膨れ面
生まれ育った国を、こんな形で出て行くとは思わなかった。
ヴェール越しに窓の外で遠ざかるイソプロパノールの海を見詰めた。
蒼く美しいイソプロパノールの海。
昼も夜も船で飾られ、今こうして見下ろしていても、いつもと変わりない毎日を受け入れている。
当たり前だった風景に「忘れないわ」と心で呟いたけれど、いよいよ海も街並みも見えなくなるとその心は「忘れないで」と、か弱く泣いているのだった。
トスカノ国はラビリエに彼女の国の従者を一人も付けさせてくれなかった。
寂しくて押しつぶされそうになるところだが、きっとあの金髪の少年が、上手くこの飛空船に乗ってどこかに潜んでいると思うと、少しだけ慰められた。
乗れなかったかもしれない、と後ろ向きなもう一人の自分が心の隅っこでたまに呟いたけれど、それに対して「いいえ」と言い続けている。
窓の外が退屈な景色ばかりになると、彼女は用意された椅子の背もたれにそっともたれ掛った。
客室には彼女の護衛役なのだろうか? ロゼットと名乗った新緑色の髪の騎士が、ずっと出入り口の扉の前で立っている。
なので全然落ち着かない。
部屋の警護なら、部屋の外で立っていればいいのに。
せめて、衝立が欲しいものだわ。皇女を迎えに来たと言うのに、女性の召使いがいないのも気が利かない。
なにか用事があれば、彼に言えばいいのかしら?どちらにせよ、パール様がこんな仕打ちを受けなくて良かった。
……亡くなったのに、良かったなんて思ってはダメね……。
胸が締め付けられて、ラビリエはそっと手を組んで無き皇女の為に弔いの祈りを捧げた。
「ゴ気分悪イ?」
ハッと顔を上げると、自分の持ち位置から微動だにせずに、騎士ロゼットが下手なイソプロパノール語で
「ミズ要リマス?」と聞いて来た。
態度がいかにも面倒臭そうだ。
彼女は思わず頷いた。
ロゼットは「ハイ」と適当な礼をして、扉を開けて外の部下に自国語で命令する。
「オラ、お姫様は水をご所望だぜぃ」
彼女はパルティエ皇女とトスカノ語を勉強して多少言葉が分かるので、先ほどの下手だが丁寧なイソプロパノール語の台詞とのギャップに、目を見開いて彼を見た。
なんだか、この人……バドなのかしら?
程なくして、水を持って近寄って来た騎士をまじまじと見てしまう。
「ナンデスカ?」
きょとんとする顔は童顔で、可愛らしい。
体格も小柄で、もしバドが変装か何かをしていたとしても、自分より小柄にはなれないだろう。
「いいえ」とトスカノ語で返事をして、彼女は息を吐く。
「出来れば、外で警護をして頂けませんか」
騎士はイソプロパノール皇女がトスカノ語を話せると分かったのだろう。ピリッと少しだけ頬を緊張させた。
「それは、できないんですよ」
すいませんねぇ、と言って彼は心なしか気分を害した雰囲気で持ち場に戻る。
少し意地悪だったかしら?でも、彼が悪いんだわ。
輿入れするのに、相手の言葉を勉強しない花嫁なんていないもの。
それに、先にわたくしが言葉を話すのは無理だったわ。
王族は、少なくともイソプロパノールでは目下の者に自ら声掛けをしない。
身分の低い者が気を使ってこちらに話しかけ、その有能さを競うものよ。
……トスカノでは違うのかしら?
ロゼットはどうしてだか自分を見下している様にも見える。
王妃になるラビリエに、なんの敬意も持たずにそれを態度に出すとは、一体どんな保身の自信があるのだろう。
それとも、トスカノ国王をはじめ、トスカノの人間皆が外国からの花嫁をそれほど大事に思っていないのかもしれない、とラビリエは思った。
従者も持たせてもらえない。
荷物も最小限。宝石をたくさん身に着けて来いとバドに言われたけれど、半分程外すように言われてしまった。
立派なのはあてがわれた部屋だけで、部屋の中には見張りがいる。
これでは囚人だわ。
なんだか、パルティエ皇女の死からずっと、なにかしら囚われている気がする。
どうせ分からないわ、とラビリエは早口で「うんざりだわ」と呟いた。
「ゴシンボウ、デス」
すかさずロゼットがイソプロパノール語で返して来て、してやったり顔をしたので、ラビリエはぷいと窓の方を向いた。
新品のガラスに、自分のふくれ面が映っている。




