酒
いつの頃の話だかは知らないがね、なに、ガキの頃寝物語で聞いた話さ。あれは大陸のほうの話だね。ほら、西土のほうの話さ。まぁ、寝る前に話すような艶のある話でもねぇが、ちょっくら我慢して聞いてくれや。
西土の都からは遠く離れた国に李生って男がいてね。いつの時代かは知らねぇよ。嘘か真かも定かではない話だ。まぁともかくも李生って男は親もいなけりゃ兄弟もない、婦もないから子供もいないって言う正真正銘の一人身って奴でね。家族といえばリンリン……いや、レイリンだったかな?
まぁどっちでもいいか。そんな名前の老い先短い老猫一匹、その住んでいる家も惨めなもんでね、まぁお前さんは郭から出たことねぇだろうから想像もつかねぇかもしれねぇが、人里離れたような所で、人通りもめったにないような寂れた所にたったひとつ、ぽつねんと建ったあばら家さ。壁は薄いわ、穴だらけだわ、部屋が一つとタタキみたいなもんと勝手があるだけの、あばら家って言葉がこれほど似合う家はねぇってほど酷いところだったらしいね。雨が降れば家の中で水浴びが出来、空が晴れてりゃ寝転がって星を見る、そんな生活が出来る素晴らしいところさあ。まぁ要するに貧乏人だ。俺ぁ、んなとこ住みたきゃねえな。
そんな男の財産と呼べるものは、猫の額ほどの土地と薄汚い壷に入った僅かばかりの塩のみでな、こっちと違って塩は高級品だったらしいね。どんくらい? どんくらいってそりゃ、李生の生きた時代よりもずっとずっと昔には塩を盗んで死刑になった男がいたくらいさ。まぁ李生の時代にはそこまでではなかったんだろうけどよ。それでも親の代から大事に大事に継ぎ足し継ぎ足し使ってきた塩さ。そんな塩とこれまた親の代から受け継がれてきた狭い土地と、仔猫の頃から可愛がっていたという例の老猫しか持っていなかった。
李生自身は酒も呑まなければ遊興もしない、勤勉を絵に描いたような若者だったらしいがね。まぁ貧乏人だったってこともあるだろうけどよ。あー、あれだ。ほら、あれ。無口で温和で実直で、でもこうやるときはやるっていうまぁ人に好かれる性質な男だね。これといったこだわりもなく趣味もなく、正直に素直に生きてきた男さ。まぁいつの時代も正直者は馬鹿を見る、ってね。俺だってここに通うためにどれだけ苦労してることか。――え? こんなところに通う自体勤勉じゃねぇって? おい、そんな笑うこたぁねえだろうよ。少しぐらい嬉しがったらどうだ。商売ならもっと愛嬌ってやつが必要だろ。それでなくとも男は度胸、女は愛嬌っていうじゃねえか。畜生。話続けんぞ。
その李生がな、こう、いつの頃からか毎夜毎夜寝る頃になると、こう、あぁ、とも、うぅ、ともつかねぇ苦しげなうめき声が聞えて来るんだとよ。これが色っぽい女の声ならまだしも、年老いた翁の声だって言うから余計に気味が悪い。それがあのあばら家の何処からともなく聞えてくるんだと。案の定李生もその声が気になって夜も眠れやしねえ。
そりゃ、一回や二回ならまだ空耳や誰かの悪戯で済ませることが出来るかも知れねぇよ。でもな、それが毎夜毎夜、しかも李生が布団にもぐりこんでうとうとし始めた時にまるで見計らったかのように響いてきやがる。これには李生もほとほと困り果てて、日に焼けて精悍だった顔は病的に青白く、もともと肉付きが良かった訳でもない体は見る見る痩せて行って、昼間の野良仕事にも精が出ない。これは仕方あんめえ。夜寝れねぇんだからそりゃ疲れも溜まるわな。
しかしこれは困った。ほとほと困り果てた。李生自身も昼間家捜しなんかして原因を突き止めようとはしたみたいだけどね。だけど原因は一向にわからねぇ。しかも声は一向に止む気配もねぇんだ。これは鬼の仕業か人の悪戯か。李生は奇妙に思いながらもその家で暮らしていたわけさ。あ? なんでって? なんでってそりゃ、その家捨てたらどこに住みゃあいいんだよ?
そんなこんなの生活がずいぶん続いてね。いや、李生は相当我慢強い男だよ。俺だったら早速そんな家捨ててどっかに逃げてるね。どうせ財産なんて立派なものもねぇんだ。親から受け継いだものがなんだ。……いや、逆に原因を探してそいつを捻り潰してやるね。だがまぁ、これは俺の話じゃねえしな。怖い? 俺が? 俺が怖がってるって? 冗談いっちゃいけねぇよ。馬鹿にしやがって、まったく。
あ? 続き? 続きね……どこまで話したっけ? ああそうだ。そんな李生もついに堪忍袋の緒が切れたってね。
ある晩、いつものように昼間の仕事で疲れた体を今日こそは休めようと冷たい寝床に潜り込ませてね。その寝床が李生の体温で温まりだして、それと同じくらいに李生の息も寝息に、それから鼾に変わりだした頃さ。――ん?
なに? 猫? 猫なんか知らねぇよ。大方、自分のメシでも捕りにどっか行ってたんだろ。猫って奴は夜に動くからな。昼間は寝てばっかいるくせに。それにどうせ、李生の小宅になんか鼠もこねぇだろう。全く。これから話が面白くなるって時に話の腰を折りやがって。まぁいい。話続けんぞ。
李生が寝だした時にだな、また聞えて来たんだよ。いつものあの声が。決して大きな声ではなくてな、こう、地を這うような低い声でね、低く低く。それでも李生はこう、閉じた瞼をかっと見開いて飛び起きた。
「たれだ、毎夜毎夜俺の眠りを妨げる奴は」とでも一声吼えて、今日こそは犯人を捕まえる心算だったんだろうね。こう、ガバッと布団を跳ね除け寝床を飛び出したんだ。犯人を捜すったってどうせ陋宅。声を辿れば厭でもそこに辿りつくってね。もっと早くそれをすればよかったんじゃないかって? まぁそりゃそうだ。
しかし李生は馬鹿がつくほどお人よしなんだね。それにこう、一人住まいだと怖いだろ、ほら、なんか、こう……原因がな、人の仕業じゃねぇとわかっちまうと、こう……。いや、なんでもねぇ。今の聞いちゃいねぇだろうな。なに? しっかと聞いた? いや、ほら、アレは俺の話じゃねぇんだ、ほら、あれだ、あれ。あぁ、世間一般の奴らが考えそうなこととかいうやつだ。
とにかく。案の定早速声の出所ははっきりしやがった。そこは李生の小宅の、更に小さいぼろっぼろの勝手ってきたもんだ。李生は我が耳を疑ったね。なんせその勝手、人一人どころか猫鼠一匹隠れるような隙間もありしねぇ。でもどっからどうがんばってもその声はそこから聞えて来やがる。一瞬唖然としたけれども、今日こそは捕まえてやると意気込んでいた李生さ。一度決めたら必ず実行する。こんな性格の男だからはっと思い返して、まずは壁に蝦蟇のように引っ付いた。外から誰かが悪戯してやがるんじゃねえかと疑ったわけさ。まぁ人の仕業だったらと願う気持ちが先行したのもあるんだろうね。幸い外を覗く穴には事欠かねぇ。壁も薄いから音も聞き放題さ。されども覗く穴覗く穴全てハズレで人どころか猫の仔一匹いやしねぇ。
そうすると疑うべくは自然と勝手の中になってくる。けれどそこに人が隠れるような場所はねぇ。意気込んでいた李生も終に奇妙に思い出して来てね。いや、最初から奇怪には思ってたのさ。奮起したのも萎えちまってきて、これは鬼、まぁバケモンの仕業なんじゃねぇかという思いを更に強めたわけさ。
それでも李生はやっぱり一度決めたらこう、やる男でね。一念発起、暗闇に目が慣れたのも手伝って再び恐る恐るながらも元凶探しを始めた。するとどうも塩の入った壷が怪しいってことになった。その壷は李生が物心つく前からヤツの家にある、まぁ住処にふさわしいぼろっちい小さい唯の壷さ。
恐る恐る手にとって耳に近づけてみると、あの、あぁとも、ううともつかぬ、最早人語を為してさえいないような翁の声が聞えやがる。これだ。李生は膝を打った。気づいたら急に腹が立ってきた。こんなわけのわからぬ小さな壷如きに今まで自分が悩まされてきたと思えば当然のことさ。さっきまでバケモンの仕業じゃねぇかと怯えてた男はこう、頭に血が上った状態で、手にしたその壷を高々と持ち上げた。持ち上げてなにするか。んなこたぁたったひとつに決まってる。こう、勢いよく床に叩きつけようとしやがったんだ!
バケモンだとしてもこんな小さな壷なら怖くねえと思ったのか、それともバケモンだと怯えてた自分を忘れちまったのかは俺の知ったこっちゃないがね。
だがな、李生はそれをこう、ぐわっと振り上げ、その勢いのまま床にそれを力いっぱい叩きつけようと振り下ろす。その途中でふと止めたんだ。中に入ってた塩が高級品だってのもあるし、こんなところにぶちまけたら後からの掃除が大変だとも思ったんだろうが、事実翁の声がこう、ぴたりと止まったのさ。李生は急に、こう、急にこの壷が哀れに思えた。それから何をしたと思う?
なんと、顔の前に壷を持って来て、その壷に話しかけやがったんだよ。「お前はたれだ。なにか俺に訴えたいことでもあるのか」とね。
しかし奇怪なことにさっきまで唸ってた壷は今度はウンともスンとも言わなくなってしまった。李生は暫くその壷と見詰め合ってね、埒があかないと嘆息して、とりあえず壷を元の場所に戻したのさ。とりあえず明るくなってからこれをどうにかしようという算段で、すごすご寝床に戻ったんだ。
その晩はもう声が聞えなくてね、李生は久々にゆっくり寝ることが出来た。するとこう、なにか不思議な夢をみたのさ。
薄ぼんやりとした白い空間の中に、翁が一人、ぽつねんと立ってやがる。そいつがな、李生になにか話しかけてきているわけよ。曰く、自分は鄭泉と言う名で、陳郡の人であり孫権に仕えていた、ってね。孫権って言えばあれだ、三国志で有名な魏呉蜀の呉の王様だ。なに? お前さん三国志知らねぇのか。分かるること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かるる……って始まるあれさ。まぁ演義の始まりの一文だがね。――聞いたこともない? あー、これだから散茶はあれだね。太夫とかなら知ってるだろうに。――ん? いやなに、こっちの話さ。さ、話続けるぞ。
そいつの話はまだ続いてね。自分はそんなに高い能力はなかったが、よき主にめぐり合うことが出来たおかげで心底幸せな生涯を送ることができた。自分も主のために必死に働いて、とても幸せな人生であったと。ただ、一つだけ心残りがあるらしい。曰く、そいつは生前酒が好きで好きでしょうがなかったらしい。その酒好きが生じてね、死ぬ前に自分の倅にこう遺言を残したんだそうだ。私が死んだら、陶器を焼く窯の傍に埋葬してくれ。ってね。なんでかって? 数百年も経てば、自分の体は土になる。その土で酒壷に作られるのが心からの願いだったんだってよ。全く、お偉い人は考えることが違うね。壮大なこって。嗤えすぎて涙が出てくりゃあ。
ところがどっこい、倅がその遺言に従ったかは知らねぇよ。んなこたぁ誰も知らんだろ。けれどその酒壷に生まれ変わりたかった男が念願叶って壷になれたと思ったら、何の因果かこれが薄汚い小さい壷で、しかも貧乏人の手に渡って中に酒じゃなく塩を入れられちまった。これほど笑える話もないだろ。そりゃ死んでも死に切れないわな。だから毎晩毎晩うぅだの、あぁだの、悲痛な叫びを上げてたって訳なんだとよ。
鄭泉を名乗る翁はな、こう、化けて出るつもりはなかったらしいな。唸り声を上げていることにも気づかなかった、自分のせいで苦しめて、毎夜毎夜悩ませてしまってすまないと、こう、涙を流してひたすらに李生に謝ってきた。自分の死んだ後まで残り続けた執着のせいでこうなった。許してくれとは口が裂けても言えないが、これを機にもうそのような願いは忘れることにする。そんな感じのことを李生に向かって宣言したんだ。それに対して李生が何か言おうと口を開いたのさ。
そこで李生はふっと目が覚めた。久々にすがすがしい朝だ。変な夢は見たがね。そこで李生は昨晩の夢の中身をふと考え込んだんだそうだ。声の元凶はわかった。しかしあの夢はなんだったのか、ってね。夢の中で翁が言っていたことを繰り返し繰り返し反芻させて考えて、それから李生はなにをしたと思う? なんと、貯めていた僅かばかりの金を持って、一等安い酒と壷を買って、塩を新しく買った壷に移し変えて、あの奇怪な声を上げる壷にその酒を入れてやったんだとよ! つくづくお人よしだね。それだけならまだしも、老猫を膝に乗せて、その壷と向かい合って座ったんだ。そのあとなにをしたと思う? 信じられるか?
なんとな、ちょっぴり酒を入れた杯を壷に捧げた後に、自分でそれを舐めたんだと。酒の味も碌に知らない李生がね、それも毎晩毎晩奇怪な声を上げていた壷に向かって。初めて呑んだ酒が自分を毎夜毎夜苦しめた元凶と向かい合ってなんて、ヤツはなにを考えてるんだろうね。
それからはその壷は奇怪な声を出さなくなって、不思議なことに壷に入れた酒はいつもでも腐らなかったって話さ。
話はこれでお終いだね。――ん? 続き? 続きなんかねぇよ。なに? その壷のおかげで李生は金持ちになったとかそういうのはないのかって? かー。好きだねお前さんもそういう話。残念ながら俺が聞いたのはこれだけさ。
李生のその後なんて知らねぇよ。もともと嘘か真かもわからねぇ話だ。まぁ、酒壷のお陰で大金持ちになったとか続かねぇところをみると、貯めていた僅かばかりの金使い切ってその後も冴えねぇ人生送っていたんじゃねぇか? もともと趣味もこだわりも持ってねぇ、勤勉を絵に描いたような男だったんだからよ。どうせ金を使うなら俺みたいにうまく使えばいいのに。ホントに馬鹿な男だよ。
それにな、なんでも、李生の夢に出てきた鄭泉って男は事実いた男だよ。ちゃんと史書にも記録されてやがる。ほんのちょっぴりだがね。特別高い地位にいたわけでもないが、それでもお前、王様、後に皇帝を名乗る人に仕えてんだ。鄭泉自体は本人も言ってるようにすごい能力は持ち合わせていなかったみてぇだけど、何でも媚へつらうのが嫌いな剛毅な性格でね、自分の身分も考えずに皇帝に忠告して死刑にされそうになったこともあったらしい。思い込んだら止まらない一本気な男だね。
そんな性格でまわりから一目置かれていた奴さ。そんな男でね。その酒好きっていうのもこれまたすごい、生きてる時も三百石の舟を手に入れて、そこに酒を満たして減ったらどんどん注ぎ足して酒がなくなることがなかったら一生の満足であるとかなんとか嘆いていたって男だ。常人じゃ考え付かない話だね。すごい執着だ。ここまで思い詰めたらある意味立派だね。頭の中が。やっぱりお偉いさんは考えが違うよ。大体、自分が酒壷になっちまったら自分は酒、呑めなくなるじゃねぇか。
それでも酒壷になって死んでからも酒に溺れていたいと思って、自分の思い通りにならなかったら無意識に化けて出てくるようなお偉いさんと、それに振り回された挙句自分の僅かばかりの貯蓄を使ってその執着に答えてやった馬鹿がつくほどのお人よしの話さ。両方馬鹿だね。馬鹿ばかりの話さ。俺には到底理解できねぇよ。
なに? お前さんは理解出来そうだと? ないない。俺が出来ない話を遊女のお前が理解できるなんて、そんな話があるわけないじゃないか。なに? 一途? 一途なんて言葉、お前さんの職業には一等似合わない言葉じゃねぇか。まぁ粋に生きるのが遊女ってもんよ。俺は粋な客だろ? おい、笑わねぇでちゃんと答えろよ、畜生。
誤魔化しやがって。全く。お偉いさんはお頭がどうかしてるんじゃないかね。それに付き合った李生もそうだ。それが理解できそうだなんて、お前さんもちっとばっかしどうかしてるんじゃないか? さっきもいきなり猫の話なんか持ち出しやがって。まぁ俺の気を引こうとして言ったんだろ。そんな妙なところで愛嬌だしやがって。全く。
あー、酒の話をしたら俺もやっぱり酒が飲みたくなったな。ちょっと持ってきてくれや。なに、溺れるほど呑んだりはしねぇよ。何事もほどほどが肝心。ってね。