ヒノキの棒
シュタルテがサルト流剣術道場に入門した日の翌朝。道場の隣にある道場主一家の家に居候しているオーレスは、道場の入り口へやってきた。今日は一日出かける予定なのだが、その前に少し様子を見ておこうと思ったのだった。
シュタルテは、すでに来ていた。それからレギスや、他の若い連中が十人ほど集まっている。
「良いか、お前はおれ達よりも強いが、何といっても新入りなんだからな」
レギスが威張った調子で、シュタルテに何か言っている。
「そこのところ、ちゃんとわきまえろよ」
「分かってまーす」
シュタルテが答えた。
「良し。ではまず、道場の掃除だ」
レギスの号令で、若者達は動きだした。
(レギス君は、若い連中のリーダー格ですからね)
オーレスは思った。
威勢の良いレギスをなだめる役のヘイズンは、来ていなかった。ヘイズンは割と足繁く通ってくる方だが、やってくる時間帯がまちまちなのだった。仕事の都合だという。
あの調子で、ヘイズンもいなくて大丈夫だろうか。ふと心配になったが、シュタルテなら平気だろうと思い直して、オーレスは道場を後にした。
「良いこと?」
夕方、オーレスが道場へ戻ってくると、シュタルテがへたり込んでいるレギス達の前に立って、何か言っていた。年かさの者達は、それを離れた所から、苦笑しつつ眺めている。
「わたしは新入りだけど、何といってもあなた達より強いんだからね。そこのところ、ちゃんとわきまえなさいよ」
「はい!」
若者達が、声を揃えて答えた。
(何があった――!?)
オーレスが唖然として立ち尽くしていると、二十五歳くらいと見える、柔和そうな顔立ちの女がそばへやってきた。道場主カイムの娘にして三人の師範のひとり、ソーラである。
「オーレス先生、おかえりなさい。あのシュタルテ、なかなか見込みがありそうですわね」
「はあ、そうですか……」
オーレスが、曖昧な返事を返す。
そこへ、オーレスに気付いたシュタルテが駆け寄ってきた。
「先生! そろそろ、正体を明かす気になりました?」
「……」
シュタルテは強かった。道場主カイムと三人の師範には及ばないが、門弟の中で彼女より強いのはガゼフだけ、あとは十回勝負すれば二、三回勝てるかという者が三人ほどいるだけだった。
それでもシュタルテは、誰よりも多くの時間を道場で過ごした。オーレスがいれば彼に教えを乞い、もしいなければ、自分より格上の者達――カイム、バスコフ、ソーラ、ガゼフに可能な限り勝負を挑み、技を盗もうと努めた。
ある時、オーレスは不思議に思っていたことをシュタルテに訊いてみた。
「君は随分、お金に余裕があるようですね。毎日道場に通うばかりで、他のことをしているようには見えませんが」
シュタルテは「うっふっふ」と笑ってから答えた。
「こう見えても、ドルストンでは大分稼いでましたからね」
「稼いだ? 何をして?」
「ふふん、女の子には秘密がいっぱいなんですよ――あ、そうだ。先生が正体を明かしてくれたら、教えてあげます」
「何度も言いますが、ぼくはオレオンじゃありませんよ」
「あ、そう。そういうことなら、こっちも秘密です」
「はあ、まあ、別に良いですけどね」
「あ、水商売じゃないですからね。その辺りは、ご心配なく」
「はあ」
シュタルテがデンズの町へやってきてから一月ほど経った、ある朝のことである。
「あら、もう駄目ね」
「どうしたの?」
かまどの前で呟いたジーニャに、シュタルテが声をかけた。ジーニャが振り返る。
「あらシュタルテ、今朝も早いわね」
「うん。わたし、性格はいいかげんだけど、朝は早いんだ」
「そう。偉いわ」
ジーニャはそう言って褒めたが、そう言う彼女は、いつもシュタルテより早く起き出して、朝食を作っているのだった。
(なんでこの人が、わたしのお嫁さんじゃないんだろう……)
シュタルテは、なんだか無性に悔しくなった。
ジーニャの好きな人とは誰なのか、何度か訊いてみたのだが、いつもはぐらかされてしまうのだった。もっとも、本気で結婚したいと思っているわけでもないが。
「で、どうかしたの?」
「ああ、そうそう、これなんだけど……」
と言いながら、ジーニャはシュタルテに、手のひらの上の小石を示した。
「これって、着火石?」
シュタルテが訊いた。着火石とは、火を起こす魔法がかけられた石のことである。
「そうなんだけど、もう使えなくなっちゃった。寿命ね。新しいの買わなくちゃ」
「ふうん……そういえば誰かが、東の通りで安くて質の良い着火石を売ってたって、話してたなあ」
「それ本当? 普通の着火石と違うの?」
ジーニャが訊いた。シュタルテの予想以上に、興味を持ったようだった。
「うん。なんか、旅の職人みたいな人が、道の隅で売ってたって。道場の人が言ってた」
「そう。ちょっと見に行ってみようかしら」
「それならわたしも付き合うわ。今日は道場、休みだし……でも今は、かまどに火を入れないとね。わたし、火の呪文くらいなら使えるけど」
「大丈夫よ、あたしも使えるから。でも、体力使うからね。やっぱり、着火石あった方が便利ねえ」
ジーニャはそう言ってから、薪に手をかざして、呪文を唱えだした。
朝食が済んでから、シュタルテとジーニャ、そしてベイルは、連れ立って家を出た。シュタルテとジーニャの二人が出かけると聞いて、ベイルが一緒に行くと言い出したのだった。
「気になってたんだけど」
と、シュタルテが隣を歩く背の高い男に話しかける。
「あなた、何か仕事してるの? なんか、いっつもその辺をふらふら歩いてるような」
「傭兵のようなことをしている」
ベイルが答えた。
「傭兵?」
シュタルテは、怪訝な顔をする。戦争など、この国ではもう三百年近く起こっていない。傭兵といっても、何をするのだろうか。
「あるいは、用心棒と言った方が良いか」とベイル。「隊商の護衛とか、そういう依頼を請けているんだ。一度の仕事でまとまった金が入るから、普段は好きに過ごしている」
「ふうん」
「ベイルは、その空いた時間を使って――」
と、ジーニャが口を挿む。
「町の見回りをしてくれてるのよ。おかげで、怖い事件が随分減ったわ」
「そうなんだ。それでいつも、棒を持って歩いてるのね」
ベイルが手にしている棒を見ながら、シュタルテは言った。ヒノキだろうか。叩かれたら痛そうだ、と思った。
「そっか、それであの時、チンピラどもが逃げ出したのね」
シュタルテが言うと、ベイルは少し怪訝そうな顔をした。
「あの時?」
「ほら、あの食堂で、あなたとわたしが初めて会った時よ」
「ああ」
「でも、気を付けてね。どこかで恨みを買って、刺されちゃったりしないでね」
「心配してくれるのか」
「ええ。あなた、良い人だから」
「では、結婚しよう」
「なんでそうなるのよ!」
と言って、シュタルテはベイルを蹴りつけた。
どこを気に入られたものか、近頃ベイルが、盛んに「結婚しよう」と言ってくる。しかし、いつもの淡々とした調子で言うので、本気なのか冗談か、シュタルテは測り兼ねていた。
「ところでベイルは――」
と、ジーニャが口を開いた。
「着火石を売っているっていう職人さん、知ってる?」
「ああ、そうよ」とシュタルテ。「いつも町を見回ってるんなら、見かけたことあるんじゃないの?」
「先日、少し話をした」
ベイルが答える。
「並の男ではなかったな。だが、あの人は職人では――」
ベイルがそう言いかけた時だった。
「返して、わたしのカバン――!」
という、中年の婦人とおぼしき叫び声が聞こえてきた。
シュタルテ達が振り返ると、小さなカバンを抱えた男が駆けてくるのが目に入った。
(引ったくり――!)
シュタルテはとっさに、左の腰の長剣の柄に手をかけた。それを、ベイルが左手で制する。
「剣など抜くもんじゃない」
ベイルはそう言うと、男の進路を阻むようにしながら、無造作とも見える動きで右手に持った棒を相手の腹に当てた。そして、男が地面に沈むより早く、カバンを取り上げた。
「運が悪いこと。この人に出くわすなんて」
ジーニャが呟いた。
ベイル
二十六歳男性。デンズの町に住みついた風来坊。筋肉質の体躯に整った顔立ち、自信家でマイペース。ヒノキの棒を片手に町をうろついている、一見すると危険な人だが、彼のおかげで町の治安は向上しているらしい。