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01-03/迷いしは幻想郷

 ベッドから立ち上がり、覚束無い足取りでアリスの後を追い、洗面所も兼ねた脱衣所まで案内された後、俺はカゴに着ている服を脱いでお湯に浸かった。

 

 1時間ほど浸かり、水に濡らしたタオルで身体を洗って念入りに垢と汗を落として、石鹸の心地よい香りに鼻孔をくすぐられつつ風呂から上がると、カゴの中には俺が着ていたのとは違う、真新しい服が置かれていた。

 

 若干のぼせた頭で考えてみるが、これは着替え……でよいのだろうか?

 

 現に俺が着ていた服が、今目の前のカゴに置かれているのとは別のにすり代わっており、更に上着のシャツとは色が全く異なるのだからそうなのだろう。

 

 何より清潔感が溢れているから間違いない。

 

 確かにあの服を着たままアリスの前に現れたら、再びお風呂に押し込まれるな。

 

 しかも着衣風呂。

 

 そして極めつけに消毒液で満たしたお風呂に入浴。……否、投入。

 

 

「……」

 

 

 入浴する前の、露骨に嫌そうな顔で「身体を洗え」という彼女の言葉と態度を思い返して、彼女ならやりかねん……、という結論にすぐに達した。

 

 傍から見れば男の威厳もへったくれも無い。そうなりたくないので、ひとまず着用する事にしよう。

 

 その警鐘を無視したら、前述にて想像した未来へ一途辿るのは間違いない。

 

 …………って、よくよく考えたらこれ、俺の服ではないからそんなことになる訳がない。

 

 

「いや、待てよ……」

 

 

 と思いつつシャツの袖に腕を通した瞬間、疑問が浮かぶ。

 

 俺が寝ていた部屋から居間、そして脱衣所までの移動の際に居間を観察してみたが、どこにも男の気配がなかった。

 

 ──否、男の匂いも存在があったという痕跡は一片も見つからなかった。

 

 となると、だ。居間とその脇の台所の調度品と食器棚にしまわれてある食器の数からして、彼女は1人でこの家……この森の中に住んでいることに間違いない。

 

 入浴前に洗面台を見て、陶製のカップの中に歯ブラシが1つしかなかったことでその推測は確信へと変わった。

 

 そうなると何故男物の服が1人暮らし女性の家にあるのだろうか?

 

 ……もしくは、居間の一角にあった1つのドア。

 

 何の変哲も装飾もない、平凡な木目のドアの隙間から漏れていた『違和感』。

 

 それはこの男物の服と何かしら関係しているのか? だとしたら概ね合点がいくのだが……、

 

 

「……さっぱりだ」

 

 

 解決しようのない疑問に、俺はただ虚空に独白するしかなかった。

 

 

 

 

       ◆

 

 

 

 

 アリスが用意してくれた、白地のシャツに黒いズボンというベーシックな服装は俺の体格に丁度ピッタリだった。

 

 明確に言うなれば、ビジネスマンの格好に近いものだが、シャツの上に羽織るジャケットがこの場にないからそれが本当にビジネスマンの格好に似ているのかどうかは知る由もない。

 

 ひとまず着替え終えた俺は脱衣所のドアから出て、居間へと足を運ぶ。

 

 脱衣所から居間までは短い廊下があり、そこを数歩進めば居間はすぐそこだ。

 

 歩いていった先の終着点、居間へ通じる廊下の先にあるドアを押し開くと、アリスの姿を簡単に見つけられた。

 

 彼女は居間の中央に据えられたテーブルと椅子に腰掛けて、読書に没している様子。本は分厚く、緑一色に装丁されているシンプルなものだ。

 

 タイトルは……文字が表紙に書いてないからどういうものなのかはわからない。

 

 だが、本の内容に集中しているアリスの目は真剣で、彼女にとってその本の内容は興味を惹くに値するものであることには違いない。

 

 

「あがったのね」

 

 

 そこでじっと佇んでいたからなのか、アリスが俺の視線に気付いて顔を上げた。

 

 

「いい湯加減だった。君の言葉通り、隅々まで洗い落とした」

 

 

 掛けられた声に俺は淡々とした口調で答える。ちょっとした皮肉も込めて。

 

 しかしアリスはその皮肉に意に介する様子もなく「そう」と、満足げに頷く。

 

 ……反応が凄く平坦すぎて、何かつまらん。

 

 

「丁度お湯が沸いてるみたいだし、紅茶飲む?」

「……同席してもいいのか?」

 

 

 構わないわ、とアリスは本を閉じて返答し、椅子から立ち上った。

 

 察するにお茶を淹れる為に立ち上がった模様。

 

 確かにアリスが足を向けた先には台所があり、そこのコンロらしき位置にある所にヤカンがあった。

 

 その鈍色の光沢を放つ、金属製のヤカンの注ぎ口からはちょうど湯気が勢いよく上がって空間に霧散していた。要約すれば沸騰中。

 

 

「……あー、俺はどうしたら……」

 

 

 よいのだろうか? と、家主の許可なく堂々と椅子に腰掛ける訳にもいかないので、アリスに声を掛けた。

 

 

「座ってて。他にも話したいことがあるから」

「? わかった」

 

 

 了承を得たので俺は空いてる椅子に腰掛ける。しかし、他に話したいことがあるというのは何だろうか……?

 

 

「俺の服はどうした」

 

 

 台所で紅茶を淹れる為の食器を用意しているアリスの背中を見つつ、服の行方について訊ねた。

 

 なにせ4日間着ていて、洗っていないとはいえ俺の服には違いない。

 

 

「アレ? アレなら洗濯してるわ。明日にはまた着れるから、それまでは今のを着てて」

 

 

 人の服をアレ呼ばわりしながらアリスが俺の服の所在を明かす。……成る程、俺の服は洗濯されていたのか。

 

 ほどなくしてアリスがポットとティーカップ載せたトレイを携えて居間に現れ、トレイをテーブルの上に置いた。

 

 そして腰掛けるとテーブルに茶器を配置し始める。迷いのない置き方からして、客の応対には慣れているみたいだ。

 

 

「本当なら紅茶の香りを堪能してほしいんだけれど、それはまたの機会ね」

 

 

 ティーポットを手に持ち、傾け、俺の前に置かれたカップに琥珀色に満たしていく。

 

 やがて一定の量までに満たされたカップから湯気が上り、僅かながらほどよい香りが鼻腔をくすぐる。

 

 

「“iyayraykereイヤイライケレ”」

「イヤ……なに?」

 

 

 感謝の言葉を紡ぐと、アリスが俺の言葉を聞き返して、不思議そうに首を傾げた。

 

 ……やはりわかる訳がないか。

 

 

「『ありがとう』という意味の言葉だ」

「聞いたことないわね、そんな言葉」

 

 

 言葉と聞いた途端、アリスの視線が無関心から好奇心の色へと微かに染まる。大抵の人間の反応なら見せない反応だ。

 

 だというのに彼女の瞳の色は瞬時に関心に満ち溢れた。

 

 純粋にこの言葉に興味を示すなんて、随分と変わってるな……と、思いながら口を開く

 

 

「孤立した言語というものだ。今ではもう喋れるものが殆どいない、半ば文献でしか見かけない言葉だ」

「へぇ。なんて言葉?」

 

「アイヌ語。蝦夷地に住まう民が喋る独特の言語だ」

「私が知る限りでは、幻想郷では聞いたことはないわね」

 

 

 やはり聞き慣れない言葉だったようだ。しかし……、

 

 

「幻想郷……?」

 

 

 アリスが俺の言った感謝の言葉がわからなかったように、俺もその地名がわからなかった。そして聞いたこともない。

 

 そんな俺の反応を見て、「やっぱり」とアリスが呟く。

 

 

「ここに住んでる人達とは雰囲気が違うから、もしかしてとは思ったけど、そのようね」

「何だ、その……幻想郷とは?」

 

 

 問いにアリスは紅茶で満たされたカップを持ち上げて一口飲み、テーブルに戻し、俺の顔を見る。

 

 

「そうね……。話せば長くなるだろうから、要約して言えば『現世に隔離されて孤立した世界』……とでも言い表したらいいかしら」

「隔離された世界だと? そんなものがあったのか」

 

「現に此処にアナタがいるのがその証拠よ」

 

 

 確かに。

 

 

「それにコレ。アナタの荷物でしょ」

 

 

 言ってアリスはテーブルの下に手を伸ばし、焦げた緑色をしたショルダーバッグをテーブルの上……俺の目の前に置いた。

 

 

「昨日の夜にアナタを見つけた際に傍に落ちてたの。見覚えない?」

 

 

 目の前に置かれたカバンに手を伸ばす。そっと指で触れて質感を極め、這わせて形を確認して、

 

 

「覚えがある。……俺が使ってたカバンだ」

 

 

 驚きを隠せず、小さく口から漏らす。

 

 とは言っても最後に使ったのが2年も前の話で、今じゃ部屋の隅っこに放置されていて、ホコリを被り、二度と使うことは無いだろうと思っていた。

 

 そんなホコリを被っていたものが何故此処にある……?

 

 怪訝に思いつつ中を開けてみる。ややカビ臭く感じたが、カバンの中には昔押し込んだきりの仕事に使う道具、そして真新しい箱が幾つか。

 

 漁ってみると、他にはこれもよく使うナイフ……。

 

 

「───っ!!」

 

 

 刹那、脳裏に2年前の光景が……あの時の光景が浮かぶ。

 

 

 

 

 鼻をつんざく、火薬の爆ぜた匂い。

 

 耳の聴力を麻痺させる、小さな炸裂音。

 

 穿ち、肉を切り裂く鉛弾。

 

 切り裂かれた肉から溢れる、真っ赤な液体。

 

 

 

 

 そして己が浴びる、その血は────

 

 

 

 

「……どうしたの?」

「ッ! ……いや、何でも……ない」

 

 

 カバンの中身を見てあの時の出来事を思い出した。そして最後まで思い出す瞬間、アリスの声で我に返る。

 

 

「凄い汗よ。大丈夫?」

「大丈夫だ。紅茶の熱にでも当てられたんだ」

 

 

 勿論紅茶の熱で汗が湧いたなんて嘘。追究してほしくないからこその虚偽であることは明白。

 

 ……だというのに、

 

 

「面白い事を言うのね」

 

 

 ……なんて言っているが、アリスの表情は変わらないまま。

 

 俺の様子を悟ってなのか、あえて踏み入らなかったからなのか、それとも単に興味がないだけのどちらかなのだろうかと気になるが……、とにかく話を逸らせたようだ。

 

 額が汗で湿っていたので手の平で拭った後、カップを手に取り、口まで運んで一気に飲み干す。

 

 少し温くなっていたがそれでも紅茶の香りは残っていて、それが口内に広がり、旨味を引き立たせた。

 

 茶には沈静作用があるとは聞いていたからなのか、それともアリスが淹れ方が上手なお陰なのか、激しかった動悸と呼吸はすぐに落ち着いた。

 

 

「美味い……」

「それはありがとう。今度はちゃんと淹れるから比べてみてね」

 

「それは楽しみだ」

 

 

 アリスの期待を言葉にしつつ、胸中でカバンについて考えてみる。

 

 カバンの中身は見覚えがあるものばかりが詰まっていたことから、これは間違いなく俺のカバンと荷物であることは確かだ。

 

 大抵のことは概ねわかったのだが、現時点で疑問があるとすれば、何故部屋にあったカバンが俺の目の前にあるのだろう? ということ。

 

 幻想郷といい、この場にいる俺といい、このカバンといい、中身といい、誰かの意図が絡んでいるとしか思えない。

 

 

「アリス。外からこの幻想郷とやらには入ってこられるのか?」

「それは不可能ね。幻想郷はさっき言ったとおり、『現世に隔離されて孤立した世界』であり、外ではとうに忘れられた存在」

 

「忘れられた存在? それは何故だ?」

「結界が張られているのよ。内部にも外部からも入ること出来ない、強力な結界がね。

 それによって幻想郷は独自の文化を築いた忘れられた世界と言った方が、表現としては正しいわ」

 

「……そんな場所にどうやって俺は入り込めたんだ?」

「知らないわよそんなこと」

 

 

 ただ……と、アリスは言葉を継ぎ足し、

 

 

「神隠しにでも遭ったか、攫われたか……。もしくは必然的に引き込まれたか……。いずれかであるのは間違いないわね」

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