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気だるい空気が辺りに蔓延している。
春うらら、春霞、眼下に霞むは由比ガ浜。
海の色は鈍く、江ノ島の姿も砂漠の蜃気楼のようだ。
春まだ早いこの時期は、時々冬に逆戻りするような陽気もあるが、この日はぐずついた空模様にも関わらず、時折生暖かい風が肌を撫でていく。
海を臨む山肌は、まだ枯れた木がそのほとんどを覆っているが、その奥にある小さな芽がそろそろ顔を出そうとしているに違いない。
そんな季節の変わり目を感じさせた。
空に向かって煙を一気に吐き出す。ふああとひとつ欠伸をして、「ねむっ」と小さく呟いたとき、瑞希の背後からぬうっと首が現れた。
「うわっ!」
あまりのことに飛びのいたが、驚きすぎて立ち上がることが出来ず、そのまま尻をずりずりと引き摺ってなんとかその場から距離を取る。
さきほどまで瑞希の座っていた場所に立っているのは、まだ肌寒いというのに、真っ白な薄手のシャツをざっくりと羽織り、体のラインにぴったりとフィットした白いチノパンを履いた小柄な男だった。
髪が短いので男だと瑞希は瞬時に思ったのだが……。よくよく見れば、少女のように線が細く色白で、優しげな顔をしている。女性に見えなくもない。テレビ番組でよく見かけるニューハーフのようでもある。
兎も角、男というには繊細なその容姿に性別を判断し兼ねて、さらにまだ先ほどの驚きで胸の鼓動が治まらず、瑞希はその人を見つめたまま固まっていた。
それが男だとはっきり分かったのは、呼びかける声を聞いてからだ。
「よくないね。こんなところで煙草を吸っちゃ」
穏やかな口調でも、低い声で抑揚なく言われるとひどく咎められている気になるものだ。
瑞希はすぐには手に持った煙草を消そうとせずに、反論した。
「別に誰もいない場所で吸ってるんだから、迷惑かからないでしょ」
制服姿でこんな昼間から、いいはずがない。
「ここで吸われちゃ困るんだよ」
『まずい。この公園の管理人だったのか? 真っ白な服なんて着ているから分からないはずだ。普通はカーキ色かモスグリーンの作業服着ているものじゃないかな? 管理人なら、勝手に入り込んでこんなところで煙草を吸っている女子高生がいれば、注意するに決まっている』
今まではここで人に見つかったことなどなかった。高台にあって、自然の山をそのまま生かした公園。鬱蒼とした急斜面に自然の景観を損なわないように細い木の遊歩道が設けられているだけ。瑞希が座っていた木の周囲だけが登山道の休憩所のように少し広い空間になっているのだ。
瑞希が制服姿にもかかわらずなぜそんな場所にいるかというと、彼女の家の裏山を抜けたところがちょうどその小さな広場なのだ。だからそこは彼女だけのプライベートな空間だった。そのときまでは。
瑞希はすぐには自分の非を認められずに、煙草を持ったまま突っ立って、しばしの間『彼』を睨みつけていた。
白服の管理人はさらに顔を顰めて繰り返した。
「困るんだよ。木に燃え移ったら大変なことになる」
(なんだ、そこ?)
彼が学校をサボって煙草を吸っている瑞希を咎めたのではなく、山火事になることを心配して言ったのだと分かった途端、瑞希のなかで張り詰めていたものが一気に緩んだ。意地になって煙草を消そうとしなかった瑞希が「すみません」と素直に口にすると、煙草を地面に押し付けてもみ消し、燃え殻をティッシュに包んでポケットに仕舞う。
「気をつけてね」
そう言って、彼は先ほどまで瑞希がもたれていた大きな木の幹を撫でた。
制服で煙草を吸っている女子高生のことなど眼中になく、ただ木のことを心配しているその彼はどこか風変わりで、逆に警戒心が湧いてくる。
その後は彼は何も語らずに、ひたすら木の幹を撫で続けていた。
瑞希は彼の傍に置いたままになっている鞄にそうっと手を伸ばし、さっと引き寄せた。
同時に彼がこちらを振り向いたので、びくっとして鞄を両手で抱え込み、引きつった笑いを返す。そして、聞かれてもいないのに言い訳を始めた。
「あの……もうすぐ終業式なので、今日、学校に行っても特にやることないし、打ち上げとかいって、球技大会があるらしくて、そんなの別に出たくもないし……。先生も今日は特にチェックしてないっていうか。自分の責任で休む判断できるっていうか……」
目を泳がせたり、意味不明の笑いを浮かべたり、ひとりで照れたりしながら、瑞希が変な言い訳を繰り返すのを、白服の管理人は無表情で見つめていた。
ひととおり言い訳をぶちまけるのに疲れて瑞希が黙り込むと、管理人はようやく口を開いた。
「何か思い悩むことがあるんだね」
管理人の言葉に瑞希は背筋が冷たくなるのを感じた。
学校をサボって誰にも見つからない場所で気儘に煙草をふかしていた不良娘に、何の悩みがあるのか。普通はそう思うのに、この管理人は何故そんなことが分かるのだろうか。
瑞希が背中に悪寒を感じたのは、それが誰にも晒すことなくひた隠しにしてきた本当の感情だったからだ。
しかし、そんな裏事情を今会ったばかりの他人に知られたくはない。
自分の心を盗み見ていたかのような男の態度は腹立たしかった。
「関係ないでしょ! もう来ないから安心して!」
突然怒り出した瑞希に呆れているのか、立ち去る瑞希の後ろから男は何も声を掛けてこなかった。
何故か瑞希にはそれが寂しかった。
* * * * * *
―― もう来ない…… ――
あれだけ啖呵を切っておいて、次の日も瑞希は公園にいた。
そして、注意されたにも関わらずまた例の大木の根元で煙草をふかしていた。
どんより煙るような空の下に鈍色の海が広がっている。雨が降り出す前に……。
自分では意識しているのかどうか、瑞希はどうやらあの『管理人』を呼び出そうとしているのだ。
瑞希の思惑どおり、しばらくそうしていると、昨日と同じように彼女の頭上から白服の管理人が顔を覗かせた。
「困るって、昨日言ったよね?」
低いが柔らかい口調は、少し呆れながらも、ふたたび現れた瑞希を歓迎しているようだ。
「ごめんなさい」
最初から吸うことが目的でなかった煙草は、その一言ですぐさま片付ける。
「昨日はごめんね……」
意外なことに、謝ってきたのは管理人のほうだった。
「え? 何?」
「君の心を覗いたこと……」
普通ならぞっとする科白だが、瑞希はまるでその言葉を待っていたかのように自然に受け止めた。
「やっぱり、あたしの心の中が分かるの?」
「詳しく分かるわけではないよ。ただすごく悲しそうな、とか、愉しそうな、とか、そういうオーラを感じることができるんだよ。君のオーラはひどく思い悩んで、そして苦しんでいる。それが分かった。こんなことを知って、僕を怖がらない?」
「うん。怖くない。それよりも、何故かやっと分かってもらえる人が出来たって……」
瑞希はそういうと、しゃくりあげた。しゃくりあげながら、途切れ途切れに続けた。
「話して……いいかな……きのう、会ったばかりの……、ただの……公園の管理人さんに……なのに……」
白服の管理人は、瑞希が落ち着くのを黙って待っていた。やがて瑞希の嗚咽が治まってくると、穏やかに話しかけた。
「公園の管理人か。まあ、そんなようなものだからそういうことにしておこう。昨日会ったばかりだから、かえって言えるのかもしれないね。君と僕はただこの公園ですれ違った仲でしかないのだから。もし僕でよければ、聞き役になるよ」
色白なのにさらに、上から下まで白い服で揃えているので、あまり健康そうではなく、逞しいというのには程遠い。でも瑞希は、彼に何もかも受け止めてくれるような逞しさを感じた。