うみねこ団のバド
大人しくしてろよ、と言って役人が出ていくと、再び薄暗くなった。
泣きたい気持ちで彼の背中を見送って座り込むと、少女は立てた膝に顔をうずめた。
少年の視線が嫌で仕方なかった。
宮殿では、男性がこんな風に無遠慮に彼女を見る事は決して無かった。彼女は侍女とはいえ、仕える主人はイソプロパノール皇女であり、自らもまた、皇女の従妹であり、王族だったのだから。
「なぁ、なんて名前なの?」
こんな風に名前を聞かれた事も、もちろん無い。完全に無視する。
「レイラちゃん、ローズちゃんかな?エスメラルダ?もっと高級な感じ?」
少女は膝にうずめた顔を歪める。なんて感に障る人だろう!
「マチルダちゃん!」
うるせぇなぁ、と少し離れた牢から野太い声がしたのを皮切りに、それまで静かにしていた囚人たちの気配が、蠢き出した。
「お前、『うみねこ団』のバドだろ?あの時はよくも」
「しつこいと嫌われるぞ」
「てか、そんなにかわいいの?俺も見たい」
「『凪ぎ帆亭』のウエイトレス、いいよな。グラマーしか雇わないってさ」
どうやら五、六人程収容されていた様で、少女はギョッとして顔を上げた。
「おいおい、一斉に話し出すからお姫様、ビックリしてるぜ、うるさいのはどっちだよ」
右向かいの牢から「チッ」と舌打ち。その更に右隣だろうか、ガシャンと鉄格子を叩くか蹴るかした音。左へ三つほどずれた向かいの牢からは「んだと、コラ」と罵声。もう何所か分からない位置から、酔っ払いの様な笑い声が響いた。遅れて何かブツブツと悪態が聞こえるのは、驚いた事にバドと呼ばれた少年とは逆側の、少女の隣の牢だった。
「ごめんな。お姫様。ここに容れられる奴らは大抵、気配を消すのが仕事なんだよ」
「わたくし、お姫様じゃ無いわ」
思わず言ってしまって、ハッと口を押えた。
「アハッ、知ってるよ。オレの中で可愛い娘は皆、お姫様なの」
「???」
「ケッ」と誰かが音を立てた。
「バドぉ、てめ、シャバに出たら覚えてろ」
「俺もお姫様見たい」
「もー、空気読めよ。お前ら静かにして。さっきからオレに吹っ掛けて来てるの誰?心当たり有り過ぎてわかんないんですけど」
少女は頭を抱え込んで、手首で耳を塞いだ。
わたくしは、死ぬまでずっと、こんな所に容れられているの?今は仮に「第一の塔」だけど、「第三の塔」はきっともっと酷いのだわ。
涙がこぼれて、この場にいる誰にもそれに気付かれたく無かったのに、次から次へと悲しみの波が押し寄せて、しゃくり上げるのを、とうとう止められなくなってしまう。
姉妹の様に育った皇女様。美しくて、優しくて、いつも日向の様にふわりと微笑んでいらしたけど、十八歳になるのを……トスカノ王との結婚に酷く怯えていらしたのを知っている。
それにしても、自害するなんて。
自分にもっと何か助ける事が、出来たのだろうか?
自分のせいなのだろうか?
今ここにいるのは、妥当な判決なのだろうか?
騒がしかった囚人たちが、彼女が泣いている事に気づき始め、「おいおい」「俺、知らね」「お前が悪いだろ」「いや、手前がおっかない声出したから」などと揉め始めて、泣いている事を知られた恥ずかしさで、また泣けてくる。
皆がシンとしてしまい、自分の鼻をすする音や、しゃくり上げる音だけが響いてしまうのが、とても恥ずかしい。こんな時こそ、騒いでいてくれればいいものを。
「お姫様、ハンカチはいるかい」
務めてそうしたのか、呑気な声で少年が話しかけてくる。それは裏目に出てしまい、少女の胸に自然と蓄積され燻っていた、行き場の無い怒りに火が点いた。
「お姫様じゃ、無いったら!」
ったら、ったら、ったら……。
狭い洞窟の様な牢獄に、幼い怒り方をした少女の声が反響し、少女は顔を赤らめた。
「おお、怖……」
誰かが呟いて、お互い見えるはずは無いのに、少女は声のした方を睨んだ。
「わたくしは、こんな所に容れられる様な事していないわ!貴方たちとは違うのよ!お願いだから、話しかけないで下さい!」
ははは、とバドが笑った。
「意外と気が強いね。縮こまってたのは、カモフラージュ?」
二の句が継げなくて、少女は怒りに震えながら息を吸い込んだ。
「あなたなんか大嫌いよ」
自分がやっと絞り出した言葉に、情けなくなる。
「そんなー、悲しいぜぇ、えーんえーん」
憎たらしい泣きマネをして、彼はスタスタ牢の扉に近寄ると、なんと、カシャンと扉を開けてしまった。
ポカンと見詰める少女に、手に持った鍵をヒラヒラして見せる。
「素直に返すと思う?」
何が起こったか察した囚人たちは騒めいたが、それは賞賛のざわめきだった。
大抵彼らは、生まれた時から何かしら不運な事が多く、例えば貧しくて、例えば不器用で、例えばどうしても、物事が上手く回らない……などの理由で人からも運命からも、虐げられて生きて来た。なので、諦めてジッと少年を恨めしそうに見るのが半分、希望を持つ事に飽き飽きしているのに、薄暗い道を生き抜いて来た逞しさから、少年を脅したり、あるいは甘言で、懇願したりするのが半分。
今回ばかりは幸運の女神の目の端に、彼らがチラリと映ったのだろうか?少年が鍵の束を鳴らして、最小限の声で宣言した。
「お前ら、逃がしてやるよ」
シン……と牢獄が静まり返った。わざわざ騒ぎ立てる愚か者は、いない様だった。
「その代り、絶対に他言するな」
沈黙が返事で返って来る。
「他言すれば、噂の先から全て追って行って殺す。オレ達『うみねこ団』を知らない奴はいるか?」
誰も何も言わない。皆が息を殺していた。
「オレの邪魔をしても殺す。くどくど言わねぇぜ。わかった?」
「……『うみねこ』は、殺しはしない」
誰かが低い声で言った。
恐怖からでは無く、尊敬している対象を汚すな、とでも言いたげな声色だった。
アハッと少年が笑う。
「バレてないだけかも」
「そんなに念を押すなら、何故自分だけで逃げない」
「あれ、そうして欲しい? さぁ、オレはお姫様を口説きたいから、先に行ってくれ」
そう言って、少年は次々と囚人の牢を開けて行く。
「あんたはどうする? シャバでならいくらでも相手になるけど? ここで一戦交えるなら、神父がいなくても文句言うなよ」
少年に突っかかっていた男は「イヤ、これでチャラだ。サンキュー」と明るい声で答えた。
うん、と少年は頷いて、鍵を開ける。開けながら、そう言えば、と顔を上げた。
「逃げる時にヘマすんなよ」
これには皆が、「アタボーよ」と返事した。
「道を開いといてくれると嬉しいけど、門番のアンちゃんを殺さないでね。これからせめて十分、オレにお姫様を口説かせてよ」
少女はポカンとしていたが、鍵を開けてもらえるのは自分以外なのだと気付くと、思わず駆け寄って、鉄格子にかじりつく。
「お願い、わたくしも出してください」
言ってしまって、なんてプライドが無いのだろう、と泣きそうになる。
少年はへへへ、と笑って鉄格子にしがみつく少女の手首を掴んだ。
自由(まだ塔の外に出るまでは霞の様な自由だが)になった囚人たちに「先に行け」と手で合図する。カサカサと、その場を離れる複数の気配がした。足音を立てる様な素人が一人もいないのは、少年にとって幸運だった。
少年はチラリと彼らを見送って、少女に向き直った。
「いいよ。でも」
そう言ってから、そうする事が狙いだった様に少女の手を引っ張ったので、少女の顔半分が鉄格子に押し付けられた。
「ん……痛い。放してください」
もがくと、手首を強く握られた。
耳元に、少年の唇が寄って、少女は不快さにギュッと目を閉じる。
「今逃げてどうする?」
さっきまでと打って変わって、厳しく低い声で囁かれ、思わず彼の顔を見る。
「親や兄弟、親戚がどうなるか、判るよな」
間があった。息を殺す為に必要な間だった。
「……いま、何て」
「君を今助けても、君も君の家族も、犬死しか出来ないよ。犬死が嫌なら、姫の身代わりになる事を引き受けるんだ」
「……?あなた、何を言っているの」
「ラビリエ・イソプロパノール」
呼ばれて思わず「はい」と返事をしてしまう。少年はニッ、と笑って鍵を少女の目の高さに掲げた。
「追っ手に怯えながら、オレ達みたいに裏通りを生きて行く? 手助けしない訳でも無いぜ」
「……」
「イヤだよな。じゃ、トスカノ王妃になる? 自分を殺して?」
少女はポロッ、と涙を落とした。
「パ、パ、パール様が……」
手早く要件を済ませたいだろうに、再びしゃくり上げ始めた少女に、辛抱強く「うん?」と少年が首を傾げる。
「皇女様が、い、生きていらっしゃったなら……わ、わたくし、喜んで、み、身代わり、ヒック、に……な、な、なったわ……」
「……そう」
少年が、困った様に首の後ろを掻いた。
わたくしは、どうしてこんな人にこんな話をしているのかしら?と、悲しみの淵で思ったが、涙も言葉も止まらない。
「ぱ、パール様の為なら、出来たわ」
「でも、皇女様はもういないな」
きゅう、と子犬の様な泣き声が喉から漏れて、少女は頷く。大粒の涙が、ポロポロと冷たい床に落ちてにじんだ。
「く、国の為に、って思ってみたけれど、や、やっぱり違う気がするの……。だ、だ、だって、うう……。だって、パール様はもういない……」
「国の犠牲にはなりたくない?」
「違うわ!……違う……。だって、代わりが利くなら、なんの為にパール様は亡くなったの?」
「逃げる為だろ」
キッとぐしょ濡れ目じりを釣り上げて、少女は少年を睨んだ。
「おっと、失礼。(面倒だから)撤回する」
心の台詞がなんとなく分かってしまって、腹が立ったけれど、少年の態度があまりにも正直なので、少女は何故か微笑んでしまった。
一方、初めて見せた少女の微笑みに、少年はコッソリ息を飲んだ。―――成程、この娘は街の不良娘では無い。
「……わたくしも……撤回するわ」
「?」
少年が器用に片眉を上げて、先を促した。悪いけど、オレは急いでいますよ。
「わたくし、国の犠牲にはなりたくないわ」
「……うん。わかったよ。これを」
カサ、と小さく折った紙切れを、掴まれた手にねじ込む様に渡される。そっと手が放れる。
「オレ、ここにいるから。まず、国の要件を飲んでここから出ろ。それから来て。絶対来て」
こんなにも暗いのに、彼の瞳がとても綺麗なのが分かる。光源も無しに、キラキラと光っているのだ。
でも、この人は、胸が締め付けられる程、すがるような目をしている……。
救いを求めているのは、わたくしの方なのに、何故?
持たされた紙切れを、思わず胸の前でギュッと握った。
「でも、どうやって」
「そこはなんとかしてよ」
意外と大雑把……。と肩すかしにあいながら、少女はあいまいに頷いた。
「なんとか……」
「ちょろい、ちょろい」
地上が騒がしくなって、彼は上を見上げた。
「お、皆逃げられるかな? じゃ、そろそろオレも」
少女は慌てて、彼の腕をとった。
細かったが、鋼の様な筋肉の固さを手に感じた。
「まって、貴方は……誰?」
おっと、いけね。と少年は言って、芝居がかった仕草で片膝を立て、胸に手を当てた。
「お姫様、必ず力になります故、わたくしめをお頼り下さい。……お手を」
促されて、首を傾げると「いいから」と言って、手を持っていかれ、そのまま手の甲に唇を付けられる。
ちゅっ、と音が響いた。
へへへ、と、とろける様に笑って、少年が硬直した少女を見上げた。
吸い込まれそうな程強い引力を持つ瞳だった。
「オレはバド。よろしく。さ、ラビィ」
呼ばれた事の無い名で呼ばれて、「え」と言っているそのわずかな間に、少年は既に牢獄を出て行ってしまった。
クルクル回る風に巻き込まれた後の様に、少女はぺたんと座り込む。
急いで牢の隅に体を小さくし、震える握り拳を開いて、折られた紙切れを開く。
『イブフェンの崖 飲食い処 最後の晩餐』
少女はおかしな店の名を頭にしまい込むと、紙切れを小さく折って飲み込んだ。
とても苦しかったが、証拠は残らないだろう。
地上から、バタバタと走る音や、怒鳴る声がする。
少女は、膝を抱えて小さくなると、ジッとして息を殺し、目を閉じた。
牢の中の空気も、直に座る地面もとても冷たいのに、手の甲だけが、ジンと熱い気がした。