二人の男
有り得ない、とトスカノ国「獅子の団」の若き隊長ロゼットは、片目だけを細めた。
自分を乗せて、風変わりな大型船が、宙に浮かんで飛んでいる。
「イソプロパノールで見た、貿易船よりデケェ。あれにも驚いたが、こりゃすげえや」
最初、船を空に飛ばすと聞いた時、王は馬鹿になったんだと思った。
冷徹で独裁的。目線を追っても、見ているものは彼にしか分からない。
それでもトスカノで絶大な支持を得ているのは、彼が即位してから、驚くほど国が豊かになり続けているからだ。
トスカノは貧しい弱小国だった。
国を横切る二つの川の内一つは雨が降る度に溢れた。もう一つは驚く程流れが強く速く、ほとんど使い道は無かった。国土は使い道の無い部分が多く存在し、土は乾いて痩せていた。
鉱脈に少しだけ恵まれていたのが唯一の救いだった。
貿易の国イソプロパノールに頼って国が成り立っていた。
ありがたくもあり、悔しくもあった。
王は十数年でそれらを改善した。
ロゼットは冷たく底光りする王の瞳に、なにか自分と共通するものを感じていた。
どこか固く冷めたものだ。
だから、船を飛ばすなんて夢みたいな事を言い出した時に、ガッカリしたのだ。
でも。実際に彼を乗せて、大きな船が空に浮いている。
「本当に飛ばしやがったぜ」
落ちねぇだろうな、と窓から地上を見下ろすと、自分の国が小さく広がっていた。窓に風がまとわりついているのが目に見える様だったが、船の動きは揺るぎなく安定している。
休憩用に設けられた部屋で一人、しばらく窓の外を見ていると、ガチャッ、とノックも無しに部屋に入る者がいた。
普段なら氷の様な目線で射殺すところだが、
ロゼットは後ろ背にそれが誰か察して、普段使い用の童顔で振り返る。
「なにか御用ですかぁ」
「いや、驚いているかな、と思って」
気取らない態度でロゼットの横に立ったのは、トスカノの第五皇子クリス・トスカノ。現在のトスカノ王の唯一の実子だ。若き日のトスカノ王を思わせる美形で、偉丈夫だ。
だが、彼はトスカノ王とは雰囲気が全く違っていた。
決定的なのは瞳。温かく微笑む瞳を亡き母親から引き継いで、王とは気質が全く違う事を、一目瞭然とさせていた。
腰に差した剣の、猛る様な腕とは裏腹に普段は凪いだ海の様に穏やかだ。
彼は「獅子の団」がお気に入りで、隊長を務めるロゼットに、何かと絡んで来るのだった。
対するロゼットは、決してそれに尻尾を振ったりしなかった。なので、彼の親しげな態度も、隊に対する厚意も、必要なものだけ貰って後は、のらりくらりと受け流している。
ロゼットは、この優しげな皇子が、あまり好きではないのだ。
冷徹な王の方が、まだ好ましい。
それに、剣の腕でも自分より上回っているのが気に入らない。
かつての彼の上司でさえ、自分の剣とは滅多に打ち合いたがらなかったと言うのに。
「驚きますよ。威張りくさってたイソプロパノールの、驚く面が目に浮かぶ様だ」
あはは、と白い歯を見せてクリス皇子が笑う。君は軍人だなぁ、と肩に手を置かれて、ロゼットは返事をする代わりに、薄ら笑いながら、こっそりうなじの毛を逆立てた。
どうしても駄目だ。生理的に駄目だ。
「ロゼット、攻めに行くのでは無いのだよ。我が母君をお迎えに上がるんだ。……自分よりずっと年下のね」
「イソプロパノールの真珠、と謳われているとか。護衛出来るのが光栄です」
うん。とクリス皇子は頷くと、私も早く結婚したいなぁ、と呟いた。
はぁ、と気の無い返事をして、ロゼットは晴れ渡った空を見る。
トスカノ国の北東にそびえるトスカノ峠を越えて、ノール平原を見下ろせば、イソプロパノール領だ。
その通り真っ直ぐ行けばいいものの、船は一旦真北へ針路を移す。
これは船に乗る前に、乗組員全員で打ち合わせ済みだ。
軍人の自分にはなんだか分からないが、峠の上は風の嵐で進めないとかなんとか。帰りももちろん、ここは逸れて帰るらしい。
「もうすぐ『呪い封じの門』が見えるだろう、アスランは健在だろうか」
クリス皇子がそう言うと、ピク、と身じろぎをして、ロゼットが彼を見た。攻撃的な衝動が、瞳にギラリと燃え上がったが、すぐに燻って消えた。
「捨てた犬の名前を、憶えてたんですねぇ」
「愛犬だったからね」
背の高くないロゼットは、偉丈夫のクリス皇子に二十センチほど上から微笑まれて、内心舌打ちする。
この皇子、見かけは善良だが、ちゃんと棘には棘で返してくる。
その心は頑強で、一回もくじかせる事が出来ない。
「俺なら、愛犬は捨てやしません」
ふぅ、と憂鬱気に皇子は息を吐く。女なら0歳から百歳まで、その吐息にクラクラする事だろう。生憎、ロゼットは男だ。
「ロゼット、私が捨てたのでは無いよ」
ロゼットは肩を竦める。
「誰だっていいや。誰も隊長を助けなかった」
クリス皇子は、切れ長の目を伏せる。
「……君もね」
「俺は」
「若かった。子供だった」
ギリ、と自分の奥歯が擦れる音がした。
「私だって、婚約の儀の任務で、彼の左遷についてはイソプロパノールから帰って来てから聞いたのだよ」
そこで連れ戻して欲しかった。守って欲しかった、と言うと、未だに自分が彼に頼るしかない子供の様な気がして、ロゼットは黙った。
窓に、ほとんど空まで届きそうな断崖絶壁が見えて来た。
恐ろしい程のスケールでそれは存在し、大陸のこちらとあちらを、壁の様に仕切っている。
神の所業か、その巨大な崖が縦に細く割れている部分があり、そこに巨大な門がそびえ立っている。地上からなら、まずこの門を通らなければ、向こう側へ行くのは無理だ。
飛空船の開発と同時に、この門の高さを更に上げる為、今は工事が行われている。
「……悪魔信仰……」
ポツリとクリス皇子が呟いた。
「君はマクサルトで、悪魔を見たかい?」
ロゼットは唇を尖らす。
「いいえ。廃墟と、子供の骨だけです」
「様子が奇妙だったとか」
ロゼットは頷いた。苦々しい思い出だが、慕っていた男の背中を思い出して、妙に懐かしい気持ちにもなる。
「ええ。息づく廃墟、とでも言えばしっくり来ますかねぇ……。唯一見つかった
子供の骨がはめていた金の腕輪に、マクサルト王家の紋章が入っていました」
「聞いているよ。おそらくマクサルト皇子の遺骨なんだろう?一体何が起こったのだろう」
ロゼットは、額に垂れている前髪をプッ、と吹いて乱して見せて、それを返事とした。
クリス皇子は、飼い犬の不遜な態度など気にも留めず、窓の外をじっと眺める。
本当に、父上はマクサルトの何を、あんなに遠ざけようとしているのだろう。
とうの昔に滅びた国の……。
飛空船が、巨大な崖の横を通り過ぎて行く。
小さな窓から、二人の男がその崖の先を、見詰めている。