちらの世界では随分と違うだろう。どちらで過ごすにしても大変な困難が待ち受けている。それにこの人はエルフで寿命はあと200年近くあるけれど私は60年ほどしかない。
「ありがとう、嬉しいよ。で、それだけじゃないんでしょ?」
ビクンと心臓が跳ねた。この人は私と一緒に人生を過ごしてくれるかもしれない。自然とそう思わせる何かがエルフの人から漂ってきていた。
「私!あなたと結婚して、一緒にずっと暮らしたいです。私と、結婚してくださいませんか?」
こうなれば上目遣いも使って全力投球だ!と思い私の全てを押し付ける。
「結婚というと、僕たちのところだと永遠の契りのようなものだったか…。一つ聞きたいんだけど、向こうで過ごすならいいよって言ったら―」
「ついていきます!どこまでも!あなたと一緒にいられるならずっとついていきます」
私はエルフの人の言葉を遮って自分の全ての思いを伝える。永遠の契りは以前に聞いたことがある。それはエルフ同士が結婚する時に発動させる魔法で生涯を誓うというものだったはずだ。
「そっか…。嬉しいよ。僕も君のこと、ずっと気になってたんだ。これからよろしくね」
あまりにもあっさりとしていて、言葉が頭の中を通り過ぎてはもう一度再生され、それを繰り返す。
幾度目かの再生が終えると、私は大声を出していた。
「いいの!?本当に!?じゃあ早速用意してきます!待っててください!」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて。僕がこっちに引っ越すよ。だから…こっちの世界で2か月待っててくれないかな?いろいろと準備したいものがあるから」
私は心が打たれ、その言葉に何度も頷いた。まさかこちらに引っ越してくれるとは思わなかったのだ。
「わかりました」
それだけ言って、受付に戻ろうとすると頭を抱き寄せられ、唇に柔らかい感触が振れた。その瞬間、私の意識は途絶えた。
目が覚めると、私が寝ている横にはカマキリの人と最初に魔法をかけてくれた人が座っていた。
「ようやく目が覚めたわね。あつあつだったねぇ、あんなの初めてみたよ。よかったね」
カマキリの人が優しく頭を撫でてくれた。とても嬉しい気持ちがいっぱいで胸が張り裂けそうなほどの幸せが詰まっている。
「それにしても最後は驚いたな。まさかあいつから口づけをするとは思わなかったぞ」
初めて魔法をかけてくれた人の言葉で私が意識を失った原因を思い出して、顔が熱くなるのを感じた。とても体が火照っていてまた倒れそうだ。
「しっかりして、大丈夫?あれでこんなことになってたらこれから一緒に過ごすのが大変になるわよ?」
微笑みながら話てくるカマキリの人は私にあの後のことを話してくれた。
実は私が好意を持っているのはお客様皆にばれていたらしい。それで私がそわそわし始めた頃を見計らって列を途絶えさせ、温泉に来ていたお客様と次々増えて行くお客様にも事情説明して遂にかという感じだったらしい。ばれていたことに驚いたけれどそれ以上に恥ずかしい。あの光景をお客様皆に見られていたのだ。
「そういえば受付っ!」
話を悠長に聞いている場合ではないと思い出して立ち上がる。
それをカマキリの人が抑えてきたので渋々座ることにした。
「大丈夫。受付はあなたの未来の旦那様がしてくれているわ。こうなった原因なのだからと言えば頷いてくれたわよ」
「えぇぇええ!そんなっ1人でさせるなんて!私も一緒にしたい!じゃなくて!どうして私は行ったらダメなの?」
「それは私から説明しよう」
最初に魔法を使ってくれた人の説明が始まった。
曰く、エルフの人がこちらで過ごしやすいように魔法を共同で作るそうだ。この人とエルフの人は敵対していると聞いていたけれど、私のために頑張ってくれるらしい。
それに感謝を告げて先を促した。
まずはエルフの特徴である耳をこちらに合わせて、長い寿命の方もこちらの人間に合わせることが出来るようにすると言っていた。その時に多少外見が変わるとも言われたが、外見は大した問題ではない。
そして荷物もそれほど量はないらしく他に問題はないとうことだ。
この時、初めてエルフの人の名前を知ることになった。名前はセロという。これからはセロさんと呼ぶことにして私は解放された。
私たち3人が受付のある広い休憩所に戻ってくると何故か拍手で迎えられた。
戸惑っている私と違い、前を歩いていた二人はさっさといつもの場所に座ってしまい、残されてしまったので受付に戻る。
「あ、あの、ありがとうございます…セロさん」
「よかった!突然倒れたからびっくりしたよ…。ていうかもう敬語じゃなくていいんじゃない?僕たち夫婦になるんだからさ」
夫婦、という単語を聞いて一気に顔が熱くなる。せっかく冷めていたのに再燃してしまったことで睨みつけると穏やかな笑みで撃退された。
「受付してもらえませんかーお二人さーん」
呆れたような声が聞こえ、ハッと意識を戻す。
「あぅ、すみません。えっと、こちらですね。ありがとうございます。ではどうぞ、お寛ぎください」
なんとか接客していき、陽が暮れてあと少しで22時というところでお母さんとお父さんが帰ってきた。
私の様子を見て何かを察したお母さんはお父さんに店番を頼んで私とセロさんを連れて奥の居間に連れられた。
「うまくいったのね!ずっと心配していたのよ。このタイミングだろうなとは思っていたから楽しみで仕方なかったわ。それで、向こうに行くの?こっちで過ごすの?」
「こちらで過ごします。お義母様、これからよろしくおねがいします」
セロさんが軽くお辞儀をしてお母さんが慌てたように手を振った。
「いやいや、いいんですよ。娘をもらってくれてありがとうございます。挙式はどうしましょうか?」
「ここの温泉で開きたい。ここの客には世話になったし、皆にもお披露目が必要だろうと思います」
「わかりました。私もそれがいいと思ってました」
「2か月後にこちらに引っ越しますので3か月後に式を挙げると言う形でいいですか?」
「はい。セロさんはきちんと考えていてくれて助かります。娘は何も考えていなかったようですね」
それから雑談が弾んで閉店間際にセロさんは帰っていった。
私、話し合いに必要だったのかな?と聞いてみたら当事者なんだから当たり前じゃないと言われた。
その後お父さんにも報告すると「まだ早い!考え直せ!」とよくあるお父さんの反応をしてくれてとても落ち着けた。
それから結婚についてのことが決められていった。温泉が大好きな私にとって温泉で結婚式を挙げるなんて夢のようだ。普通の人とならこうはできないだろう。
ウエディングドレスも決まり、セロさんが引っ越して来てからはセロさんのものが次々と揃えられて行った。2か月経って現れたセロさんは私より少し年上の風貌に変わっていたけれどすぐにわかった。名前を呼ぶと皆とても驚いていて「流石楓ちゃんね」と褒められた。
エルフから普通の人に変わったことで以前よりも弱い魔法しか使えないらしいけれど一応は使えるということだ。全然期待していなかったけれど、水魔法というもので掃除が楽に終わることが出来ると聞いたときは興奮してしまった。
時が経ち、現在はゴールデンウィーク手前の長期休暇だ。異形の日に合わせて連休を取ったので結婚式もゆっくりとすることが出来る。
私とセロさんは主役だからと、お客様の相手をするのはお母さんとお父さんがしていた。でも、お客様の皆はわかっているようですぐに用意した椅子に座って寛いだりしている。
「それでは、新郎新婦の入場です」
お父さんの声が響き、私とセロさんは温泉から式場に変わった場所に向けて足を運ぶ。
お客様たちは固唾を飲んで見守ってくれているのがわかり、お父さんやお母さんは既に泣いていた。
「それではっ、永遠の契りを行います!」
お父さんの声がかかり、私とセロさんは向かい合い、セロさんが私の前で跪いた。
「我、魂が在る限りこの者を愛し続け永遠に支えることをここに誓う」
セロさんがそう言って私の手を取り指輪をはめた。とても綺麗な指輪でこの世界のものではないことがすぐにわかった。
セロさんが立ち上がり、今度はこちら側の様式での結婚式だ。
「いついかなる時も、お互いを支え愛し続けると誓いますか?」
『誓います』
私とセロさんは声がかぶってしまい、ハッとなるけれど、被ったと言うことは私としてはとても嬉しいのでそのまま流した。ちらりとセロさんを見ると軽く頷いたので気にすることではないだろう。
「それでは、誓いの口づけを」
お父さんの声が震えている。私も目を閉じて、体がこわばるのを感じた。
「大丈夫、落ち着いて」
耳元でくすぐったい声が聞こえ、それだけで緊張がほぐれた。
その後すぐに唇に柔らかい感触が、以前感じた感触が伝わり、体全体に電気が走ったような衝撃が来た。次第に離れて行き、ちょっと寂しい気持ちになるけれどこれからたくさんできるのだと今は我慢する。
その後、結婚式は恙なく進み、私の小さいころのアルバムが流されたりという定番のことがあり、お開きとなった。
私たちは参加してくれていたお客様に御礼を伝え、励ましとからかいの言葉をもらって退場を促していく。
今日は楽しかったけれど疲れもある。ゆっくりと休みたい。
「楓、今日はおめでとう。セロさんも、楓のことをよろしくね、って言っても一緒に暮らすんだけど」
お母さんはふふっと笑っているのに対しお父さんは終始泣いていた。
「それじゃ、後はお母さんとお父さんがやっておくから二人はもう寝ていいわよ」
「わかった。ありがとう。いこ、セロさん」
お母さんに甘え、セロさんの手を引いて行く。
それぞれ別々の部屋に入り、着替えを済ませると温泉に戻ってきて湯に浸かってゆっくりと疲れをほぐしていく。
私たちは大きな部屋が一つ与えられた。お父さんとお母さんが新婚の頃に使っていた部屋らしく、今ではお爺ちゃんやおばあちゃんが住んでいた部屋に移動していた。お爺ちゃんやおばあちゃんは老人ホームに入っていてもうあまり動けないそうだ。仕事のしすぎなのだとか。それでもお爺ちゃんたちは後悔していないらしく、動けない中で楽しく過ごしているらしい。そのうち挨拶に行かないといけない。
「楓、おいで」
セロさんに抱き寄せられ、私はセロさんの唇の口づけた。セロさんもそれを受け入れてくれて、今回は舌を絡ませてきた。
「セロさん、私、今すごく幸せです」
「僕もだよ」
完全に闇に包まれた部屋でお互いの体の熱を感じ合いながら就寝した。
私たちはこれからも異形の日以外の日でも苦労することがあるだろう。特に戸籍がないからセロさんとは事実婚だ。でも、私はセロさんから離れることはないしセロさんも私から離れないと確信している。このような確信は恥ずかしいけれど、本当にそう思っているしセロさんも頑張ってくれている。
私たちはこれまで以上に異形の日を心待ちにして接客をこなすことになっていった。
お読みいただきありがとうございます。