幕開けは遺体
清らかな霧が立ち込め、海の波間から細く差し始めた朝日が夜の暗闇を浅い紫色に染める頃、少女が一人、心地よい眠気に酔う様にしながら目を覚ました。
まだ早起きの鳥たちも歌っていない。
彼女も、まだ起きなければいけない時分では無い。
このまま再び眠るのは、きっと溶けてしまいそうな程幸せだろう。
でも何故だろうか、だんだん頭が冴えて来てしまって、しかも胸騒ぎもする。
「……?」
豪奢な寝そべり椅子から起き上がって、昨夜自分の部屋で眠らなかったのを思い出す。
すぐ目の前にある大きな天蓋付きベットに目が留まって、彼女は息を殺した。
ベットには、彼女の仕えるこの港の国の、皇女様が眠っているのだ。
天蓋の幾重にも重ねられたとりどりの美しい薄い布が、朝のすがすがしい風に優雅に揺れた。
少女は何故か異常に物が良く見えて来て、布の淵に施された、繊細なレースの網目一つ一つまでクッキリと見える気がして、首を振った。
皇女様を起こすのはまだかわいそうだわ。
昨夜、あんなに泣いていらっしゃったんだもの。一月後には、トスカノ国へお輿入れ。バタバタするに決まっている。
こんな穏やかな朝だもの。ゆっくり眠って頂こう。
そうだわ、朝餉もお部屋にお運びして、起きてからゆっくり召し上がって頂こう。
お腹に優しい暖かいスープと、何か柔らかい物を用意して、パール様の大好きな杏子は、まだ備えがあったかしら?
もし切らしていたら、大急ぎで杏子をもぎに、使いを走らせなければ。
そう考え出したら動き出さずにいられなくなって、彼女はそわそわと立ち上がると、皇女の部屋から出ようとした。
「……?」
彼女はふと振り返る。なにか、説明の付かない引力に引かれる様に、天蓋に覆われたベットを見詰める。
「……? ……?」
何故だろう。
胸がドキドキして、天蓋の向こう側を、目が必死に見ようとしている。
ダメよ、皇女様はまだ眠っていらっしゃるのだから……。
ダメ。ダメ。
頭ではそう自分を止めつつも、震えながら、天蓋の布の端をつまむ。
そうしたくないのに、してはいけないのに、体が操られた様に動く。
自分の荒い息が聞こえる。皇女様を起こしてしまう、と、息も天蓋を捲る手も見る事も、全部止めてしまいたいのに。
天蓋の中を見た少女は、肩で息をしながら立ち竦んでいた。
―――体が動かなかった。
皮肉にも鳥たちが、朝の歌を歌い出す。
その歌に力づけられる様に、天蓋越しに柔らかい金色の朝日が、皇女の寝顔に差していく。
港の国イソプロパノールの真珠と謳われ、国民たちを魅了してやまない美姫パルティア・イソプロパノールは、その類稀なる美を青く染めながら、くの字に体を折り曲げて、静かに横たわっていた。
「……パール様?」
自分だけが許された皇女様の呼び名を、震える声で絞り出し、ガクガクと揺れながら、気丈にも皇女の体を仰向けにする。
「ああ、ああ、なんてこと……!?」
少女は膝の力が抜けてしまい、どさりとベットの脇に座り込んだ。
手がぬるりとして、思わず見やると血みどろで、そこで初めて彼女は悲鳴を上げたのだった。
*
イソプロパノールは穏やかだが深い海に、突き出すようにして出来た大陸と、それに続いて弓なりに沿ったのどかな海岸線の果てまでを領地とするそこそこ大きな国で、海を隔てた国々と貿易をする、大きな港町を首都として栄えている。争いの多い世の中で、数少ない平和な国だ。
しかし、近年急成長を遂げた同盟国であるトスカノ王国から、まだ何かハッキリとはしないにせよ嫌なプレッシャーを掛けられ始めている。
「それなのに、だ」
イソプロパノールの王は溜め息を吐いた。
厳選し極秘に集められた少数の臣下たちは、皆目を伏せる。
皇女を生まれた頃から知る者の中には、その愛らしさを偲んでこっそりと目尻を拭う者もいた。
「どう説明する? まさか自害とは言えまい」
せっかく姫が嫁ぐ時期になり、爪の先で剥がされかけている友好関係を、復活させようとしていたのに。
王の娘の失態について、口を開く勇気は臣下たちには無く、王の表情のどこからも悲しみや痛みを見出せないのは、重ねて王に対する畏怖の念を強くさせた。
「そもそも最近までは、弱小国だったトスカノの田舎者を、我らが庇護していたではないか」
「急に風土が改善され、年に何度も起きた二つの川の氾濫が止まり、厳しい気候が穏やかになったそうです。豊作続きで、新しい種類の野菜や果物を、イソプロパノールの港へどんどん仕入て来ています」
他国の近況ならば、スラスラと臣下達は言い募る。
「我が国の港を使った貿易で、莫大な富を得ています。おこぼれを貰った港町には金貨が溢れ、その価値が極端に下がり始めている有様です。新種の作物に、既存の物より高い課税をして勢いを濁してみますか?」
「いや、それは争いの引き金を引くいい口実が出来てしまう。今は争いの種を撒きたくない。火力を使った文明が発達し、空を飛ぶ船を造ったと言うではないか。パルティエの輿入れも、その船の披露を兼ねるつもりで、彼の国から迎えを出すと伝えて来おった」
王は玉座の後ろに描かれているイソプロパノールの海王神の様に、胸の位置まで豊かに伸ばした赤茶色の髭を、ゆっくり撫でた。
「飛ぶ船には、武器の仕掛けが付いているとも聞いている。空から攻められる事があっては、もうどうしようも無い。頼みの綱だった姫は自害してしまうし、もうなる様にしかならん……」
深い溜め息を吐く王を、臣下達は肩を落として見守った。
小さな港街から始まったイソプロパノールは、武力で平和を守って来た国では無い。簡単に起こるものではないが、万が一でも戦争は避けたい。
「同盟とは名ばかりの、属国になるやもしれん。……それで済めばいいのだが」
王はトスカノ王を苦々しく思い浮かべる。
トスカノ先王が病に倒れて、どの様にしたのかすぐに即位した王。彼が挨拶に来たのを、昨日の事の様に覚えている。まだ若く、驚くほど美青年だった。だが王は一目見るなりこの青年王に、警戒心を持った。鳥肌が立つ程、この男は危険だ、と王の中の何かが警鐘を鳴らしていた。
笑顔は不敵で、瞳は野望に燃えていた。
7年前、幼い皇女との婚約式典にやって来たトスカノ王は、当時既に四十程で、四人の皇子を持っていた。一番末の皇子ですら十五になろうとしていた。
始め、婚約の話が持ち上がった時は、その末の皇子との婚約ではないか、と聞き返したものだった。姫は十を数えたばかりだった。ちょうど、予知夢の能力に目覚めた頃だ。
皇子の一人がイソプロパノールの姫と結婚する事は即ち、その後ろ盾を持ってトスカノの王になると決定したも同然になってしまうので、不公平は避けたい。とトスカノ王は言った。
末の皇子以外は先王の息子だと言うのに、随分慈悲深いではないか、と王は胸中で目を光らせた。現に、今では末の皇子以外は外国へ婿にやられている。
しかし、次世代の覇権争いに姫伝いで巻き込まれたくは無い、と王は考え、トスカノ王の意見を飲んだのだった。
その婚約式典での再会で、王はトスカノ王を見るなり、姫との婚約を後悔した。
しかし、矛盾しているが安堵もした。
彼は即位の挨拶に来た青年よりも、更に危険な人物に成り果てていた。
その危険さは、言動や動向云々の話ではなく、本能的に肌で感じられる類のものだった。
鬼になっている。かつて瞳に燃やしていた野望の為に、食ってはならないものを食ってしまっている……。
王はそう思った。
だからこそ、遠目から彼を見て泣き出した姫に、滅多に湧かない親心が疼いたのだ。その反面、婚姻という鎖を繋げた事に安堵もしたのだった。
さぁ、姫が嫁がないとなって、トスカノ王はどう出て来るのだろうか。
王よ、と進み出た者がいた。
「なんだ」
「大変危険な賭けでございますが、身代わりを立ててはいかがでしょう。トスカノ王は、幼い頃の姫様を、遠くからしか見た事は無いではありませんか。侍女のラビリエ様は従妹という事もあって、目鼻立ちも立ち振る舞いも姫様に良く似ております。常にお傍に仕え、お姿を拝見していたパルティエ様になりきる事も出来ましょう……」