その日のこと
朝早くから、荘厳さを秘めた賑わいを持ってその日は始まった。
皆が各々の生活にキリを付けて、祭壇のある広場へ向かっている頃、彼は誰もいない『星空食堂』の指定席で、そのテーブルに「バドはいばりんぼ」と拗ねた顔をして彫り付けていた。
「ア・レン」
誰もいないのを確認したはずなのに、後ろから声がしたので、彼は驚いて飛び上がると、サッと小さなナイフを後ろ手に隠し、振り返った。
出入り口に、まっさらな儀式用の衣装を身に着けて、顔に赤い塗料で風を表す模様を描いた少年が立っていた。落ち着いた雰囲気の中に、悪戯を隠し持っている様な、大人っぽい少年だった。
「こんなところで、何してんだよ。行かないのか?」
「……行くさ。バドこそ、何してんだよ」
「……別に。お前、まだ怒ってんの?」
彼はジリ、と手で落書きを隠し、「そんなわけないだろ」と強がった。
「さっさと行けよ。『炎の鳥』なんだから」
「来年はお前だよ」
彼は少年の同情にカッとして、椅子から飛び降りた。
「でたらめ言うな!」
少年は顔をしかめて俯いた。いつもならやり返してくるのに、と彼は戸惑った。
「怖気づいてるのか?」
「違う」
「小便チビリそうなんだろ」
「ア・レン……オレは、こんな喧嘩はしたくない」
彼はグッと歯を食いしばると、少年を突き飛ばして駆け出した。
残された少年は、ふ、と溜め息を漏らしてカウンターに忘れられたナイフに目を留め、落書きを見つけた。
彼はしばらく物思いにふける様にカウンター席に腰かけ、ナイフを手に取るとテーブルに屈みこんだ……。
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祭壇まで『炎の鳥』役を運ぶ神輿の周りを、踊りながらついて行き、彩を添えるのが『炎の舞』役の女達だ。その衣装を身にまとい、それ用の衣裳部屋で他の少女や女達に混じって「どう?キレイでしょ?」と目の前で姉が回って見せた。
二つ違いの姉は、衣装を着るといつにも増して美しく、大人っぽく見えた。
彼は来年こそ、もうここへは出入り禁止になるだろうなぁ、とボンヤリ思いながら頷いた。
「うん……でもバドに見せれば?」
「あら、どうして?」
ちょんと額を突かれて、彼は口を尖らせた。
「この前、二人でいるの見た」
姉はパッと顔を赤らめて、弟を睨んだ。彼の腕を掴み、グイと溢れかえる衣装の陰に引っ張って行くと、声を潜めて詰問した。
「この前って、いつ?」
「いつか判らないくらい、何度も会ってるの?」
「ア・レン! いつよ?」
詰め寄られて、今度は彼が赤くなった。
ある夕暮れ時、偶然姉と少年がコソコソと街から出て行くのを見かけた。
変わった組み合わせだな? と、好奇心で後を付けた。
二人は小さく忍び笑いを漏らしながらサッと物陰に隠れ、挑戦する様に見詰め合い、何度か躊躇いながら短くキスをした。
「見たのね」
「み、見てない」
「バカ! ア・レンなんて大嫌い!」
姉は、両手で顔を覆って衣裳部屋から出て行った。何事だと、女達が衣装にまみれて立ち尽くす彼を見た。
彼は弱り切って、すごすごと衣裳部屋を後にする。
彼は姉が大好きだった。
今まで、優しい姉は彼だけのものだった。
両親を早くに亡くした彼にとって、甘えられる姉は独り占めしたい存在だった。
歩きながら、彼は鼻の穴を膨らました。
彼の欲しい物を、みんなアイツが持って行く様な気がして、彼は腕で顔を拭うと、収穫祭の騒めきに背を向けて走り出した。
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町はずれの小高い丘に、背の低い、横に大きな木がある。
その枝は豊かに葉を茂らせ、地面に付きそうな程長くしな垂れている。
そこに潜り込むとテントの中の様だった。爽やかな葉の香りのするその小さなスペースは、子供たちのお気に入りで、彼も例外無くそうだった。
彼はそこにふて腐れて横になると、いつの間にか眠ってしまった……。
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目が覚めると、日は暮れていて、丘から見える祭壇の方には火が灯っていた。
寝すぎてしまった。と、彼は丘からボンヤリと明かりを見た。
空を見れば、うっすら星が見え始めている。『炎の鳥』の踊りの始まる頃だろう、と彼は思った。
「見てやるもんか」
と、彼は吐き捨てる様に呟いて、ジッと灯の方を見た。
別に見たくないけど……。
見たくない。 ……けど。
「失敗したら見ものじゃないか」
そう自分に納得させて、うん、そうだ、と頷いて、彼は街へ歩き出す。
『炎の鳥』は始まっていて、衣装を身にまとった少年が、立派に務めていた。
雄々しい太鼓の音に合わせ、選ばれた少年たちが昔からずっとそうした様に、彼も踊っていた。
踊りは剣舞に似ていた。ただし、手に持つのは豊穣の象徴である穀物の束だ。その種が落ち切るまで、巧みに振り回し、意味を含んだ様々な振付をこなす。
彼はそれを、広場の入り口の物陰から見ていた。
遠すぎて輪郭しか判らない少年の踊りを見ながら、彼は負けを認めていた。
少年は今までの少年たちよりも、立派だった。
もっと近くでアイツを良く見よう。これは守護神様へ捧げる踊りで、アイツは一生懸命練習したのだから。
そうだ。姉様の隣に行って、謝って、手を繋いで彼を見よう。
そう思って物陰から一歩出ようとした時、どよめきが起こった。
少年の後ろに、黒い靄が立ち広がった。
どよめきの中、少年だけが靄に気付かずに、「皆どうしたんだろう?」という顔で、太鼓が止んでも役目を果たす為、健気に踊り続けている。
『炎の鳥』は、種が落ち切るまで中断してはいけない言い伝えを、少年は忘れていなかったのだろう。
彼はその時の少年を思うと、泣きたくなる。きっと、不安だったに違いないのだから。
彼は、黒い靄が、人型に変化するのを見た。
恐ろしくて、物陰から出ようとしていた足を一歩引いた。
鋭い悲鳴が上がり、怒号が飛び交った。恐怖を忘れて物陰から顔を出すと、祭壇に現れた黒い靄の人物が、少年の首を片手で掴んで持ち上げたところだった。
「バド!」
駆け出そうとして、腕を引かれ、悲鳴を手で包み込まれた。
「ア・レン様。お静かに」
「ジル! ジル、バドが!」
ジルは切羽詰まった顔をして小刻みに頷くと、人差し指を唇に当てた。
「ジル、バドを助けて!」
飛び出そうとする彼の小さな身体を、ジルは羽交い絞めにして止める。
一方、首を掴まれて散々足掻く少年の頬を、靄の手が打った。どよめきがいっそう強く沸いた。
祭壇の上には老爺と老婆がいて、完全に靄から人になった長身の男と対自していた。そして、何か言い争っている。祭壇にはどんな呪いを掛けられたのか、怒れる民の群れが近づく事も許されない。
老婆が泣き崩れているのが見える。
長身の男がサッと腕を払うと、オジイが突風にでも打たれたかの様に後ろに倒れ、動かなくなった。
長身の男が更にオジイに手をかざすと、老爺は石になった。
「……! オジイ! ジル! オジイが! オバアが!!」
ジルが後ずさるのを感じて、彼はその場に留まろうと、祭壇へ向かおうと、足を踏ん張った。
「ア・レン様、逃げるのです」
「イヤだ! ジルの意気地無し!」
ジルと必死で揉み合いながらも、彼は長身の男が少年に、何か尋ねているのを見た。
少年が小さく頷き、抗うのを止めたのも見た。
そして、長身の男が抵抗しない少年を床にうつ伏せにさせ、その背を足で押さえつけながら、剣を振りかぶるのを見た。
彼は目を大きく見開いた。
「嘘だ」
少年の首は、一刀で打ち落せる程にまだ細く、頼りなかった。
それからの事は途切れ途切れだ。
ジルがパニック状態の彼を抱えて、走った事。
着の身着のまま、北海へ浅瀬用の船で漕ぎ出した事。
波しぶきなのか、涙なのか、渦なのか、幻覚なのか。縦揺れ、横揺れ。ヒリヒリする肌の痛み。
心という部位を、直接殴られた様な重い痛み。雷鳴。突き刺さる雨粒。
そんな嵐の中、意識が遠のいた事……。
…………絶対に帰って来る。帰るから。
「帰国する」それだけを記憶に残し、辿り着いたイソプロパノール。
そこで密やかに広まる、マクサルト滅亡と呪いの噂。
むず痒く痛み、寄せては消える記憶の切れっ端。
うな垂れているのは嫌だった。そうしてはいけないと直感していた。
思い出そうとすればする程、遠のいて行く『何があったのか』。
体中を掻き毟りたくなる焦りと苛立ち。それでも。
遠く過ぎ去った春先の夜の風が、彼の心をいつも優しく撫で包み、語り掛けた。
どんな時も、ラヴィ(笑顔)で……。
そして、突き動かされる様に、彼は帰って来た……。




