小さなナイフとマクサルトの悪魔
時間はあまり無い。
部屋の中の見張り兵はクリス皇子の気遣いで小一時間程外に置いてくれる様だったが、お茶を淹れる従者がいつまでも部屋に居座るのも怪しまれる。
第一、目的の『呪い封じの門』はもうすぐ間近に迫っている。
でも。
「ハモモ、美味いなー」
バドは従者の制服の上着を脱いで、白いチュニックシャツにトスカノ衛兵の制服のズボンという出で立ちでソファにどっかり座り、ラビリエにお茶を淹れさせて、果物や菓子を貪っている。
テーブルには、小さなナイフや筒の様なもの、色々な色の小さくて丸い玉を広げて、モグモグ口を動かしながら一つづつチェックをしている。
「お腹膨れました?あら、ハムもあるのね。召し上がる?」
職業柄、ラビリエもいそいそと世話を焼いてしまう。バドも肝が据わっているが、ラビリエもどこかネジが変だ。
給仕せずにはいられない性質なのだろう。
だって、朝から何も食べていないって言うんだもの。
そんな事聞かされたら、気になってしまうわ。
ハムを切ってパンに乗せて、チーズも見つけたのでそれに添えてバドに渡すと、バドはあっという間に平らげた。
「はー。やっぱいいモン喰ってんなー。パンでもオレが喰ってたのと全然違うな。あんた達の話聞いてる間、腹が鳴ってハラハラしたぜー」
「まぁ、それは辛かったですね」
バドはへへへ、と舌をだらりと出して笑うと、テーブルの上に広げた道具を手際よく装備して、ソファから立ち上がった。それからひょいとラビリエを見て言った。
小さな子供の機嫌を取るような微笑を浮かべている。
「怖くない?」
「え?」
「人質になるの」
小さなナイフをラビリエに向けてヒラヒラさせる。
小さな刃の握りの部分は安っぽい赤色で、房飾りが揺れている。
どう見てもバドの手には小さい。
これをわたくしの喉元にでも当てるのかしら?
どうせなら、腰の後ろに差したあの短剣を使えばいいのに。
「……ええ」
「じゃあ、門を越えたら悪魔がいるかもしれないってのは?ひひひ、初耳だぜぇ」
「バド……わたくしもう、何も怖くないの」
ラビリエは食器の後始末をしていた手を止めて、バドに改まった様子で向き直った。
「もうラビリエ・イソプロパノールという女の子に未練は無いの。失うものも無いし、だから、怖くないの。国の駒。国の囚人。死んでしまった侍女……。うんざりよ」
「どうして」と問い続けるのは嫌だ。
皇女の死も、身代わりの花嫁に選ばれた事も、クリス皇子の手紙の行方も。自分の知らない所で吹き遊ぶ風。
その風を、捕まえたい。
そういった事を伝えると、バドはふんふん、と聞いているやらいないやらといった態で頷いた。
「風、か。いいね、それ」
「……ラビリエは死んだの」
「そうか」
バドは頷いた。
「そうか、うん。君が死んだのはさっき聞いてたよ。焦ったよなー。皇子サマにバレたと
思っただろ?」
あの時、バドは果物ナイフを持ってラビリエの前に飛び出した。
「助けようとしてくれたの?」
「うん、まぁ。その先までは頭回らなかったけど」
まぁ、とラビリエは呆れた。
ラビリエが身代わりだとバレて罪人扱いされたとしても、バドはそのまま従者としてシラを切ればいいだけなのに。
「バレてなくて良かったぜー。んなっ?」
大きな口は、笑うと耳まで裂けそうだ。
子鬼の様だわ。とラビリエは心で呟いた。
ありがとう。と小さく言うと、彼はニヤついて頷き、両腕をラビリエに広げた。
「おいで、始めよう」
素直に頷いて、バドのすぐ近くに寄る。
「両手を後ろで固定して、首元にナイフのパターンでいくな」
他にどんなパターンがあるか、知りたくも無かったのでこの「お断り」に頷いておく。
「じゃ、」と後ろからラビリエの両手を捕えようとして、あ、とバドが声を上げた。
「そうだ、これやるよ」
そう言って、バドは手に持っていた赤い柄の、小さなナイフを後ろからラビリエに渡した。
「え、わたくしにですか?」
「うん。なんかあった時の為にさ、気休めだけど? おっと、鞘もね、一応あるんだよーん」
玩具の様な赤い鞘に刃をしまうと、ラビリエはそのナイフをしげしげと見た。
先から先まで、ちょうどラビリエの手の平に収まってしまう程の小ささだったが、頼もしい気持ちになった。
「でも、持っていたら怪しまれるわ」
ラビリエがナイフを持て余していると、バドがチチチ、と舌を鳴らして彼女の手からナイフを取った。
「こういうのはぁ、隠し持つの」
「隠し持つ……でも……どこに」
「そりゃ、ドレスの中だろー。ガーターベルトかストッキングに挟んどくのが王道じゃない?」
そう言うが早いか、ラビリエの胴を後ろから片腕で抱いて、ドレスのスカートを捲り上げた。
ラビリエは驚いて身をよじり、今まで上げた事の無い悲鳴を上げた。
「ッキャー!? イヤ!」
「アハッ、ちょ、動くなよ! ハハハッ」
胴に回されたバドの腕は、ビクともしない。
彼は楽しそうに笑って、発作の様に悲鳴を上げるラビリエのニーハイストッキングと太ももの間に、するりとナイフを滑り込ませた。
「ッキャーッ! キャッ、きゃあああ!」
「どうなさいました!?」
すぐに部屋の扉が開いて、衛兵が入って来た。
ドレスのスカートがひらめいて、ラビリエは髪を乱して凍り付く。
衛兵の顔も、凍り付いた。
いつの間にか、両手は腰の後ろでガッチリ掴まれて、喉元には鈍く光る短剣の刃が当てられていた。
おまけに、ラビリエの息は浅く荒いし、髪もドレスも乱れ、顔は青ざめている。
完璧な人質だ。
バドがラビリエのこめかみの辺りに頬を擦り付けて、「一丁上がり」と囁いた。
ゴクリ、とラビリエは唾を飲み込んだ。
この人は、子鬼なんかじゃない。
マクサルトの悪魔かもしれないわ。




