失いたくないもの
夏の夕に鳴く虫の音が、部屋に虚しく響く中、バドは無言で窓から去って行った。
ラヴィは無意識に彼を追いかける様に窓へ駆け寄り、バドのいなくなった窓枠にそっと手を触れた。
お支度はお済ですかぁ、と部屋の外から男の声がする。聞き覚えのある声に、ラヴィはグイと涙を拭って「はい」と答えた。
「よぉ、手酷く振ったなぁ」
ズカズカと部屋に入って来たのはロゼ。
「立ち聞きですか」
「おっぱじめたのはおめーらだろぉ」
「お母様は?」
「……まだ毒紅探しじゃねぇ?」
いけしゃあしゃあと、とラヴィは思った。どの様な手を使ったかは考えたくも無いけれど、バドやロゼの事だ。ローズを身動きの取れない状況にしているに違いない。
ロゼが手を差し出した。顔を見ると、器用に片眉だけ上げた。
「トスカノでも指折りのナイトが、地獄へお連れしまぁす」
「ピッタリの役目ですわね」
ラヴィも片眉だけ動かそうとしたけれど、上手くいったかは分からない。ただ、ロゼが本性の顔でニヤリと笑って「良い顔だ」と言ったので、何故だか褒められた様な気がした。
バドとも、こんな風に話がしたかったのに。
「行くぞ」
「はい」
目指すは王の間だ。遂にこの時が来た。
薄暗い石の回廊を、ロゼと二人で歩くのは息が詰まりそうだった。ラヴィは、小柄で同年代の様な顔をしているのに、威圧的で真っ直ぐ痛い所を引っ掻いて来そうなこの男が怖い。
怖がっているのを悟られるのが、更に怖くて、ついつい話しかけてしまった。
「アスランさんは元気でしたか?」
「は?」
「再会出来たのでしょう?」
「……」
シラッとした顔をしたロゼを見て、やっぱり話しかけなければ良かった、と後悔する。
「会えた、けど」
ポツ、とロゼが言った。
「あの人は、正義とか道義とか公平とか好きなんだ。あんた、どう思う?」
「……良い事だと……」
「そういうの俺はイヤだ。貧乏くじだ。なのにあの人は、そういうのに命かけんだぁ」
くすり、とラヴィは笑った。正義を貫こうとするアスラン図は、容易に想像出来たし、それをハラハラして見ているロゼも、同じく想像出来た。そしてロゼを少し可哀想に思った。
「もう止めろっつっても、聞かねぇ。……さっきのあんたみたいに」
長く暗い廊下の先に、王の間らしき大きな扉が見えて来た。ラヴィは話しているからか、それ程緊張も恐怖も感じなかった。
「残されるかも知れねぇヤツの事なんて、考えちゃくれねぇ……」
ラヴィはロゼを見た。
ロゼさんにとってアスランさんは、わたくしのパール様のようなものなのだわ。ロゼさんは、アスランさんを失うのが怖いのね。
そう思うと、彼を怖がっていたのが嘘の様に、とても近くに感じた。
「わたくしは、その気持ちを持つ前に、パルティエ様を失いました……まさか失うとは、思わなかったから……」
あんな気持ちは、もう二度としたくない。また、誰もして欲しくない。と、ラヴィは思う。
理解し合えると思った矢先なのに、ロゼは面倒臭そうに「知るか」と顔を歪めた。
「俺はアイツもそうなんじゃねぇのって言ってんの」
「……わたくしは、クリス皇子と」
「あ、そう。ほれ、王の間だ……なぁ」
王の間の扉の前で、ロゼは後ろ首を掻いて、小声で言った。
「王妃になったら、空飛ぶ船でもくれよぉ。俺はもう、隊長の心配すんの疲れた」
この人はアスランさんから逃げる気だ。
ラヴィは唇を歪ませ、彼に習って小声で答えた。
「あなた、空飛ぶ船では自由になれないって言っていませんでした?」
「頭かてぇな」
「ロゼさん、リョクスに戻って、アスランさんを」
ロゼはちょっと目を見開いて、そわそわした。
「馬鹿皇子に叱られらぁ」
「わたくしが間に立ちます」
「あてになんねぇなぁ」
ラヴィはロゼの頬に爪を立ててやりたいという気持ちを、何とか押さえ付けた。
「彼を助け続ける事が、貴方の自由ではないかしら」
「俺がいなくても荒野で楽しくやってたし、激流に流されても生きてやがった奴の為に、もう魂をすり減らしてやるもんか」
「でも行きたいと思ってますよね」
コショコショ言い合って、睨み合う。お互い「本当にいけ好かない」と顔に書いてある。
「おまえ、俺まで跳ね除けんの? 別に言い寄ってねぇけど」
少し疲れた様な皮肉っぽい微笑みに、ラヴィは片眉を上げた。上手く出来た。
「行くの? 行かないの?」




