03-13/もう1人の猩紅 coda
「──」
「────っ。──」
────…………遠くで何かが聞こえる。喧々囂々とは程遠いが、ひたすら喧しく、鬱陶しい事には違いない。
耳朶に喧しく届く物音は断片的にしか捉えることが出来ず、傍からすれば風の吹く音や雑音と大差無い。しかし沈殿していた意識がそれに触発されて覚醒していくことによって、徐々にその正体を明らかに出来た。
「……で、また許可も断りもなく忍び入ったと」
「こっそりなんてしてないぜ。ちゃんと門の前で『ハロー。お邪魔しまーす♪』てちゃんと挨拶したからな」
「その時、誰か近くにいたかしら……?」
「いんや。途中、妖精メイドを撥ねた気がしなくもないけど」
鮮明にとまではいかないが、曖昧な意識を刺激して起こす喧しい物音の正体は雑音ではなく、口から放たれる音声によるもの。それも人間の──特有の声音からして──女性のものだ。
「毎回毎回いい加減にして欲しいわね。アナタが来る度こっちは大忙しなのよ?」
「そりゃ凄い。よっぽど私の事を盛大に歓迎したいんだな。なんならもっと豪勢に」
「しないわよ」
交互に交わされる会話と、それぞれの声の性質が異なることからして女性が2人いることは確実。しかしそれ以外の人物の気配がすぐ傍にあるのは……目視していないので断言出来ないが……、目を開けずとも瞼の裏から不思議と感知出来た。
「……」
耳を澄ませて切迫した雰囲気の2人の会話に意識を傾ける半面、自身の状態を確認。とは言っても会話している2人の注意を引かぬ様微動だにせず、ただ自分の記憶を辿って今の状況を確かめるだけなのだが……
「……?」
佇んでいる訳でもなく、椅子に座っているわけでもない。唯一確認出来たのは背中に何かが当たっているという感触。背中に当たる感触からしてカーペットの上に寝転んでるかと思いきや、それにしてはやけに柔らかかった。
床の上じゃない? だとすればソファーや机の上の類かと思いきや、体感的には幅広く感じるし、机の上にしたってやけに柔らか過ぎる。
……そういえば後頭部から首筋に掛けても柔らかい感触に包まれている気がしなくもないので、消去法で前述のを除いて挙げるとすれば俺が寝ている場所はベッドであり、後頭部のは枕……?
うん、その通りならばこの寝心地の良さも至極納得できる。……が、はて、ベッドで今まで眠っていたにせよ何故俺はベッドで眠っていたのだろう……? という疑問が当然脳裏に付き纏う。
酒を飲みすぎて倒れて、それを見かねたお人好しな誰かに運ばれたのかと安直な想像で事の瑣末を脳裏で描くが、どうにもしっくりこない。いっそこのまま経緯を推測せず眠り続けるのも悪くないが、まどろむ意識はとうに覚め、それ以前に他人が俺のすぐ傍らでかしましく会話を繰り出しているのが気掛かりだ。
見た目は誤魔化した若人の振り、認めたくないが……悲しいかな、その中身は還暦間近の老躯の身。勿論その齢に達した者にとって身体を起こすなんてのは億劫な行いだというのは当然。
それでも俺自身の身に起こった出来事とベッドに眠るに至る顛末を知る為にも、彼女らに話を聞いた方が手っ取り早いと判断して身体を起こすべく、小さく身じろぐ。
「ん……んぐっ!?」
身体をよじった途端、腹部──脇腹に激痛が奔った。予想だにしていなかった痛みが不意に襲い掛かってきたあまり、自然と声が漏れる。
「あっ……」
「お、どうやら起きたようだな」
俺が上げた小さな悲鳴に気付いたのか、2人の女性は会話を打ち切って俺へと注目を逸らしたようだ。それを余所に、俺も緩慢な動作で上半身のみを起こす。
「痛ぅ……?」
訴えかける脇腹の強烈な痛みの所為で脱力しかけて再びベッドに伏せそうになるが、それでもなるべく刺激しないよう腕の力で上体を起こし、閉じていた目をゆっくりと開く。
不鮮明ながらもぼやける視界にまず最初に映ったのは、インクの水性の染みにも似た真っ赤に染められた景色。ただでさえ寝起き直後で、あまつさえ腹も痛いというのに気分までもが悪くなる景色に眉を顰める。しかも今までの記憶を反芻して、眼前の景色の正体が一目で紅魔館の室内の壁だという事に気付くのは、そう時間は掛からなかった。
……よりにもよって目覚めた先が景観が紅一色に尽きる紅魔館か……。起きるのがせめて自分の家の方が良かった、のは過言ではない。
「よっ。大丈夫か?」
起きて早々に目が痛くなる配色の壁に表情を顰め、軽い眩暈を覚えて目頭を押さえるとそこに声が投げかけられた。
声が掛かった方に顔を向けると、寝起きなので目がぼやけて目の前にいる人物が誰なのか認識するのが遅れた。しかし視界と輪郭が徐々に定まってくると、俺に声を掛けたのは長い金紗の髪を伸ばし、頭に特徴的である大きな黒いとんがり帽子を被った──
「……魔理沙?」
魔法少女こと霧雨魔理沙、彼女の姿だった。
「そして私も──」
と続いて、どこかで聞いた事あるような男の声。声のした方……魔理沙の背後に目だけを向けるとそこには1人の人影──男の姿。
「ん? ────あ」
紅魔館で男の姿を見たのは初めてだ。だがよくよくその人物を観察してみるとその男の正体には見覚えがあり、記憶を掘り返すと…………昼間に温泉で出会った銀髪の男レノンの姿であった。
「レノ……ン?」
予想だにしていなかった人物が居合わせた事に唖然と彼の名を呟く。
「そうです。お久し振りですねレイさん」
この場にレノンが何故か佇んでいるのもなにより驚きだが、それよりも着目すべきは温泉で対峙した裸体ではなく、紅魔館の室内に配置されていたタンス内に吊るされてあった濃い黒無地の燕尾服一式に身を包んだ姿だ。
その装いを一瞥して、此処──紅魔館で働いているという事を瞬時に看破し、すんなりと納得する。
「その格好だとここで働いているのか」
「ご明察です」
「結構似合ってるもんだ。一瞬誰かと見間違えたぞ」
「恐悦至極。でも窮屈なんですよねこの衣装、ははっ……」
細目の所為で実際にその表情を浮かべているかが汲み取れないが、レノンは口元に柔らかい笑みを浮かべつつ襟に結んだ……燕尾服と同じ黒一色の……ネクタイに手を伸ばし、窮屈そうにそれを指で弄ぶ。
温泉で邂逅した際に住み込みで働いているとは聞いてはいたが、よもやその場所が人間にとって脅威の存在であるに等しい吸血鬼の住処である紅魔館とは、驚愕するしか他が無い。
これに関してはレノンの肝が据わっているのを感心すべきか。……いや、関心すべき点はそれらを踏まえ、眼前に佇む彼の──身丈の中肉中背とは目視した時点での推測の域だが──、痩躯寄りの彼の体躯には今身に包んでいる燕尾服が非常に似合うという事と態度を含めると尚更だ。
特に着目すべきは彼が身に纏っている燕尾服には皺もおろかホコリも見当たらず清潔感と気品さに溢れ、素人目からの観点からでも見事なまでに燕尾服を着こなしているのが充分に伝わり、その結果レノンの背丈が温泉時に対峙した際よりも一回り大きく見える錯覚を覚えた。
更にすらりとした端正な顔立ちと様相で自然な振る舞いもどこかしら優雅にも映えて、表情も声音も態度も、威圧的でおどろおどろしい紅魔館の雰囲気に気圧される様子も無い、悠然と落ち着いた素振りを見てしまえば彼への評価はまさしく驚嘆と感嘆の言葉に尽きよう。
「……それで、君達はどうしてここにいるんだ?」
レノンの心証から意識を変え、2人に質問する。
目を閉じていた時に耳にしていた声の片割れが魔理沙だと判断するも、もう一方はレノンの声……と思いきや、実際に目視してみるも発声者は違っていた。
あの時聞こえたのは女性の高い声である事には間違いなく、レノンの声ではないのは確実。件のもう1人の声の持ち主はそう遠くにはいない筈だが、今は状況を把握するのが先決だ。
「ああ、お前は私の知り合いに吹っ飛ばされたんだよ。覚えてないか?」
「吹っ飛ば…………あ」
自分が当事者ではないというのに、居心地が悪そうな表情の魔理沙に言われてようやく俺が最後に見た光景が脳裏に蘇る。
確かにフランドール嬢と和解した直後に脇腹辺りに強い衝撃を受けて、その際聞こえた……片割れは話し振りからして魔理沙だと思われる……誰かの剣呑な声を耳にしながら意識を無くした気がしなくもない。
そうか、あの声の主──魔理沙の知り合いが俺を吹っ飛ばしたのか……。
「そうか……俺は図書館で」
「そういうこった。で、傷に関してだが……、唇がちょっと切れてる他に外傷は無さそうだな」
「唇? ……痛っ!?」
魔理沙に指摘され自然と口元の端に指を伸ばして触れてみると、途端に鋭い痛みが件の唇の傷を中心に駆け巡って、痛覚を刺激する。
「多分床に吹っ飛んだ時に切れたんだろうな。ちょっと血が滲んでるけど傷自体も浅いみたいだから、そのままにしてた」
「つぅっ。……そ、そうか……」
不覚にも自身が食指で刺激した痛みに表情を顰めつつ、傷口を刺激しない様唇の切り傷に滲んだ血を指でゆっくりと拭う。
未だ付き纏う脇腹の痛み以外にも怪我があるとは予想だにしなかった。いや、むしろこの程度だけで済んで良かったと喜ぶべきなのか曖昧だが、痛い事には然程変わりはしないので喜ぶべきではないな……。
魔理沙の診断では唇だけが軽く切れているだけという軽症のようだが、口振りからして脇腹の方は確認していないようだ。……尤も、男の身体に触れるということ自体、年頃の女子に求めるのも酷かもしれん。
他にも先程まで意識を無くして心配させたといるのに、これ以上不安にさせる要素を自ら親告する必要は無いだろうと俺は勝手に自己判断し、結局脇腹の痛みを告げぬまま魔理沙とレノンとの会話を続ける。
「要望次第では治療して傷も塞いでやるけど?」
「いや結構、このままでいい。──で、吹っ飛ばされて気を失っている間に君達の手でこの部屋に運ばれたと……。状況からしてベッドで寝ていたのは、こういう事か?」
「ご明察だぜ。……うん、凄い吹っ飛んでたけど案外大丈夫そうだな」
「ですね。いやー、休暇から帰ってみればこんな騒ぎが起こっていたとは思いもしなかったですよ」
やんわりと唇の治療に断りを入れて経緯を推測を語ると、その通りだと魔理沙とレノンは首肯し安堵の息を吐く。どうやらこの様子だと眼前に佇む2人は本当に俺の身を案じてくれていたようだ。ただレノンの発言に関しては居合わせなかったような口振りなので、彼は恐らく外出先から帰ってきた直後なのかもしれない。
「有難う2人とも。特にレノン、仕事場なのに迷惑を掛けた」
「いえいえレイさん、私は何もしてないですよ。それに、こういった騒動は日常茶飯事みたいなものですので」
日常茶飯事なのかよ、と思わず胸の内でツッコむ。
「それよりもこの様子なら……ほれ、お前ももういいぞ?」
魔理沙が顔だけで横を振り向き、化粧台の位置に向けて声を掛ける。それに釣られて俺も……身体は捻ると腹部が痛む気がしたので……ゆっくりと頭だけ向けると、化粧台の隅でなにやら小さくて縮こまったような物体がこちらを見ている事に気付く。
「~ッ!? ──ッ!!」
「……上海」
化粧台の隅に縮こまっていた存在の正体は上海だった。彼女は俺と視線を交わすや一気に傍まで駆け、左腕を掴んで俺の顔を見上げてくる。
「……心配を掛けさせたな」
「~ッ!」
上海の頭を優しく撫でる。すると上海は大きく首を振って、全身を駆使して更に強くしがみ付く。
「~ッ!!」
しがみ付く矮小な体躯は小さく震わせ、顔を俺の腕に埋めるその光景はさながら泣き顔を晒さず、嗚咽を堪える童子の姿を髣髴とさせる。
そんな彼女の……上海の姿を見て俺は、宥める言葉を口にしつつ彼女の頭を優しく撫で続ける。
「よしよし……」
「……ッ」
フランドール嬢から逃走してる間、上海の心境は心底不安だっただろう。紅魔館内を駆け巡り、長い逃亡を経てフランドール嬢と和解して安堵するのも束の間、彼女の危険な手から救ってくれた人物が突如不意打ちの攻撃で倒れて今の今まで意識を失っていたのだから、その間はこの屋敷独自の重圧感や閉塞感、威圧感、緊迫感に覆われさぞかし心身に相当堪えたに違いない。
それでも唯一の救いだったのが俺にとっては付き合いが浅いが、上海にとっては主人であるアリス経由ながらも顔見知りの霧雨魔理沙がどういう訳か紅魔館にいた事だ。
もし魔理沙が偶然にもこの場に居合わせなければ、現状よりも酷く上海が疲弊していた事は明白。そもそも魔理沙が何故ここにいるかと疑問が浮かぶが、恐らく日中に俺を運ぶ際に「用事がある場所」と明言していた様子から察して、その場所がこの紅魔館だとすればこれぞまさに僥倖と言っても過言ではない。
「じゃあそろそろいいかな。おーい咲夜ー、レージが起きたぞー!」
「ではレイさん、また後程」
「ああ……?」
そう言い残して魔理沙とレノンが俺と上海の傍から離れて部屋の中央へと移動し、その2人と入れ替わるようにし歩み出て来たのは紅魔館のメイド長こと十六夜咲夜だ。
「荻成様、お加減はいかがでしょうか?」
紅魔館のこの部屋に案内された時と変わらぬ依然とした様相で開口一番、俺に気遣いの言葉を投げ掛ける十六夜。……唯一、背後にてつい最近まで見覚えのある細くて蔓にも似た湾曲した形状の木の枝と、それに木の実の様な果実ないし、蓑虫の如くにぶら下がった14個もの水晶、もしくは宝石らしき物体を除けば平然な物腰そのもの。
十六夜のその背後の既知感のある物体を一瞥して、彼女が人間を止めて人外街道一直線!? ……とちょっと内心で愕然としたのはここだけの秘密だ。
しかしあれだけ特徴的且つ派手で、目立つ形状の枝と宝石の組み合わせの翼を生やした者は、最近の記憶から反芻して該当するのは恐らくあの子だろうが、今は十六夜への対応を優先する。
「ああ、大事無い」
「それは重畳です。ところで僭越ながら話は変わりますが、荻成様にお訊ねした事がございます」
「なんだ?」
「いえ、単純明快な質問なのですが、タオルをお使いになられましたか?」
唐突な十六夜の問い掛けに、俺は怪訝の表情を浮かべる。
「ん? タオル? タオルって……ああ、そういえば立ち寄った部屋にあったから汗を拭き取るのに使ったのだが、それが……?」
「左様ですか。……いえ、実はそのタオルが置いてあった部屋は私が時折休憩用に使ってる部屋でして、誰かが室内に入ってタオルが使われた痕跡があったのでもしやと思いまして……」
「その部屋はワインもあった?」
「肯定です」
答えつつ、十六夜の言葉に思い当たる節があった事柄が脳裏によぎる。
あれはフランドール嬢からの追跡を免れたほんの僅かな時間の途中、汗が気持ち悪くなったから部屋から拝借した時の事だ。今いる部屋と大差が無かった他、タオルやワイン瓶に気を取られていたのであまり観察してはいなかったが…………そうか、あの部屋は十六夜にあてがわれた部屋だったのか。
「…………」
……………ん? てことはつまりあの部屋の持ち主は目の前に佇立している十六夜…………? それは本人の問い掛けと口調からして信憑性は高い。
だとすればだ。つまるところあの部屋のタンス内にしまわれていた下着の1枚である熊ちゃんことクマちゃん、あのクマちゃん下着の持ち主はまさか────
「……? 荻成様、如何なされましたか?」
「っ!? い、いや、何でも無い……」
唐突に押し黙った俺に怪訝の念を抱いた十六夜が声を掛けたので、すかさず何事も無かったかの様に振舞って疑念を逸らす。
気取られてないよな? うん、人の嗜好やら衣類に無闇やたらと詮索して良い筈が無い。主に下着とか、ましてやクマちゃんとか、いい年頃の淑女が云々とか……。
「……」
いや、咎められるとすればそのクマちゃん下着を見つけてしまった俺に責任が一理ある。他意が無いといえど、異性の行動としては当然褒められたものではないからだ。この話題はもう止めよう、うん。
「はぁ。ならよいのですけど……」
「もしかしてタオルを使ってはいけなかったか?」
「いいえタオル位使っても別に構いません。──と、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」
「うん?」
「つい先程までこれまでの事情を聞き及ばせて頂きました。さ、フランドールお嬢様……」
不信感を払い、てっきり野郎にタオルを使われた事に不快感を感じたのかと思ったがそうでもなく、続けて十六夜が背後に小さく振り向いて声を掛けた後数歩横にずれると、
「──あっ。おぎ……なり…………」
そこには他者の目からしてもなんとも居た堪れない、陰鬱とした面持ちをしたフランドール嬢がぽつんと佇んでいた姿だった。
「……」
……尤も、つい最近見た翼が十六夜の背後から大きくはみ出ていた時点で、誰が隠れているのかは想像が出来ていたが。
「ッ!? ~ッ!?」
腕にしがみ付いていた上海がフランドール嬢を見た途端、身体を大きく竦ませて瞬く間に俺の背後へと回り込み、一瞬にしてフランドール嬢から身を隠す。
「……お人形さん…………」
「……フランドールお嬢様」
上海が俺の背後に隠れた光景に衝撃を受けたのか、フランドール嬢が悲しげな声音を漏らすも十六夜に促され、先程まで彼女が佇立していた位置にまでぎこちない動作で踏み出る。
「……」
俺の正面に佇んだ彼女は朗らかな表情とは正反対の暗い表情を浮かべて顔を俯かせ、ほんの一拍の間を置いた後ぎこちない動作で僅かに顔を上げて俺との視線を交差させるや、「あっ……」と小さく声を漏らし、酷く悲しげな面持ちに表情を歪ませて深紅の床に再び視線を落とす。
「…………」
無言、沈黙、静寂、静謐……ほんの僅かな間を置いてフランドール嬢を渦中に気まずい空気が室内に充満し、無言の俺と同じく沈黙して見守っている周囲の連中の気分もそれに呑まれ、相乗して更に室内の雰囲気を暗く沈めて支配する。しかも今の時間帯は夜……だったか? ……なので、尚更その暗闇と同調して重厚な暗い空気の浸透率は迅速だ。
「……」
顔を上げては伏せて、いたたまれない表情を俺へと覗かせながら一連の動作を繰り返すフランドール嬢の容姿が時間帯はとうに夜だというのに、くっきりと明瞭に映えて俺の視界に入り込む。
その所為か追いかけていた際に浮かべていたあの快活な表情は一片も皆無で、その光量により暗闇に包み隠されず照らされているのは彼女や俺を含めてこの紅魔館の室内並びに鎮座する調度品諸々、魔理沙、レノン、十六夜、上海に関しても共通だ。
眩しく、日中と錯覚を覚えるその光明に重なってふと髣髴させたのは、フランドール嬢からの逃走中に遭遇した妖精メイドが携行していたランタン、図書館らしき広大な空間の入り口に設置されていた照明器具であり、あの時目にした光明は脳裏で反芻すればする程それ等は不可思議な光を放っていたのが鮮烈だった。
他にもあの器具には大量の羽虫が集っていたのが印象深く記憶に残留し、外の世界とは違う鬱陶しさ並びに嫌悪感も不快感も俄然よぎらなかったのが不思議だった。
もしかしたらこの部屋にも同じ仕組みの照明が設置されているのではないかと好奇心がそそられたが、今はそんな考察をしている場面ではないと思考を打ち切って再び目の前のフランドール嬢に意識を戻す。
「…………ご」
「……ん?」
「…………ご、ごめんなさい……」
……と、体感的にも曖昧な短くも長い静寂を破り、思考を遮る形でフランドール嬢が遂に重い口を開いた。それも開いた口から紡がれたのは謝罪の言葉であり、聞き取れるかも怪しい声量で。
「わ、私が……追いかけたりなんかしたから、おぎなりが怪我をして……」
俯かせていた顔を上げて俺の視線から自身の双眸を逸らす事無く正面から見据え、その表情は深く翳りが差し悲痛にも似た面持ち。今にも泣き出しそうな表情にも窺えるが、それでも気丈に振舞って感情を抑制しているのが一目瞭然だ。
……自身の好奇心が招いた行動が起因で俺に降り掛かった災難に責任を感じているのだろうか、見ている側の視点からしても自然といたたまれない気分に陥る。
「フラ……いや、ミス・スカーレット……」
この時眼前にいる彼女をフランドール嬢と呼ぶべきかと一瞬躊躇って口ごもったが、ここには俺以外の人物も居合わせている為なるべく粗相も図々しくも無い柔和且つ、丁寧な口調で彼女に語りかける。
それにこのミス・スカーレットという呼称で呼んでいたレミリアはこの場には……居ないな……居合わせていないので誰を指しているかなんて混乱もしないだろうから、今の時点でも使っても大丈夫な筈。
「俺は怪我をしていない」
「えっ。で、でも唇……」
「こんな傷、怪我の内にも入らん」
目を見開くフランドール嬢に対し、俺は肩を竦めて苦笑い。目立つ裂傷ならば話は別だが、魔理沙によると傷口自体も浅いとの診断。勿論彼女の診断を鵜呑みにしている訳でもないが、この程度の傷は過去に何度も経験した事があっての経験談が所以の発言であり、俺の処置としてはなるべく傷口を清潔にしてこのままかさぶたで血が凝固するまで放置するつもりだ。
一応傷も縫合して塞ぐべきかも考慮するが、治療の中でも優先すべき一番の懸念は唇の傷が化膿しないかという点だった。
外の世界とは違う雑菌がこの幻想郷に紛れ込んでいる可能性があった場合、それが俺の唇の傷に混入したら既知の方法で除去出来るかも怪しい。──が、紅魔館は住人が居る手前、必然的に清掃の手が入ってるだろうから化膿の原因ともされる雑菌を主とした不衛生な環境を構築しているわけではなさそうなので、感染症による傷の悪化の懸念事項は杞憂で済むかもしれない。
それに現状で一番辛いのは脇腹の痛みの方が上回っているので、唇の傷や痛みなんて前者と比較すれば他愛無いものだ。
「で、でも私が追いかけた所為で────」
「過程としては、だ。現に結果として俺と君以外の者の干渉によって想定外の結末を迎えた以上事故なんだ。君が病む出来事じゃない」
事の末路では他者による闖入があったものの、こうなって今しがたまで眠り続けて怪我を負ったのは俺自身が招いた行動に帰結する。特に俺に光弾を放った第三者の視点からだと、俺がこの屋敷の主人の妹に危害を加えている様に映ったことだろう。
それ故に有無を言わず釈明する機会を与えぬまま、俺の手からフランドール嬢を解放する為に攻撃の手を加えた事は薄らぐ意識の最中で断片的に捉えた会話からして、確信しても間違いない。
拘束から解く為の武力行使……。俺の観点からしても、相手の観点からしてみても状況から判断した結果から導かれた当然の対処法。身内を守る為余所者──不審者には厳しい鉄槌を……要するに正当防衛の原則に則って、第三者はそれを実行したに過ぎないのでそれを咎める必要性は皆無に近い。
では仮にだがその第三者がこの紅魔館の主人、レミリア・スカーレットの場合であればどうだろうか? 妹のフランドール嬢は姉であるレミリアに嫌悪の念を露骨にしているが、その真逆──レミリアがあの現場に遭遇していれば、姉妹としては当然助けて同じく正当防衛の手段に講じるだろうか?
尤も、レミリアのフランドール嬢に対する愛情は未知数の為実際に助けるか否かは無論想像の範囲でしかないが。
「それにな、ミス・スカーレット……」
「え、な、何っ?」
「この一連は鬼ごっこだったんだろ? 最後の方は俺が疲れたからあんな落ちになったが」
「えっ……!? あ、あれは感情が高ぶったあまりの発言で……」
「いんや、鬼ごっこだ」
フランドール嬢の台詞を遮り、ベッド上に伸ばしていた足を床に下ろして十六夜に振り向く。
「メイド長。鬼ごっこといえど派手に散らかしてしまって……申し訳ない」
そう紡いで俺は彼女へと向けて深々と頭を下げる。本来ならきちんと立ち上がって十六夜に面を向けて頭を下げるべきなのだが、身体の状態が状態なので不躾ながらもこの様な形にしてしまった。
「おぎなりっ!?」
「──ッ!?」
一連の俺の仕草にフランドール嬢は目を開いて驚愕し、背後に隠れていた上海も驚きを隠せない様子。
そんな彼女らの反応を余所に、俺は十六夜に言葉を投げ掛ける。
「それと正確な成り行きを述べさせていただくが、此度は此方のミス・スカーレットが退屈とおおせたのでそこで俺が妨害行為有りという異種の鬼ごっこを提案し、その結果が斯様な有様になったというのが此度の真相だ」
思案を練って言葉を選ぶ前に支離滅裂で強引過ぎる、どこからどう聞いても聞き苦しいったらありゃしない弁解を説き、フランドール嬢に罰が向かない様に仕向ける。勿論メイド長という立場にいる十六夜の事だ、俺よりも先にフランドール嬢から聴取をした以上こんな詭弁を間に受けず看破されるのは無論承知の上。
それでもフランドール嬢の表情を見ていると、彼女を庇いたくなる庇護欲に掻き立てられるのは老いた証拠か? いずれにせよ、外見通り幼い……勿論背中にあるまじき翼を含めて……かはいざ知らず、幼年の少女が追及される姿を見ているのは気分の良い光景ではないことは明白だ。
「この件の騒動の責任と原因は全て俺にある。──だから、ミス・スカーレットを叱らないでやってくれ」
二度、頭を下げて十六夜に許しを請う。
「ち、違────」
突然の展開に困惑し、喉につかえた口調でフランドール嬢が声を反論の声を上げる。──がしかし、十六夜の言葉がぴしゃりと彼女の台詞を遮る。
「左様でございますか。しかし鬼ごっこにしては些か派手過ぎましたね?」
「……面目無い」
「ベッドやドアはすぐに修理致しましたが、廊下や図書館の被害は甚大ですよ?」
「……申し訳ない」
「この一件はまだレミリアお嬢様には報告してはおりませんが、図書館にいらっしゃったお方は激昂しておられます」
「……ごめんなさい」
「ついでに頭部にコブが出来たという妖精メイドも怒り心頭です。労災手当ならぬ傷病手当金代わりにビスケットを与えて落ち着かせましたけど」
「は、はぁ……」
頭を僅かに上げて視線を向けてみれば、十六夜の表情は平静を装っているものの、口調の節々から滲み出る怒気を含んだ声音と威圧的な眼差しがそれを台無しにしている。ただでさえ職場での厄介事に関しては管理職である十六夜にとっては迷惑甚だしい災難だというのに、それを引き起こした当事者である俺に憤怒の念を向けるのは至極当然の反応と言えよう。
レミリアにこの件を報告していないという事は、自身の判断で沙汰を下すつもりかもしれない。そのことから想定出来る処分は即座に屋敷から放逐という簡易な処分だが、その程度だったら俺自身も相応な処分だと別に構わないし、多少なりともフランドール嬢にもお咎めの追及が和らぐ筈だ。
──が、それ以外の処分なんてのは全く想像が付かず、何故か脳裏にて一瞬によぎったミートパイという末路に身体が自然と強張る。まさか廊下や図書館を破損させただけで挽肉になる筈はないだろうが、ここは吸血鬼が住まう紅魔館である以上有り得ないと否定出来ないのが現状。
「……」
ミートパイにされてレミリアやフランドール嬢の腹に収まる末路なんて想像するだけで恐ろしい……。それが切っ掛けか、様々な凄惨極まりない末路が拍車を掛けて脳裏に浮かぶも、ミートパイの材料になる結末こそが最悪な結末である事は瞭然。
もし挽肉になれと十六夜に判決が下された場合、上海は魔理沙にアリスの家に送ってもらうつもりだ。そうなれば心残りも無くなり、後は精々ミートパイになるという最悪な展開に対して覚悟をしておいた方が良いかもしれない────と達観していると、十六夜が重々しくて緊迫した空気が室内に充満しつつある最中、おもむろに口を開く。
「本来であればレミリアお嬢様直々に裁可を執り行っていただきたいのですが、お嬢様は既にご就寝中なので私が仕切らせていただきますと、此度のと類似した騒動は過去にも何度か御座いまして、中には小規模なものと屋敷全体を騒がせた事態も御座います。
その時に発生した騒動と比較致しますと、荻成様とフランドールお嬢様の起こした騒動はまだまだ愛嬌があって可愛いものです」
そう語って十六夜は眉を顰めて視線を逸らし、部屋の中央で事の成り行きを見守っている2人の内の片割れ……霧雨魔理沙を軽く一瞥。
「……」
……魔理沙、君は一体何をしたんだ。
「しかしながら両者が起こした鬼ごっこは紅魔館の就労者どころか、図書館の貴重な書籍にも被害が及んでおります。そして害意が無いにせよ、フランドールお嬢様を一時的に拘束した事は流石にいただけませんね」
「っ……」
沈黙したまま十六夜の言葉を受け止め、平静を装う自身の表情の水面下では焦燥がふつふつと募り始める。
……不味い。あの時の鬼ごっこも止める為の強行手段がここで響くとは思わず、これに関してはやはりあの作戦は早計だったか……? と後悔の念が滲む。あの時はああせざるを得なかった状況だったから拘束という手段に及んだのだが、こうして冷静に反芻するとあれが最善だったかと問われれば「他にも手があった筈」だと懐疑的に回答してしまう。
追い込まれたあの状況下ではフランドール嬢との交渉も危ういと言う独断での判断が含まれ、更に結果としてこうして粛々と十六夜の判決を待っている以上自分の行いを悔いても現状の結果としては取り返しの付かないことである事は明白。
一応フランドール嬢の言い分も含まれているだろうから情状酌量があるといえど、やはり挽肉は免れないなと最悪の結末に諦念して頭を項垂れた時、
「ですが──」
俺の思考を遮って真摯な面持ちの十六夜が玲瓏を帯びた言葉を投げ掛け、
「趣を変えた鬼ごっこなら多少の被害や想定外の事態になるのは仕方ないですね。……よって、この件の荻成様とフランドールお嬢様の追及は以上をもって不問とします」
と、今までの凄みは一瞬に霧散させ、肩を竦めて嘆息を含んだ言葉をあっけらかんとした面持ちで吐いたのだった。
「……はい?」
「……ほへ?」
俺に続き俯いていたフランドール嬢が呆気に取られた声を漏らす。お互い十六夜の言葉の意図に理解するのに短いながらも時間を要し、口振りからして要約すると、今回の騒動に関しては両者ともお咎め無し──と言われたのだから当然の反応だ。
「そうだなー、鬼ごっこじゃ仕方ないな」
「意趣の異なる鬼ごっこですもんね。多少の被害程度なら目を瞑りましょう」
呆然と硬直していると部屋の中央で寛いでいた魔理沙とレノンが、十六夜に同意した声を上ける。しかしいくらなんでも呆気なさ過ぎる判決に他の……俺達以外の被害を受けた図書館にいた住人……正確には本と本棚だが……や妖精メイドが黙ってはいないだろう、と示しが付かない旨の異議を唱えようと口を開きかけたら、十六夜はそんな俺の思考を読んだかのように言葉を紡ぐ。
「先程申した通り此度のと同様の……近しい騒動は紅魔館では日常茶飯事ですし、なによりこの程度の修理なら先述した通り手馴れているというのが判決の理由です。……主に私の仕事量が増えますけど」
漠然とした理由に俺はどういう意味かと疑問に首を傾げるも、これ以上の追及をするつもりはないと言い渡した十六夜はそう語りながら乾いた笑みを浮かべ、何故か哀愁の空気を漂わす。
……よっぽど同じ事が多発しているもんだから、苦労を通り越してもう開き直って達観しているのかもしくは諦めているかのどちらかか、或いはそこはかとなく落胆した表情から察するに、両方かもしれんが訊ねない方が良いかもしれん……。
「それと図書館でバラバラになった本ですが、中身も全て復元可能な範囲ですから何ら心配はございません」
あれだけ派手なやり取りをしたというのに図書館の本も無事だったとは……。やたらと分厚い装丁の本ばかりだったという記憶しかないが題名も確認していないのでどんな本だったのか若干気になった。
だがこのままお咎め無しで鎮座しているというのも居心地が悪い。なので十六夜に修理の手伝いをしようと提言してみた。
「その……、修理手伝おうか」
「いえ、お気持ちだけで結構です。わざわざ荻成様──お客様のお手を煩わせる訳には参りません」
手伝いは無用とやんわりと断られる。客人である立場の人物が破損した内装修理を手伝うなんて滑稽な提案を拒むのは、むしろ当然の反応だ。
或いは俺には本意も他意も無いが、メイド長という役職の十六夜の立場故に関係者以外の──外部の者に紅魔館内部をなるべく徘徊されたくない……という本心もあるかもしれない。
「……そうか。なら取り敢えず気持ち程度だけで」
「はい、荻成様のご配慮感謝致します」
なので頑なとして修理を手伝うと食い下がっても、彼女の迷惑になるだけなのでこの話題はもう出さない方が良いかもしれない……。そう思案して俺はそれだけを告げる。
となれば…………これで一件落着といった所か。いかんせん釈然としないが、裁定中はこれからどうなるもんかと心中穏やかでなかったのは言うまでもなく、十六夜の剣呑な剣幕に不甲斐なくも圧倒されて手の平と背中が自然と冷や汗に塗れたが、ミートパイという結末が杞憂で済んで良かったと溜飲が下がる息と同時に肩の力を抜いて安堵。
すると────、
「…………ど」
「……?」
「…………どうして」
唐突に届いたのは、間近でなければ聞き取るのも困難な小さな誰かの呟き。耳朶で捉えた声の発生源とおぼしき方向へ顔を向けると、声を漏らしたのはベッド脇の……俺のすぐ傍らでフランドール嬢だ。
あらかた予想は付くが、フランドール嬢の呟きは俺と同じく、納得のいかない判決を指している事は間違いない。しかしここで奇妙なのがフランドール嬢は叱られる事に嫌がっていたと言うのに、咎めないという結果の無罪判決に難色を示している様相を呈している事だ。
「元はといえば私がお人形さんに喜び勇んだ余りで、それでおぎなりや妖精メイドを危険な目に遭わせて、咲夜の手間を増やしちゃったんだよ……? 叱られて当然の事もいっぱいしちゃったのに……」
「…………ミス・スカーレット」
脇腹をなるべく刺激しない様ベッドから腰を上げて深紅の床に両膝を着いて屈み、何処か逼迫した声音と様相のフランドール嬢の視線と同じ高さに合わせる。
「────」
その際打ち所が悪かったのか脇腹が痛みの悲鳴を上げたものの、人前……特にフランドール嬢の眼前でそれを悟られる訳にはいかないので一瞬だけ歯を噛み締めて、喧しい痛みを押し殺す。
「年頃の女の子がお人形さんに熱中するのは別に悪いことではない。それに今回の件は、君も罪悪感があるんだろう……?」
「…………うん」
彼女は俺の言葉に小さく首肯。先程の光景を反芻したのか、深紅の双眸は悲愴に揺らぐ。
「なら今度はそれを経験に踏まえて、もう少し冷静になればいいんじゃないかな」
言葉通りに自身の感情を制御しろ、なんて造作もない様に思えて実際は複雑な事象だ。現にそんな事が最初から可能であれば「感情に委ねて」──なんて言葉は、そもそも生まれも使われもしない筈。
だがフランドール嬢は吸血鬼といえど人間と共通で人語も交わせる以上、心に付け込むような形になってしまうが心底から今回の件を反省しているのであれば、理解するにせよ然程難しい話ではない。
勿論、今回のその反省を教訓として今後に活かせるかはフランドール嬢次第であり、諫めるのであればこの程度の助言だけで充分な筈。後はフランドール嬢自身が解決すべき課題だ。
「出来るのかな、私に……」
「出来るさ」
俺からの言葉を受け止めて、不安な面持ちで深紅の床に俯く彼女に俺は抑揚も無いが可能だと明言する。
「それでも不安だったら誰かを頼ればいい。姉のレミリアしかり、メイド長の十六夜しかり、レノンしかり……」
と、途中で言葉を切って、一瞬だけ視線を逸らして部屋中央で佇む魔理沙を横目で見やる。
「友人の霧雨魔理沙しかり──、と言ったところか」
「友人……」
実際の話、魔理沙とフランドール嬢との関係を全く知らない。だが十六夜の剣呑な反応さえ除けば魔理沙がこの場にいる以上親しき間柄にあっても不思議ではないだろう、という推測の域で測った上での発言だ。
「……えっと、おぎなりは……?」
「ん? 俺がどうかしたか?」
「おぎなりは、私はおぎなりを頼っちゃ駄目……?」
「俺よりも身近な連中の方が良いんじゃないか」
「それは……そうだけれど……」
俺から視線を外して、部屋にいる各々の人物達を深紅の眼内に捉えた後、俺へと視線を戻すフランドール嬢。
「?」
彼女は悩みがあれば誰かに相談出来るという環境に恵まれている。だというのに表情は何故か芳しくない。
「私としてはおぎなりと、その……仲良くしたいし、今回の件みたいな事になっちゃったら頼りたいなって……」
「こんな狡猾なヒゲもじゃ髪もじゃ面の野郎とか? 俺みたいな輩は参考にしちゃいけないだろ」
「えっ!? ア、アレは言葉のあやというか、感情が昂ぶった結果と言うか……」
やけに長ったらしい名称の件を指摘すると、しどろもどろと焦って口を濁すフランドール嬢。
「で、でもっ! ヒゲもじゃ髪もじゃの根無し草風味の放浪者スタイルは否定しようがないけど、おぎなりが良い人だって少しは理解したつもりだし……」
「…………」
妖怪やら野人やらと酷い言われ様だが、やはりこうした反応を直に見せられると案外堪えるものだ。尤も、不衛生極まりない容姿を有り体のままに体現した俺自身の容姿は同姓の男性と同じく、異性の女性にとっては目も当てられない事には遜色ない。
それを実証するのがアリスの行動と態度だ。彼女は俺の容姿には目も当てられないと言いたげな態度を包み隠さずに振舞って、殺気を撒き散らしながらお風呂に入れと催促し、見ていられないとしびれを切らした調子で俺に鏡を手渡したんだから、余程俺の姿に憤りを抑え切れなかったんだろうな。
「だから、ね? おぎなり? ヒゲもじゃ髪もじゃでも……どんな格好でも私は大丈夫だから……その、私と…………と、友達になってくれる?」
「友達、か……」
「う、うん。駄目……かな?」
よもや見知らぬ土地でこんな小さな少女……吸血鬼と友情の仲を交わす羽目になるとは思いもしなかった。俺自身絵空事で非日常的な世界に身を置いているものの、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。
「…………」
友達……ねぇ。幾度となくその言葉をうわ言のように脳裏にて反復させる傍らで、俺の意識は昨日の記憶へと馳せる。
博麗神社にて八雲紫に頼まれた要件の詳細を知る為には、現状なるべく現地の住人と親しくして協力者を得るしか手立てが無い。その為にはまず相互の一定以上の信頼関係を築かなくてはならないという必定の前提条件であるので、かなりの時間を要してしまいがちだ。
今回フランドール嬢が今口にした友達になってくれというのは、その手間自体を最初から省けるのでこれは好機としか言いようがない。特に彼女は紅魔館の主人であり、姉であるレミリア・スカーレットの妹という特殊な立場。上手くいけばレミリアからフランドール嬢を仲介しての独自の情報入手が容易になるかもしれない。
「──」
……駄目だ。建前では友達を装い、本音がこれでは彼女の好意を裏切る背信そのもの。そもそも好意を逆手に扱い、前述の情報集めの為に彼女を表面上の役割で利用するという魂胆は甚だ笑止千万。それが紅魔館の連中に知れ渡ったらレミリアを筆頭とした面子が激昂するのは歴然。
それにこうして幻想郷に滞在している俺ではあるが、紫と“最後の魔女”の依頼が済めば外の世界……普段通りに過ごす世界へと帰途する身。将来的には二度と相まみえないであろう別れが待っている以上、そうそうと安請負い気味に友達になってよいものかと躊躇う。
「──荻成様」
黙考し、フランドール嬢と仲良くなるべきか否かと脳裏で逡巡の念が駆け巡る最中、事の成り行きを見守っていた十六夜がフランドール嬢の横に回り込み、唐突に俺へと声を掛ける。
「んむ?」
「私からもフランドールお嬢様と懇意にしていただますと幸いです」
その声に反応して何だと十六夜に振り返ると十六夜がそんな言葉を俺に投げ掛け、信じられない事に恭しく頭を深々と垂れた。
「咲夜……」
突然の光景にフランドール嬢はあんぐりと口を開けて呆気に取られた様相を露わにし、その一方で俺は十六夜の言動に違和感を覚えて訝しむ。
「……」
俺はレミリアによって招待された客人であり、彼女ともフランドール嬢とも十六夜ともお互いの面識はまだ浅い。だというのフランドール嬢の立場と道徳上、外の世界から来たどこの馬の骨とも知らない輩と仲良されて悪い習性やら悪癖が付いたら困るだろうに、彼女は自ら頭を下げてフランドール嬢と懇意──友達になってくれと頭を下げてきた。
邪推し過ぎかもしれんが俺の思惑に気付いたのか、はたまた純粋な気持ちでフランドール嬢と仲良くして欲しいという願望の表れか。その真意を見抜こうにも、判断材料が圧倒的に欠乏している。
先にも述べたが俺は帰る身だ。しかしここで断ってしまえばフランドール嬢が自ら勧める好意も、十六夜の行為も全て無碍にしてしまう。
そうなると精々可能なのはフランドール嬢とどれだけ仲良くするかだ。仲良くするにせよその度合いは浅過ぎず、深過ぎなければ大丈夫の筈。第一、外の世界に帰る事が決まっている以上友情は勿論浅い方が良い。
「……」
……だと言うのに、フランドール嬢のあの曇った表情が何故か心の片隅に引っ掛かった。
詮索するつもりも干渉するつもりも微塵たりとも無いというのに、あの悲しい眼差しはお伽噺に聞かれる恐ろしい吸血鬼の姿とは程遠い、何かに怯えているような……そんな眼差し。
「…………」
……全く。無粋だと言うのに、年を取ると些細な反応だけで難儀な情念も混ざる様になるもんだ。
「……おぎなり?」
「…………まあ、こんな俺でよければ」
「えっ……?」
「言葉通りの意味だ。こんな俺でよければ、ミス・スカーレット……友達になろうか」
先程垣間見たフランドール嬢の表情とその心を傷心させても、そんな彼女の為に只の異邦の客人に頭を下げた十六夜の面目を潰さない為にも、悩むに悩んだが躊躇いを捨て、結局俺は彼女と友情を交わすという選択をした。
ただし、悲しませるという結末から逃れられない名残をフランドール嬢に残してしまう可能性がある選択をしてしまった後悔もあるが、それを今更懸念しても友達になろと決断して言葉にしてしまった以上、仲良くするにせよ一定の距離を保ちつつ、こうやって開き直った方が良いのかもしれない。
第一、情報を得るにしたってレミリアからフランドール嬢経由ではなく、レミリア自身に直接訊ねるという選択肢もあるので、この件にフランドール嬢が巻き込まれる可能性を考慮すれば至極当然な結論だ。
「え────え、えぇぇっ!?」
「そんなに驚く事か?」
「えっ!? あ、ご、ごめんなさい。えっと、ずっと黙ってたから嫌なんじゃないかなって……」
俺の友達になろうという発言にフランドール嬢は驚愕の反応を見せ、その理由を訥々と語る。
「嫌ではないさ。黙ってたのはちょっと考え事をしててな……」
彼女の態度に若干憮然としながらも彼女の驚いた反応とその理由の言葉を受けて、そういえば沈黙していたなと思い返す。何も発せず意識を思案に飛ばしていた自身の姿が逆に彼女の不安を煽ったのかと思うと、悪い事をしてしまったなと内心にて反省。
「そ、そう? なら良かった。──ならこれから仲良くしようね、おぎなり!」
「ああ。こちらこそ宜しくなミス・スカーレット」
気を取り直してお互い自然な動作で手を差し出して、初歩的ながらも友情の象徴でもある握手を交わそうとしたが、フランドール嬢は俺の言葉に眉を顰める。
「……」
「どうした?」
「…………フラン」
「ん?」
「フラン、って呼んで。ミス・スカーレットて堅苦しい呼び方はちょっと、こそばゆい感じが……」
「え? えっと……」
単純な要求に困惑し、フランドール嬢の横に佇立する十六夜にそっと目配せをすると、彼女は口元に微笑を浮かべて「ご自由に」と含みのある視線を送って小さく首肯してみせた。
どうやらフランドール嬢を“フラン”と呼んでも構わないようだ。初めて会った際は本人の口からそう呼んでくれても構わないと言われたものの、彼女と俺の立場上馴れ馴れしくそう呼ぶのは些かはばかられた。
──がしかし、現在彼女とは友達という対等な立場となり、そこに十六夜の了承も得たので試しにその呼称で呼んでみるのも有りかと思い、ゆっくりと口を開く。
「え、えーと、フ……フラン?」
「……なんだか『腐乱』みたいな発音。私腐ってないよ?」
「……悪い」
今しがたまで寝ていたもんだから、若干滑舌がぎこちないのは許して欲しい。
「フランドール・スカーレットならぬ、腐乱慟流栖可亜烈徒……。非行に走ったらこんな風に名乗るかもな……」
「霧雨さん少し黙っててください。そもそもフランお嬢様みたいな可憐で聡明な女性が、悪逆非道爆裂爆走街道一直線の非行に走る訳ないでしょうに」
「そう突っかかるなって。それに騒いでるわけじゃないし、こういう当て字ネーミングはお前さんだって一度位あるだろ?」
「記憶喪失ですから存じません。もしあったら心の片隅奥深くの戸棚にがっちりと錠を掛けて、第三者に露見しない様永久封印しておきますとも」
お前らちょっと黙ってろ。
「悪かった。フラン、フラン、フラン……フラン? これでいいか」
「うんっ、その発音だよおぎなり。よく出来ましたっ」
2人の会話を他所に何度か彼女の──フランの名前を呼ぶと、彼女はしっかりと発音出来た事に満足して鷹揚に頷く。
しかし……“フラン”に、“おぎなり”か……。
「…………フラン」
「? どうしたのおぎなり?」
「俺は荻成怜治だ」
「……知ってるよ?」
「名前で呼んでも構わんぞ」
「え……っ?」
フランは自らを呼称で呼んでも構わないと許可をしてくれたのだ、ならば俺もそれに応えて友情の証として名前で呼んでも構わない旨を告げる。
「友達同士なら名前で、それも遠慮も気兼ねも無く呼び合うものだろう?」
「っ! じゃ、じゃあ…………れ、れーじ?」
「それじゃあまるで時刻の零時みたいだぞ」
「……むぅ~っ! それなら……怜治? れいじ? レージ? れーじ? レイジ?……れーじ? うーん……怜治かな?」
意趣返しの言葉にフランが頬を膨らませるが、すぐに発音を何度か繰り返して「この呼び方でどう?」といった具合に、フランが嬉々とした面持ちで訊ねる。
俺の場合様々な呼ばれ方をしているのでどれでもよいのだが、彼女には“怜治”の呼び方がしっくり来るのだろう。
「ああ、宜しくなフラン」
「うんっ、宜しくねおぎ……怜治!」
伸ばしたものの引っ込めた手を再度差し出し、フランもその手を握り今度こそ握手を交わす。あれだけの暴威を振るったというのにその手付きは華奢で、蒼白とも勘違いする程までに白い肌の感触は淡雪の如く柔らかく、嬉々と朗らかな表情を浮かべるその姿はまさに年相応な少女そのもの。
こんなあどけない少女に先程まで畏怖していたのがまるで嘘みたいだ。むしろ、こんな少女のどこにあれだけの力が潜んでいるのかが不思議である。
それを解明するのは……別に今でなくてもいいか。
「こちらこそな。……おっと、そうだ」
「うん? どうしたの怜治?」
「そしてこれが連れの──上海人形だ。正確にはアリス・マーガトロイドという少女の使い魔だけどな、一応紹介しておこう」
「ッ!? ~ッ」
握手を終えて即座に立ち上がり、すかさず横に一歩退いて俺の背中越しから様子を窺っていた上海に視線を移す。すると彼女は俺が唐突に横へずれた事に慌てふためき、身を翻して俺の背後へ引っ込もうとする。
「駄目だ上海、フランに失礼だろう」
「~ッ!? ~ッ!」
背中にしがみ付いて隠れられる前に上海の襟首を掴んで、隠れるのを未然に防ぐ。フランと対峙した時の態度と反応には後のあの逃走劇で充分理解したが、これを切っ掛けに仲良くすればフランも早々と上海にあの恐ろしい力を振るわなくなる筈だ。
本来、上海をフランに紹介するのは主人であるアリス・マーガトロイドの務め。だがこの場にはアリスは居合わせず、言葉を理解出来ても発する事も適わない上海のみである以上推測の範疇でしかないがこうして俺を介して再認識すれば、今後フランも上海への態度を多少なりとも改めるだろうから、一応紹介をしておくべきだろう。
この事をアリスが知れば差し出がましい事をするなと憤るかもしれないが、その時はちゃんと謝るつもりだ。
「~ッ! ~ッ!!」
手足を我武者羅に振り回して俺からの拘束から逃れようと試みる上海。だが襟首を掴まれ、体格差も歴然としているので流石に俺を牽引した力をこの状態では発揮できまい。
「あ、あの怜治? お人形さん嫌がってるみたいだけど……?」
「気にするな。上海、フランと仲良くしてくれないか?」
「~ッ! ~ッ!」
聞く耳なんて持たぬとばかり、俺の手を振り解こうともがき続ける上海。頼むにせよ態度と言うものがあるが、今手を放せば一目散に物陰に逃げ込みそうなのでこのまま上海に語りかける。
「…………上海」
「──ッ!?」
声音を落とし、やや威圧的ながら上海に呼びかける。今までこういった態度で接する機会がなかったので、上海は俺の変化に身体を竦み上がらせた。
「俺の身勝手なのはわかるが、彼女──フランは自分の非を認めたんだ。君が怖がるのもわかるが、フランの友人としてその態度を見過ごす訳にはいかない。……だから、その……上海、俺からもフランとも仲良くしてくれないか?」
そう言って襟首から手を放すと上海は中空に浮かび、俺へと視線を巡らせ、次にフランに顔を向けて戸惑いの仕草を見せる。
「──ッ」
傍目からすれば俺が脅していも同然な光景。──が、今まで恐怖の対象であった吸血鬼と仲良くしろと言われたのだから至極当然な反応だ。
種族を問わず畏怖や畏敬といった類の様々な念から、忌避されている吸血鬼と仲良くしろという事自体無理難題。しかしこれを機会にすれば上海が紅魔館を単身で訪問しても、フランに玩具として扱われる事無く危険も無く安全に過ごせる可能性が生まれる。
それを考慮すればフランと友達とまでは至らずとも懇意になるのは然程悪くはないのだが、前述の理由からいかんせん釈然としない様子が明白だ。
一応俺の発言や態度はあれど、強要している訳でもないので上海がフランと仲良くするのを良しとせず断ってしまっても別に構わないし、フランも自分自身の行いで上海が懐疑的な態度を取る前提の非が有る手前、逆上する事はないと思う。────多分。
「……お人形さん、怖がらせてごめんなさい。もう二度とお人形さんを怖がらせる真似なんてしないから、私と友達に……仲良くなってくれる……?」
躊躇している上海に対して、フランは頭を下げて上海に謝罪の意を示す言葉を投げ掛けた。
「~ッ! …………」
迷いに更なる拍車を掛けるフランのその行動に上海は葛藤する振る舞いをした後、顔を俯かせて視線を深紅の床に落とす。
「…………ッ」
床を凝視しつつせわしなく手をまごつかせて、首を振り思案に耽る仕草を見せ付ける上海。それを何度か繰り返し、時間に換算しても1分にも満たないものの整理がついたのか落ち着きを取り戻すと、フランに向き直って視線を交わしておずおずとながら小さく頷いた。
「え……えっと、仲良くしようって事で解釈してもいいのかな?」
「……」
小首を傾げてフランが上海に問い掛けると、上海はその言葉に再度頷き……フランの質問に首肯した。
「そっか。なら、よっ、宜しくね上海……ちゃん?」
「……」
不安げな面持ちで成り行きを見守っていたフランは、上海の決断に表情を嬉々としたものへと変えて手を差し出す。
「……」
そしてその差し出されたフランの手に上海は若干ぎこちないが中空に浮かびつつゆっくりと近寄って自身の手を伸ばし、彼女と握手を交わす。
「あっと、私の手大きすぎるね。それなら……」
握手を交わそうとした瞬間、体格差があることに咄嗟に気付いたフランは上海の差し出された手を人差し指と親指で彼女の手を摘むようにして、そっと握り締める。
「ふふっ」
「ッ! ……~♪」
上海と握手を交わすことに喜びを隠せないのか、小さくはにかむフラン。その唐突な表情の変化に上海は最初は何事かと困惑した態度を覗かせたもののそれもほんの僅か、最終的には警戒心を解いた態度でフランと接し始める。
「……一件落着ですね」
「だな……」
不躾ながらも握り潰されやしないか……という一抹の不安も杞憂に済み、物腰柔らかないつもの調子を取り戻した上海の姿に安堵する傍らで、隣に佇み、両者のやり取りを見守っていた十六夜の言葉に俺は同意の言葉を呟き、種族を超えた新たなる友情が誕生した瞬間を共に見守ったのだった。
◆
「──さて、そろそろお開きにしましょうか」
今までの緊迫した空気は一転してフランと上海を中心に穏和な空気が室内に満ち始めた頃、レノンがおもむろにそう口を開いて解散の旨を告げる。
「そうだな。かなり暗くなってから、そろそろ家に帰るか」
レノンの言葉を肯定する魔理沙に促されて窓の外に視線を向けてみれば……確かに、外はもう真っ暗だった。
窓越しに移る外の景色は本来の美しき光景を冷淡さを帯びた暗澹とした闇に塗り潰され、如何なる存在さえもその全容を現すことを認めない。唯一頼りなのは天上にてまどろみを誘う不思議な瑠璃色の妖光と放つ月と、遥か彼方の幾星霜達による僅かな星光だけ。
そんな暗さの為、眠っていた間に日付が変わっているのではという錯覚を覚えた。
「俺はどれ位眠っていた?」
「それ程長く眠ってはおりません。時間に換算しますと、およそ30分てところです」
正確な時刻はわからないが、フランから逃げ回っていた時には既に夜に差し掛かった辺りだと記憶している。手元に時計が無いのでどの位眠っていたのかがわからないので誰彼問わず虚空に質問の声を漏らすと、十六夜の声によって返ってきた答えは意外にも昼寝をするのと全く大差が無い時間。
「30分? もっと長く寝ていたのかと」
「いいえ事実です」
「そうか……」
一瞬だけ唖然として思考が固まる。あの騒動自体がそもそも長い夢だったのではないかという妄想を抱いたが、全身に纏わりつくこの疲労感と脇腹の痛みは現実であり、それはあの騒動が実際に起きた出来事だという事を証明している。
だが長く気絶していなかったとわかった事に安堵し、思考を切り替えて視線を窓越しに移る光景に移す。
「…………」
外は前述した通りの闇夜の暗さだが、天然の照明ともいえる星明かりと月明かりが燐然と視界に反映されているお陰で僅かに景色が窺える。
自然豊かなこの地では照明……人工の照明の類なんて精々橋に設置されたガス灯や図書館の入り口の照明器具程度しか見かけなかったので、その恩恵は若干頼りないが無いよりはましだ。
それらの明かりを頼りに……痛む脇腹とあの鬱蒼とした森が不安だが……大至急アリスの家に向かい、上海を送り届けねばと思ったその矢先、
「それでは荻成様、本日はこのまま紅魔館にご宿泊してください」
十六夜の言葉によって、一瞬にしてその出端を挫かれた。
「待ってくれ。俺は泊まるつもりは──」
「荻成様、身体が動くとはいえ、時間帯は既に夜に差し掛かっております。この時間帯は危険ですし、何より移動しようにもその手段が限定されております」
立ち上がりつつその理由を訊ねようとするも、至極最もな十六夜の言葉に俺は口篭ってしまう。
「…………」
今この部屋にいる吸血鬼のフランと、意思を持つ人形である上海人形。人外であれどこの2人は俺に対しては友好的。しかしそれ以外の、意思疎通の不可能な獰猛な獣の類や妖怪がいる可能性は一昨日のアリスの説明からしてやはり拭えない。
彼女の言うとおり、魍魎跋扈が当然ともいえるこの土地では人とは異なる種族にとって最も活発的な時間帯があるとすれば、恐らくそれは夜間の間だろう。
だとすれば自分から餌になりたい、もしくは自殺願望があれば夜間の外出なんてあるだろうが……、十六夜の提案を無視してこのままアリスの家へ強行しても、その道中で妖怪や獣に襲われて上海を危険に巻き込む可能性を考慮すれば、今日はもう十六夜の言葉に従って紅魔館に泊まった方が良いのかもしれない。
しかし移動が限られているという言葉が妙に心に引っ掛かったので、どういった移動方法なのかと十六夜に訊ねてみる。
「ところで限定されてるという、その移動手段というのは?」
「空を飛ぶことです。それも高く、速く」
「…………」
うん、絶対無理。そんな恐ろしい事、想像しただけで眩暈が起きる。
「ところで荻成様は空を飛べるので?」
「……飛べない」
飛べない事に関しては隠す必要性なんて皆無なので、恐怖症のことは伏せて素直に飛べないことを告げる。
「そーそー。昨日博麗神社まで運んだのも、今日湖の手前で降ろしたのも私が箒に乗せていったもんな」
俺が本当に飛べない事を補足する、魔理沙の声が届く。
「それなら尚更今夜は紅魔館にお泊まり下さい。それにこれはレミリアお嬢様ならびにフランドールお嬢様、──そして私自らのご好意です」
「私からもお願い。おぎなりと、上海ちゃんに迷惑をかけたお詫びに」
十六夜が促し、それに倣ってフランも俺達に泊まるよう念押しする。
前者は客人としての立場の俺を考慮してのもの。後者はお詫びとを含めてのものだということは今までの状況を反芻すると納得の発言である。
お互いの発言の旨は立場上メイド長である十六夜はレミリアを通じて、俺に泊まらせる様指示を出していても然程不思議ではないし、フランも先程の鬼ごっこのお詫びとしての発言だとすれば至極納得の理由だ。
しかしながらそこに入り込む余地は無さそうな十六夜自身の好意という言葉を脳裏で反芻して、好意とはどういう意味なのかと訝しんだが、それは先程のフランとの友達になるやり取りの事かと即座に気付く。
「……?」
立場上、姉であるレミリアを通じての交友関係が広いと思われたフラン、そんな彼女の俺と上海と友達になった時のあの喜び様に違和感を覚えた。
社交的価値観から見れば、俺みたいなのと上海と交友関係を築いても得するのはほんの僅かだと思うのだが、その辺りの真意は知る由も無い。唯一、それこそが十六夜の発言に含まれていた“好意”という言葉の……フランと友達になってくれた……というのが、真意の意味という事だけは把握できた。
「…………わかった。それじゃあ今日はここに泊まらせて貰うよ」
フランの交友関係についての推察はひとまず置いて、ここまで泊まっていけと言われては到底無碍にし辛い。特に今日は紅魔館に泊まるという判断は彼女らが口を開く前から胸中で決めあぐねていたが、体調と時間帯、何より2人の後押しが決め手となって最終的に宿泊決定の旨を告げる。
「泊まるんだっ!?」
「ああ。嫌なら直ぐに出て行くが……」
「違うよっ! その、すんなりと泊まるみたいな事を言うものだからちょっと驚いただけで」
「頭の中で検討した結果だ」
あっさりとした口調で宿泊発言をされたものだからか、フランが狼狽する。
「そっ、そうなんだ。なら咲夜……」
「はい。では早速食事の用意をしますね」
「それなら……そうだな、サンドイッチみたいな軽食で頼む。それが済んだら眠らせて欲しい。今日は…………凄く疲れた」
ただでさえ今日は空を飛んだり、雨で濡れた地面に転んだり、吸血鬼に会ったり、追い掛け回されたり、窓べりにぶら下がって地面見ちゃったり、パンダを思い出したり、未確認動物扱いされたり、階段から落ちたり、吹っ飛ばされた挙句ネズミ扱い……と、本日の出来事を振り返りながら「失礼」と十六夜に断りを入れて、ベッドに腰掛ける。
「なら私にも豪勢な食事をご馳走させて泊めてくれ。私は皆と仲良しだからな、これ位造作無いだろ?」
「アナタの場合、返す物を返したら多少は考えてあげるわ」
「ちぇ」
そこへすかさず魔理沙が会話に混ざるも、十六夜はそれをぴしゃりと断り魔理沙の宿泊を拒む。……というか、魔理沙はどうして十六夜に邪険に扱われているのだ?
「相変わらずなこって。ならさっさと帰ろうかね~」
「それなら……じゃあ魔理沙、上海をまた頼まれてくれ」
「ん? ああ構わないぜ。ほれ、こっちに来いチビっ子」
魔理沙に上海を託す。彼女が家に帰るのならば、昨日みたいに送ってもらったほうが良いだろうと踏んだのだが……
「~ッ!!」
上海は魔理沙の伸ばした腕から逃れ、俺の背中へと回り込んでしまった。
「あれ、上海ちゃん?」
「こら上海、何を──」
フランの怪訝な声を上げる傍らで、背中に手を回して上海の身体を掴もうとするも、彼女は機敏な動作で反対方向へと逃げてしまう。
「……」
「~ッ!」
更にその矮躯を掴もうと身を乗り出そうとするも、上海はそれを察するや否やベッドの端まで一気に飛行して駆け、四肢を駆使してベッドボードにしがみ付く。
「…………」
上海の不可解な行動に俺を含めた一同は、怪訝な眼差しで彼女を見つめる。
「あー……もしかして残るのか?」
謎の行動の意味を知るべく、一同を代表するかのように訊ねた魔理沙の質問に上海はベッドボードにしがみついたままの姿勢で鷹揚に頷く。
「珍しいな、コイツがそんな態度するなんて。でもまあ、気持ちはわかるがな」
「どういう事だ魔理沙」
魔理沙に目配せすると、彼女は困った仕草で肩を竦める。
「コイツなりにお前の事が心配なんだろうさ」
「心配だと?」
俺の隣で見ていた魔理沙は呆れた様子で語る魔理沙の言葉に首を傾げ、上海の襟首を掴んでベッドボードから引っぺがそうと試みるも、彼女は頑としてベッドボードにしがみ付いたまま微塵たりとも動こうとしない。
「そりゃここ、泣く子も黙る紅魔館だもの。お前さんがここに1人だけ残って自分だけが帰るってのが気掛かりなんだろうさ」
魔理沙の発言に、依然ベッドボードにしがみ付いた体勢の上海はその通りだと言わんばかりに大きく頷く。
「泣く子も黙るとは心外ね霧雨魔理沙。メイドがいて吸血鬼がいて、魔法使いがいて、妖精メイドがいて……、どこからどう見ても心躍る素敵なお屋敷じゃない」
「冗談言うな。切り裂き癖のあるメイドってのと、ちんまい吸血鬼ってのと、お外嫌いな魔法使いってのと、おつむの弱い妖精メイドってのと、塗装業者仰天の真っ赤な屋敷だというのを除けばな」
魔理沙の発言に憮然と顔を顰めた十六夜が口を挟むも、魔理沙がそれを薄ら笑みを浮かべてのらりくらりと言ってあしらう。しかし十六夜の台詞を聞いて、空想やら幻想世界の畏怖すべき存在が凝縮された場所に心躍るか、と問われれば、むしろ心躍ると言うより戦慄で心臓の鼓動が激しくなるのでは──、というのが俺の回答だ。
だが現実では到底見れない存在……メイドに関しては微妙だが……が、1つの場所に集まっているのだ、感受性によっては意外にも好感を得られるかもしれない。
──が、一般論からすれば俺の意見の方が正しい筈だ。……正しいよな?
「で、どーする? そのチビっ子、梃子でも動かなさそうだ」
十六夜との会話を切り上げて俺に対峙する魔理沙。その眼差しは俺と同じくベッドボードに掴まったままの上海人形に向けられており、表情は眉を寄せて戸惑っている様相。
「うーむ……」
魔理沙とは対照的に表情には露呈してはいないものの、俺の胸中内でも上海の扱いに悩んでいた。
強引に引き剥がそうにも前述の通り、彼女は微動たりともしない有様だ。かと言って発想を逆転させてベッドボードを切り落として連れて行くってのは十六夜が了承する可能性は皆無どころか怒りを買いかねんし、いっその事拘束手段に講じようにもこちらが先に手を出すのが前提の手前、手を出せば逃げられる事は確実だ。
強硬手段を強いてこちらから手を下しては、今度は俺達が上海を追い掛け回す羽目になるだけだ。体格差もしかりだが、機敏な動作で動き回れたら確保が困難になる──と上海を連行する方法を諦めて、今度は説得する方法を思案。
しかし行動や態度で頑なに示されている以上、説得を試みようにも既に遅く、聞く耳持たずと拒否されるのは明白。こうなってしまっては最早、俺が折れて上海の要求を受け入れるしかない。
「……仕方ない。魔理沙、上海の魔力はどの位持つ?」
「そうだな、普段から魔力を補充して貰っているのを前提とすれば……数日位なら大丈夫じゃないかな?」
アリスの魔力を動力源とした上海の稼動時間についての詳細に関して、アリスの口から告げられていないので全くの無知ではあるが、魔理沙の言うとおりなら1日位平気か……。
「上海、家に帰りたくないのか」
俺の問いに上海は小さく頷く。
「魔力は余ってるか?」
「ッ!」
再び頷き、肯定の意を示す。本当に魔力が残されているかの真偽を詰問する気はないが、どうやら魔力は充分に余っているようだ。
「…………なら今日は一緒に泊まるか」
「……ッ! ~♪」
「ただし、帰ったら俺と一緒にアリスの説教を受けるように」
「──ッ!?」
昨日は俺の所為でそのまま外出となってしまったが、確認した限り今日はちゃんと主の許可を得ての外出だ。だがその許可に外泊が含まれているかは不明だが、何れにせよ俺の行動が上海を危険な目に遭わせた他、こうして許可の有無の定かではない以上アリスに叱られるのは覚悟の上だろう。
勿論、有無に関わらず外泊を助長させた俺もその責任を一緒に背負うつもりである。
「話は纏まりましたか?」
「ああ、煩わせてすまない。今日は俺と、そこの上海人形が泊まる」
自身の行動が裏目に出て、失態を犯してしまったと言わんばかりにベッドボードにしがみ付いた体勢のまま戦慄き始めた上海……そのお陰で外泊許可を得ていない可能性が濃厚になった……を尻目に、十六夜と言葉を交わして宿泊客をもう1人……正確には1体か……、追加された事を伝える。
「そうですか。ならば早速お食事の用意をして参ります」
「じゃあ私も一旦部屋に戻ろうかな。怜治はゆっくりと休んでね」
そう告げて、十六夜とフランは踵を返して廊下に続くドアへと向かい始めた。
「ではレイさんも起きた事ですし……それでは霧雨さん、参りましょう」
「私の事は魔理沙って呼べってーのっ!」
「霧雨さんは霧雨さんです。ほら、さっさと行きますよ」
「……わかったよ」
それを追うように魔理沙もレノンに促されて、部屋の出口へと向かう。
「さ、フランドールお嬢様」
「有難う咲夜。じゃあね怜治、上海ちゃん。お休みなさい」
ドアを開けた十六夜の前に立ち、こちらへと振り返って小さく手を振るフランドールに、俺と上海は小さく手を振って答えると彼女は悠然とした足取りで部屋の外へと消えて、続けて魔理沙が「じゃーな」とフラン同様、俺達に手を軽く振ってドアを潜り廊下へと姿を消す。
そして最後にレノンがドアを潜って部屋から退出する──かと思いきや、十六夜の前に立ち止まり、おもむろに口を開く。
「ところでですが、どうして私の部屋にレイさんを?」
「アナタの部屋なら男物の服揃ってるからよ」
「それだけの理由ですか……?」
「ええ、それだけ」
「……それだけの理由で、私の部屋は客室になったのですか?」
「これから夜勤だから別にいいじゃない」
「…………休憩場所は」
「休憩室があるでしょ」
「………………あの部屋で休憩していると、高確率で妖精メイドに悪戯されるのですが」
「良い刺激になるわ」
抗議も空しく、肩を落として落胆するレノンにしたり顔で小さく微笑む十六夜。そんな2人の会話をベッドに腰掛けた体勢のまま、今更ながら「この部屋、レノンの部屋だったのか」と流し聞き、どうりで男物の服がタンスの中に用意されていたのかが理解出来たところで────
「あ……れ?」
──唐突に思考が凍結して身体が強張り、言葉を失う。そして今しがた繰り広げられた2人の会話内容を今一度脳裏にて反芻するや、漠然とした恐怖心が俺の心を襲う。
2人の会話で判明したのは、この部屋はレノンの部屋だという事。そしてレノンは男であり、紅魔館の就労者──服装からして執事職に就く者であるという事。
……そして今しがたの会話には上がらなかったものの、あの衣装タンスの中には男物の燕尾服の他に…………メイド服が吊るされていたという衝撃の光景。
「────」
という事は、だ。タンスの中に吊るされていたあのメイド服の持ち主は────
「それではレイさん、どうぞごゆっくりお寛ぎください。はぁ……」
「えっ!? あっ、あぁ……」
十六夜との会話で気力を失ったレノンが恭しく頭を垂れて俺に言葉を送ると、彼は静かに室内から去った。
当の本人から投げ掛けられた声に驚いた所為でどもってしまい、妙に不自然な見送り方になってしまったが気取られていないよな……?
……それともう遅いが、レノンには心の中で謝っておこう。
「如何されましたか?」
「な、なんでもないっ」
レノンに思考を遮られた拍子で発した声音から違和感を察知したのか、十六夜が怪訝に首を傾げて訊ねてくるも、即座にはぐらかす。
「左様ですか。それでは荻成様、料理が出来上がり次第また参ります」
ではまた後程……と俺への怪訝な感情を僅かに残して十六夜も恭しく一礼した後、こちらに背を向けて部屋から退室し、ほどなく1拍置いた後ドアが静かに閉められた。
「…………やれやれ」
辛うじて聞こえる物音……足音が徐々に遠ざかり、それが無音と化すと一気に脱力して安堵の息を吐く。
些か危うかったものの、どうにか十六夜にも察せられる事だけは回避できた。もし詰問されていたらどう対処すればよいものやら……と、もしもの仮想を思案を練るも、結局はレノンへの印象が大きく変化することになるし、紅魔館への態度も改めざるを得ない。
兎に角、これは頭の片隅の中に封印した方が安全かもしれん。でないと先程から脳裏をよぎるおぞましいったらありゃしない、タンスの中のメイド服に身を包んだレノンの姿の所為で心が擦り切れそうだ。
「少し横になってるか……」
強引に思考を打ち切って目を瞑り、ベッドに身体を預ける。後はそのまま何も考えずに十六夜が料理を運んでくるまでの暫しの間、その心地良い感触を堪能することにした。
◆
皆が部屋から去った後、程なくして十六夜が部屋に訪ねてきた。彼女はハムとタマゴ、レタスを挟んだサンドイッチ、おまけにリンゴジュース入りのグラスを運んで来、それ等を全て胃の中に収めて平らげると、今度は脇腹をなるべく刺激しないよう、ぎこちない動作でテーブル上に予め用意しておいた洗面器と歯ブラシと容器入りの歯磨き粉で口の中を清潔にし、濡らしたタオルで顔を拭く。
歯磨きはレミリアと会う直前木の枝を見つけてそれで済ませたが、翌日またあの森の木の枝を折るのも億劫だし、毎度あの樹液の苦味は流石に堪えるので料理を運んできた十六夜に歯磨き道具一式を訊ねてみたら、彼女は俺に「化粧台の引き出しの中にあります」と教えてくれた。
憶測でしかなかったが、客室が用意されている以上日用品が備わっているという考えが的中したのが幸いだ。だというのに俺は流石に欲張りすぎと思うものの、「譲ってくれないか?」という質問を繰り出してみたら意外にも彼女は嫌な顔をせず「消耗品の備品ですが、別にそれ位なら構いません」と、この歯磨き一式を譲ってくれた後部屋から立ち去った。
……因みに、この歯磨き一式は俺が寝ている間に用意した新品とのことなので、レノンの使用済み歯磨きセットではない。
「~♪」
「む?」
歯を磨き、口をゆすぎ終えて先程までサンドイッチが盛り付けられた皿とリンゴジュースが満たされていたグラスをテーブルの隅に纏め終えてベッドへ振り返ってみると、上海がタオルを化粧台の上に積み上げていた。
一体何をしているのか気になって行動を見守っていると、彼女は出来上がったタオルの山に飛び込んで、その感触に嬉々とした反応を窺わせて飛び跳ねていた。どうやら化粧台の上に築いたタオルの山は彼女自作の簡易ベッドらしい。
俺と一緒に紅魔館に1泊すると決め、後日のアリスの態度がどうなるかと恐々としていたが、結局開き直ったようだ。その切り替えの早い爛漫な姿を見ていると、このあばらの痛みを引き換えにした甲斐があるもんだと安堵の念が湧き、わざわざ寝床まで自作するとは意外に器用であると内心でちょっと感心。
「ふぅ……っ!」
上海の様子を傍目に、靴を乱暴に脱ぎ捨ててベッド──そういえばフランに壊された筈だが、何故か綺麗なまま──に横たわって肺に溜まった息を吐き出すと同時に、腹部に痛みが奔る。無論、上海に要らぬ心配を掛けさせぬ様、表情は平静を装ったまま。
「──」
脇腹に疼くこの感覚だと触れて確認するまでも無く、肋骨……あばら骨が確実に折れている事は間違いない。これが亀裂のみの1本だけなら放置していても勝手に治癒するが、それ以上の本数だと流石に自然治癒に任せる事は危険なので、迅速に医者に診て貰わねばなるまい。
無闇に患部を刺激しない様、寝返りを打たず維持し続ける必要性が有るのが辛い。尤も、睡眠中にそれが出来るかは怪しいが。
「……」
脇腹を断続的に刺激してくる痛み紛らわしに真っ赤な天井を見上げ、嘆息したと同時に込み上げた唾液とは異なった、生暖かい鉄の味をした液体を強引に嚥下する。
嗚呼、気持ち悪いったらありゃしない。全く以て気持ち悪い……。飲み込んだ液体と一緒に流し込んだサンドイッチとリンゴジュースをこの場でぶち撒けないだけまだマシだが、口腔からの吐瀉物対策に一応洗面器を用意しておくべきかもしれないが、用意する気力が起きず億劫という理由で、結局このまま就寝を選ぶ。
……自分の体内に還元すると前向きに思えばいいか。
「…………」
寝てる間に吐かない事を祈るしかない。それにこの鬱陶しい痛みの疼きをさっさと消し去りたいという感情が上回り、目を強く瞑り視界を暗澹とした景色に染め上げる。
「お休み上海……」
上海に就寝を告げて、まどろみつつある意識を瞼裏の暗闇の中へと委ねる。その暗闇の最中、この痛みといい、この悪趣味な内装といいクマちゃんの時に脳裏に浮かんだパンダといい、今宵は嫌な夢を見そうだ──と、今日の出来事を反芻していると不思議な事に脇腹の痛みはいつのまにか消え失せて、意識は睡魔にされるがまま闇の彼方へと途絶えた。
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