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「彼女がいうには、恋人が無実の罪を着せられ、ともに逃げたのだが途中で離れ離れになってしまった。その後追っ手に捕まりこの街に連れてこられたそうだ。彼女は傷心のあまり、この街に来てしばらくは誰とも口をきこうとしなかった……」
八百年前の話……それをまるで昨日のことのように話す『管理人』は、頭のいかれた空想好きか、あるいはそれが事実ならば彼は人という存在ではないだろう。しかし瑞希は不思議とその話を疑う気持ちにも、彼を怖れる気持ちにもならなかった。
御伽噺を聞くように、自然に彼の話を受け入れていた。
「彼女は預けられた屋敷で庭を日がな一日眺めて過ごしていた。屋敷の庭には見事な桜の木があって、僕はその木の下で彼女に出会ったんだ」
管理人は、桜の幹に手を掛けて雨粒に目を細めながら覆いかぶさる枝を一本一本眺めている。瑞希はその彼の向こう側に、やはり木の枝を見上げている着物姿の少女が見えた気がした。
「僕にだけは心を赦していろいろな話を打ち明けてくれた。
ちょうど見事に満開を迎えた桜の木は、彼女の心を余計に哀しくさせると言った。恋人と手を取り合って逃げた山には多くの桜の木があったが、そのとき季節は冬のはじめ。ともに逃げ延びて春にはともに花を愛でようと誓い合ったのに。そう言って幹にすがって泣いていた。自ら命を絶つことも考えたが、皮肉にも彼女のお腹には恋人の子どもが宿っていたんだ」
自分と同じくらいの年にしてはあまりにも苛酷なその少女の運命に、瑞希は絶句した。相変わらず桜の枝を見上げたままで、管理人は静かに続けた。
「しかし思いのたけを打ち明けるうちに、彼女は自分の運命を呪う事を止めて、強く生きることを決意していった。恋人と引き裂かれた運命を嘆くよりも、恋人と過ごした日々を誇りにして生きようと思うと言った。敵ばかりのこの街でも決して屈服はしないと、誰ともなしに誓って呟いた」
管理人はそう言ってゆっくり瑞希を振り返った。雨で濡れそぼった短い髪が束になって額に張り付いている。濡れた白い服は普通なら肌の色を透かせて褪せて見えるはずだが、何故か余計に白く不思議な光沢を放っていた。
瑞希は、彼のことを公園の管理人と思ったのは間違いだったと、そのとき気付いた。
彼は人ではない不思議な存在……おそらく『桜の木の精』なのだ。悠久のときを生きている大樹の精霊。
『桜の精』の瞳は雨に濡れたせいもあるのか、不思議に耀いていた。その眼を瑞希に向けたまま、続ける。
「舞の名手だった彼女は、大勢の敵を前にして、得意の舞を堂々と披露してみせた。しかも恋人を想う謳を添えて……」
どこかで聞いた話だった。
郷土史に明るかった亡き祖母が、幼い頃子守唄のように瑞希に聴かせてくれた話を思い出す。源義経の妾、静御前の話だ。
吉野の山奥で義経と別れた静御前は源頼朝の追手に捕らえられ、その後母とともに鎌倉に送られる。ときは三月、現代の四月。静は頼朝から義経の行方を問われても答えず、沈黙を守り通す。
聞こえの高い白拍子であった静に、頼朝は八幡宮の大祭で舞を披露する様にと命ずる。静は大勢の『敵』の前で堂々と舞いながら、義経を想う気持ちを謳い上げる。
そのとき静の舞を観て感銘を受けた武将の何とかというのが瑞希の祖先だと、祖母は最後に必ず付け加える。瑞希にはそれが凄いことなのか分からなかったが、祖母がそれを自慢にしているということは良く分かった。
今でも鎌倉まつりで行われる『静の舞』。当時祖母はその保存会の活動もしていて、幼い頃は連れられて見学したりもしたものだ。幼い瑞希には非常に退屈に思えたけど。
そんな有名な歴史の一節なら、それらしく創り上げて話すこともできる。
しかし瑞希はそれが彼の作り話だとは思えなかった。何故なら、さっき気のせいだと思った着物姿の少女、『桜の精』の向こう側で大樹を見上げている少女の姿が今ははっきりと見えていたからだ。
瑞希はその彼女の姿から目を離さずに、『桜の精』に問い掛けた。
「彼女はその後どうなったの?」
祖母の話では、その後静は義経の子を産んだが、男子だったために取り上げられ、由比ガ浜に沈められてしまった。そして母とともに故郷の京都に帰されたのだというが。瑞希にはその話がとても怖かった覚えがある。
「僕はそこまでしか知らない。もうこの街を離れなくてはならない時がとっくに過ぎてしまっていたから。彼女は僕に願いを託した。これから僕が向かう北の地に、おそらく恋人はいるであろう。その恋人に会えたら彼女からの伝言を届けてほしいと」
「その伝言って?」
「逢いたいと願って泣くばかりでなく、あなたと過ごした時を誇りにして生きていこうと思うというような内容だったよ」
愛する人から引き離されその子どもまで取り上げられて、それでもなお生き抜こうとした彼女の強さが、悲しみで全てが厭になりかけていた瑞希に少し力を与えてくれた気がした。
「それで、会えたの? その恋人に」
瑞希の問いに『桜の精』は軽く頷いた。
「分かったの? どうやって?」
その問いには答えず、彼は謎めいた笑みを浮かべているだけだった。
いつの間にか雨が上がり、空から薄日が差してきた。
ふと気付くと、『桜の精』の向こうにいた着物姿の少女の姿は見えなくなっていた。
空が晴れてくるにつれ、彼方に広がる海も徐々に色づいてやがて金色の光を反射してキラキラと輝きだした。雲の流れは早く、空と海の蒼は見る見る間に拡がっていった。
瑞希は質問の内容を変えた。
「この桜の木の周りには彼女が身を寄せたお屋敷があったの? とてもそんな場所には見えないけど」
「屋敷にあった桜の木は今はもうないよ。彼女のいた時代の幾世代かのあとに屋敷の誰かがその枝を一節折ってこの山桜に接木したようだ。そしてこの場所で息づいた。
彼女と出会ってから、僕は特にこの桜が気になるようになった。接木されたあとも変わらずに花を咲かせ続けていたけど、それからさらに何百年も経ているから、今年は少し弱って来ているようだった。だからきちんと花を付けるか心配で見守っていたんだよ。
でももう大丈夫。今年も見事な花を咲かせてくれるだろう。僕の役目は済んだ」
「あなたはこの桜の木の精じゃないの?」
「僕は花に春を告げる東風。本当なら人に姿を見せることなど滅多にない。人と触れ合ったのは八百年前のあのときに出会った少女が初めてだった。
今年、あの彼女と同じようにこの桜の下で思い悩んでいる少女を見かけた。弱ったこの木のように思えて黙っていられなかった」
「……そう、ありがとう」
不器用にしか言えないが、瑞希は彼が気にかけてくれたことに感謝した。
まだ何も解決はしてはいないけれど、もう悲しみに暮れているばかりではいけないと思い始めていた。
「これから僕は北に向かう。君の決意をその治兄ちゃんに伝えていいかな?」
「え? だって、治兄ちゃんはもう……」
東風はゆっくりと頭を横に振った。
「ちゃんと伝える。あの彼女の恋人にも伝えたと言ったでしょ?」
そう、彼は人ではない。治貴の魂を探し出して伝えることなんて、簡単なのかもしれない。東風だという彼と話していること自体、すでに不思議なことだ。
瑞希は『東風』の言葉を信じて治貴への伝言を託すことにした。
「誰も通ったことのない道を行くのは大変なことだよ。それでも彼に宣言したのなら、その決意は必ず実現させるんだよ。どんなことがあっても、必ず」
「分かった。必ず!……ねえ、また来年会うことができるかな?」
「それはどうかな? 僕は滅多に人前に現れないと言ったでしょ。でも約束したことは決して破れない性格なんだ」
「なら、約束して。来年もまた会うことを」
「わかった。でも来年は今よりも少し遅れて、北の桜の下でね」
瑞希は大きく頷いてから、ふと何かを思いついて笑い出した。
「やっぱりあなた、管理人さんだよ。日本全国の春を管理する人! 永遠の管理人さん!」
瑞希の言葉に白衣の管理人が噴き出した。
同時に彼の周りに小さなつむじ風が起きる。つむじ風に巻かれながら、彼は手にした煙草の箱を瑞希に見せて言った。
「ここは禁煙だからね!」
そのひとことを残して、彼はつむじ風に溶けるように消えてしまった。
先ほど見上げた桜の蕾がもう半分ほど開いている。
丘の上から見下ろす由比ガ浜は、さざなみに太陽の光を受けて銀色に輝いていた。
いつの間にか空は冴え渡った青一色になっていて、遠く三浦半島の先端までもが見渡せた。
(おわり)