偽の王
一
深緑とオレンジの街は静まり返っていた。
だが温かい南洋諸島のこと、日が落ちても暑気は去らずかえって蒸し暑さが増す。
ましてやここは梁の上、温い空気がたまり、じっとりとセシルの体から汗を吹き出させた。
「アランさん、大丈夫かな……」
エルボーン貴族の邸宅に潜み、ギルモア侯爵派の貴族たちの密談を聞きながら、彼女はついついアランを思う。
マルガレーテとの死闘で死の呪詛を受けた彼は、レイピアによって傷つけられた左手ごと呪詛を切り捨てた。
だがそれでも呪詛からは完全に逃れられず、左手は失われたままだった。
レオノーラ姫を連れた片手を失ったアランを見て、バートは青ざめ、即座に癒しの祈りを捧げたものの、彼の力を持ってすら傷を塞ぐのが限界であった。
アランは訥々とマルガレーテとの対決とその最後を語った。
また囚人たちの世話や今後の方針についてはハミルトン子爵とフレデリック将軍の指示に従うようにと言い残し、そのまま気を失った。
傷こそ塞がれたものの、死の呪詛はアランを苛んでいた。
いま彼は、レオノーラ姫とともに海底遺跡に潜んでいる。
護衛であるバートも一緒だ。
レオノーラ姫は自らを解放し、何より長きにわたって心を守ってくれたアランのため、必死に看病をしているという。
そしてセシルはエルボーンにいる。
アランに代わってギルモア侯爵たちの動きを見張り、その陰謀を打ち破るために。
二
7日前のバロッド監獄での蜂起の情報は風の速さでエルボーンに到達し、ギルモア侯爵を困惑させた。
詳しい情報を求めるも、所長のマルガレーテを始めすべての幹部が殺害され詳細な事実は不明。
僅かな生き残りの証言によれば囚人たちは、塔から貴人をさらい坑道の奥底に消えたという。
その後の囚人たちの行方は知れず、ギルモア侯爵派は困惑の極みにあった。
自らの切り札であるレオノーラ姫を失い、また己たちの敵であるフレデリック将軍らを取り逃してしまったからである。
だが彼らがエルボーンを目指し、自分たちを倒そうとするのは間違いない。
どうする?
どうすればいい?
いっそ反ギルモア派に寝返るか?
だがまだエルボーンで実権を握っているのはギルモア侯爵ではないか。
毎夜のごとく彼らは秘密の会合を開き、いつ結論が出るともしれぬ議論を繰り返していた。
ハミルトン子爵はこうしたギルモア侯爵派そして中立派の動きを調べては揺さぶりをかけ、切り崩しを図った。
なんといっても彼はまだ若く、その集団は弱小だった。
それでもその結束は固く方針はブレず、故に強固な集団であった。
更にバロッド監獄から開放された囚人たちが、ハミルトン子爵派の耳目となり、エルボーンへ張り巡らした情報網を強化していく。
この中心となったのは、エルボーンに元々の地盤を持つ古参海賊と、アランによって鍛えぬかれた赤鉢巻の第6班だった。
セシルは、病床のアランより第6班の指揮権を委ねられ、エルボーンの街を暗躍することになったのだった。
三
白く鏡のような大きな月の元、その光景を見ていたものはただ夜の鳥のみ。
今宵もまた、エルボーンの路地裏で火花が散る。
ギルモア侯爵派とハミルトン子爵派の密偵同士による暗闘だ。
ギルモア侯爵派の密偵は死神海賊船からなり、数こそ多いもののバートの強襲によって精鋭はその数を大きく減じていた。
加えてハミルトン子爵派の密偵はバロッド監獄の地獄を超えてきた修羅ばかりであり、数こそ少ないが夜目が利き、技量も高い。
ことに赤鉢巻の第6班は地力も、指揮するセシルの技量も高く、ハミルトン子爵派の切り札となっていた。
故にこうして暗闘を演じる機会も増える。
「それもここで終わりにしようか、”銀弓”」
「”毒猫”!」
マズイ、とセシルは思った。
”毒猫”は死神海賊船の中でも指折りの腕を持つ暗殺者だ。
アランやバートならともかく、セシルの腕では一対一は荷が重い。
防戦に徹するならまだしも、密偵たちを守りつつ戦うのは困難だ。
一瞬迷い、それでもセシルは心を決めた。
「”唸り轟く光の矢”!」
「チッ、馬鹿の一つ覚えとはいえ面倒な――!」
光の矢のような単純な魔法は発動も早く威力もあり、物理的に回避するのは非常に困難だ。
セシルのような魔力に乏しい魔術使いの3本の矢であっても、バートやスカルフェイスのような生粋の戦士でもなければ、完全回避は不可能だろう。
光の矢によって相手に出血を強いれば、搦手である呪詛が使いやすくなる。
呪詛が通れば、技量に劣るセシルであっても”毒猫”に対抗できる。
だがそこまでやっても、勝てるかどうかは五分と五分。
それでもセシルは戦う気だった。
ここにはアランはいない。
バートもいない。
自分がやるしかないのだと。
3本に分かれた光の矢が暗闇を裂く。
トンボを切ってまず一本、壁に跳ね上がって二本、だがそこにはセシルが狙った最後の矢が至る場所。
そして、的中!
ダークエルフの赤い血が宙に舞う。
「”呪いは来たれり、その足に””そして来たれり、その腕に”!」
「ッ!?」
それは魔力を倍消費して放つ、強引な二重詠唱。
もうこれでセシルの魔力は空っ穴だ。
だがその甲斐はあった。
呪詛の黒き縛鎖により”毒猫”の機動も精密さも、段違いに落ちた。
ここまでくればセシルの腕でも届く……!
「でもね、甘いよ――小娘。」
”毒猫”のマン=ゴーシュの刃が、飛んだ!
発条仕掛けのそれは射程こそ短いものの、不意打ちに適し、当たれば着実に命を削る特製の毒が塗ってある。
だがその時、夜空を舞う白き鳥が二人の間合いに飛び込んだ。
刃を受けたシロフクロウは、ただの白き布切れに取って代わる。
絶対の逆転を予期していた”毒猫”の動きが止まった。
トス。
”毒猫”を最後に屠ったのは、セシルの放ったスクラマサクス。
アランの預けた相棒だった。
「ありがとう、アランさん。
……また守ってくれましたね。」
四
”毒猫”を打ち破り、セシルがもたらした情報は、まさに千金の価値があった。
後の無くなったギルモア侯爵は、偽のレオノーラ姫を立てて己との結婚を挙げ、王位を継承しようというのだ。
エルボーンにおける影響力が強いうちに、衆目の元強引に王位を奪い取ろうというのである。
だがこのギルモア暴挙はハミルトン派の好機でもあった。
この偽の婚姻において、本物のレオノーラが現れればどうなるか。
ギルモアから信用と実権のすべてを奪う絶好の機会となる。
決行は3日後。
その日を目指してギルモア派とハミルトン派は、暗闘の刃を収め動き出す。
エルボーンには、少なくとも表面上は平穏が戻った。
そして3日の時が流れ、エルボーン王宮。
南洋諸島に咲くオレンジの豪奢な城は、色とりどりの毛皮と貴石で飾られ祝賀の装いを纏っていた。
文官武官、そして数多の貴族が勢揃いし、華やかな中にも格式ある風情を漂わせる。
今宵はギルモア侯爵とレオノーラ姫との婚姻の儀式が行われる。
だがその参列者は皆硬い表情だ。
いつ、どこから、邪魔者が現れるかわからない。
それでも式は粛々と進む。
「六精霊の御名の元この婚姻に異議あるものはでよ!」
婚姻への異議を問う老司教の朗々たる声に対し、一人の貴婦人が答えた。
「異議あり!」
まるで喪服を思わせる漆黒のドレスを身にまとった彼女がそのベールを脱ぐ。
こぼれ落ちる金の髪、青く深く澄んだ瞳。
それは紛れも無く、行方知れずであったレオノーラ姫その人だった。
どよめく貴族たち。
立ちすくむギルモア侯爵。
「この婚姻は偽りと欺瞞に満ちた暴挙です!
ほかならぬ花嫁たる、このレオノーラが否定します!」
「ならば、貴様を殺してこの世を欺瞞で塗り固めよう。」
地獄の底より響くかの如き低い低い声がした。
黒いローブを身にまとった集団がその忌まわしき布を放り捨てると、そこに現れたのは赤く赤く燃える瞳を持つ髑髏の勇者たち。
そしてそれを率いるは、黄金の髑髏と金の革鎧に身を包んだ偉丈夫、スカルフェイス!
凍りついたように動けない貴族たちを尻目につかつかとレオノーラに歩み寄り、その黄金の刃を振り下ろす!
ギンッ
重くそして澄んだ音がして弾かれる黄金の刃。
それは白銀に輝く刀身と碧玉に飾られた両手剣。
バート。
”輝ける大君”の剣士、バート・ウォーロックだ!
「邪魔立てするか、バート・ウォーロック。」
「いつかの海での借り、今返す!」
ゴウと風を切り、打ち鳴らされる2つの刃。
そこは高位の剣士にのみ許された舞台。
死の嵐舞う、剣の舞台。
スカルフェイスがバートを抑えている間に、髑髏の勇者たちは揃ってレオノーラに襲いかかる。
だがこれを迎え撃つは、セシルと赤鉢巻の第六班。
髑髏の勇者は選り抜きの死体を辱め、意思なき兵士に変えたものではあるが、その実力は正騎士に勝るとも劣らぬ。
それでもセシルと第六班は懸命に攻撃を防いだ。
いつもの暗い路地での暗闘ではない。
ここには、彼がいる。
あのアランがいる。
どうして我らが隊長に無様な姿を見せようか?
呪詛に冒され、左手を失い、それでも決然と立つアランは、魔術を用いて第6班とバートを支援する。
戦況はややレオノーラたちの優位で進むかに思えた。
ただ一人舞台に取り残されたギルモアを除いては。
(何だ、何が起こっている?)
つい先程まで、自分はエルボーンの権勢の頂点にいたはずだ。
それがなぜ、こんなところに取り残されている?
なぜ誰も私を振り向かない?
なぜだ、なぜだ、なぜ……その時。
ふと。
レオノーラと目があった。
エルボーンの真珠とも謳われた美しき又従姉妹。
おとなしく、人形のような彼女のことをギルモアは欲していた。
その権勢もさることながら、誰よりもその美を愛していた。
だが己が守らねばならぬと、手中にせねばならぬとそう信じていた彼女は。
自らの足で立ち、声を張り、己を弾劾するのだ。
愛は、執着は、転じて憎しみとなった。
獣のような声を張り上げ、ギルモアは剣を抜いた。
だが、その憎しみは、一人の男によって防がれた。
傷ついたその身を盾とし、アランはレオノーラを守った。
鮮血が王宮を濡らした。




