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蜥蜴の果実  作者: 梨鳥 
第五章
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白いふくらはぎ

 ジージョがパタ、と倒れ、ラヴィは両手で耳を覆って目を閉じている。


「お・お、なんだ?」

「バド、なにか変です」


 顔をしかめて言うラヴィに頷いて、バドは頭を一振りすると、ブレてしまった視界を取り戻そうと何度か瞬きをした。


 じゃり、と足音がして片手で額を抑えながらバドは俊敏に立ち上がった。


 ロゼじゃない。

 彼なら川上の方から現れるはずだ。足音は、川下の方から近づいて来た。


 ……でも、川からじゃない……?


 バドは油断なく目を動かしながら耳を澄ます。

 バドたちが火を焚いている岸は、川と崖に挟まれて狭い。

 崖は身軽なバドも二の足を踏んでしまう程高く険しい。なのに。


「バド……」


 ラヴィが彼を呼んで、崖を指差した。

 おそらく同じタイミングで、バドもラヴィの見たものを見た。


「崖が……」


 そびえていた崖の壁に、なにか不思議な視覚感覚を生じさせながら、空間を捻じ曲げる様に奥行きが生まれ、道が出来た。


 そこから、じゃり、じゃり、とまた足音がして、近づいてくる。


 バドは足元に置いたままの短剣を素早く擦る様に踏み付け、反動で飛び上がったところを捕まえた。昔、知り合った大道芸人に教えて貰った小技だった。


「ラヴィ、後ろへ」


 足音から神経を逸らさずにバドが囁くと、くくく、と女が喉で笑う低い音がした。

 驚いてラヴィを振り返ると、彼女は自分では無いと言う表情で首を振った。

 じゃり、と一際近くで足音がして、バドは慌てて音の方を見る。

 暗闇が揺れて、ねっとりとした粘膜をゆっくりと突き破る様に、真っ白で華奢な女の足がふくらはぎまで現れて、じゃり、と川岸の砂利を踏みしめた。


『そう怖がらなくとも、良いではないか』


 凛とした、しかし妙に熱っぽい声。

 バドは思わず「ぞくり」として暗闇から現れた美女から一歩引いた。

 負けず嫌いで往生際の悪いバドの本能が、確実に負けを認めて縮み上がっている。

 美女は「ふむ」と溜め息の様に声を出すと、再びじゃり、と足を動かした。次の瞬間、造作の無い一歩を終えた様にバドの目の前に現れた。

 バドが動くよりも、どう見てもゆったりとした動作だったのに、彼女はバドの首っ玉を両腕で抱いた。


『怖がるなよ。お前は女が好きなんだろう?』


 小首を傾げる美女の唇には色が無い。色が無いのにこんなに魅せられるのは、彼女が魔性の証拠ではないだろうか。


「人間の女ならね」


 やっと言い返したが、背中を伝う汗が冷たい。

 一体何者だろう?現れた女は生白く素肌を発光させ、薄ら笑いをしながら地に引きずるほどの黒髪を揺らめかせている。

 命の入る器まで、美に譲り渡してしまったのだろうか?彼女からは生気が全く感じられず、その事がこの世のものとは思えないずば抜けた美を彼女に与えている。


『同じように暖かいだろう?』


 なぁ、と甘い息を漏らして反対側にまた小首を傾げて見せる。黒髪がだらりと流れた。


『私と寝ないか?』

「なん、何?」


 バドが目を白黒させて、美女から離れた。


『お前はこの娘を手籠めにしようとしていたろう』

「……止めてくんない?違います」

『違うのか? 私は何が欲しいか見極めてから交渉する様にしているのだが……。女が欲しいのではないのか?』


 率直に言われるとぐうの音も出ないバドだったけれど、ラヴィの手前、「違わい」と跳ねつけた。


「何をバドの欲望と交渉したいのです?」


 欲望って……とバドがラヴィの言葉にガクッと頭を垂れた。美女がその顎を両手で支え持ち、彼の瞳を覗き込んでニィ、と笑った。


『お前の瞳だ。私は美しいものを集めるのが好きでね』

「……目?これって、断ったら殺すとかなわけ?」


 美女の視線からかなり苦労して目を逸らし、バドがジリジリ後ずさった。


『この世の美を殺戮で集める事は容易だ。でも、それでは価値が無い。労して手に入れなくてはな』


 彼女は労さず殺戮を行えるらしい。だが、どうやら敵意は無い様だった。


「貴女は何者です?」

『私か? 私はこの辺りをうろうろしている者だ』


 真面目に言う美女に、ラヴィは二の句を継げられない。まさか、「うろうろしている者」などという自己紹介があるとは思わなかった。


「ええと、お名前は?」


 随分間の抜けた質問をしてしまった。


『お前、随分図々しい娘だね。私の名前は国一つ分の価値があるのだよ』

 

 ちょっと気を悪くした風の美女に、バドがニヤニヤして言った。


「この娘の名前にだって、国の命運が掛かってるぜ」

『なんと』


 美女は焦点の定まらない薄緑色の瞳を見開いて、「よし」と言った風に頷いた。


『……では。体裁もある、お前から名乗れ』


 恐らく人外の者であろうこの美女まで言いくるめてしまうなんて、とバドを恨めしく思いながら、ラヴィは名乗った。


「ラビリエ・イソプロパノールです」

『ほう、海の子か。だがその名にはもう気配が無いね。真の名を教えなさい』


 ……真の名。


 ラヴィは戸惑った。


『なにかスッキリせぬ。国を左右出来るか知らぬが、私の心は左右されなかった』


 捨てたとはいえ、本名に対して酷い言われようだったのでラヴィはムッとしたが、今の名前が『誠の名』として扱われた喜びで相殺した。「わたくしは……」と言い掛けたところをバドが遮った。


「おいおい、それ、追加注文じゃね?」


 美女がうるさい小蠅を見る様にバドを見た。


『お前、小賢しいな。バカバカしい。娘、もうよい』


 へぇぇ、とバドが笑った。


「でも、隠されると気にならない?あのさ、俺たちここに座礁して、出口が無くて困ってるんだ」


 そんな事か、と言う様子で美女がそちらを見もせずにゆっくり崖に手を払うと、彼女が現れた時と同様に空間がねじ曲がり、奥行きが出来た。


『望む所へ送ってやる。元よりそのつもりだったがね。私は焚火が嫌いなんだよ』

「うひょー!ラヴィ!聞いた?」


 子供の様に喜んで飛びついて来たバドを押しのけながら、ラヴィは美女にお礼を言った。


「ありがとうございます。わたくしは、ラヴィという名前です」


 うむ、と美女は人心地着いたように頷いた。


『苗字の無いのは体裁が悪かろう。ふむ。私が苗字をやろう。そうだね。ラヴィ・セイルにしよう』


 そう言って美女は、薄衣一枚で隠された美しい形の胸を威厳たっぷりに突き出した。


『ラヴィ・セイル、私の名は……』


 彼女が名乗ろうとしたその時、足音がして、「おおぃ」と声がした。



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