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03-11/もう1人の猩紅 Pt. 4

「……」

「……」

 

 

 耳朶が捉えるのは風と葉のせせらぎ。大気を強弱織り交ぜて揺らす風の音と、時折聞こえる緑葉の合唱を除けば殆ど静謐といっても過言ではない。

 

 夜風独特の冷たさにあまりにも静寂な、息遣いさえも躊躇われ、奇妙とも不気味とも形容し難い玲瓏な頭上の遥か彼方の光景は昨晩博麗神社で見上げた景色とは違って雲隠れする回数が顕著だが、それを除けば昨夜に負け劣らず見事な月夜日和そのもの。

 

 形状異なる大小様々な雲の仄かなベールは時として光度を多彩に変化させる役割を担い、瑠璃色とモノトーン調の世界をただの攪拌して染め上げるどころか、不思議な高揚感と幻想を眼下の世界とそこに集う存在に万遍なく与える。

 

 儚くも美しく、美しくも無慈悲な冷たさを放つ慄然じみた感情を彷彿させる蒼白の月。こういう穏やかで、静寂な月夜にはそれを肴にして度数の高い酒を嗜み……風が強いのが難点だが……、呑気に月を眺めてうたかたと微睡むのもまた一興か。

 

 

「……」

「……?」

 

 

 ────現在進行形で、外の窓べりにぶら下がってなければだが。

 

 

「……」

「……ッ」

 

 

 両手で窓べりの端をつかんだ状態での現実逃避はこの位にして、壁に身を寄せ、俺の反対位置の窓べりに隠れている上海人形に視線を巡らすと、彼女は窓べりからそっと顔を覗かせて紅魔館の廊下内を一瞥。

 

 

「~ッ」

 

 

 おずおずとおっかなびっくりな様子で廊下内を見渡した後、人影が見当たらなかったのか、上海は窓べりを飛び越えて俺の視界から姿を消す。その姿を俺は無言で見送り、安全を確保してもらうまでの間窓べりにぶら下がったまま待機。

 

 

「…………はあ……」

 

 

 思わず漏れた小さな嘆息。フランドール嬢がまだ近くにいたら聞き取られる危険性も考慮したが、上海の反応からしてみるに大丈夫そうなので一気に吐き出す。

 

 とは言えまだ不安は拭えない。今俺に出来ることは縮こまった状態のまま窓べりにぶら下がって安全が確保されるのを待つことだけ。

 

 他に出来ることはせいぜい……頼む、誰もいないでくれよ…………と、祈る位だな。

 

 

「~ッ!」

「…………?」

 

 

 ……それにしても祈るといえど、淡々と祈祷してては叶うものも叶わないんじゃないかという間抜けな考えがよぎり、いっその事ラップ調でお祈りしたら多少加護が異なるかなと至極間抜けな事を思っていると、窓べりを掴む手が軽く叩かれる感触。

 

 

「お……?」

「~♪」

 

 

 思考を現実に引き戻して何事かと頭を上げてみれば、上海が窓べりから半身を乗り出して手招きする姿。先程の窓べりに隠れてた際の緊張感は何処へやら、彼女の安堵じみた態度から察するにどうやら廊下内にフランドール嬢の姿は無く、安全だという様子みたいだ。

 

 

「よいしょ……っと」

 

 

 年寄り臭い台詞を呟きつつ──いや、実際に俺59歳だから年寄りか。なら言っても問題無いな…………畜生──その姿を確認して腕に力を籠めて身体を持ち上げる要素で、窓べりをゆっくりと乗り越える。

 

 そして窓べりに片足を引っ掛けて跨り、そのまま腕力と脚力を用いて廊下内に片足を下ろした後、バランスを崩さないよう、同じ動作でゆっくりともう片足を廊下のカーペット上に下ろして廊下に立ち上がると窓から数歩離れる。

 

 

「んぐ……、正解は外の窓べりにぶら下がって隠れてたでした……」

 

 

 念入りに周囲を確認した後肩を撫で下ろし、背筋を伸ばして深呼吸して虚空目掛けて誰にともなく小さくごちる。

 

 

「?」

 

 

 その独白じみた声音を風が強いのに聞き取ったのか、横で浮かんでいる上海が俺を見て不思議そうに首を傾げる。

 

 

「気にするな。それはともかく……」

 

 

 窓べりにぶら下がる為、身を乗り出した際…………下……見ちゃったな……。

 

 

「はあ……」

 

 

 再び嘆息を漏らして項垂れる。

 

 なんだって今日はこんなに疲れるのやら…………。疲労の要因は今日の出来事を反芻すれば主に石段とか、高速飛行とか、謎のベッド破壊とか、追いかけっことか、どこからどう見ても殺傷能力抜群の変な光の弾とか、あとぶら下がってる時下をちょっと見たこととか……が原因は言わずもがな。

 

 疲労困憊とはまさにこのこと。一昨日から世界観や価値観自体が俺の住んでた外の世界とは一転して異なり、その影響で精神面での刺激がかなり強く、最低限度の常識以外が全然追いつかん。

 

 常軌の逸脱加減は俺の住んでた外と比例すると人間が空を飛ぶなどの他、桁知れず。しかも下手すれば自分の背丈よりも低い小さな娘……吸血鬼だが……に殺されかねない可能性も高い状況ときた。

 

 なので現状の無難な選択としては、逃げの方針を最優先に行動すれば非日常的な光景を突きつけられても危機感を抱くどころか、いっその事順応してしまえば良いのだ──という判断に於ける前向きな楽観的思考は人生経験故の賜物か。

 

 

「……」

 

 

 かと言っても本当に順応しろと告げられても、流石に反応に困るが……。

 

 

「上海、フラ……あの子はどっちに行った」

 

 

 暗澹としつつもどこか安寧を覚える柔らかな月明かりによって真っ赤だった深紅のカーペットが月光の瑠璃色に染められている構図は神妙そのもので、更には疲労を引き金とした睡眠欲に相乗効果をもらたす。

 

 

「……ッ!」

 

 

 視界が疲労と眠気で微かに滲む。──が、それでも廊下にもう何もかも忘れて寝転がりたい欲求を跳ね除け、視線を上に戻した俺にフランドール嬢の行き先を質問された上海は階上行きの階段を指した。

 

 

「上の階段……階上……ね」

 

 

 頭上を見上げ、ひそめた声をそっと零す。

 

 

「そうか。なら何かしてたか? 例えば匂いを嗅いだり……」

「ッ! ッ!」

 

 

 確認の為上海に訊ねてみると、彼女は俺の言葉に鷹揚に首肯して見せた。

 

 どうやら彼女の態度から見るからにして案の定、フランドール嬢が俺が姿を消した時の別の捜索手段を用意しているという推測は確かだったようだ。

 

 結果としては成功だが、これは本当に博打に等しかった。というのもフランドール嬢が嗅覚以外の探知方法があったとすれば隠れた場所が割れるのは言うまでもなく、普通に窓べりに隠れたとしても強風吹いていなかった場合、即刻看破される可能性が大きく、そしてフランドール嬢の立ち位置と、俺が窓べりにぶら下がっていた位置の風向き次第でも嗅覚に頼れば容易に見つけられたことだろう。

 

 しかしその問題は外の景色……雲が風に早く流される景気を一瞥した事よって解消され、その結果上海に指示したのが窓を沢山開けさせた事だ。こうすれば多少なりとも廊下に吹き込んできた風が入り乱れて多少は風向きが変化して匂いを断てる事だろうとの推測に基づいた、ちと強引な判断の行動だったのだが案外それが上手くいったのは喜ぶべきかもしれない。

 

 風の流入により追跡手段を断つ────。風上と風下の関係を知っている者なら、この方法がいかに有効であるかが気付く筈。ただ、これ以外に位置を知る手段をフランドール嬢が有していれば上海に指示した窓開けは全て徒労に帰すのみだったが、どうやら彼女は探るにしても方法は嗅覚の1つのみしか持ち合わせていなかったようだ。

 

 更に言えば廊下の……紅魔館の構造自体が俺が身を潜めるのにも一役買ってくれたのが嬉しいというのが本音。というのも曲がり角の先に階段と部屋へ通じるドア、そして窓がなかったらこうも上手くいかなかった。

 

 僥倖の偶然にも重なった更なる僥倖は、正に幸運の一言に尽きる。こういう時は滑稽にも思えるが、素直に建物に「有難う紅魔館」と感謝の言葉を送っておくべきだな。

 

 

「……はぁ」

 

 

 ……それでも内外装色がアレなのと、意表を突くような形で「窓から飛び降りたように見せかけた」ではなく、「窓にぶら下がって隠れる」という自身の判断をちょっと後悔しているのを除いて……。

 

 

「下に向かうぞ」

「……ッ!」

 

 

 匂いを辿って俺が部屋に居た事を知ったとはいえ、それを察知出来たフランドール嬢を相手に稼げる時間はせいぜい数分。その間に静かに、なるべく物音を立てないようにしてカーペットの上をゆっくりと歩く。

 

 というのもフランドール嬢が階上にいった振りをして、階段の側に身を潜めている可能性を配慮した判断であり、たとえ窓から廊下内に吹き込む風の音が強いといえど、耳を澄ませばその中に風や草葉の揺れる音色以外の……カーペットを踏み鳴らす大きな足音を鳴り響かせば充分に目立つのは言わずもがな。

 

 そして風向き次第では臭いを辿って居場所を察知することは難しいようにも案外容易い事なので、気配が無くとも風が多く吹き乱れるこの場──廊下に長く留まるのは危険そのもの。風向きが変わる前にさっさと移動するのが無難。

 

 

「……」

 

 

 素早く階段の欄干に身を寄せて、その場で小さく屈む。今のところフランドール嬢の気配も何も無いようだが、俺よりも気配を断つのに秀でていたら全てが徒労に帰す。

 

 なので身を隠せる場所があるからには、こちらも警戒しつつ慎重に行かねば。

 

 

「…………よし」

 

 

 呼吸のほんの一拍を置いて息を潜めて気配を探ってはみたものの何も感じない。てっきりすぐ傍に隠れてるのかと思ったが、どうやら本当に上に向かったようだ。

 

 

「悪いが上海、下に先行してくれ」

「……ッ!」

 

 

 警戒を解かず上へと続く階段を睨みつつ、上海にそう提案すると彼女は小さく頷いて下の階へと飛んでゆく。その姿を尻目に見届けた俺は周囲を見渡すと、その後を警戒しつつゆっくりと追う。

 

 

「……っ」

 

 

 階段に一歩踏み下ろすと、背後の窓から吹き込んだ風が頬を強く撫でる。その冷気を帯びた風は真冬の木枯らしを運ぶ寒風を彷彿させ、そのあまりの冷たさに思わず肩が竦んだ。

 

 ……まさか外気がこんなに冷たいとは考えもしなかった。昨夜博麗神社に泊まった時はここまで冷え込んではいなかったのに、紅魔館に吹き込む風はそれよりも冷たい。おまけにここまで逃げるのにずっと走っていたもんだから汗もかいてる。

 

 風に当たって体感的に覚える寒さは、恐らく汗を拭かないでいるの寒さを増長させているのが原因だろうが、このまま汗を拭かずにいるのは身体を冷やさせ、思考能力を奪うどころか最悪風邪を患う原因にもなりかねないので早めに拭き取りたい。

 

 よって短い猶予とはいえ、多少は寛げる時間が手に入ったからそれを活用して適当な部屋にからタオルでも見繕うべきだな、と思慮を練りつつ暗い階段の先を見据えつつゆっくりと降りる。

 

 

「……」

 

 

 仄暗い階段は月明かりを除けばほぼ暗澹とした黒色で染め上げられ、一段一段また一段と下へ向かえば向かうほど明かりは自然と少なくなり、その暗さはまるで光の及ばない奈落の底に落ちていくかのような錯覚を連想させる。

 

 薄暗く、静謐そのものの空間──。陽は陰に蝕まれ、唯一得られる陽の光もほんの僅か。足元が狂えばそのまま転げ落ちるのは勿論の事、自身が階段に降ろす体重の掛かった足音は敷設された深紅のカーペットと木霊す風の息吹に掻き消されるので、踊り場まで降り立っても自分は果たして階下に行けるのだろうかという一抹の不安が脳裏に襲い掛かる……。

 

 

「~ッ!」

 

 

 ……が、階下に先行し、見下ろしたその先で手招きする上海の姿を見つけると、俺が進んでるのはやっぱり建築物……紅魔館の屋敷内部なんだなと内心安堵する。

 

 

「……ん。何事も無いようで」

 

 

 歩みを少し速めて下の階に到着するやいなや、念の為にと周囲を見回すがやはり俺達を除けば誰の気配も感じられず、それを確認し終えると次に上海に視線を巡らす。

 

 

「ふむ……」

「……?」

 

 

 誇張かもしれないが、紅魔館のこの陰鬱な紅と宵闇の黒に塗り潰された暗闇の中だと彼女の存在は一筋の光明とも言えよう。しかし上海の見麗しき黄金の髪は夜の瑠璃色によって染められ、彼女の魅力を大きく削いでいるのが残念で他ならない。

 

 影は光を飲む。光は影を飲み込む。対極に位置するその中にはどこかしらにそれを振り払う一色が一縷にも存在し、上海自身と、僅かな窓から差し込む月光によって反射するその金紗の髪は今の心境の俺には影の中に唯一忍び輝く、魔性の影を滅却して光を照らせる一筋の光に他ならなくて仕方がない。

 

 

「上海、ちょっと訊きたいんだが」

 

 

 状況が一段落着いたところで今の内に確認したいことがあったので、それを確認する為上海に質問を繰り出す。

 

 

「上の階で逃げてる時、フランドール嬢が投げた椅子の破片があっただろ? その時避けられるかどうかの際に突如壁に叩きつけられたんだが、あれは君かい……?」

「……? ……ッ! ……ッ!」

 

 

 上海に助けれた場面を振り返るが未だにあの出来事が信じ難い心境の俺は、一体全体、その矮小な身のどこからそんな力を持っているのかと疑念が湧いたのでふと訊ねてみると、上海は質問に鷹揚に頷き、自身を指す。

 

 

「あー。冗談……じゃないよな」

 

 

 私がやったんだと、彼女は反応する。謎はあっけなく解明、証明された。だというのに俺は信じるどころか猜疑心が働き、額の汗をシャツの袖で拭った後再び訊ねるも、

 

 

「……」

 

 

 上海は即座に首を横に振って「嘘じゃないよ」と否定の意を表す。

 

 

「……」

 

 

 ……てっきり自然界に潜在するマナとか不可視の理力に牽引されて助けられたんじゃないかと思ったが、足元でフランドール嬢の光弾が破裂して転びそうになった際支えて貰った、手を掴んだ力強さは確かなので、あの時俺を強引な力で壁に投げたのは正真正銘、彼女に間違いないようだ。

 

 

「上海、君は意外と力持ちなんだな……」

「~♪」

 

 

 驚愕の事実に呆然するといった反応はしなかったが、すっと脳裏に浮かんだ感想を口にすると、彼女は両腕を大きく掲げ、えへん! とその逞しさを誇示する。

 

 

「…………──はっ!?」

 

 

 小さくも勇ましく見えるその姿を見て、ふと上海のその服の下はどれだけ筋骨隆々なのだろうか……と想像した途端、次第に恐ろしい姿が脳裏の中で明瞭に浮かび上がり、あまりにもおぞましかったのですかさず思考を緊急遮断。何なんだよ腕の太さが頭より3倍大きかったり、腕の血管浮き出てるとか、握力500キログラムとか、魔力ではなくてプロテインを摂取して稼働するとか……!?

 

 

「……と、とにかく助かったぞ。ありがとう」

「~♪」

 

 

 脳裏に浮かび上がった世にも恐ろしい、やけに雄々しい上海の姿を振り払ってどもりつつも礼を述べると上海は「構わない」と嬉しそうに頷く。その姿を俺は内心苦笑して再び廊下内を見回す。

 

 廊下の左右を見るが、前述した通り降り立った階の廊下は上の階のと比較すると圧倒的なまでに窓の数が少なく、光量は限定されている。その所為で足元は薄暗く、自身の体躯の輪郭どころか躓いて感覚が狂って転んでしまわないかと不安に陥る。

 

 しかし遠目の──廊下の先には窓から差し込む柔らかな月光とは異なる明るい灯りがちらつき、まだ世界は闇に包まれている訳ではないことを示す。

 

 天井よりも高くも床よりも低く非ず、中空に浮かぶ明かりの正体は俺の位置から断定は出来ないが、恐らく室内灯に該当する照明だろうか。外の世界の蛍光灯とは異なる暖かな光に何やら陽光にも似た既視感を覚え、さながら洞窟の出口から漏れる外光を想起させた。

 

 もしかしたらあの光を追えばフランドール嬢との鬼ごっこは終わるのではなかろうか? ──と、俺は勝手に予想して無意識の内に足を一歩前へ踏み出してその光の元へ向かおうとするが、突如、光は息を吹きかけたかの様に忽然と消えてしまった。

 

 

「……?」

 

 

 足を踏み出した態勢のままその場に佇み、目を凝らして明かりが忽然と消えた先を凝視するも、やはり廊下の空間そのものが暗闇の所為か何故消えたのか皆目見当つかない。

 

 それともあれは照明ではなく、霊魂──幽霊の類……? とその正体を思い浮かべ、そんな筈はあるまいと否定的にもなるも、「紅魔館」というおどろおどろしい名前と、陰鬱な内外装色からしてみれば確かにそういった心霊の存在が彷徨ってても有り得なくもないという結論に辿り着く。

 

 霊魂の出没条件は諸々ある。その例えを引用すると紅魔館の壁の色の塗料になった、或いはここの吸血鬼娘にミイラにされた者の怨念が霊魂として具現化したり等……仮説は一致しないものの、前提となる条件や信憑性はかなり富む。

 

 ……うん、かなり該当するんじゃなかろうか。だとすれば俺が見た明かりの正体は本当に────

 

 

「幽霊……?」

「……ッ!? ~ッ! ──ッ!?」

 

 

 小さな呟きに突如、上海は大きく身を跳ね上げるや俺の腕にしがみ付いてきた。

 

 

「……」

 

 

 ……や、意思を持った人形が縦横無尽に動き回ってる時点で充分にホラーなんだが……とは無論口にせず、腕に身を寄せる上海の怯え震える姿を横目にこれ以上ここに留まっていても仕方ないので光が消えた方向へと向かう。

 

 果たして光の行く先は吉と出るか、凶と出るか……願わくば光源を辿った場所に人がいればよいが……。

 

 

「……と、その前に。お邪魔します」

 

 

 少し歩いた所で立ち止まり、控え目な声を発して適当な部屋のドアノブを手に掛ける。というの先程から汗が地肌に纏わりついて気持ち悪いったらありゃしないので、それを拭き取りたくてタオルを拝借する為だ。

 

 この間にもフランドール嬢は俺を探し回ってるだろうからいちいちそんな事をしてる場合ではないが、多少なりとも時間は稼げてるから少し位寄り道しても問題なかろうと判断した。

 

 ゆっくりとドアを開けて室内……しかも内装がまた赤いときた……を覗き込み、誰かいないかと淡い期待を抱くが室内はがらんとしており人の気配は皆無。しかも誰かがこの部屋を使ったという痕跡も全く見当たらず、宵闇の如くシンと静まり返っている。

 

 どうやら俺が入ったの部屋は照明は俄かに差し込む月の明かりのみの、薄暗い無人の空き部屋みたいだ。……にしてはホコリが全く積もっておらず、随分と手入れが行き届いているから恐らくは俺が案内された部屋と同じ、客室の類だろう。

 

 ただし俺が案内された部屋と唯一異なるのは窓の配置位で、その一点のみの差異がなければ部屋に戻ってきたのかと錯覚を覚えるところ。

 

 

「上海、タオルを探してくれ」

 

 

 そっとドアを後ろ手に閉め、室内に入ると洋服タンスに向けて歩き出す。タンスの中には部屋で見たのと同様に衣類がしまわれているかもしれんが、家具の配置や内装は同じでも中身は同一ではない可能性もあるので念の為確認しておくべきだ。

 

 

「? ~♪」

 

 

 先程、幽霊と聞いて震えあがっていたものの、俺に言われるや視線を巡らしてタオルを探し始めた上海は、まず最初にベッド脇の化粧台へと向かう。そういえば案内された部屋にも設置されてたから、タオル類がそこに置いてある可能性はあるなと思いつつ屈んでタンスの引き出しを開けてみると、中身はやはりシャツや靴下といった諸々の類。

 

 

「こっちにはしまってな──」

 

 

 目論見があっさりと外れた事に落胆。ならば現在上海がいる化粧台の辺りならタオル……いや、この際ハンカチでも良いか……が置いてある可能性が大きいなと判断して引き出しを閉めようとしたが、視界の隅にちらついたある代物に思わず手を止める。

 

 

「………………」

 

 

 思考が自然に固まり、身体も同様に強張る。──が、それも刹那の間、一瞬にして物凄い罪悪感がこみ上げたので即座に視線を逸らして、手のみを動かして引き出しを戻し……目頭を押さえる。

 

 ……さて、こういった洋服タンスには文字通り衣類が付き物だが、中にはその一概にも漏れる要素が含まれることは珍しくない。例えば単に小道具をしまっておいたり地肌に身に着ける肌着とか、下着とかが一緒にしまわれている…………というものだが、今回はどうやらその後者に該当してしまった。

 

 

「……あー」

 

 

 予想外の、想定外の存在に内心驚きを隠せず小さく呻く。調度品の配置が一緒で、且つ、中身も同一と思っていたのが間違いだったが、更にその中身が俺の予想を上回ったもんだから尚更だ。

 

 俺自身、年齢を踏まえれば年柄にもなく下着に驚くという年齢でもないし、もしやと想定しつつ開けてみれば別に対して驚きやしない。……ただし、それが女性用のとなれば話は別だ。

 

 女性の下着というのはなんとも言葉に形容しがたい魅力と、色香を自然と放っている。そして、男性の誰もが女性ものの下着を見るや心臓をちょっと高鳴らせて「誰がこの下着を身に着けているのだろうか?」と想像を掻き立て、更に補足すれば可愛らしいフリルやらレースで彩ったちょっとお洒落なのだとそれ以上の想像……という欲情と妄想を膨らませことは間違いない。

 

 

 

 

 その魅力を殺ぐ──クマさえ除けば。

 

 

 

 

「熊…………あれ、クマ? クマか? しかし熊って……あれ?」

 

 

 熊ではなくてクマである。如何にも──

 

 

「オラァ! テメーを骨の髄まで喰らったらあぁぁっ! まず手始めに俺らの間じゃ鮭味のする左手中指の中手指節関節を貪ってやんよっ!!」

 

 

 ──といった野性味溢れる、冬眠前の季節になると非常に凶暴になる熊ではなく、

 

 

「が、がお~ん……! 凶暴なク、クマちゃんだぞ~? た、食べちゃうんだぞ~!?」

 

 

 ……といった、凶暴さと野生らしさを皆無の、可愛らしいつぶらな瞳の漫画絵柄風の刺繍が施されたクマことクマちゃんである。それが大人用の下着の中に埋もれて紛れていたとなれば尚更、下着へと向けられた興奮は急速に冷めてしまうのは過言ではない。

 

 

「あー待て。確か……」

 

 

 引き出しの中を一瞥した記憶を少しだけ反芻。……引き出しの中の下着は何とも質素で可愛らしい色柄とフリルやらレース付きの……と、その装いに合わせた物が幾つかと、件の無地のクマちゃんの刺繍入りのが一点……ときた。

 

 傍から──異性の俺から見ても、派手さを控えた色彩豊かで愛らしさ溢れる組み合わせだと思う。本来なら両方とも同じ仕上がりの方が何とも趣の良い組み合わせなんだろうが、その全てを覆すクマちゃんの印象がとても強烈すぎる。

 

 どの角度から確認しても場所違いの、雰囲気破壊にふさわしいこっそり埋もれていたこのクマちゃん。果たしてその光景に相応しい言葉は如何なる言葉で形容──違う、どう比喩表現すべきだ? せいぜい浮かび上がるのは赤いバラ園に一輪のみ咲く黄色いバラ? 羊の群れに紛れる孤独な狼? 完熟した赤りんごに混ざる未成熟な青りんご? はたまたオセロ動物ことパンダの中に孤立するクマちゃん……?

 

 

「む……」

 

 

 …………山奥……竹林……パンダの群れ。そして獰猛な奴らに包囲され怯える、たった1体の熊もといクマちゃん……。

 

 

「……なんて末恐ろしい」

 

 

 脳裏にその光景が鮮明に浮かび上がっただけで肌が粟立ち、戦慄に身震いを起こす。その惨状に憐れみを覚え、再び引き出しを開いて決死の覚悟でクマちゃん下着のみを救出しようかと思ったが、それでも下着は下着、しかも女性用下着を男である俺が触れるのは禁忌に等しい感情が横切り、決断を躊躇わす。

 

 善意かもしれないし、偽善かもしれない。仮にクマちゃんの下着に触れたとして、その彼からは恐らく「お節介め」の一言が告げられることだろう。そして事が他者に発覚して俺が得る代償は睥睨混じりの世間の目と、様々な下劣な者に対象する侮蔑の言葉。

 

 勿論、行動の前提と過程と結果が他者の視点から如何に伝わり、解釈、曲解するのか否かは実行者の他意及び故意かを判断するが、異性の下着に触れたのが発覚しただけでも下心皆無云々と釈明を説くも構わず咎められることは明白……。

 

 

「……忘れよう、うん。見なかったことにしよう」

 

 

 ほんの刹那の逡巡の末、現在の状況と目的、そして一般常識等も複雑に絡んで思慮深くも、意として下したのは救出却下という苦渋の決断。そもそも女性の下着に触れる事自体男の威厳と、俺自身の良心の呵責が反対していると訴え、第一フランドール嬢に追われているというこの状況下では情に流されず何事にも動じず冷静に、冷徹に判断した故の選択だ。

 

 ──まあ実際のところ、犯罪行為に直結するから止めただけなんだが。

 

 

「……」

 

 

 達者でなクマちゃん。そこで白黒に染まってパンダに染まって仲良くしなよ──と暗黒に染まった世界でクマちゃんの断末魔の幻聴が轟く中、後悔と罪悪の念と惜別の言葉を噛みしめつつ立ち上がったところで背後から肩を叩かれる感触。

 

 

「ん? 上海か。タオルは……見つかったのか」

「~♪」

 

 

 物憂げに反応して振り向いてみれば上海が目の前に浮かんでおり、その小さな手で化粧台を示す姿。彼女が指し示すその先に目を凝らして向けてみれば、化粧台の上には白いタオルが数枚重ねで置かれていた。

 

 

「~ッ! ~ッ!」

「化粧台の上? わかったから引っ張るな」

 

 

 上海にシャツの裾を掴まれて引っ張られながらも足元に注意しながら化粧台の傍まで歩むや、その上に置かれたタオルを1枚を乱暴に手に取って顔に押し付ける。

 

 

「……さて、どうするか」

 

 

 額や頬に滲んだ汗の珠が音も無く吸い取られ、乾いたタオルをじんわりと湿らす。柔らかな繊維の感触に一抹の安堵を覚え、その脳裏では今後の行動を思索するも現状では闇雲に動き回らずに、廊下で見かけた光の後を追って人と会うのが望ましい……という判断が固まる。

 

 首と腕、手に滲んだ汗を素早く拭い、使ったタオルを部屋の中央のテーブルの上に置くため踵を返す。ついでにシャツと肌着を脱いで身体の汗も拭こうかと考えたが、上海も傍にいることを含め、時間と手間が惜しいのでここはひとまず我慢しておく。

 

 

「さて、動こう……か…………」

 

 

 窓から差し込む月の光加減で多少は調度品の配置までは把握することが出来た。しかし薄暗いことには依然変わず、室内自体を見渡すにも月光自体の光量が不足していたので細部まで確認することは難しかった。そんな薄い暗闇の最中で上海が見つけたタオルを容易に視認できたのは、生地が白地で目立ったお陰に他ならない。

 

 それが今、空を覆ってた雲が風の一凪ぎで通り過ぎ、月の明かりが自らの存在を誇示するかの如くその眩き光を再び以て室内を更に明るく照らし、

 

 

「────」

 

 

 唐突な光量の眩きの変化に俺は目蓋を細め、闇が光によって取り払われてその全貌を現した室内に……テーブルに、息を呑む。

 

 室内の暗澹とした瑠璃色は更に力強い瑠璃色のカーテンによって魅惑的で、神秘的な色に染めた。僅か半日程度の限られた照明の、その視線の先の部屋の中央に鎮座するテーブル自体は俺が案内された部屋に配置されていたのとほぼ同一。

 

 ……しかし判別するにも曖昧だが、よくよく凝視してみれば防腐処理と光沢処理が施されているにはやや不自然な、綺麗な光沢を放っている印象と単なるテーブルと一蹴するには仕上げからして、材木には高級な木を、塗装には高級な材料を使用している事は一目瞭然。

 

 艶やかで光も届きそうにない漆黒。隠者の恩恵さえも弾く暗黒。玲瓏と安寧を称える瑠璃さえ跳ね返すその黒塗りのテーブル。その上にはぽつんと置かれた濃緑色の1本……月の光に反射する酒瓶が映った。

 

 立ち位置と明るさから、中身の色を識別は困難だ。が、瓶の中には濃緑色とは異なり、光も透き通らない黒い液体が詰まっているのは確認出来た。しかしその液体の正体を知ろうにも前述通りのと、瓶にコルクで栓をして密閉している手前からやはり中身は窺い知れない。

 

 

「────」

 

 

 ならば近付いて、瓶を手に取ってみればいいという解答が瞬時に導かれ、俺は自然と勇み足でテーブルの傍まで移動する。

 

 自然と脚力に力が加わり、俺は酒瓶の元へと一気に歩む。その際足音はかなり喧しくなっただろうにそれさえもカーペットによって吸収され、室内は依然静謐のまま。だが室内の沈黙とは裏腹に、俺の心臓の動悸は激しく耳朶に木霊し、息は突如として苦しくなり、挙句には肺の中の酸素が欠乏する。

 

 

「────」

 

 

 息は苦しく、足元はおぼつかず。それでも暗い世界に差し込む光に反射して映える濃緑色の瓶を目印にしてなんとかテーブルまで辿り着き、突っ伏す寸前、両手をテーブルの卓上に伸ばして身体を支える。

 

 

「は……あ?」

 

 

 滲む視野、攪拌される意識。産毛は逆立ち、皮膚や血管はおろか髄や神経まで急激な痒みに襲われる。

 

 息を吸おうにも頬の筋肉は弛緩し、口は半開きのまま。タオルを握り締める手の甲にはいつの間にか拭き取った汗が、再び汗腺から吹き出していた始末。

 

 

“──走って疲れたんだ。だから別に飲んでも構わないだろう?”

 

 

 不意に、耳障りな、悲鳴にも慟哭にも似た、囁きが耳朶に響く。唐突な投げ掛けに周囲を見回すが、何者の気配はおろか、生者自体の気配は微塵にも感じられない。

 

 

“──水分補給さ。飲んで元気回復しようや?”

 

 

 再び不快な、喧しい、鬱陶しく轟く、雑音が掻き鳴らされる。吐き気を催す不協和な言葉を振り払おうとするも、雑音は耳朶どころか脳内にまで反響して俺の思考を遮り、あまつさえ意識をも刈り立てようとする。

 

 

“──夢を見ようよ。幸せな夢、を?”

 

 

 戦慄と共に高揚していく感情と意識。それを増長させるは誘惑の甘言。下着を見た時以上に込み上げる興奮という滾りに俺は全ての思考を放り出し、テーブル上の酒瓶に手を伸ばし始める。

 

 

「あ…………」

 

 

 人間という生き物は何かしらに依存する傾向がある。例えそれが自らが布いた仮初めでで、長年の時を経て形骸化しても……。

 

 俺の場合、それが酒だった。──いや、酒になっただけだ。何てことも無い、手前にあったものを選択しただけの、至極安直な選択の……。

 

 

「ああ…………」

 

 

 アルコールを摂取していないにも関わらず身体は小さく震え、視界は明滅の反復で眩む。室内の狭い空間に誰の者でもない先程の囁きが幾度も反響し、俺の意識を錯乱させようと誘惑する。

 

 ……畜生、肺に充満した空気が重く感じて煩わしい。そして腹の底から伝わる嘔吐感が起因か、何故か激昂の感情を募る。

 

 仄かに蓄積される感情。抑制しようにも本能は欺けず、今すぐにでも吐き出したくて仕方がない。

 

 暑くも寒くも無いというのにふつふつと汗の珠が噴き出す。それも脂汗の……? …………嗚呼、考えるのも億劫だ。

 

 あと少し……あと少しで──見られる。終わりそうで、終わらない“あの夢”が────

 

 

「──ッ!」

 

 

 刹那──、裾を強引に引かれる感触。それに俺は全身がふらつき、思わず後ろへたたらを踏む。

 

 

「お……っ。え、あ──」

 

 

 伸ばした手が酒瓶ではなく虚空を掠めた事で我に返り、口腔内に溜まった唾液と同時に新鮮な酸素を共に飲み込む。

 

 息を整えて瞬きを数回、その後裾を引かれた方に顔を向けるとそこには表情は変化しないものの、上海が物憂げな雰囲気で俺を見上げる姿が映った。

 

 

「……上………………海……?」

 

 

 彼女には表情は無い。それは人形であるが故の因果なのだが、その代わりに自身の判断で行動出来るという有機生物に劣らない思考能力を持ち合わせ、同様に人間同様の感覚で察知することが可能だ。

 

 更に補足すれば、彼女が俺の態度に敏感に悟ったのは魔法使いの使い魔たる所以かもしれないが……。

 

 

「すまなかった上海……。さ、行こうか」

 

 

 彼女に謝罪して再び噴き出た手と顔の汗を手早く拭き取ると、テーブルの上にタオルを放り、後ろ髪を引かれる感覚を覚えつつ廊下へと戻る。

 

 今は道草して酒を煽る暇なんて時間は持ち合わせていない。内心では酒を飲みたくても状況が状況だ、ここはひたすら我慢するしかないのだ。

 

 ……しかしだ。上海がこの場にいなかったら今頃は、ただでさえ脆い自分の理性の琴線をあっという間に千切り、酒瓶に飛び掛かっていたという仮定の一心は否定しないのでそこは彼女に感謝すべきだろう。

 

 強張った手でドアノブを捻ってドアを小さく開き、そこから顔だけを除かせて廊下の様子を確認する。フランドール嬢がこの階に不在とわかっているものの、やはり不安は拭えないし落ち着いている訳にもいかない。

 

 とは言え、この部屋は誰かが使っていることが判明したので、ここでじっとして部屋の主を待ち伏せという選択肢もあったが室内に酒瓶がある以上、長い間身を潜めるには心身共にかなり堪える。

 

 

「────」

 

 

 ……自分が招いたとはいえ、難儀なこった……。

 

 

「右よし、左よし……行けるな」

 

 

 全身が気怠くも静かに室内から廊下に出る。廊下は相変わらず静謐で薄暗く、月明かりだけが頼り。しかし肝心な月光も雲に隠れ、視界の先の奥は更に暗く、光そのものを一筋も差さない暗黒の外套に覆われている。

 

 

「光を見たのはこっち側だから……」

「──ッ?!」

 

 

 歩いてきた方向と、光が見えた方向を確認すべく小さくごちった途端、上海が身を竦ませて腕にしがみ付いてきた。

 

 どうやらこの様子だと、上海は本当にあの光の正体を幽霊と思っているようだが……、

 

 

「~ッ! ~ッ!!」

「…………はぁ」

 

 

 ……いやいやいや、君も傍から見れば心霊現象に思われても不思議じゃないんだがね? ──と指摘するのは無論過言であり、もし口に発すれば憤慨するのは必定。しかしながら幽霊と比較すると上海の方がまだ愛想が良く、意思疎通も可能、俺の要求にも俊敏に理解してくれる。

 

 

「さて、行きますかね……」

 

 

 シャツの裾を掴んで身を縮ませる上海に視線を外してそう呟くと、俺はゆっくりと歩き出す。勿論何か起きても即座に対応出来るよう、警戒は怠らないように。

 

 足を一歩一歩カーペットの上に踏み出す。その際の音は吸収されるのは無論の事、窓を鳴らす風の音さえ響かない静寂な空間。これだけ静かだと不安が募るのも無理はなく、そこに突如として現れた正体不明の光も追加すれば心理的不安要素が高まるのは尚更だろう。後は音がこの通り無音だから、方向感覚もやや狂いやすい。

 

 

「……あれ?」

 

 

 室内の先程の出来事も含め、万が一転ばぬよう明るい窓際に沿って真っ直ぐ歩き続けると、廊下の曲がり角にいつの間にか到着。……はて、着くには距離が短すぎやしないか? ……と思わず疑問の声と首を傾げつつ角からその先を覗き見するも、やはり同じ暗闇の空間が広がっている。

 

 ……夜という光量不足の環境の所為か、廊下の長さと光が消えた距離を誤認していたようだ。だとすればあの時目撃した光はまだ近くに見える筈なのだが、廊下の奥の暗闇を凝視してもやはり光は見えず、階段らしきものも見当たらない。

 

 見当が外れたことに表情を顰める。別に切羽詰っているという状況でもないのでそう焦燥感は詰まらない。しかしその感情は時間と共に蓄積され、長引けば思考能力と判断力を鈍らせ、行動力を削ぎかねない。

 

 優柔不断な決断だが、引き返すべきか? ……しかしフランドール嬢には俺が階上に居ない事に気付くには律儀ながらも充分な猶予を与えてしまった。ここで通った道に引き返せば、この階に降りた捜索中の彼女と遭遇する可能性が高まるだけ。

 

 ただしそれはあくまで仮定としての可能性、懸念すべき事項であるには違いないが確率の要素を含有すれば……発見される可能性は大雑把に五分五分。無論、その確率はフランドール嬢自身が迅速な行動力且つ聡明な判断力を駆使する事によって変動するのは過言ではない。

 

 

「む……」

 

 

 一先ずだ、無駄に考えあぐねてる場合じゃないので更に廊下の奥へと踏み出そうとして、

 

 

「……おい。そこのお前何してる」

 

 

 ──突如として静謐な世界を打ち破る、凜とした制止の声に歩みを止めざるを得なかった。

 

 

「……?」

 

 

 透き通る声音の高い声に反応して踵を返して後ろを振り返ってみれば、ご丁寧にも典型的な概念の格好をしたメイドさんの姿が1人……。声を掛けられた瞬間、フランドール嬢かと勘繰ったものだが、姿を見て杞憂だと安堵、その半面では音はおろか気配も無く現れて驚いたのもまた事実。

 

 いつの間にか背後に現れたそのメイドさん。薄暗いので明確には語れないが、一瞥する限り背丈は同職の十六夜よりも低くて、大幅に俺の腰の辺りで齢10代に満ちるかそれを少し超えた位。それを証明するのは、外見は少女と言ってもよろしく、相貌も同じく幼くてあどけなさが残っているのが理由であるのが一目瞭然。

 

 さらに付け足すと、彼女の背中にはうっすらと皮膜の薄い羽根らしき物体が窺え、その正体は人間ではなく妖精メイドだということを瞬時に悟る。

 

 

「曹長~、この人誰ですか?」

 

 

 俺の立ち位置からは死角だったのか、最初に声を掛けた妖精メイドの背後から柔和な、のどかな声が届く。怪訝に思い目を凝らしてみるともう1人の、淡い光を放つランタンらしき照明器具を携えた、髪が藍色の妖精メイドの佇む姿が目に映った。

 

 俺の前に佇む妖精メイド──赤毛の長い髪を後頭部のてっぺんに纏めた? ──が背後に振り返る。

 

 

「いやいや、私が知りたいよ。つか最先任上級兵曹長、或いは副メイド長と呼べって何度も口酸っぱくして言ってるだろ」

「…………」

 

 

 ……なんでマスターチーフ? そんな俺の心の指摘を尻目に、妖精メイドらの会話は続く。

 

 

「文字数数えたら、その肩書きは長過ぎるのでちょっと難しいでーす」

「殴るぞ。もしくは上司命令違反の罰として減給するぞ?」

 

「なっ?! 横暴ですっ! 職権乱用ですっ! こうなればまた紅魔館労働組合に言いつけてやりますもんっ!」

「報告したけりゃ報告すれば? 今期の労働組合仕切ってるのワタシだけどね」

 

「えっ? あ………………あのー、これ独り言なんで気にしないでください。むしろはるか遠い忘却の彼方へと……」

「残念、ワタシの記憶力は抜群だ。後できっちり給与から引いとくからお楽しみに」

 

「そんなぁ~?! 後生ですよぅ~」

「安心しろって、代わりにクッキーを沢山支給するから」

 

「安心できねぇですって~!」

 

 

 ……よくわからんが、上下関係の軋轢が原因の寸劇が突然始まった。会話から把握するに赤毛の髪の妖精メイドが上司で、悲痛の叫びを上げている藍色の髪の妖精メイドが部下……? らしい。

 

 彼女の嘆きの気持ちは俺にも充分わかる。薄給の場合、労働者にとってご飯を食べられるのに必要な給金を削られるんじゃあ、流石にたまったもんではない。

 

 しかし悲しいかな、労働者はその給金の為に上司の命令は絶対とは言えないが、服従しなければならないのもまた悲しい現実……。

 

 

「……」

 

 

 ……て、そうだった。折角人……じゃない、妖精メイドがいるんだ、かいつまんでフランドール嬢と諸々の事情を説明しなくては。

 

 

「あの……」

「え? おっと、そうだった」

 

 

 繰り広げられる会話を遮り、しずしずと目の前の曹長……じゃない、自らを副メイド長という役職と名乗った赤毛の妖精メイドに声を掛ける。

 

 赤毛の髪の妖精メイドは肩書きの響きからして、紅魔館内部では偉い人物……妖精メイドなのかもしれない。──いや、実際に軍隊の階級では曹長は羨望と名誉の部類に位置し、最先任上級兵曹長こと通称マスターチーフの階級は曹長より上位の、下士官に於いて与えられる最上級の階級、他の下士官達にとっては神様とも同格とされる存在だ。

 

 とすれば、対峙している赤毛の妖精メイドは紅魔館内部では幹部の位置に値する者か? ……と思いながらも不意に声を掛けたのはいいが、妖精メイドなのに最先任上級兵曹長? 最先任上級メイド曹長が正しいんじゃないか? と猜疑心が反応するものの、現状の手前、正しい階級名称を判断するのは後回しだ。

 

 

「ん? んん? ん~……?」

 

 

 背後にランタンを持った妖精メイドがいるお陰で明るさには事欠かない。しかし俺の顔までは光量不足の故、眼前に佇む副メイド長は不躾ながらも表情を顰め、怪訝な声を漏らす。

 

 

「暗くてよく見えんが、アイツ……じゃないな」

「背もちょっと高く見えますよね」

 

 

 声が届く距離とは言えど俺と妖精メイドの2人の間には十歩分余りの距離があり、その手にはランタンがあるといえど細部まで視認するまでには至らない。しかし彼女らは背丈に不審な違和感を覚えたようだ。

 

 

「私、新しい妖精……じゃないですね。人間が雇われたって聞いてませんよ?」

「だな、ワタシも聞いてない。……だとすると……」

 

 

 ゆっくりと先頭の赤髪妖精メイドが背後の妖精メイドに目配せをして一歩下がる。すると、それに合わせて背後の藍色髪の妖精メイドが、彼女と入れ替わる形で数歩俺の前に踏み出る。

 

 

「う~ん、ちょっと暗いのでわかり辛いですけど……中々に怪しいですね」

「……」

 

 

 ……不味い、彼女達の眼差しに含まれる感情、一挙一動から汲み取れる動作は言わずもがな、俺を不審者として捉えている事を物語っている。

 

 ひしひしと伝わる、殺伐とした雰囲気を放つ副メイド長とやらは声音を徐々に張り詰め、後ろに下がった時の足捌きには警戒心を露わにした。前に歩み出た片割れの妖精メイドも前者の副メイド長と同様に、何が起きても即座に対応可能な足捌きと身構え自体がそれを証明している。

 

 彼女達に警戒される謂われは……言葉で否定するには容易いが……明かりの途絶えた夜中の建物内部を証明器具も持たずに彷徨っているのだから、疑惑を抱かれるのは至極必然。そして人間という異物──十六夜は除く──が人外の屋敷にいるのだから、尚更目立つ事は言わずもがな悟れよう。

 

 しかし彼女達の会話と素振りを聞いていると、妙な引っ掛かりを覚えるのも紛れもない事実。彼女達の会話の内容から推察するに、どうやら俺が客として紅魔館に招かれた旨を十六夜から聞かされていない様子だということ。

 

 ──いや、そもそも十六夜が俺の存在を妖精メイド達に伝達していないとすれば、何故十六夜は説明をしていないんだ? 或いは伝達はしたがまだ全員に未伝達、もしくは忘れてたで済めばいいが……。

 

 

「でも……はて? 周りがちょっと暗いもんなので、ちょっとお顔を拝見……」

 

 

 藍色髪の妖精メイドは怪訝気味に小さく呟くと、手にしているランタンを高く翳す。

 

 彼女が持つランタンというのは一見すると、なんと驚いたことに手提げ式の電気タイプだった。しかもその──鉄製? ──ランタンは、光源の要となる電球を保護する為に薄いガラスや透明なプラスチックなんかに覆われてるものだが、それが一切見当たらず電球が丸々と剥き出しになっている。

 

 この類のランタンというのは強い衝撃を受ければ、破損して肝心の照明器具としての機能を即刻奪いかねないのは明白。それだというのに電球を剥き出しに使っているのは、特別な理由があっての判断に違いない。現に白熱電球とは違う、それ以外の発光ダイオードないし水銀灯とは異なる温かみを含む淡い光を放っているのが、ランタンの照明としては大きな違和感を覚えた。

 

 同様に、それを含めて特徴的なのが前述した形状を模倣しているにも関わらず、どのタイプの形状にも該当しない細長い電球内部のフィラメントとおぼしき物体から放たれる、色白くて温かな光を中心に夥しい数の羽虫が群がっているという事だ。

 

 

「……虫?」

 

 

 ランタンの光を中心に集まって飛び交う羽虫を見て、思わず懐疑の言葉を漏らす。その羽虫の正体は視認が困難なものの、妖精メイドが群がる虫を払う仕草を漂わせないだけでも彼女が携えるランタンは俺の常識の範疇での、通常のランタンの概念からは程遠い代物だという事を認知させる。

 

 

「あ……ちょっと暗い? ならもうちょっと明るくした方が──」

 

 

 妖精メイドがランタンを掲げるも、光量不足だったのかそう呟いた瞬間──彼女の言葉に呼応する様に、風に凪がれて分厚い雲のカーテンを払った月光が地上に降り注いだ。

 

 紅魔館内部の廊下に温もりのある日光よりも冷たく、しかしどこか安らぎを似た柔らかな光が音も無く舞い降りて空間の闇を静かに取り除く。

 

 ──そして世界を陽光とは異なる色彩の世界に染め上げ、俺と、妖精メイド達が纏う影も静かに払う。

 

 

「よ…………」

「……よ?」

 

「──びぇいぃぃいっ!?」

 

 

 視界を妨げる薄らとした影と闇が月光とランタンに揉み消され、鮮明に映った眼前の妖精メイドは一瞬硬直したかと思いきや、突如として甲高い悲鳴を上げた。

 

 

「ぬおっ!?」

 

 

 驚きのあまり妖精メイドが手にしていたランタンが、勢いよく俺の顔へと放られる。俺は中空に舞ったランタンを掴まず、反射的に身体を仰け反らせて回避。

 

 虚空で円の軌道を描くランタンは廊下のカーペットの上に吸い込まれるように落下して、比重のある音とガラスが割れたのと酷似した破砕音を短く轟かす。その時、落下時の角度が悪かったのか、ランタンから放たれていた淡い光が音と共に一瞬で消失した。

 

 不思議な事に、それに群がっていた羽虫も同様に。

 

 

「な!? どうし…………うわぁっ?!」

 

 

 副メイド長も同じく、何事かと妖精メイドの横に並んで俺を見た途端、目を大きく見開るや身体を飛び跳ねて悲鳴を上げる。

 

 

「よ……妖怪ヒゲもじゃ髪もじゃん……!? よもや実在していたとはっ……!」

「ち、違いますってばっ! アレは野人ですっ! 前人未踏の秘境で探検隊という命知らずの連中が探し求めていたというあの幻の……!」

 

 

 互いに身を抱き寄せ、俺を凝視して怯える妖精メイド達。その眼差しには台詞同様、驚愕どころか畏怖の感情が読み取れる。

 

 

「……」

 

 

 あれ、俺貶されてる……? 客観的視点からの心象だと、俺は人外なのかとの疑問が浮かぶ。しかしながら彼女達の言葉通り、俺を人外扱いするのは相貌はおろか顔色がさっきの室内での出来事を反芻して含めれば悪いかも……しれないので相乗効果の影響で、更に勘違いされるのも仕方ない……のか?

 

 

「上海……」

「?」

 

「俺って人外に見えるか?」

「ッ!? ……………………」

 

「え……」

 

 

 妙に気になったので腕から離れて隣に浮かぶ上海に質問してみると、彼女は何故か慌てふためいた態度を取り、次に気まずそうに顔を逸らす。

 

 

「……」

 

 

 なんだろう、この残酷にも夢想を打ち砕く、胸を抉る寂しい感情の奔流は…………。

 

 

「これは一攫千金の好機ですよ曹長!」

「でも待て! 秘境にいるという存在がこんな辺鄙な場所にいること自体おかしいだろっ!?」

 

「そうでしょうか? もし捕まえて見世物小屋に放りこんでしまえば、もう給料全てがクッキーに悩まされるなんてことが無いですっ!」

「待てって言ってるだろうが! 妖怪やら野人といえどこのヒゲもじゃ髪もじゃん…………ん? もじゃ、もじゃ……?」

 

 

 上海の態度で自分が人外認定されて内心愕然とし、さっきの部屋に戻って悲しみを肴に酒でもあおってようかなという提案が思い浮かぶ。しかし、その思考を遮るのは声音に未だに恐怖心を覗かせる副メイド長の一声であり、彼女は俺の容姿に思い当たる節があるのか訝しく言葉を紡ぐ。

 

 

「もじゃ……もじゃ………………もじゃもじゃ──夫?」

 

 

 ……なんかつい最近、どこかで耳にした名称を耳朶が拾う。

 

 

「も、もじゃもじゃ夫って、もしや先程フランドールお嬢様が仰った?」

「だ、だな……」

「……」

 

 

 しかも名付けた本人の名前まで挙がったとなると、一気にきな臭くなってきた……。

 

 これは最早事情説明を諦めて逃走準備をしといた方が良いかな……と、気取られない様半歩後ずさったところで、藍色髪妖精メイドから声が投げ掛けられる。

 

 

「やっやいやい、神妙にお縄を頂戴してください。今なら……」

「今なら……?」

 

「ほ……骨206本だけで済む……かもよ?」

「……」

 

 

 ……それ生かしておくまいって意味だろうが。腕の1本ならともかく、全ての骨を折るという揺さ振りは誇張な脅迫にせよ、現実味は薄く到底説得力に欠ける。

 

 この口回しでは「殺しに来たから逃げろよ」と行儀良く喧伝しているようなものだ。だというのに妖精メイドが吐いた啖呵じみた台詞に“フランドール嬢が仰った”やら、“お縄を頂戴して”という言葉が含まれているという事から推測するに、この2人組の妖精メイドはわざわざ俺を捕縛する為に捜索していた追っ手なのだと、短い思索でその正体を解く。

 

 でなければ偶然にせよ、もじゃもじゃ夫という単語が彼女達の口から語られる筈がないのだ。

 

 

「俺を捕まえようと?」

「えっ!? ええ……、そ、そりゃあフランドールお嬢様のお達しですから……」

 

 

 確認の短い問い掛けに、藍色髪妖精メイドが臆した挙動で返答する。のどかな言葉を紡いだその表情には先程の快活さは見当たらず、声音は未だ俺への衝撃の余韻を残しているのか若干うわずっている。

 

 

「……」

 

 

 ……野人か。野人なのか。

 

 

「悪いね。当主の妹様のお達しである手前、大人しくついて来て欲しいんだけど」

 

 

 接触時には動揺していたものの、平静さを取り戻した赤毛の副メイド長が藍色髪の妖精メイドから離れ俺と対峙する。俺と彼女との背丈の間には大きな身長差があるので、緊迫混ざりの眼差しと面持ちは自然と俺を見上げる形になる。

 

 

「怪我をさせるつもりはないよ。ただし態度によっては──ね?」

 

 

 彼女の表情は俺の顔を見た時と比較すると朗らか。しかしその面持ちは明らかに朗らかを軽く逸脱し、その感情を超えた剣呑な雰囲気を漂わす。

 

 眼差しに秘めたる奥底は露骨にも警戒の色を露わにし、俺を逃さまいと一挙一動を見守っている。俺自身の決断によって、彼女達は俺に掴み掛って捕縛するのは言わずもがな。そして最悪の場合、威力行使をすることで本当に骨を折るなりして動きを封じるかもしれない。

 

 

「……そうか」

 

 

 勿論それに気付かぬ俺ではなく、副メイド長の言葉に込められた感情に察知すると反射的に摺り足で半歩後退。その間際、一瞬だけ視線を副メイド長から足元に逸らして、ランタンが転がっている位置を確認する。

 

 本来の機能を無くして床上に鎮座するランタンは、手を伸ばせば届く範囲だ。それに微細様々に粉砕した電球の破片は廊下のカーペット上に撒き散らされているので安易に手を出すと怪我をしかねるが、注意を払えば利用出来なくもない。

 

 

「事情があってフラ──そのお嬢様から逃げてるんだが、その辺りは……」

「私たちはフランドールお嬢様に連れてこい、としか言われてない」

 

「…………友人がピンチだったんで助けただけだ」

「だとしても、だ。一緒に来てもらう」

 

 

 俺の釈明を跳ね返す、毅然とした有無を言わさぬ物言い。

 

 案の定、フランドール嬢は妖精メイド達に事の顛末を伝えてないようで、彼女達にただ「連れてこい」と命令を与えられているだけの様子だ。

 

 

「──っ」

 

 

 内心で舌打ち。本望としてはメイド長の十六夜の可能性に賭けてはいたのだが、どうやらフランドール嬢の策謀でその一縷の望みさえ絶たれ、それどころか紅魔館当主のレミリアの名を挙げる隙さえ窺えない。

 

 仮にこの場で彼女の名前を挙げたとしても、恐らくは客という立場さえ無視されるかもしれない……。

 

 

「……」

「……」

 

 

 会話が途絶え、沈黙と静寂がこの場にいる者達の周囲を包む。

 

 緊迫した空気は徐々に浸透し、刻一刻と限界に到達しようと切迫する。それが頂点に達した瞬間、零れた飽和は微塵たりとも残さず泡沫の如く破裂するのみ。

 

 お互いがお互いを意識し、警戒し、威圧し……その臨界点が膨張に触れかける空気。これではレミリアと十六夜の便宜をはかることはおろか、誰かがここで微動だにしただけでも破裂──いや、瓦解しそうな、危うい空間を完全に打破する機会は最早不可能となった。

 

 だが諦観するのは早計だ。平静を取り戻す為、不利な状況を打開すべく閃いたのが思考と理性を鎮静させて夜の安らぎと、その冷淡さを利用して、再度弁明を試みるという手段……。

 

 しかしその手段をよくよく顧みれば、肝心の希望たる夜の冷たさを以てしても、短時間で表面──身体を冷やせても内面までは冷却する事はかなわないという欠点を抱え、むしろこのような状況と環境に於いて懸念すべきなのは、夜の帳の単調とした色は邪推の感情を昂ぶらせ、時間の経過と共に、他者への心象を猜疑心へと強く増長させる傾向を併せ持つ。

 

 

「──」

 

 

 一の手も無く、二の手も塞がれた。……いや、実際に発言するまでは単なる憂慮で済む話かもしれないが、相手は当主の妹だ。発言力は部外者の俺と、彼女とでは器量の差は歴然、彼女達はどちらの釈明を信用するかは過言ではない。

 

 

「生憎……」

 

 

 第一、今更苦し紛れに前述の打開案を見当しても、恐らく眼前の彼女達は頑なにフランドール嬢の命令を厳守する意向を示し、こちらの弁明を説いたとしても結局棄却されるのは目に見える。

 

 

「あ……?」

「うん……?」

 

 

 足掻いても無視、説得も無理、思索も尽きた……。ならばこの場で取る、限定された中で残された最後の選択肢は、

 

 

「お断り──だっ!」

 

 

 つま先でランタンを蹴り上げ、自ら均衡を破ることだ。

 

 

「うわたっ?!」

「ちっ!」

 

 

 宙に舞ったランタンに動揺を隠せない2人。その隙を狙って一気に廊下の奥へと駆ける。

 

 

「……っ」

「あ! こら──」

 

 

 愚行とも言える、誤解を招きかねない選択。それでも尚、自身の判断が間違っていないと弁解するのは、上海を守るという最善の目的があるからだ。しかし本音を述べさせてもらえば、抑制していた焦燥に掻き立てられたのも、反面、このまま会話を交わしても埒が明かないといった要素も含む。

 

 選択肢が狭まった以上、この選択は必至。──が、駆けだした時点であの妖精メイド達にあらぬ誤解を与え、侵入者と認識されるのもまた必然。更に時間が経過すれば、他の妖精メイド達に追われることだろう。

 

 あの2人だけしか事情を知らなければ良いが、もしも、この辺りにいる妖精メイドもフランドール嬢の手が回っているという可能性に思慮を配れば、屋敷内部でいつまでも逃げ切れる確率は漠然とした数値まで落ち込む。

 

 そして脳裏で描かれるのは、屋敷内を目まぐるしく駆け続けるも、どこを向かえど視界にチラつく追っ手の姿。それも時間が経つにつれ形勢も悪化し、徐々に追っ手の数も増すという──光景。

 

 

「ちっ……!」

 

 

 嫌でも浮かんだその情景を連想して、思わず舌打ちが漏れる。

 

 このまま逃げ惑っていては今はよかれど、後に状況は悪化を辿る一方なのは想像に難くない……。だとすればこの状況を打破出来る、彼女──フランドール嬢の力が干渉しない立場のメイド長こと十六夜、或いは彼女の姉であるレミリアを最優先に探せば多少なりとも立場は覆せる筈だ。

 

 しかしあの2人の居場所を部外者の俺が知る由もなく、結局のところ紅魔館内を駆け回るしかないという極論に達する。

 

 

「……はあ」

 

 

 ……肉体面は魔術で補っているものの、精神面ではかなり堪えるな……。

 

 

「痛っ!? おでこに当たりました! ランタンがおでこに当たりましたっ!? 痛いんですけど! 凄く痛いんですけどっ?!」

「いやいや! なんで避けないんだよ!」

 

「だって物凄い勢いで飛んできたんですよっ!? 無理ですってば! うう、痛いですー、痛いですぅ~…………なので労災をば~……」

「そんだけピンピンしてりゃ払わないっての! ──だ~もうっ! お前は破片掃除しろっ、ワタシはあの男を追うっ!」

 

 

 徐々に遠ざかる背後から届く、妖精メイドらによる寸劇の会話。先程の余韻が残っているのか、声高々に言い放っていたので若干意識を傾けて聞き入ると、その内容は蹴り上げたランタンが藍色髪妖精メイドの額に直撃し、そんな彼女を放置して副メイド長はこれから俺を追跡するようだ。

 

 追跡する者が2人から1人に減ったのだから、これは僥倖というべきか。ただ藍色髪妖精メイドの額はランタンの打ち所によっては腫れ上がるだろうから、後程、機を計らって謝らないといけんなと思いつつ走る速度を上げようとして────背後から急速に迫る気配。

 

 

「止まれ──っ!」

 

 

 訝しみ、視線を巡らして背後に振り返ってみれば、そこには瑠璃と深紅の色調に陰鬱にも似た空間から飛び出し、俺目掛けて飛翔する赤毛の妖精メイドこと副メイド長の姿が目に映った。

 

 停止勧告を張り上げ、月明かりに反射する半透明な翼をはばたかせて俺へと一直線に急接近するその姿は、フランドール嬢が投擲したドアの破片の光景を再度髣髴させる。

 

 

「いっ──!?」

 

 

 彼女の姿が意識に反映された瞬間、藍色髪妖精メイドへの罪悪感は吹き飛び、一気に間合いを詰める副メイド長のその姿に驚愕して目を剥く。

 

 身長差で歩幅も異なり、走っていればそのうち撒けるんではないかと内心で楽観視していたのが裏目に出てしまった。よもや予想を上回って、飛翔してくる事自体完全に誤算だ。

 

 ──いや、何度もこの目で見た、幻想郷の住人が空を飛べるという出来事さえ失念し、それもどれだけ早く飛べるのかを把握してなかった俺自身が招いた失態。

 

 

「くそっ……」

 

 

 自責の念に駆られて悪態を吐くも、徐々に迫る副メイド長。接近するその姿は止まる様子が見えず、直接俺に当て身をするつもりなのだろう。

 

 しかしあの体躯では押さえつける事は困難、せいぜいしがみ付けても振り解かれるのが関の山だ。だとすれば副メイド長はそれを承知の上で、不足している要素を飛行時の速度を利用して、その追加された威力を以て俺を捕まえる魂胆か……。

 

 あれだけの速度での当て身だ、押し倒されるどころか打ち所によっては気絶しかねん。もし直撃を喰らって気を失ってしまえば、その間にフランドール嬢の元まで運ばれて、そこで上海が何をされるのか……想像したくもない。

 

 

「~ッ!」

「……っ! わかってる!」

 

「ッ!? ……」

 

 

 強くシャツの裾を引く上海の訴えに、俺は自然と荒い口調で言い放つ。この時、焦燥による憤りをも吐露にした口調の所為か、上海がたじろぐ素振りを見せた後萎縮してしまった。

 

 

「あ。……すまん」

 

 

 短く謝罪の言葉を述べ、即座に背後から迫る危機に対策を練る。

 

 前提として相手は1人、方向は違わず俺へ目掛けて一直線。これだけなら衝突する間際に合わせて横に飛び退くなりすれば、彼女を避ける事も可能だが……あの勢いを逆に利用出来ないものか……?

 

 

「……」

 

 

 思い付いた手段は単純明快、横に避けると同時に彼女を俺が捕まえればいいだけ……という特段思索を練る必要が皆無の方法だ。それに副メイド長はフランドール嬢みたいな危険な気配が漂わないので、組み伏せてしまえば強引なれどこちらの説得に応じて、上手くいけば交渉に持ち込める筈。

 

 ……唯一、欠点としては取り押さえた時の光景が傍から見れば危ない図になりかねんという事だが、状況が状況だからやむを得まい……。

 

 

「お?」

 

 

 副メイド長対策としてどちらの手段に講じるべきか思案し、背後の気配に注意を払いつつ正面を見据えていると、暗がりではあるものの見覚えのある形状の手摺りと階段を発見。

 

 先程通った階段と同じく、これならスペースの余裕もあるので脳裏に浮かんだ両方の案の実行するには条件も容易。問題なのは件の、背後に近付きつつある副メイド長の突進を避けるタイミングなのだが、やはり互いの身体が衝突する瞬間の間際を狙うしかない。

 

 

「ぬ……?」

「……?」

 

 

 ──その時、階段の手前奥は部屋があったのかドアが突如として開く。

 

 もしや別の妖精メイドがそこから退出したのか。それがフランドール嬢の命令を受けてない者なら嬉しいが、なんとそこから飛び出してきたのは……

 

 

 

 

「じゃっじゃ~ん♪」

 

 

 

 

 あろうことか、現時点で最も会いたくもなかった人物──フランドール嬢の姿だった。

 

 彼女は両手を大きく掲げるなりくるり、と足を軸にその場で一回転。回った際に揺れた翼の皮膜代わりの宝石同士をかち合わせてることで、玲瓏な、凛とした音を奏で、廊下の中央に佇んで……自己の顕在を示す。

 

 

「何っ!?」

「ッ!? ──ッ?!」

 

 

 予想だにしない突然の遭遇に驚愕を隠せず、階段の手前でつんのめりつつも急停止。同様にシャツにしがみ付く上海もフランドール嬢の姿を見て驚き、急停止の際に振り解かれて危うく吹き飛びそうになったものの、かろうじて堪える。

 

 

「え、あ……あれ?」

 

 

 正面を見据えて佇むフランドール嬢に疑問を含んだ眼差しを向ける。上海が上に向かったのを確認した筈だ。なのにどうして彼女がこの階に……?

 

 

「ぬっふっふ、驚いた? 実は私も見失った時ちょっと焦ったんだけど…………悲鳴を聞いたら、駆けつけない人なんていないよね?」

 

 

 困惑した俺の態度とは対照的に、嬉々とした面持ちの彼女は「あ、人じゃなくて吸血鬼だった」と先程の台詞を訂正するも、やはり静かで柔和な口調。そして俺の疑問を読み取って答えるその内容は至極尤もな解答であって、俺は彼女の言葉に納得。

 

 悲鳴を聞いて異変を感じ取れない者などいない。大抵は好奇心に押されて悲鳴が上がった現場まで駆けつける野次馬や無視に徹する者もいるだろうが、やはり悲鳴を聞いたら前者の……駆けつける方が圧倒的多数。

 

 だがこうも短時間で2つ上の階から、この階まで一気に移動が可能なのか? ──と、無言に徹していると彼女は再び言葉を紡ぐ。

 

 

「おぎなりは私を撒けたと思った? でも残念、王手……でいいのかな? 鬼ごっこになってたけど、これもお人形さんを手に入れる為。

 ────だから、ちょっと痛いけど我慢してね♪」

 

 

 静かに浮かべた冷笑と共に言い放ち、フランドール嬢は片手を正面に掲げて俺へと向けると、その手の平から派手な光沢を放つ1つの光が生まれる。

 

 

「……っ」

 

 

 次第に眩い光は収縮して、球状に形成される。そして見覚えのある輪郭と色彩に刹那──全身を貫く悪寒。それに釣られて弛緩した筋肉と神経は再び緊張に強張る。

 

 空間そのものが静謐であり、そこにフランドール嬢が手の平から生んだ光弾も無音。ただでさえ切迫した状況だというのに、それを助長する光景を見て一抹の不安を抱えない方がおかしい。

 

 立ち位置からしてフランドール嬢の光弾を避けるのは、銃弾とは比較にならないほど面積が大きいので一瞬の反応で弾道さえ見誤らなければ躱すのは、至極簡単だ。

 

 

「フっ、フランドールお嬢様っ!? て、そんな急には止まっ────っ!」

 

 

 しかし背後から迫る副メイド長の存在が、躱してよいものやらと……俺の判断を躊躇わす。横に飛び退いた場合俺は光弾と当て身を躱せるが、背後の副メイド長にフランドール嬢の光弾が直撃するのは想像に難くない。

 

 かといってこのまま棒立ちしてては、その両方を直に喰らって更に痛い目に遭うのは明白。

 

 前門の虎後門の狼の喩えとはまさにこの状況か。……だがこの状況を上手く有効活用すれば、追っ手を1人減らせる利点も持ち合わせている。

 

 

「──」

 

 

 感情を非情に徹し、冷淡とした決断を下せるならば、これほど上手い具合に仕上がった状況を利用しない手はない。

 

 

「────」

 

 

 だが……だが…………だ。副メイド長だって敵愾心で俺を追っている訳でもなく、偶然にも俺とフランドール嬢のいざこざに巻き込まれて、フランドール嬢に捕まえろと命令され……職務を全うしている立場。

 

 相手に純然たる敵対心自体さえあれば、遠慮どころか逡巡する事無く彼女に光弾の射線を譲るがそれを反映させる感情自体、一縷も皆無。

 

 だからこそ尚更その手段の行使を躊躇い、良心そのものが副メイド長を巻き込みたくないと訴えるのだ。

 

 

「──ちっ!」

「う──わぁっ?!」

 

 

 身体を逸らし、真横に飛び込んできた副メイド長の服をすかさず掴む。そしてその勢いを逆に利用して、片足の踵を軸にぐるりと一回転、彼女を廊下の窓際へ力の限り強引に投げ飛ばす。

 

 

「ぐ……っ!」

 

 

 急な加速で手にしていた重み……副メイド長が急に離れた事で不安定に揺らぐ自身の体躯。

 

 それでも転ばぬようにバランスを保とうとするものの、副メイド長の飛翔する速度とそれに相乗した慣性が余りにも速かったのか足元がおぼつく。そのお陰か、背後から鋭利な風切り音を耳朶に捉えた時は奇遇にも光弾を避けた事を避けた事を伝える。

 

 

「いだっ!」

 

 

 横目で窓際に投げ飛ばされ、痛みの声を上げる副メイド長を見、今度は自分が置かれた状態を確認すると、階段の前まで体勢はよろけた身体はもうろくした老人の足取りよろしくおぼつかず、手摺を掴むのもおろか体勢も整ってない状態。

 

 あ、不味い──。そう気づいた時には時には既に遅く、身体が足を踏み外して傾斜を始める。

 

 

「……ッ!!」

 

 

 意思とは裏腹に徐々に傾く身体。引力に引き込まれ向かう場所は言わずもがな一路、階段の下。

 

 

「~ッ!!」

 

 

 副メイド長を投げた際の反動で腕から離れた上海が、俺目掛けて必死に手を伸ばす。──しかし奇しくも、上海の伸ばした救いの手は俺の手に触れることは叶わず、寂しく虚空を掠めただけ。

 

 

「……え」

 

 

 呆気なく自然に底へと吸い込まれる自身の身体。最早足掻いても引力に逆らうことは出来ない。

 

 もし上海や妖精メイドみたいに空中に浮かぶことが出来るのであれば転落の回避は可能であろうが、そんな“もしかしたら”という想像が脳裏を横切る……。しかし、所詮は“もしかしたら”という想定。ちょっと魔術を齧った程度の凡人の俺がそんな能力を会得してる訳がない。

 

 

「──畜生っ!」

 

 

 そして脳裏で浮かんだ思考を全て放り捨て、悪態を吐いて俺は階段から転げ落ちた。

 

 

「ぐ……がはっ!」

 

 

 頭を両腕で庇った直後、強烈な勢いで襲い掛かる強い衝撃。その衝撃に耐えられず、口からは痛みから伴う声が無意識に漏れる。

 

 そして一定の間隔で襲ってくる刺激と痛覚。お陰で自分がどちらを向いているのかの方向感覚さえも狂う。ただ固い感触が身体の至る箇所に触れる度、その部分が階段に触れている事だけは確かだ。

 

 

「うが……っ!」

 

 

 短い刹那にも思えた時間は本当に一瞬で過ぎ去り、中腹の踊り場で転落は止まる。──が、その際の体勢が悪く、両腕で頭を庇っていたもんだから受け身が取れず、肩を強く強打する形で着地。

 

 挙句に肩を強打するにしてはやけに鈍い音が短く木霊し、同様に迸った激痛に思わず悲鳴を漏らす。

 

 

「あれ、消えた……?」

 

 

 フランドール嬢の怪訝の声が届く。そりゃあ眼前に立っていた鬼ごっこの対象が突如階段下に転落して消えたのだ、傍からすれば不可思議な現象に他ならない。

 

 

「痛え……」

 

 

 しかし突如として消えた……俺としては不可思議どころか、うんざりする現象。階上から届く呑気な声とは裏腹に、苦悶の言葉を漏らしつつ仰向けに寝転がり、左手……が何故か全く上がらないので右手で自分の身体を触診。

 

 意識は明瞭で、頭は無事。肩は左肩が上がらず、胸部や腹部は多少痛むも支障無し。そして肝心の足は…………無事に動く。

 

 唯一、左肩が痛む事を除けば身体は無事だ。が動かなくなった時点で不安である事には大差ないのですかさず身体を起こして立ち上がり、そのまま階段を下る。

 

 しかし痛みの余韻はまだ残留しており、足を一歩踏み出しただけでも身体の節々に痛みが奔るどころか、それが起因と思われる明滅を繰り返す視界に表情を顰める。

 

 

「嗚呼、くそっ! 上海……上海!」

 

 

 右手でホルスターに仕舞った拳銃が抜け落ちてないかを確認しつつ、上海の名をなりふり構わず大声で呼ぶ。

 

 

「ッ!? ──ッ!」

「おぎなり……あっ! そんな所にいたんだ!」

 

 

 すると俺の呼び声に反応して階上で俺の安否を気遣っていた上海が傍に駆ける。勿論、声に反応したのは彼女だけではなく、フランドール嬢も俺の声に釣られて反応したのは言うまでもない。

 

 

「~ッ!」

 

 

 近付いてきた上海は俺の安否を気遣う素振りをするも、すかさずシャツを掴み、強引に前へと引っ張る。それ対し俺は振りほどくどころか、この場から早く離れたいという気持ちの方が勝っていたので、彼女に引かれるがまま階段を素早く降りる。

 

 

「痛──たたっ!?」

 

 

 廊下同様、カーペットが敷かれているから衝撃なんてそうそう来ないものだが、前述した通りの状況的に迅速に移動しつつ踏み面に足を踏み下ろす都度、断続的に小刻みの振動の負荷が全身に襲い掛かって痛む肩を更に刺激して、激痛を発す。

 

 痛み出した瞬間、脳裏でよぎったのは肩部の亀裂骨折──。だが骨折してるのであればこれとは比較しようがない位もっと痛む。それに痛む箇所は肩部というよりかは肩と腕の節目辺り……?

 

 

「い──っ!」

 

 

 試しに腕を上げてみるが、力が入らないどころか持ち上がらない。もし骨折していれば、激痛が伴うが多少は持ち上がる筈。だというのに持ち上がらない腕と、肩の関節の繋ぎ目から生じる違和感……。いずれにせよ骨折の症状と合致しない気がせず、この場合骨折というより脱臼の症状に近いかもしれん。

 

 しかし脱臼と骨折は時として区別すると間違えやすいので、一概にそれと区別するのは困難。それにフランドール嬢に追われている現状、折れてるのか外れているのかの確認をしている暇は微塵も無い。

 

 

「……っ!」

 

 

 下の階に到着した。見回したところ──尤も暗すぎてよくわからんが──、窓の数も上の階と変わらぬ構造。このまま廊下を一気に走り抜けて、フランドール嬢を撒くべきだろう。

 

 しかし背後から、

 

 

「待て待て待て~! あっはは~っ♪」

 

 

 ……なんて嬉々とした声と、その声を発する本人が迫っているとなれば自然と焦燥が募る。

 

 廊下を駆け抜けるべきか──? しかし左腕が脱臼して感覚が狂ってる手前、走ってる際バランスが取れずに転んでしまう可能性と、それが主因で早く走るどころか自然とゆったりとした足取りになってしまうのでこの状態で廊下を駆けるのは至極困難……。

 

 

「……っ! くそっ!」

 

 

 舌打ちして顔を巡らすと、横に階段がまたあったので再び下の階へと向かう。

 

 

「お、また下に行くんだ? ──て、そっちは……」

 

 

 痛む肩にしかめっ面で堪えつつ階段を下ると、背後からフランドール嬢の気になる発言。しかし最後まで聞く前に、俺と上海は既に階段の中腹まで降りていた。

 

 

「……おっと!」

「──ッ!?」

 

 

 光量が少ない薄暗い階段。視界が利かないのは上の階と比べれば夜なんだから当然かもしれない。しかし漠然とした光量の変化に順応する前に判断が鈍って思わず足がもつれるも、上海が倒れかけた俺の身体を支えて転倒を防ぐ。

 

 

「た、助かった上は……お?」

 

 

 顔を上げると暗澹とした暗さの中、それを払拭したかのように視線の先に存在していたのは大きな扉。それも先程の2人の妖精メイドが携えていたランタンに似た形状の照明が扉の両脇に据えられ、その中心の発光源にはランタン同様、羽虫の大群が柔らかな光にたかる光景。

 

 故に視界が闇に順応する前に、夜の闇を払う明瞭なその明るさに目を奪われた。

 

 

「…………っ!」

 

 

 習性とはいえ、大量の羽虫が光に集まる光景は生理的に気分が悪くなる。だが外の世界の照明に集まってくる羽虫とは異なる……どう表現すればいいのかわからんが、心温まるような、不思議な安心感が伝わるので不快感は抱かない。

 

 一体全体、羽虫と照明器具の正体も気になるが観察してる場合じゃないので、視線を移して扉──両開きか──の形状を確認すると、素早く階段を降りるや駆け足で扉に当て身。

 

 

「おわっ──!?」

「ッ!」

 

 

 豪奢とは違って質素で、重厚で大きな見た目の割にはドアの比重は軽く、勢いよく開いた拍子に転がり込んだ空間に倒れそうになる。

 

 それでも足を大きく踏み出すことで転倒を未然に防ぎ、またしても上海に支えて貰ったが。

 

 

「痛ぅ……すまんな上海。……あれ?」

 

 

 脱臼の痛みに苛まれながらも上海に礼を述べる傍ら、思わず呆気に取られた声が自然と漏れる。

 

 飛び込んだ部屋は脳裏では行き止まりの可能性も考慮したものの、扉の形状からして内部は広い倉庫だろうと読んでいた。──が、どうやら俺のその予想は大いに外れたらしく、室内に駆けこんでまず目についたのが大きな壁が眼前にそびえていたことだ。

 

 行き止まりか……? 安堵も束の間、内心で焦燥を募らせながらもすかさず周囲を見回すと、空間は左右に大きく広がっており、通ってきた廊下同様奥は暗澹とした色に染まって見通せない。

 

 それでも尚、扉の前に設置されていたのと同じ形状の照明器具が眼前の壁に据えられているお陰で、うっすらとながら室内の内装が把握するのが困難でないのが幸いか。

 

 

「本と棚……書斎か? いや、いくらなんでも広すぎる……?」

 

 

 照明の明るさに助けられながらもじっと凝視すると、眼前にそびえていたのは壁ではなく、俺の背丈をゆうに超える本棚とそこにぎっしり詰まれた大量の本の山だった。

 

 

「なんと……」

 

 

 唖然とした声を漏らすもすぐに気を取り直し、一見してみるに本棚の棚板は軽く視認しただけでも4、5段かそれ以上。そこにしまわれた本の数は片手どころか両手の指でも数え切れず、その種類は……薄暗い所為かよくわからん。

 

 視界に映っただけでも多大な数に呆気に取られる半面、自然と関心が湧き、本と棚板を追って視線を上げていくと、天井には照明が吊るされておらず暗澹としており、星空の見えない夜の帳そのものの光景と重なる。

 

 しかもそのはるか高みにまで本棚は届いており、よくよく観察しなければ本棚を壁と勘違いしてしまうのも仕方なかった。

 

 

「信じられん……」

 

 

 照明も届かぬ天井の高さにも驚かされたが、その高みにまで伸びている本棚にも驚愕を隠せない。これじゃあ家庭とかでよく見かける本棚ではなく、図書館規模の本棚。

 

 よもやこのような広大な空間の部屋……いや施設か……が屋敷の内部にあったとは、驚くなという方が無理だ。

 

 

「あ、やっぱり扉開いてる」

「ちっ! 上海、扉を閉めろっ」

 

 

 だが追い打ちをかけて思考を遮ったのは、背後から迫る追跡者たるフランドール嬢の声。彼女を聞いて、反射的に部屋の扉を閉める旨を上海に指示。

 

 

「──ッ!!」

「よし。えっと……こっちだ!」

 

 

 上海は咄嗟ながらの俺の言葉に素早く従って扉を閉め、俺はそれを見届けると一目散部屋の端へと駆け出す。

 

 

「……ん?」

 

 

 これだけの空間に、これだけ大きな本棚だからすぐに行き止まりってことはなさそうと判断して走り出してみたものの、この空やけに広いという事を再認識。更に走ってて同じような形状の巨大な本棚が配置されており、それらが駆け抜ける傍らで視界の端から端へと過ぎ去っていく。

 

 もしや本当に図書館? だとすればこれ以上走っていても隠れられるような場所が、本棚の陰の辺り位しか制限されているようなもの。

 

 そう悟るや、俺と上海は適当な本棚と本棚の間の通路に勢いよく曲がる。

 

 

「痛っ──!?」

 

 

 足を一歩踏み出す都度、脱臼したと思われる左肩が鋭い痛みを伴う。

 

 そういえば肩を痛めてたんだった。だというのに何故、自ら進んで鞭を打つような真似をしているのやら、と自身の行動を顧みる。

 

 ……いや、まあ状況が状況なだけあって、追われているからなのだが……。

 

 

「よしっ、ここで一旦休憩」

 

 

 ひたすら奥へ奥へと走り、適当な本棚の陰で一旦身を潜めて周囲を警戒。通って来た道を本棚の角から覗き込んでフランドール嬢の姿が無いのを確認し、本棚に身体を預けて肺に溜まった息を吐き出す。

 

 ……一先ず、短いながらも安堵の時間を手に入れた。ほんの僅かでも休める猶予が得られる有難みというのは、環境が変わってもどこでも一緒の考えだ。しかし────

 

 

「あ。窓が……」

 

 

 頭上を見上げると、外は燦爛とした冷たい輝きを放つ月光が廊下の窓から幾重にも差し込んでいたというのに、この図書館にはそれらしき光が一筋も視界に映らず薄暗い。

 

 窓の大半は本棚の高さで隠れているのかと推測するが、それ以外の殆どの窓……天窓は、頭上や本棚よりも高い位置にあるのが視認出来る。

 

 あれだけの高さに設置された天窓を上海に開けてもらうのは…………時間も掛かり過ぎるし、開けられるのかさえ怪しいのだから無理だろう。だとすればこの空間で階上のと同じ匂いを消してやり過ごす方法は不可能であり、フランドール嬢はまっすぐ俺の匂いを辿って来る筈。

 

 たとえ猶予があっても一凪ぎの風による妨害が微塵たりともあらず、このまま身を潜めていてもお互いが対峙するのは時間の問題。ならば尚更不自由な状態の左肩をこのまま放置しておけない。

 

 

「…………」

 

 

 そっと右手で、左肩をなるべく刺激しない様優しく触れる。医者ではないものの、経験上左肩の症状は脱臼のそれと酷似しているので丁度肩と腕の関節の節目辺りを触診してみると案の定、違和感があったのでやはり左肩の痛みは脱臼によるものと確信した。

 

 ならばやる事は1つ、外れた関節を元通りに戻すのみなのだが、本音を漏らすとコレは…………あんまりやりたくない。理由は言わずもがな、痛いからであるのは過言ではなく、荒治療で強引に戻すとなれば尚更だからだ。

 

 脱臼するのは痛いが、戻すのは更にそれを上回る激痛が伴う。だがフランドール嬢が刻一刻と迫りつつある手前我儘は言ってられないし、対峙した際の対策も迅速に検討せねばならぬので、フランドール嬢と真っ向から挑まざるを得なくなった事態に備える為にも、左腕の存在は必要不可欠だ。

 

 

「はあ…………上海、見張りを頼んだ」

 

 

 止むを得ない……、と大きく嘆息して覚悟を決めた後、上海に周囲の警戒を頼む。

 

 

「……?」

 

 

 俺の投げ掛けられた言葉に周囲に視線を巡らせていた上海は怪訝に首を傾げる。そんな彼女の反応を余所に、念には念をと声が漏れない様猿ぐつわ代わりにネクタイの大剣を口に挟み、身体ごと左肩を本棚の角に面向かう。

 

 

「……すぅ~……、ふぅ~……」

 

 

 本棚の角に左肩をゆっくりとあてがい、息を整える。

 

 鼻孔から漏れる息がやけに荒く、表情が自然と険しくなっていくのを自覚する。ただでさえ静謐な空間だというのに、自身の呼吸音がやけに耳障りなこの上ない。

 

 

「すぅ………………っ」

 

 

 耳朶に幾度も木霊す自分の喧しい荒い呼吸をいい加減静める為にも、「痛みなんて一瞬の出来事」という言葉を何度も繰り返し、そこに叱咤の言葉も織り交ぜて遂に決意すると鼻から大きく息を吸い込んで、息をぴたりと止める。

 

 

「ふっ──!」

 

 

 そして口に挟んだネクタイの大剣を強く噛み締めて、左肩を本棚に一気に叩き付ける────!!

 

 

「ぐが…………っ!?」

 

 

 刹那──身体を強打した際に似た鈍い音が左肩を中心に短く轟き、それと同じ瞬間、迸った激痛に耐えられずくぐった悲鳴が反射的に口から漏れる。ただしネクタイを口に噛んでいたお陰で押し殺した声がたいして漏れてなかったのが幸いし、静寂な図書館に俺のみっともない声が響く事はなかった。

 

 

「────ッ?!」

 

 

 俺の行動に驚愕を隠せず、上海が傍に寄って来た。

 

 

「…………っ! ……しゃ、上海、心配するな……関節を、元に戻しただけ、だ……」

 

 

 がくりと片膝をカーペットの上に突き、噛んでいたネクタイを口から外して苦悶混じりの口調で彼女を窘める。確かに他者からの視点で俺の行為を見ていれば「何事かっ!?」と動揺するのも無理はない。

 

 嗚呼畜生、痛いったらありゃしない……。

 

 

「ふぃ~…………。──よし、元通り……」

 

 

 ゆっくりと左腕を上げて、肩より上に持ち上がるのを確認。が、多少無理をした戻し方をしたので関節部は断続的にズキズキと痛みを放つ。

 

 その原因を作った自分に自問自答するのもおかしい話だが、痛覚てのは思考やら行動を妨げて鈍らしかねないもんだから鬱陶しいたらありゃしない。もし脱臼ではなく、骨折だったと気付かず本棚の角に肩をぶつけていたらもっと酷い目に遭ってた事だろうに、今回は脱臼と確認出来ただけでも特に幸運だ。

 

 これも経験の賜物といったところか。有難いようで有難くもない、なんとも微妙で曖昧な……。

 

 ──とにかく、思考にも痛覚の刺激を与える煩わしい痛みを……本当は痛いんだが……堪えつつ、気持ちを切り替える形で蹲ったまま大きく深呼吸。そして肺の内部に溜まった空気を入れ替えて立ち上がると、状況整理の為再び周囲を見回す。

 

 

「…………」

 

 

 見事なまでに左右背後を見渡せど本棚が聳えている。人の気配も視界がこの通り、どこもかしこもが本棚に覆われている所為でさっぱり把握出来ん。

 

 本棚の配置もほぼ整然としており一定なもんだから、まるで迷路に迷ったかの様な錯覚さえ覚えてしまう。なのでこれはフランドール嬢をやり過ごせても脱出なんて出来るのか? ……という不安がよぎる。

 

 だがそれとてフランドール嬢も俺と同じ条件だ。匂いを辿って追跡しても俺達が先に図書館を脱出してしまえば…………

 

 

「……否、彼女は飛べるから無駄か」

 

 

 幻想郷に来てからの体験を遡行すると、あの翼が飾りでなければフランドール嬢も空を飛べる筈だ。彼女が空を飛べるのかはまだこの目で確認した訳ではないが、可能性は一抹たりとも捨て切れない。

 

 よってその可能性を憂慮すれば、たとえ出口に向かって逃げ出せても一瞬で追いつかれてしまうのが光景が容易に浮かぶ。

 

 後はこの図書館の出入り口が俺と上海が通った箇所以外に存在するかどうかだ。現状この地に来てから日が浅く、それに相成って紅魔館の構造に疎い以上どこに何があるのかなんてさっぱりだ。

 

 頭上高い天窓からは…………無理、絶対無理。どうやって登れというのだ。上海に引っ張ってもらうか? しかしそんな事をフランドール嬢が黙見している筈がなく、上海も大人を引っ張れる膂力はあるが天窓まで運べるかどうか……。

 

 風で匂いを攪乱するのも前述の天窓の位置からして難しく、図書館からの脱出は諦めた方がいいな。なら今度は上海に図書館内部を探索させて人を呼ぶってのは…………駄目だ、途中でフランドール嬢と遭遇しかねないし、ここで彼女に単独行動をさせられない。

 

 いっその事フランドール嬢と交渉? もしそれが無理ならば────対峙の択一?

 

 

「────っ?!」

 

 

 脳裏によぎった最後の選択肢に慄然と肩が竦む。吸血鬼に挑む? ……無茶苦茶過ぎるし無謀にも限度がある。御伽噺じゃあるまいし、そんな仮想対決は空想物語の浸り過ぎた者が現実と幻想の境目を無視して、他意も無く口走りがちな“もしも”な戯言だ。

 

 古今東西あらゆる媒体で見かける、典型的ながらも幻想物語を飾るに尤も相応しい対決。しかしその媒体の大半は吸血鬼の漠然とした力量の差で淘汰される人間の姿が殆ど。

 

 だが、夢想で描いた御伽噺のような、空想物語が見事なまでにそのまま具現化した世界に俺は現在進行形で身を置いている。時空を逸脱した人間対吸血鬼。吸血鬼役は無論フランドール・スカーレット嬢、しかもその相手の人間役が荻成怜治──俺と来た。

 

 で、仮にその役者達が正面から向かい合って戦うとなれば…………、

 

 

「……わお」

 

 

 うん、フランドール嬢が放った光弾の嵐で勇敢と履き違えた蛮勇の意気込みで突撃した俺が挽肉にされる末路が明瞭に浮かぶ……。

 

 不利だ。圧倒的に不利だ。なにより吸血鬼相手に吶喊なんて無理だ。絶対に無理だ。

 

 かと言って突撃を断念した場合でも本棚の陰を遮蔽物に、隙を窺おうにも一方的に攻撃されて身じろぎ一つままならぬ自身の姿が脳裏の鮮明を過ぎ去り、それが要因か、媒体でありがちな形勢逆転する展開が一向に想像出来ん。

 

 単に俺の想像力が乏しいのか、それとも吸血鬼という強大な生物に本能が尻込んでマイナス方面に思考を作用させている為か、どう思索を経ても俺が彼女に勝てる見込み姿が俄然と湧かない。

 

 

「むぅ……」

 

 

 脳裏でさえ諦観の念一色。ならば最早これまでと潔く降参して鬼ごっこを終わらせるのも悪く────あ、やはり降参は駄目だ。経緯からして穏便に事が済むかもしれんが、今度はフランドール嬢本来の目的だった上海が二度狙われて危うくなる羽目に。

 

 で、それを俺がまた助けて再び鬼ごっこ勃発の悪循環……。

 

 

「雁字搦めじゃないか……」

 

 

 埒が明かないと表情を歪め、小さく呟いて項垂れる。自分が助かっても上海をまた危険に曝すなどと愚行の極まり。俺をそれを回避する為に粘りに粘って、紅魔館内部を奔走していたのではないか。

 

 葛藤して逡巡した選択だが、全てを繰り返して水泡に回帰なんて真似なんぞ今更出来ん。さればこそ最早腹を括ってでも吸血鬼と対峙するしかない。……だが半面で、本能は敵う訳が無いと頑なに否定。

 

 何故敵わない? と半面、自らの意思に自問自答すれど返答されるのは、先程思考から生まれた、御伽噺では人間の大半は殆ど淘汰されてるではないか────という言葉。

 

 

「……」

 

 

 ……前述の通り、御伽噺の大半では人間が吸血鬼に淘汰される事が多い。──しかし、残りの半分はそれにて反比例して、吸血鬼が人間に淘汰されているという証明にも他ならぬ。

 

 勇猛と蛮勇を履き違えかねない無謀な挑戦。その行いは善悪どちらなのかさえ判断も付け難い。だが物語の登場人物がその行為に至る経緯の大抵は、筆者によって脚色された歴史的背景に於ける確執が鬱積して爆発したなれの果てであろう。

 

 禍根……確執は募れば募るほど爆発の威力が増し、激しく燃え盛って万人を巻き込んで塵芥へと化す。例え種族が違えど、それは交互の種族……この場合は人間と吸血鬼……が、意思表示が可能であれば尚更だ。

 

 苛烈な確執を燃料は膨大な禍根と怨嗟を生み出した途端、何人たりとも鎮めることは難しく、時と場合によってはその爆発と熱は多大の犠牲を築き上げる事でようやく沈静化するのだ。

 

 ただし中には唯一例外となる人物もいる。それは爆発と炎を華麗に避けて、空想物語を彩る主人公──という例外を除いて。

 

 

「…………」

 

 

 苦笑の感情が滲み、思わず口元が緩む。俺なんぞ到底、主役なんて柄ではない。しかし今回ばかりは多くの作品によって散見されるその生存率……最早悪運だな……の高さにあやかって、戦ってみるというのもいいのではなかろうか。無論、加減を測ってだ。

 

 決意を改め、そうとなれば早速彼女と衝突するなら一計を案じた方が無難だろう。それに第一ここまで逃げ切ったんだ、たかが人間風情の反撃なんざフランドール嬢にとっては蚊に刺された程度の反撃位しか感じまい。

 

 ……っと、新たに意思を固めたのはよいものの、時間も無いので工作も手間も掛からない至極単純な作戦しか立案出来ない。まあ多少なりとも作戦の成功率を上げられるのなら、無心で彼女に挑むよりましというものだ。

 

 目的はあくまで交渉まで持ち込んでの解決。ただし場合によっては身体を張ることを念頭に置く。それを方針に据え、なんとしてでも俺が優位に持ち込める作戦を練る為思案を巡らす。

 

 ──場所は図書館。配置されているのは背の高い本棚と、そこに収納された夥しい数の本。床は廊下と同素材のカーペットが敷かれていると推測。

 

 ──自身の身体状態。意識と思考、五感は明瞭で正常。左肩は痛みの余韻はあるが関節を戻せたので万全。疲労は蓄積されてるが行動する分にはさして支障無し。

 

 ──協力者。該当者は無論同行中の上海人形。彼女がいてくれ本当に助かる。……筋肉的な要素も含めて。

 

 ……ふむ、状況としてはこんなところか。後は所持品なのだが、銃は予想外の問題時に備えてなるべく温存。要するに使わないという選択。吸血鬼と言えど、外見が人間と大差無いあどけない少女に向けて銃を向けるのは罪悪感極まりなく、逆に構えてしまえば余計に彼女を刺激させかねない。

 

 で、残りの所持品……は…………。

 

 

「………………うむ」

 

 

 決め手となる存在に視線を巡らせて閃き、作戦に欠けていた要素を補完。後はなるべく彼女──フランドール嬢を激昂させず温厚……いや、説得か……に諭せれば充分だ。

 

 これである程度の作戦は練れた。作戦の内容はフランドール嬢の身動きを封じるだけの単純明快なもの。ただし一瞬の反応が遅れればこちらが被害を被り、最悪の場合彼女を怒らせかねない。

 

 それを除き、これが上手く脳内で想定した通りの展開になれば勿論望ましいが、常軌の人間の身体能力をも上回る人外相手に作戦自体が成功するか否かの判別は博打の範囲。過度に期待しても作戦通りに事が運ばない確率も零でない事も念頭に置いておこう。

 

 

「……上海、頼みたい事があるから聴いてくれ」

「?」

 

 

 ここまで熟考したのだ、後はなるようになるしかないと意思を固めた俺は期待半分不安半分の感情が胸中で渦巻く中、静かな口調で上海に作戦の内容を打ち明けた。

 

 願わくば作戦成功の成就をと、心中にそっと呟きつつ────。

 

 

「……」

 

 

 …………あの光弾を避けて近付けても、噛まれたりしないよな? 嗚呼、やっぱり不安だ……。

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