意味
これはただただ、神も人も自分に正直に生きている物語である。
それが善いか悪いかは、特に意味を持たない。
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大きな港を持つ国がとっぷりと夜の闇に包まれて、海の波だけが静かにさざめいている。
こんな夜更けだというのに、もしくはそれだからかなのか、月明かりに照らされた珊瑚の群集を思わせる優美な城の東側、筒形の塔の三階のバルコニーで、麗しい乙女が一人、柔らかなつる草に覆われた柵にしなだれかかっていた。
白く細い指が、そっとつる草に咲いた青白い夜花を撫で、摘み取ろうとして名残惜しそうに手を止めた。
夢と現を隔てる為に立ち込め始める凛とした清い朝の空気の訪れを感じながら、彼女がまだハッキリと空を飾る一等星を仰ぎ見ると、美しく波打つ淡い赤金の髪が揺れ、風がそれに誘われる様にそよりとし、彼女の無防備な横顔を露わにした。
壊れてしまいそうな程儚げな少女で、その繊細な美しさはどんな絵師でも表現する事の出来ない類稀なるものだった。
彼女は泣いていた。
手には一通の手紙。それを震える手で破り、バルコニーから一望出来る大海原の方へサッと散らした。海へ流れて行く風がそれを引き取り、遠くへ運んで行く。
途端、彼女は呻いてその場へしゃがみ込んだ。
「パルティエ様?」
愛らしく暖かい声が聞こえて、彼女は閉じていた目を開ける。その色はオパール。
「灯が点いていたので、気になって……」
彼女はめまいを押し殺しながら、先ほど散り散りにした手紙の破片が落ちていないか注意深く目だけで探し、満足すると駆け寄って来た侍女に助けられながら立ち上がった。
支え、心配そうに顔を覗き込んできた声の主もまた愛らしい少女。
紅茶色の長く柔らかな髪に、同じく紅茶色の黒目がちな瞳で、ふっくらとした唇は優しい桃色をして紅を必要としない。
彼女の従妹にあたる親類で、二つ年下だ。二人はとても目鼻立ちが似ているが、髪と瞳の色が違うので、その印象は随分違った。
「また、予知夢を?」
どこはかともなく期待のこもった声で聞かれて、彼女は首を振った。
「いいえ、いいえ。ラビリエ……寝台へ行きたいわ。手を貸して」
はい、と従順に返事をして、ラビリエと呼ばれた少女は彼女の手を取った。
「……冷たい……。パルティエ様、海を見ておられたのですか?」
「ええ」
短く答える彼女に、ラビリエは自分のショールをかけ、彼女の歩調に合わせて寝台まで支えてくれる。
「もうすぐ夏ですが、まだ夜は冷えますね。すぐお休みになられますか? それとも、なにか暖かい物をお持ちしましょうか」
「ウォッカを」
「ワインにしては?」
「……いいえ、ウォッカを」
ラビリエは困った顔をして、思案する様に首を少しだけ傾けた。
「ウォッカを」
「……わかりました」
そう言うとラビリエは寝台の下にコッソリ忍ばせているウォッカの瓶を取り、用意した中で一番小さなグラスを手に取った。
「ダメよ。喉薬じゃあるまいし。眠れないわ」
彼女はそう言って、サイドテーブルに置かれた盆の上に並ぶ一番大きなグラスを指差した。
いいえ、とここは譲らず、ラビリエは小さなグラスに酒を注ぎ、主人へ差し出した。
彼女は震える手でそれを受け取り、一気にあおった。
ラビリエは寝台の淵に座り、そっと彼女の膝に架け布団を掛けてくれた。
「……ラビリエ、私、貴方を妹の様に思っていてよ。本当よ」
横になりながら、彼女は熱心に言った。
「嬉しいですわ。わたくしも、姉の様にお慕いしております」
二人の乙女の心は真実で、合わせた視線は少しも揺らがなかった。
「ありがとう……。本当はね、予知夢を見たの。トスカノ国の」
そう言って彼女は自分を両手で抱いてうずくまった。
抑えきれない波の様に嗚咽が漏れて、黙って背を撫でてくれるラビリエの手の温かさが心にしみた。
「私、嫁ぎたくないわ。トスカノ王は、お、恐ろしい人よ。いいえ、人では無いわ。私を、恐ろしい事に利用しようとしている……」
「パルティエ様……」
「怖いわ。ラビリエ、どうして私は予知夢など見るのでしょう? そうと判った時、こっそりと隠しておけば良かった! こんな事になると考え無しに……私は……」
まだ十を数える前の子供だった。皆が驚くのが楽しかった。
あの頃、まだ彼女は無邪気に笑っていられた。
皆が彼女を神の子の様に崇め始めるまでは。
「パルティエ様。5年前、この国が突然の嵐に襲われた日を覚えておいでですか? パルティエ様が海に出るのを止めて下さらなかったら、きっとわたくしは海の底でした……。トスカノに嫁がれた後も、その様な事だけにお力を使えばいいじゃありませんか」
「違う、違うわラビリエ。トスカノ王は予知夢が必要なのではないわ。私の命を、魂を欲しがっている……」
「そんな、まさか……誰がイソプロパノールの姫に危害など……そんな事はトスカノ王でも不可能ですわ」
「嫁げばどうとでもなるわ。事故死、病死、なんとでも言える……」
ラビリエは落ち着いた少女で、ちょっとした事で騒いだり慌てたりする質ではなかったけれど、いよいよ不安になってきて大きな瞳を曇らせた。
「パルティエ様、どの様な夢を見られたのです?」
「杖になる夢よ」
杖、とラビリエは呟いた。
彼女は頷いて、真っ白な顔を両手で覆った。
「おかしいでしょう? トスカノ王の杖になっているの! おかしいでしょう!」
狂気じみて来た彼女の背を撫でながら、ラビリエは頭の中で「杖?」と繰り返した。
トスカノ王の王妃になるというイメージが、主人にとって「杖になる」という事なのだろうか?
「パルティエ様、きっとそれは予知夢じゃありませんわ。人間が杖になるなんて、ありませんもの。お輿入れが近づいて、敏感になってそんな夢を見ただけですわ」
いいえ、いいえ! と彼女は首を振った。
ラビリエは彼女の涙が次から次へと頬を伝うのを「なんて綺麗なんだろう」と思いながら見ていた。
可哀想な姫様。国交の為とはいえ、冷徹王と囁かれている三十程歳の離れたトスカノ王へ嫁がなくてはならないなんて!
「予知夢よ。区別はハッキリと判るの。私は杖になっていた……」
「そんなおかしな事……」
「杖になるだけならいいの……いいのよ……。でも、トスカノ王は……その杖で、私で、恐ろしい事を次々と……堪えられないわ、ラビリエ!」
「パルティエ様……お泣きにならないで下さい。お休みになって、お気を静めましょう?」
「ラビリエ……信じて……」
彼女は大事な侍女に縋りついた。そっと柔らかな手が縋りつく手に重ねられた。
「パルティエ様の言う事ならどんな事でも」
「でも、信じていないわ」
自分だって馬鹿げていると思っている。他人なら尚更だ。どちらかと言えば、信じられないのを許してやらなければならない。でも、怖い。怖いから、信じて欲しい。
父には掛け合えない。イソプロパノールは貿易で栄える大国だが、近年急に勢力を増した隣国であるトスカノ国にじわじわと嫌な圧力をかけられているのだ。
原因の一つに、トスカノ国に新種の美しい金属や、果実が採れ出した事がある。
それらはイソプロパノールを介して様々な国へ海を渡り、次々と貿易船を呼んでいる。
もし、トスカノがそれらを出し渋れば、イソプロパノールはそのお零れを取り損ねてしまう。それで国が傾く訳では無いが、切り捨ててしまうには価値が有り過てあまりにも惜しい。トスカノはそこを突いて来ている。
父が今、この馬鹿げた話をいくら「予知夢」の能力のある娘の話だとは言え、頭から信じるとは思えない。もともと、港町を国まで伸し上げた者たちの末裔だ。
損を目の前にして、彼女の話を鵜呑みにする事はまず無いだろう。
ラビリエの様に「敏感」になっているのだ、と一蹴されるのが目に見えている。
でも、だとしたら、いいえ、それよりも、自分の「予知夢」は絶対。目の前の大事なラビリエを不安にさせ、戸惑わせて何になるのだろう?
当惑するラビリエから手を離し、彼女は無理に微笑んだ。
「ごめんなさい。……夢よね。ただの……夢」
「パルティエ様……」
「もう一杯、ウォッカを……それで、眠るから……」
*
ラビリエが、泣き濡れた顔に張り付いた髪をそっと除けてくれるのを感じながら、パルティエはまた一粒涙を零す。
心には、常に抱いて来た疑問が渦巻いている。
隣国に嫁ぐまでに時間が無い。自分が嫁いだら、きっと終わる。
彼女自身だけの問題では無く―――きっと、何かが、終わるのだ。
だから早く、早く意味を知りたい。
なんの為に生まれて来たのだろう。
夜ごと現れる、逃れられない運命の輪。
その一端を視せられて、一体私はどうすればいいのだろう。
なんの力も無いこの私が、何故? どうして?
私は一体何のためにこの力を授かったのだろう。
これは忌まわしい呪い?
何かが、私に、何かの為に?
私は負けたくない。
私は負けない。
きっと見つけて見せる。
この力の意味を。
そうでなければ、生きている意味なんて無い。
また一滴、熱い涙が零れて枕に染みた。
*
その夜、彼女は幸福な「予知夢」を見た。
それはそれは、満足のいく夢だった……。