剣士とドラゴン
どこかの国の、どこかの山。
そこには一匹のドラゴンが住んでいた。
緑の鱗に包まれた体はこの世のどんな生き物よりも大きく、背中に生えた翼は風よりも速く空を飛ぶことができた。
鋭い牙が並んだ口から吐き出される炎は、鉄の塊さえどろどろに溶かしてしまう。
百年にも及ぶ生の中で、彼の命を脅かすような敵は一度も現れず、たまに戦いを挑まれても鼻息一つで追い払うことができた。
ドラゴンはとてつもなく強力な生き物だったが、自ら他の生き物を殺して回るようなことはしなかった。
何十年か前、彼の住んでいる山のふもとに、人間たちが勝手に村を築いたが、それは興味の対象にはならなかった。
自分よりもはるかに貧弱な生き物が何をしようと、ドラゴンにとってはまったくどうでもいいことだったのだ。
ドラゴンの心を唯一奪うことができるのは、彼の住処である山頂の洞窟に溜めこまれた、金や銀に美しい宝石などの財宝だけだった。
朝は太陽の光を撥ねて煌めく金塊にうっとりと溜息を漏らし、夜になると淡い月光を受けて仄かに輝く宝石に頬ずりをする。
ドラゴンは毎日飽くことなく、自分の財宝を愛でた。
「ああ、わしの宝、わしの命。たとえこの山が崩れようとも、お前たちを離さないぞ」
一方、山のふもとの村ではある話し合いが行われていた。
この村の住人というのは、神に強欲という性質を生まれつき与えられたような人間ばかりで、隣の家の人間が金貨を持っていると聞くと、まず最初に「それをどうやって盗み出そうか」と考えるほどだった。
普段は何も盗まれないように互いにいがみ合っている村人たちだったが、山のドラゴンが素晴らしい財宝をため込んでいるという噂を聞いて、それを奪うために一致団結して作戦を練っていた。
「おいらがドラゴンをやっつけてやるよ。なあに、ネズミを退治するようなものさ」
村で一番の力持ちが言った。
村長は首を横に振った。
「いかんいかん。たちどころに炎で焼かれてしまうぞ」
「ドラゴンがいない間に、僕がひとっ走りして盗んでやる」
村で一番足の速い者が言った。
村長は首を横に振った。
「いかんいかん。ドラゴンはとても耳がよく、空を飛ぶ翼もある。あっという間に追いつかれてしまうぞ」
三日三晩話し合ったが、良い案は一つも出なかった。
みんな、財宝は喉から手が出るほど欲しいものの、危ない橋は渡りたくないというのが本音だった。
何か、楽に財宝を手に入れる方法はないものか………
そんなある日、一人の旅の剣士が村に訪れた。
背は高く体は逞しく、腰に佩いた剣の柄は見るからに使い込まれている。
いつもなら、旅人などその日の内に追い出してしまうか、みんなで襲いかかって持ち物をすべて奪い取る村人だったが、今回ばかりは話が違う。
追い出すどころか温かい寝床を用意し、豪華なごちそうを振る舞って、剣士の機嫌を取った。
「私も旅をして長いが、ここまで歓迎されたのは初めてのことです。何か、お礼ができたらいいのですが」
剣士がそう言うと、村長は待ってましたとばかりに話を切り出した。
「見れば見るほど強そうなお方。世界広しとはいえ、あのドラゴンを退治できるのはあなただけでしょう」
「ドラゴン? ドラゴンがいるのですか?」
「はい。いつからか山の頂上に住みついたドラゴンが、時折村にやってきては家畜は食うわ人は襲うわの大騒ぎ。もう耐えられません」
「それは気の毒に……よろしい、私がそのドラゴンを退治しましょう」
そう胸を張る剣士を見て、村人たちは陰でほくそ笑んでいた。
そもそも、ドラゴンが村を襲ったことなど一度もない。剣士をドラゴンと戦わせるための嘘だ。
もしも、剣士が本当にドラゴンを退治してくれればそれでよし。そうでなくとも、ドラゴンが傷つけばそれだけ財宝を盗むチャンスが生まれる。
たとえ剣士が死んだとしても、村人たちは何も損をしないのだ。
村人たちに騙されているとも知らず、正義に燃える剣士は山を登っていった。
そして山頂にたどり着くと、剣士は息を深く吸い、ドラゴンの住処である洞窟に向かって声を飛ばした。
「出てこい、ドラゴン! 出てきて私の挑戦を受けるがいい。私を恐れぬのであれば……」
ちょうど巣の中で財宝を愛でていたドラゴンは、唯一の楽しみを邪魔され、怒り心頭に発して剣士の前に姿を現した。
「小さい割には大口を叩くやつだな。いいだろう、そんなに死にたいのなら手伝ってやる」
なぜ挑んでくるのかなど考えもしなかった。人間は、そこにドラゴンがいれば逃げるか退治しようとするものであると、ドラゴンは思っていた
彼からしてみれば、目の前の剣士は、これまで彼が返り討ちにしてきた無数の挑戦者に過ぎない。
ただ、今までの相手と違ったのは、剣士が並みならぬ腕の持ち主だったということだ。
ドラゴンの吐く炎をひらりとかわし、爪を避け、剣を振るう。
いつもならとっくに勝負がついているのに、剣士はまだ生きているどころか果敢に攻撃を仕掛けてくるのだ。
しかし、だからといって簡単に倒されるドラゴンではない。
硬い鱗で剣を弾き、尻尾を振りまわして剣士を打ち据えようとする。
剣士とドラゴンの戦いは夜中まで続いたが、とうとう決着はつかなかった。
お互い疲れ果て、剣を振ったり、炎を吐いたりする力も残っていない。
「剣士よ、わしもお前も、もうこれ以上は戦えないだろう。今日のところは引き分けにしないか」
「悔しいが、しかたがない。だが、明日こそはお前を倒してみせるぞ」
そう言って、剣士は山を降り、ドラゴンは洞窟に帰っていった。
しかし次の日も、そのまた次の日も、決着はつかなかった。
剣士は必死に剣を振り、ドラゴンも喉が焼けるほど炎を吐いた。
しかしドラゴンは剣を鱗で弾き、剣士はひらりと炎をかわす。終わりの見えない戦いが続いた。
その日も、剣士はドラゴンと雌雄を決するため、山頂に続く崖道を歩いていた。
だが、連日の決闘で疲れが溜まっていたのか、剣士はうっかり足を踏み外してしまった。
あっと声を上げるが早いか、剣士は崖を転げ落ちていった。
死にはしなかったものの、両足を怪我してしまい、とても動ける状態ではなかった。
助けを呼ぼうにも、ドラゴンの住む山に近づこうという物好きな人間は、そうはいない。
「このまま獣の餌となるか……死ぬのなら、せめてドラゴンとの戦いで死にたかったが……」
その時、どしんと音を立てて地面が揺れた。
どうにか首を向けると、そこには大きな翼を広げたドラゴンがいた。
剣士は初め、それを死に際の夢か幻と疑っていたが、ドラゴンが鼻息がかかるところまで近寄ってくると、それが本物であると認識した。
「今日はやけに遅いと思えば、助けを求める声が聞こえてくる。お前だとは思わなかったがね」
「笑われるのもしかたがない……ちょうどいい、喰うなり焼くなり好きにしろ」
今の剣士には、剣を抜いて切りかかる気力さえなかった。
このまま惨めに野垂れ死ぬよりは、ドラゴンの手にかかる方がずっと良い。
しかし、ドラゴンはそうはしなかった。どこからか見たこともない草を持ってくると、それを剣士に食べさせた。
すると……なんとしたことか。あっという間に足の痛みが消え、みるみるうちに傷が治ってゆく。
「その草を食べれば、どんな怪我もたちどころに癒える。が、今日のところは帰るがいい」
剣士は立ち上がり、信じられないという面持ちでドラゴンを見た。
「なぜ私を助けたんだ? 自分を殺そうとしている者を?」
ドラゴンは少し考えてから答えた。
「お前と戦うようになってからは、そのことばかり考えるようになった。巣の中で、朝から晩まで財宝を眺めるよりも、お前との戦いの方が楽しくなった。それだけだ」
ドラゴンは翼を広げ、ふわりと空に舞い上がり、巣がある山頂へと飛んでいった。
剣士はドラゴンに言われた通り、その日は山を下りて村に戻った。
いの一番に出迎えたのは村長だ。
「おお剣士殿、ドラゴンはどうされました? もしや、とうとう奴めを打ち倒しましたか?」
剣士は首を横に振った。
「いいえ。……村長、改めてお聞きしますが、あの山のドラゴンは、本当に邪悪な心の持ち主なのですか?」
「それはもう、奴が通った後は草木も枯れるほどで。ああ、口にするだけで恐ろしい!」
「………わかりました」
その夜、剣士は悩んだ。
ドラゴンが本当に邪悪な存在なら、あの時自分を見逃しただろうか。
しかし、村長の訴えを無視するわけにはいかない。もし彼の言うことが真実ならば、ドラゴンはやはり討たなければならない相手なのだ。
次の日。
剣士はいつものように山を登り、洞窟の前にやってきた。ドラゴンは既に外に出ていた。
「今日は遅かったな。待ちくたびれたぞ」
「少し、道草を食んでいたのだ。それより、今日という今日は決着をつけるぞ」
「望むところだ」
戦いが始まった。
剣が閃き、炎の息が吹き荒れる。
剣士とドラゴンの位置は激しく入れ替わり、互いに隙を狙う。
二つの命が、壮絶に削り合う。
やがて日が落ち、月が夜空にのぼった。
ここまではいつも通りだった。いつもなら、この辺りでドラゴンも剣士も疲れ果て、引き分けとなって終わる。
だが、今日は違った。
振り下ろされたドラゴンの爪を掻い潜り、炎の息を避け、剣士は全力で剣を突き出した。
剣の切っ先はドラゴンの胸に食い込み……その奥の心臓を貫いた。
剣士が剣を引き抜くと、ドラゴンの体が音を立てて倒れた。傷口から血が溢れ、赤い川を作る。
心臓を貫かれては、どんな生き物でも命はない。それでも、ドラゴンの強靭な生命力は、彼に今しばらくの猶予を与えていた。
「わしの負けだ……だが、悔いはない。お前との戦いは何より楽しかった。お前と出会えて、よかったと思う」
「……教えてくれ。お前は本当に、ふもとの村を襲ったのか?」
剣士が問いかけたその時、今まで物陰に隠れていた村長と村人たちが姿を現した。
手には斧や鍬など、武器になりそうな物を持って、にやにや笑っている。
「いやあ、あんたが簡単に騙されてくれたおかげで俺たちはもっと簡単にドラゴンの財宝を手に入れることができるよ」
「それと、あんたの剣や他の持ち物もな」
村人たちは、剣士に分け前を与えるつもりすらなかった。
それどころか、ドラゴンとの戦いで疲れ果てた剣士の身ぐるみを剥いでやろうと企んでいたのだ。
「なるほど、そういうことだったのか。すまなかったな」
そう言って、剣士は懐からどんな傷も癒す草を取り出すと、ドラゴンの口の中に放り込んだ。
もしもドラゴンを倒した後で、それが間違いだとわかった時のために用意しておいたのだ。
剣士が決闘に遅れたのは、この草を探していたからだった。
草を食べたドラゴンはあっという間に回復し、立ち上がった。
村長と村人たちは悲鳴をあげた。
疲れた剣士を袋叩きにすることはできても、傷の癒えたドラゴンに襲いかかる勇気は、彼らにはない。
炎で骨まで焼かれる前に、全員慌ててその場から逃げ出した。
後に残ったのは、剣士とドラゴンだけだった。
「あんな連中に騙されて、お前を殺してしまうところだった。許してくれ」
剣士が頭を下げると、ドラゴンは苦い顔をして言った。
「いやあ、ワシも今回のことで、もう懲りた。使いもしない財宝なんぞを溜めていると酷い目にあう。全部ここに捨てて、別の場所に行くとしよう」
「それなら、私と一緒に旅をしないか。一人旅も飽きてきたところだ」
ドラゴンは剣士の申し出を喜んで受け入れた。生まれて初めての相棒を背中に乗せると、翼を広げ、夜空に飛び立った。
「ふむ、誰かを背中に乗せるのはこれが初めてだが……なかなか気分がいいな」
「私もドラゴンの背中に乗ったのはこれが初めてだが、なかなか悪くない」
こうして、剣士とドラゴンの旅が始まった。
雲よりも高く飛ぶ一人と一匹を、月だけが見つめていた。