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「あたし、これでも『お嬢様』なんだ」
突然の瑞希の言葉に管理人は「はあ」という呆れた顔をした。
「別に自慢したいわけじゃないよ。旧華族だとかいって、親戚も皆自分の一族の名前に埃を持っている化石のような家でね。だからだいたい行く学校も決まってるの。あたしはいま、いわゆる『お嬢様学校』って言われている聖フェリシア学園の二年でね」
そう言われて瑞希の格好をしげしげと眺めた管理人は「ああ」と納得したような声を上げた。
確かによくよく見れば厳格な学校にありがちな古風な制服だ。襟を開いて中につけているピンクゴールドの細いネックレスを覗かせ、スカートをウエストで巻き上げて短くしているので、一見そうとは分からない。しかし普段から派手な格好をしているわけではないのが、中途半端な着崩し方から分かった。
そんな『お嬢様学校』の学生がこんな時間にこんな場所で煙草をふかしているなどと知れたら、退学どころか学校の名に傷が付くと大騒ぎだろう。
「学校には具合が悪いっていって休んで、家族には行ってきますと学校に行く振りをして、家の裏からこの公園に来てちょっと不良気取ってみるの。家にも学校にも逆らえないからささやかな反抗!」
先ほどとはうってかわって愉しげに笑うと、瑞希は無意識に煙草の箱から一本メンソールスリムを取り出す。
すかさず管理人はそれを取り上げた。はっとして瑞希は頭を掻いて舌を出した。
「何でそんなことをする必要があるの?」
管理人の言葉に「そこよ!そこ!」と瑞希は食いついてくる。
しおらしく涙を見せていた同じ少女には思えない。いったいこの子は何を考えているのかといった顔で管理人は溜め息を小さく吐いた。
「もうすぐ三年生でしょ? うちの学校の生徒は皆、三流大学なんて考えないの。O女子とかS学院とか志望校は皆トップクラスの女子大でね。いよいよ三年生だから誰もが必死よ。でも何故そんな一流の大学を目指すと思う? お金は有り余っている人たちだもの。それなりに見合う相手を見つけて結婚するため。今時、学歴は花嫁修業の一環だって、平気で言ってるんだから!」
瑞希は興奮して一気にまくし立てた。
「そういう進路の選び方に不満があると?」
「当然!結婚相手探すために勉強するって、変でしょ?」
「まあ、それも進路といえるんじゃないの?」
「勉強したいことがあるわけでもないのに、名前だけで大学に行くことが?ばっかみたい!」
瑞希が興奮しているので、管理人は少し引きつった笑いを浮かべてそれ以上反論せずに聞いていた。
そんな彼の様子に気付いて瑞希は乗り出し気味になっていた身体を引いて俯き加減になった。
上目遣いで管理人を見る。
「ええと、そんなことが言いたいんじゃないの。ごめんなさい」
そんな瑞希に管理人は穏やかな笑みを返して言った。
「何だか、お互いに謝ってばかりだね」
瑞希もつられて笑い出した。
「ほんとだ。……こんな話どうでもよかったんだ。本当は」
「うん。そうだね。君の辛さはそんなことじゃないよね」
さっと顔を上げて管理人を見つめた瑞希の目が潤んだ。
「そうだよ。あたしね……。あたし、高校卒業したら、職人になりたいんだ。岩手のね、南部鉄器の職人」
管理人は瑞希の口から出た意外な職業名に驚いた顔をした。
「南部鉄器の職人……って体力のいる仕事じゃないの? 女の子に出来る仕事なの?」
「多分、ほとんどいないと思う。でもやってみたい。ううん、やらなくちゃいけない!」
「やらなくちゃいけない?」
「うん……」
瑞希の表情が途端に曇った。
「……さっきも言ったように、うちの家族や親戚は一族を誇りに思っているから、ひどく体面を気にするの。何でも一流でなくちゃいけない。子どもたちもそう期待されていて、皆一流の大学を出るのが当たり前。
でも治兄ちゃんだけは別だった。治兄ちゃんも一流といわれる大学に行っていたけど、南部鉄器に魅せられて、卒業後すぐに岩手に移って南部鉄器の工房に弟子入りしたの。
治兄ちゃんの家族はもちろん猛反対。勘当だといって、それから兄ちゃんと一切連絡を取らなくなった」
「君はその『治兄ちゃん』という人が好きなんだね」
ストレートに問い掛けられて、瑞希は頬を赤らめて視線を逸らす。そのまま他所を向いて黙っていた瑞希は、風に煽られた小さな雨粒が顔を濡らしたとき、ゆっくりと口を開いた。
「……そんなんじゃない。治兄ちゃんの生き方はあたしの憧れなの。
あの家に飲み込まれないで、自分の好きな道を選んだんだもの。昔から意志が強くて、いろいろな夢を持っていて、あたしは治兄ちゃんのようになりたいって思ってた……」
瑞希は、従兄の治貴の姿を思い起こしていた。
大学時代に東北を旅行したときに岩手の南部鉄器に魅せられ、四年になっても就職活動をせずに職人になる道を考えていた治貴を、閉鎖的な親族たちは冷ややかな目で見ていた。
瑞希の両親も治貴を蔑むような発言を繰り返していたことが瑞希には辛かった。親の敷いた道から逸れずにいい学校、聞こえのいい職業を目指す従兄弟の中でも、異質の治貴は、やはり異質な性格をもつ瑞希には憧れだったから。
治貴のことを悪くいう親も親戚も、瑞希には敵だった。
それでも治貴は己の意志を通して岩手に行った。
治貴が工房に弟子入りして一年ほど経ったころ、密かに瑞希を招いてくれたことがあった。
両親には友人の親の実家に招いてもらったと言ってひとり出掛けたのだが、その先で瑞希の人生を変える出会いが待っていた。
さすがに治貴のいる小さな工房は見学できなかったが、その代わりに治貴は観光客向けに公開している工房に連れていってくれた。
そのときの職人の真剣な眼差し、神業とも思える技術を見た瑞希は治貴と同様にその伝統工芸に魅せられていたのだ。
瑞希を泊めてくれた治貴の師匠の一家も気さくで優しく、いつか瑞希もここで職人を目指してみたいと思うようになった。
高校までは両親の薦めるところに行こう。しかし、卒業したら治貴と同じ道を行くのだと、そのとき心に決めたのだ。
「治兄ちゃんの作った風鈴は、透き通るようないい音がするんだよ。その音を聴くたびに治兄ちゃんが心を込めて鉄を磨いている姿が思い浮かぶの」
「幸せなことじゃない? 身近にお手本がいるんだ。はじめはその治兄ちゃんの生き方を真似したっていい。そのうち自分の生き方にしていけばいいんじゃないかな?」
白衣の管理人が雨粒に濡れた顔をほころばせた。しかし瑞希はひどく悲しげな瞳を管理人に向けた。雨粒だろうか、瑞希の目から雫がいくつか滴り落ちた。
「無理だよ。治兄ちゃんはもういない。
去年のあの日、海沿いの土産物屋に納品に行ったまま行方が分からなくなっちゃったって。あの日、大きな地震が起きて、あっという間に津波が治兄ちゃんのいた街を飲み込んで…………」
悲しげな瞳を向けたまま瑞希は微笑んで見せた。
「……君の辛さはそれだったんだね」
管理人に言われて瑞希はゆっくりと頷いた。
「だから自分が彼の跡を継ぐんだと……」
さっきよりも深く、瑞希は頷く。
「でも今は悲しみのほうが大きくて、君は流されそうになっている。だからすべてを諦めたようにささやかな反抗をしているんだ」
瑞希は頷きながら困惑した顔になった。
「本当に何でも見通せちゃうんだね、管理人さん」
さああと生暖かい風が吹き抜けて、同時に細かい雨粒を運んできた。ざああと大きな音を立てて山が震える。
管理人は瑞希から視線を転じて、寄り添うように立っている大木の枝を見上げた。つられて瑞希も見上げると枝の先にびっしりと硬い蕾が付いているのが分かった。小さな突起は仄かな赤紫に色づいている。そのいくつかが、硬い蕾のほんの小さな隙間から淡い桃色の花びらを覗かせていた。
「これ、桜だったの?」
今まで寄りかかるのに丁度いい木としか見ていなかったので、それが何の木かなんて考えもしなかった。
「ああ、良かった。今年も大丈夫だね」
管理人は安心したように木に語りかけたあと、瑞希の方を向き直った。
「僕はね昔、この木の下で君と同じように深く思い悩んでいた少女に出会ったことがあるよ。年頃もちょうど君と同じくらいだった」
今度は瑞希が管理人の話に聞き入った。
「昔々、恋人と引き裂かれて無理やりこの街に連れて来られた悲しい少女。しばらくは人を恨み、世を恨み、頑なに心を閉ざしていた。この木に寄り添って別れた恋人に想いを馳せることが唯一彼女の心の拠り所だった。そして敵におわれる恋人の無事を必死に願っていた」
自分と同じように将来や進路に悩んでここで時間を潰していた高校生がいたのかと思っていた瑞希は、まるで違う世界のような話に怪訝な顔をした。
「……昔って、いつの時代の話?」
「今から八百年ほど前の話だけどね」
ざあああっとさっきよりも激しい風が吹きぬけ、さっきの小雨が大粒の雨に変わった。
咄嗟に鞄を乗せて頭はかろうじて雨を避けたが、強い風に煽られた雨粒は瑞希の身体を容赦なく濡らしていく。管理人は雨に打たれるままそこに立っていた。そして懐かしむようにふたたび桜の大木を見上げた。