03-10/もう1人の猩紅 Pt. 3
ベッド際から反対側のドアまで走り、到達するやドアノブに手を掛ける。
立ち止まってドアを開けるなんて手間はこの場合煩わしく、ドアに全身の体重を掛け、走り出した勢いを殺さず、逆に利用して強引に開け放つ。
ドアの鍵の有無は確認してないが、あったとしても施錠した記憶が皆無。なのでノブを捻っただけでドアは大きく弧を描き、隔てられた反対側の世界との空間を繋げる。
そこからは景色が一転……なんて事は無く、映し出される世界は部屋と同様、視覚に障る紅一色に染まった不気味も甚だしい廊下。
廊下に飛び出し、抑止を掛けて勢いを殺してドアを閉めようかと一瞬逡巡したがフランドール嬢が行使したと思われる力では時間稼ぎにもならないという結論が早急に浮かび、ドアを開け放ったまま即座に走り出す。
──さて、思索を練った後にこうして廊下に飛び出した訳だが、まずは計画の要であり目的でもあるフランドール嬢をどこで撒くべきか……と、身体を動かしつつ思案を練る。
現状では紅魔館内部の構造は玄関と用意された部屋、どこまで行っても差異が不明な深紅の廊下以外には把握していない手前、身を隠す場所を探るにはいかんせん情報不足。
ここは一端、今は虚ろな記憶を頼りに十六夜と共に通った道を辿り、身を隠せる……それもなるべく大きな……部屋と、この事態を伝えるべく屋敷の関係者を探すのが無──
「難──っ?!」
──直後、背後で物凄い衝撃音。
部屋で聞いたあのベッドが壊れた瞬間のと同じく、またしても大気を震わし腹に響かんばかりの……いや、それ以上に耳をつんざく、けたたましい轟音に思考は遮られ、不意打ち同然の出来事だったので足がもつれて転びそうになる。
「っ……!」
転ぶまいと何とか足を大きく一歩踏み出すことで転倒を未然に防ぎ、何事かと首を捻って後方を確認すると……あろうことか、ドアが見事にひしゃげて吹き飛び、細切れに砕けたその残骸と破片を廊下の反対側の壁に叩きつけられて撒き散らす光景。
しかも…………待て待て待て、蝶番を固定していた壁の一部まで抉れて吹き飛んでるぞ? ベッドが破壊された際も驚いたが、ドアを開けずに吹き飛ばすのは流石に予想外。
その見るも影も無く無残な形状と化した、ついさっきまでドアだった物のなれの果てに唖然として、自然と走るのを忘れて立ち止まる。
「何で逃げるのー? それとも急に人形を貸すんじゃなくて、鬼ごっこがしたくなったとか?」
ドアがあった場所……俺と上海が案内された部屋からフランドール嬢が悠然とした足取りで破片が散らばる廊下に踊り出、唖然と立ち尽くす俺に向けてそう投げ掛ける。
その声音には先程まで交わしていた朗らかで穏やかな感情は汲み取れず、俺の行動の一環が癪に障ったのか、瞼を窄ませて不満げに頬を膨らました表情を浮かべている。
「あ……──っ!」
かく言う俺は彼女の姿とその言葉に更なる不安に陥りつつも我に返り、走るのを再開して距離を保つ。
「あ、また逃げた」
そんな俺の走り去る姿を見て、フランドール嬢は非難の声を静かに上げる。生憎と今の俺には宥める余裕は無い。
……ええと、ドアの破壊音で中断されたが、考えてたのは逃げのついでに人探しだったな。しかし未開の建築物の内部を逃げながらとなると、逃げつつ並行に行うのはやはり難しい。
ともあれ今の俺自身の目的は彼女の声を聞くよりも、部屋から廊下におびき出す事。それが荷物を回収するための布石であって、部屋からの退出は……多少予想外つつも成功といったところ。
後はこうして逃げる振りをして攪乱、部屋からなるべく遠ざけるだけだが果たして流れはそう簡単にいくのか? ……という、憂慮すべき最大の懸念を裏切るのが現実が持ち合わせる非情の摂理。
「むぅ、無視するの……? なら無言は肯定の意でいいんだよね!」
……と思っていれば最悪極まりなく、その予想は見事に的中。やはり現実は残酷で、期待せずとも勝手に裏切ってくれた。
どうやら無言のまま応えたのがいけなかったらしく、フランドール嬢のご機嫌斜めと言わんばかりの憮然とした台詞ながらも、嬉々とした感情を醸す声が耳に届く。
フランドール嬢の問いに対して、沈黙で返答していらぬ勘違いを与えてしまったのは言わずもがな。同時に彼女にとっての遊び相手の標的が上海から俺へと変更された瞬間でもある。
とにかくこれはこれとして、俺に誘いにフランドール嬢の意識を上海を危機から完全に逸らす事に成功したと言っても過言ではない。
しかしそれに代わり、今度は俺が危険な状態になったという事も過言ではない……。
俺の目的は攪乱行動という名目の逃亡の段階であって、彼女の言う様に決して鬼ごっこをする為ではない。その弁解を説くべきかという考えが一瞬よぎったが、喋って時間を稼ぐのはとっくに放棄。
今は計画通りに一刻も早く、フランドール嬢の傍とカバンを放置したままの部屋から離れるのが最優先。
そして突発に起きた鬼ごっこと相手が思い込んでる以上、あの力を行使して鬼役の彼女に俺が捕まった時は──と、ベッドやドアの如く、口にするにもおぞましい形状に砕けた物言わぬ肉塊になった自身を嫌でも想像してしまう。
そうなる前にもっと彼女から離れねば──と、自然と廊下のカーペットを蹴る足に力が籠もる。
「……よいしょ、っと」
距離が離れ、互いに遠ざかってるというのに背後からフランドール嬢が何やら小さく呟いたのを耳朶が捉える。
明瞭に届く呟き。ただでさえ厄介な出来事なのに、今度はどんな行動を起こすのやらと不安が募り、それを払拭したいが為に背後を振り返ろうとしたが、わざわざ確認していたら追いつかれるだけなのでここは我慢しつつひたすら走るしかない。
とは言え走り続けるにしろ結局は体力に於ける持久力勝負。何しろ相手は幼きけれど神と同等とも称される神格の種族、吸血鬼。
その能力差は騙るまでも無く漠然としており、実際に室内でその力の差を歴然と証明してみせた。
しかしそれは──分析するにも情報不足だが──単に人外の、常軌を逸脱した種族が振るう単純な力のみだとすれば、彼女はまだ自身が持ち合わせる能力とその力をまだ行使していないとも分析できる。
ならばまだ五体満足で逃げられる希望はあると考えても良い。
……同時に、この逃走劇をフランドール嬢が本当に遊戯の一環だと思い込んでくれれば尚嬉しいが、果たして……。
「~ッ! ~ッ!!」
一抹の不安が脳裏を蠢く最中、それに併せて腕に何かが暴れる触感。そちらに目を向けると上海が苦しそうに俺の腕の中でその身をもがいている姿が目に映った。
そういえば部屋で抱き寄せたままだったことに気付く。
「……」
この場で強く抱き寄せた事に対して謝りたかったが、今現在、廊下で走っている最中なので下手に口を開くと舌を噛む恐れがあったので、無言のまま腕の力を抜くと上海は俺の腕から抜き出、胴体を伝って肩部にしがみ付く。
この時、いつもの様に頭の上に乗らない事に疑問が湧いたが、この状況下なので彼女自身も頭に寝転がるのは危険と判断したのだろう。だが、更に疑問を浮かべるのは俺と同じ方向ではなく、逆方向……つまり俺とは正反対の向きで方にしがみ付いている事だ。
元から……初めて会った一昨日でもそうだが、あまり頭の上に乗って欲しくないとの気持ちと、後者の何故正反対の方向を向いているのかが気になったが、特段腕を振る妨げになっていないからこれも良しとして、肩にしがみ付く上海の柔らかな髪が触れて頬と耳朶をくすぐられるのを堪えつつ、更にフランドール嬢との差を開く為に走り続ける。
「!? ~ッ! ~ッ!!」
──すると唐突にシャツ……、肩の辺りの布地を引っ張られる感触。大の大人の体勢を崩すのは無理だが、注意を引くには充分な力だ。
はて……と、引っ張られた感触の源である肩の方に訝しみつつ顔を向けると、視界一杯に映った上海が俺の方に顔──と言っても頭部と金色の毛髪しか見えんが──を向けつつ手を指している姿。
そんな彼女が手で指している方角は廊下の…………後ろ?
「……?」
後ろにはフランドール嬢が俺を追って来ている筈。だとしたら彼女が何か別の行動を起こしたのを上海が察知して俺にこうして知らせた……と、上海の行動をそう分析、そして解釈。
となれば、用心に越したことはないので念の為確認しておいた方がいいなと思い立ち、左側からは上海が肩に掴まっているので反対方向に首を捻って後ろを一瞥。
「……」
床も天井も壁も紅一杯の景色。単色に塗り潰されて見栄えしないその景色の中にただ一点、異色という異物が空間の真ん中あたりに映った。
「あ……?」
フランドール嬢か? ……いや違う……、フランドール嬢にしては随分と背丈が高いんだが小さいんだがよくわからず、あと手足も見当たらず、あの独特で特徴的な翼も見当たらない。
それとあの宝石付きの翼を使って飛んでいるのか定かではないが、随分と早く縦回転しながら飛んでるなんて変わ…………って、アレ? 何か見えたぞ。
奇妙な点を目撃するや自然と駆ける速度が遅くなり、その正体を探ろうといつしか俺は立ち止まって廊下中央に立ち尽くす。
はて……凝視すると回転速度がやけに速く、光源となる照明が少なくやや薄暗いので見分けるのは難しいが、ちかちかと鈍く光っては明滅してその光沢は金属の……例えるならばドア的なものを開閉するノブ的なもののような……と、よくよく目を凝らせば…………
「……て、ドアっ?!」
あろう事か目に映った飛翔物のその正体は、身を縮こませてぐるぐると縦回転しながら飛んでくるのはフランドール嬢ではなく、矢の如く空間の空気を切り裂き俺に迫りつつあるドアであった。
俺に向かって飛来するドアは普通のドアの大きさにしては小さく、徐々に近づくにつれソレは俺の部屋に備わっていた、フランドール嬢によって破壊済みのドアだという事に気付き、その所為か大部分が形を成しておらず、ドア本来の機能の役割を果たす空間を隔てるにはサイズが些か小さ過ぎる。
しかし破壊されたことによって剥き出しになった鋭利な尖端と、そこから派生し、幾多にもささくれたった棘によって立派な凶器と化しており、触れた角度次第では棘が皮膚に刺さるか突き破るかいずれかの怪我を負わせるには充分な鋭さだ。
そんな凶器ドアがあろうことか、ぐるぐると空気を切り裂く音を鳴らしつつ回転しながら飛んでいた。
──訂正。飛んできた…………迷い違わず俺へと目掛けて。
「っ!!」
予想外。──いや、予想外というより思いもよらぬ物体がぐるぐると……ボールを投げた場合と同じくもしかして回転エネルギーが働いている? ……高速回転しつつ飛んでくるなんて端から予想してる筈がない。
ドアの描く軌道はとてつもなく怪しく、このままでは危険だと本能が警鐘を鳴らす。ひとまず今は思わぬ光景に茫然と突っ立ってる前に、本能に従ってその場に屈んで肉迫しつつある凶器ドアを回避する。
「うお……っ!?」
数歩手前まで迫った、飛行する凶器ドアに反射的に膝を曲げて屈んだ直後、頭上で空気を切り裂く鋭い風切音と頭髪が何かを掠める感触。
感触からして頭上を掠めたのは先程目で捉えたドアに違いないが、そのあまりにも力強い風切音と掠めた摩擦音に思わず驚愕の声を漏らし、またしても前のめりに床に伏せそうになったので意図的に両手を廊下の床に付いて寝転ぶのを防ぐ。
そして四つん這いの姿勢で頭髪ではなく、自身の頭皮を触れて掠った際に抉られてないかを無いか確認しつつ、ドアが飛んでった背後に勢いよく振り返る。
ドアは自然に発生したと思われる回転エネルギーと慣性の力を相互作用によって瞬く間に俺の頭上を通り越して更に先へと飛び去るが、徐々にその高さは低くなり、結果、引力に引かれるがまま俺の数十歩先に落下。
主に人が踏み鳴らす足音を吸収するカーペットは比重過多だったのか、信じられない事にドアが落下した瞬間の衝撃音を殺し切れずにやたらと喧しい潰壊音を大きく鳴らし、静謐立ち込める深紅の廊下の静寂を打ち破る。
そしてドアが飛んでる際に自然に作用したと思われる回転エネルギーの加速力が強すぎたのか、信じられない事に廊下に敷かれた深紅のカーペットはドアが跳ねる衝撃力を一度では吸収し切れず、数度床に飛び跳ねて跳躍することで力を拡散させ、結果ドアは数度目の跳躍にして力を失いようやく廊下に転がって沈黙。
結果、落下から沈黙に於ける際、その衝撃でドアの木片が幾つも廊下に四方に拡散したのだが、破片自体は飛んできたドア自体が元から壊れてるのもあってか幸いにも危険な大きさ程には散らばらず、俺からも大分距離が離れていた為二次的被害は無し。
「…………」
「……」
再び静寂が舞い戻った廊下の数メートル先の転がるドアを目を配り、周囲に散らばった木片を眺めて半ば呆然……。
そして肩にしがみ付く上海も俺と同様、思わぬ光景と場面に出くわした事によって呆然の態度。
…………その……なんだ……間一髪ドアの回避には無事成功。それに対して無傷で済んだという結果に喜ぶべきなのだろうが、俺の脳裏で占められたのはあのまま上海の忠告に気付かぬままあの凶器ドアの尖端が頭部に直撃したら……という、己自身の口にも形容しがたい何ともえぐましい自身の姿……。
更に尖端が刺さらなくても平面部分が当たれば、最悪首か頭の骨が折れ、あのまま走ってドアの落下地点付近にいたら散弾の如き勢いの木の欠片が襲い掛かったか、或いはバウンドで一時的に加速したドアにぶつかれば────という、想像をしたくはないが自然と噴出した自身の惨状に寒気が走り抜ける……。
「は……」
安堵の嘆息を兼ねつつ小さく深呼吸して、遭遇によって動悸が激しくなった心臓を落ち着かせる。
そして何だってドアが空中を飛んできたのやらと疑問が浮かぶが、その答えは直ぐに判明した。
「あっれ? おっかしいなぁ……」
ドアが転がる反対方向、静寂を破って聞こえたのは凛としつつものどかな言葉。
その声に反応して視線を正面に戻すとそこには紅い廊下の中央、カーペットを悠然とした足取りで歩むフランドール嬢の姿が。どうやらカーペットが敷設されているのもあってか足音も感知出来ず、距離を広げるどころか逆に距離を詰められて彼女の接近を許してしまったようだ。
しかし俺を捕捉出来る範囲にまで近づけたというのに、その声音とは裏腹に彼女の表情はどこか浮かばぬ面持ち。
「足止めするつもりだったんだけど、避けられちゃった」
落胆とした呟きが漏れる。そして俺を見据えた後、残念そうに俯くや自分の手の平を見て「もうちょっと強めに投げた方が良かったかな?」と言葉を続けて首を傾げる。
「……」
言動からするにドアが飛んできたのは十中八九、フランドール嬢の仕業に違いない様だ。
だとすれば走っていた最中に背後から聞こえた彼女の「……よいしょ、っと」という言葉も至極納得。
「…………」
華奢な体躯の、細い腕でベッドとドアの破壊、そして破壊物の投擲──の全てをこなしたのが眼前の向こうから歩いて来る少女なのだと、俄かに信じられずにいる自分。
否定────肯定。
無視────尊重。
異常────正常。
虚偽────真実。
否認────是認。
隠蔽────露見。
強制────任意。
夢みたいな光景を────現にして。
空想に埋没する思考。しかしその全てを蹴落として現実を叩きつけ、納得せざるを得ない考えを植え込ませるのはフランドール・スカーレットという名の吸血鬼と言う、人外の種だからこそ為せる芸当であり、先程も振るって見せた光景も紛う事無く人間の常軌を超越した特有の存在のみが掲げられる、圧倒的な暴力。
示唆するにも、比較しようにもない大き過ぎる人間と吸血鬼の格差……、よもやその力量をこんな場所、こんな場面で体験する羽目になるとは思いもよらなかった……。
「……んむ?」
フランドール嬢の発言を脳裏にて反芻。彼女曰く、ドアの投擲は俺の足止めとの事だが────
「…………何処が?」
本当に足止めするのならドアを足元か壁目掛けて投げつけて注意を引くなりすればよいのに、これのどこが足止めなんだ? との非難の言葉が静かに、ふつふつと湧きあがった。
恐れ……いや、それどころか生命の危機に瀕した怒りの感情も交え、他にも「思いっきり頭部に一直線に飛んできたぞ? どこからどう見ても足止めじゃなくて命止める気満々じゃないか」────との言葉を、余りにも予想外な出来事とそれを起こした当事者に叩きつけて追及したいが、
「……でも外しちゃったとは言え、足止めは成功……かな?」
その余りにも赤々しく悪々しく毒々しく歪々しい、俯いた顔を上げ、少女に小さな微笑と深紅の双眸を向けられて、開きかけた口を噤んでしまった。
今の俺の状況はフランドール嬢の本来の目的から外れたが、その結果、見事に果たせた偶然の産物。
諺に例えるなら『終わり良ければすべて良し』『失敗は成功の基』、『怪我の功名』のいずれかに該当し、その目論見は俺がこうして真っ赤な廊下の床に膝を曲げ、手を付いて屈んでいる状態がいずれの諺を実態で証明しているのは過言ではない。
そして彼女は再び魔手を伸ばして俺を──いや、上海を掴もうと手をかざす……。
白く、どこまでも白い白腕に、屋敷の……紅魔館の禍った内装色をその腕に纏う錯覚と共に……。
「くっ……!」
フランドール嬢に言われて俺は床に手を付き、ドアを避けたままの体勢……四つん這いの体勢を維持している事に気付く。そしてフランドール嬢が間近に迫る前に素早く立ち上がって彼女に背を向け、再び廊下を疾走。
「~ッ?!」
焦燥に駆られ、この場から早く離れたいが為動作も無く勢いよく立ち上がって駆け出した所為か、上海が振り落とされそうになる。
彼女……上海の、振り落とされまいと必死にしがみ付く姿を横目に俺は、そっと右手を差し伸べて彼女の背中を優しく触れ、肩から落ちない様に押さえる。
「……」
「ん」
背中を支え、無事に体勢を整えた上海が礼として頭を小さく下げ、対して俺は目のみ向けて一言短く返事。
「……」
そういえば何故上海が俺の腕の圧迫から逃れた後、肩に移動して掴まっているのか釈然としなかったが、彼女なりに俺の代わりに後方警戒をするが為の配置なのだろう。
現に行動の証拠として背後からドアが飛んできた際、彼女は俺に危険を知らせてくれたのが何より物語っている。また俺は人間である手前、後ろに目が無いので上海の配慮は非常に有り難い。
ならば走っている間は当分彼女に後方警戒を担当してもらうのが無難……、か。
内心で疑問の解決及び後方警戒の対処を上海に一任させることを決断し、床に転がるドアとその幾多に散らばる破片を踏む感触を足の裏で覚えつつ、再びフランドール嬢の傍から一気に遠ざかる。
「あーもう待ってよ~……」
カーペットを踏み鳴らす自分の足音に交じって、背後から届くフランドール嬢から投げ掛けられる非難の声。無論立ち止まって彼女の相手をするつもりは毛頭無いが、先程の凶器ドア投擲もあって背後──追い縋ってくるフランドール嬢にも意識を向けねばならない。
後方の警戒は前述した通り、上海に任せておけば問題無いかもしれない。しかし、その時の対処法を取るのは上海から移行するような形で、現在フランドール嬢の標的になっている俺だ。
実際、人形……個体差はあるが……と人間との体格差では標的になりやすいのは、俄然大きい方の人間であるのは自明の理。
というのも避けるにしても上海は体躯が小さいので例えフランドール嬢の投擲攻撃なら難なく躱せ、それと比較すれば人間の体積はそれの倍以上で、比重も人体を形成する器官や脂肪及び筋肉等を含めれば尚更重く、動作や反応も同様に比較すると客観からすればさぞ緩慢とした素振りな事だろうて。
走りつつ振り返るでは遅過ぎ、その間の目視の認識は確実に誤差が生じるものだ。それに振り返ってる間は、必ず駆ける足の速度は自然と遅くなる。
ならば別の対策手段の聴覚での判断は可能か否かと定かではないが、この廊下の構造上音の反響は皆無なので背後の危険性の有無は耳朶で捉えるのは容易かもしれない。しかし、音は所詮音であってその音源たる物体がどのような造形をしているのか、脳裏でその物体を想像力を掻き立てて形成するにも非常に困難だ。
それ以外だと直感は…………微妙だな。本能が危険を察知しても、その瞬間は本当に偶然にしか反応しないだろうし……。
そうすると結論としてはこの場の危険予防対策としてやはり目視が一番であり、反面、前述した通りの欠点があるからこそ上海は俺のもう1つの目の役割を買って出たのだろう。
が、人形である性質上言語の発言はおろか、唯一意思疎通を図るにしても触覚や視覚で認識するしか手段が限定される手前、仮に俺に警告しても具体性に欠如している為に避けるにしても決断を俺に仰ぐしかない必要性が生じる。
なので別に上海を信頼してない訳じゃないが、状況に応じての対処手段も臨機応変に判断しないといけないので念の為、俺も背後に用心せねばならない……と自分自身に懸念を押しつつ走っていると、
「えーと……あ、まだ形残ってる。これなら……」
背後からまたしてもフランドール嬢の声と────自身が踏み鳴らすカーペットに吸収される足音に交じる、何かを砕く大きな音が耳朶に届く。
「……」
そして音に数拍遅れる事、またしてもシャツ──肩部の布地辺りを引っ張られる感触が。
「…………」
目を細めて固唾を飲み下し、自分でもわかる怪訝な表情でおそるおそると目を向ければそこには、おずおずとした様子で上海人形が片手でシャツを掴み、もう片方の空いた手で…………背後を指す姿。
「え……」
汗腺から滲んだ汗がこめかみから頬へと伝う。この汗は運動時に作用する発汗による影響ではない、所謂……冷や汗だ。
では何故汗が出たのかというと言わずもがな、背後で再び何かが起きているという事に不安を抱えたからだ。
短い呻き声と共に先程の出来事が脳裏に蘇る。……正直言えば振り返りたくない。しかし危険性がある以上、それが如何なるものかと確認せねばならないので躊躇いつつ背後を振り返ってみれば、
「ていっ」
遠くからでもわかる、廊下の中央に佇立するフランドール嬢の小さな口から開いたそんな短い掛け声。
そして彼女自身が紡いだ言葉と呼応し、左腕を何故か腰に回して……自身の右腕を大きく振りかざして投げ放ったのは────
「また……っ!?」
嫌な予感的中。案の定、さっきの凶器ドアがまたも飛んできたのだった。
「……ん?」
……と、凶器ドアには違いないが、その大きさに若干違和感を覚えて首を傾げる。
落下時の衝撃で壊れたのだろうか、再び投擲されたドアは目を細めてよく凝視してみれば最初に飛んできたのよりも更にボロボロで、随分と小さくなった印象を見受けられた。
となれば殺傷能力は元の大きさよりは減ったし、形も同様。接触部位と範囲が大きさに比例して縮小されるので回避は簡単。
しかしそれよりも幾許か小さくなった為、空気抵抗が減少し、更なる速度──矢の如し勢いで俺へと一直線に向かってくる。
速度による影響と相乗して大きさが小さくなったその所為で、肉眼で追うのは難しかったがその着弾地点と描く軌道は先程同様────頭部。
「……ッ!!」
だから言ってる事と行動が真逆だろっ……! と反駁の声を胸中で叫び、走りつつ頭と身を低く屈めてドアの回避を試みる。
「つ……っ?!」
直後、耳朶が石にも負けず劣らない重量感のある鋭い風切音を捉え、反射的に身が竦む。しかし、先程とは違い髪を掠めた感触が微塵も感じられず、どうやら投げられたドアが小さくなったのが幸いしてか頭を低くだけで回避は無事成功したらしい。
一瞬で頭上を飛び過ぎたドア。そのドアの跡を辿る……単に方向が一緒なだけなのだが……ような形で走り続け、もう安全だと判断して再び正面に目を向けるべく、頭を上げよう────
「残念でした~。本命は……」
────としたところで、フランドール嬢の台詞が妙に引っ掛かって背後に首を捻る。
「ぬ……?」
頭のみで振り返ったその視界で捉えたのは、何故かしたり顔の面持ちのフランドール嬢がいつの間にか背中に回していた左手を正面に戻し、明らかにしたのは……もう1つのドア…………?
「──こっち!」
そして彼女は右足を大きく一歩前へ踏み出し、同時に下手投げでもう片割れの──、半分になったドアを手首の捻りを効かせて投げる。
彼女の滑らかな白い指から、ドアが遠心力と腕力の総合効果ですっと離れる。──その瞬間、ドアが奏でるとは到底思えない空気を切り裂く鋭利な、鏑矢を射放つ鳥の甲高い鳴き声にも類似した音響が空間に木霊す。
人間の力を容易く凌駕する吸血鬼の手によって投げられた片割れのドアの速度は────迅い! 最早ドアではなく矢──いや、投槍に匹敵する勢いに、驚愕を隠せない。
深紅の床スレスレで飛ぶ影響で距離感を掴むどころか微細に振動という現象も作用して錯覚まで働き、その残像にも映る造形を見失いそうになりつつもかろうじて目視でその接近を認めるが、先程頭部目掛けて飛来したドアを上回る加速度で一気に俺との間合いを詰める。
……っ! そうか、さっきの割れた音はドアを二分割した音で、最初に投擲したのは囮で今投げたのが本命…………って!
「──っ!?」
至極冷静に音の正体を反芻し、刹那にドアとの間の距離が詰まった光景に表情が驚愕に一転するのを自覚。そして今に俺の身体を貫こうとドアは空気の密度の壁を破り、襲来を告げる音を強く自己主張しつつ一直線に飛来。
下手投げで投げた手前、ドアの飛行高度は低く、膝や手が床に着いてないので回避するのは簡単。しかし下手投げと言えども左手から放たれた速度には舌を巻き、矢じりの鋭さの尖端にまで欠けたドアの弾道は頭部ではなく……脚部ときた。
フランドール嬢のこの一連の流れに見事な布石に、素直に感心の意を表したい……が、この状況はちょっと不味い……。
このまま一気に真っ直ぐ走り続けるべきか? ────否、このまま真っ直ぐ走り続けて差を開こうとしても、あの勢いで飛来してくるドアの直撃は免れない。そうなれば足……太腿とふくらはぎ辺りに刺されば致命傷は免れず、その貫通力はあの速度と累乗すれば難無く動脈を切り裂き、最悪俺に死の宣告を与えかねない。
ならば回避行動だ。──しかし条件反射で頭上目掛けてのドアを今しがた躱したばかりで、間髪入れず投げられた残りのドアによって回避動作を行うには最早遅過く、避けられるにしても距離、体勢、反射、速度を条件に加えて換算しても回避の成功確率はよくて五分五分かそれ以下──。
では回避が無理なら叩き落として……正確には蹴り落とす。或いは弾く……、のは流石に論外か。
結局どれも成功すれば無事で済むが、失敗すれば痛覚を伴うリスクが付きまとう。要約すれば負傷は必定。刺さるか刺さらないか定かではない、その加減が如何であろうと。
本音を言えば、例え五分五分でもドアの被弾から免れたいのが精一杯な心境で、そもそも誰が好き好んで痛みを享受するというのだ?
────だが、それでもし当たり所が悪く、最悪、足に刺されば……、出血すれば……
「────」
………いや、その考えは今は切り捨てよう……。今の俺は上海を守るという責務を背負っている手前、その考えは行動の妨げになるだけ。その思いに関しては今は胸に留めて落ち着いた後考えれば良い。
それに、俺の場合葛藤と苦悶は1人の時にするのが相応しく、自分の都合には誰も巻き込みたくない。
そうこう考えている間にも更に行く手を遮る空気の壁を破り、矢の如く一直線に俺の肉を穿ち抉る突き破るであろう凶器ドアが迫る。
その光景を横目で見て、ドアがさながら本能が赴くまま咢を広げて肉迫する猛獣の姿と重複……酷似した。
──いや、明確に比喩すればフランドール嬢は狩人で、俺は獲物。そして獲物である俺を仕留める為に放たれたのはドアないし弓矢……といった構図が正確か。
ならば狩人、そこに吸血鬼としての補正も付加したフランドール嬢から逃げるのは最早至難の業。その理由は皮肉にもよくある例えだ。
狩人は確実に獲物を仕留める……、と。
「くそっ……」
不利な状況下、打開案を練ろうにも結局何も思い浮かばず無意識に舌打ち。体勢的に逃げるのも難しく、避けるのも難しい……。
残酷にも瞬く間に時間が数瞬で過ぎ去り、飛来するドアは確認するまでも無くすぐ傍まで来ている。最後の足掻きに足を一歩前へ踏み込ませるが無論、たかが一歩で差が開く筈もない。
焦燥を含めて脳裏が絶望一色に占められ、身体もその影響で諦念に包まれ回避出来るのかも怪しい。そうとなってしまえば回避の確率以前の問題。
よもやこのような形で怪我をするのだけは免れたかったが、こうしてフランドール嬢の策にまんまと引っ掛かってしまった以上最早これまでか…………と負傷の覚悟を決めた瞬間、何かに強く引っ張られた。
「あ──?」
理解する前に唐突に襲い掛かった引力。不意打ち同然のそれに対処するどころか抗う事も出来ず、思考が追いつかないまま足がもつれてその場で半回転。
そして気付いた時には後ろに転ぶような形で背中を壁に打ち付けていた。
「が……っ!」
衝撃。肌を覆い隠す衣服から皮膚、そしてもう一層の肉体の壁である筋肉と人体を形成する骨と器官まで振動する鈍痛。
咄嗟に壁に手を叩きつけて衝撃を拡散させようにも、言わずもがな見事に失敗。したたかに叩きつけられた衝撃に堪えきれず、痛覚の呻きと共に肺に充満した空気を一気に口腔から吐き出す。
視界が明瞭な景観から一瞬にして明暗に点滅を繰り返し、滲んだ紅黒色に染まる。また背中から打ち付けた衝撃の余波は頭にも及び、軽い眩暈と頭痛を誘発。
「ぐ……」
……一体自分の身に何が起きたのかと状況を把握したいが、衝撃の余韻がまだ抜けきれず、思考が上手く働かない。
しかし暗澹とした視界のノイズは数回まばたきをしただけで取り除かれ、意識は鮮明に、視界は再び明瞭な光景を徐々に蘇らす……。
「……ッ! ~ッ! ~ッ!!」
視野に紅い世界の中で唯一異なる、靄が掛かったような黒一点の物体がポツンと浮かび上がる。一瞬、黒い物体は単なる小さなホコリが目の前を漂っているのを視覚が捉えただけかと思いきや、ホコリにしてはやけに大き過ぎたので違和感を覚え、目を凝らしてみれば黒い物体は何かの輪郭をなぞった形状をしており、また只の小さなホコリにしてはやけにせわしなく動き、落ち着きが全く無い。
痛みによって歪んだしかめっ面でソレを目に捉えた直後、最初はその物体が何であるか判然しなかったが、次第に焦点を合わさってきたので凝視し続けていると真っ赤な世界……紅魔館の壁と床の色……を背景に、そこには上海が俺の眼前に浮かんで必死に頭を下げる姿が。
「上海……?」
彼女の姿を見、意識的に自分の肩部に触れる。しかしそこには彼女の柔らかな髪の感触も無く、唯一伝わるのは自身が着こなすシャツの布地のみ。
再び上海に目を配るや、いつ俺の肩から離れた? という疑問が自然と浮かび上がる。恐らく彼女が肩から離れた瞬間は壁にぶつかった際だろうが──、
「あー! また避けられた! もうっ!」
遠くから響いたフランドール嬢の声によって疑問の解消を中断させられた。声音からして憤慨しているのか、先程と比較すると多少言葉遣いが荒い気がしなくもな…………ん? 避けた……?
「……」
フランドール嬢の言葉に妙な違和感を覚え、全身を見回す。
手は動く、足も…………動く。胴体並びに思考も打ち付けた衝撃の余韻で多少痛みを引きずってはいるものの、支障も無く無事に機能している。よって五体満足。
足に視線を送るがそこからは痛覚はおろか、ドアの破片さえ一片たりとも突き刺さってない。
「…………」
無言のまま念入りにと足をさするが見事に何ともない。……が、何が何だかさっぱりわからん。てっきり足に刺さっていたかと思えばどういう訳か知らないが、気が付けばドアの危機からは無事回避できたようだ。
腑に落ちない疑問に首を傾げ、壁を背にして素早く立ち上がる。そしてフランドール嬢が近付く前にと上海に手を伸ばしかけて、その襟首を掴むには数歩前に出ないといけない事を瞬時に悟って手を引っ込める。
「……」
「……?」
壁にぶつかって立ち止まっただけでも時間を浪費した。この状況だとその手間も非常に煩わしく、こうしている間にもフランドール嬢の接近をまたもや許してしまう。
結論からすれば時間が惜しい。些か上海には悪い気もするが、この状況下ではやむを得ん。
なのでこれ以上時間の浪費を避ける為、
「──“走るぞ”」
彼女に意図を含んだ視線と言葉を送るや、身体を捻り一気に駆ける。
「? …………ッ!」
すると置いてけぼりにされた上海は俺が手を伸ばさなかったのに首を傾げたが、瞬時に俺の意図を察するや、慌てて俺に並行して走──否、飛ぶ。
無事上海は俺のメッセージを悟ってくれたようだ。────て、思えば上海は走るのではなく飛べるんだった……と、俺の隣に並んで飛行する彼女の姿を尻目に真っ直ぐ駆け抜ける。
その際、深紅のカーペット上に毛髪のような小さな物体──ドアの破片だろうか? ──が細切れに散らばっていたのを窺えた。
走ってる手前よくよく目を凝らして確認は出来ないが、一瞥した限り破片ではなく最早木屑だ。ここまで小さく砕けた理由は定かではないが、俺が壁に転んで躱された後床や壁に直撃して砕けて分散したらしく、その所為で最早投げられる大きさではない……と考察。
ここまで破片が細かく散ってる以上、流石に質量はゼロに等しく、投擲しても最早凶器にもなりはしない。
なのでもうドアが飛んでくるなんていう危惧はもう無いだろう。
「────」
てか、二度と飛んで来ないで欲しい。そもそもだ、なんで片手で投げたのにこんなに細かく砕けてるんだ? 恐らくは回転と慣性の相互作用によって反映された結果なんだろうが、流石にここまで砕けているとなれば、その力の発生源である腕力はどれだけ強いのやら……。
……それとも、これも部屋でベッドを壊した時に垣間見せた吸血鬼という種族が為せる業の証──か? だとすればあんな出来事に遭遇した手前、表層は……意識は冷静だが深層……心理に嫌な感覚が刷り込まれた可能性は低くない。
というのも体験や経験というものはそう簡単に抜けるものでも無く、遭遇時の衝撃が強ければ強いほど、記憶というものはいつまでもこびり付くのだ。比喩で言えばサビのように、苔のように、カビのように。
なのでその感覚が無意識に刷り込まれ、行動中に突如として芽生えて俺の動きに弊害を及ぼす可能性を懸念し、カーペットの柔和な繊維と街路樹の落葉の様に散らばった木片を踏みつつ前へと駆け続ける。
────しかしそれを良く思わない相手がいる。その相手とは言わずもがな俺達を追っているフランドール嬢の事を指す。彼女は俺が壁に倒れた時、最も接近が出来た筈なのに、全く近寄ろうとはしなかった。
その間、充分に接近の猶予は有った筈だ。だが唯一届いたのは彼女の声音のみで、足音は全く無音そのもの。
カーペットのクッション性のお陰で全ての足音は相殺されるなりして静寂そのもので、それに於いて相手との距離を測る手段を用いるのは非常に困難だ。
それでも耳朶が捉えたのはやや怒気を含めた声音のみで、目視した訳ではないので断言は出来ないがその声と距離間から換算するに──ドアを投擲した位置からは全然動いてないかもしれない。
不審と違和感が脳裏で蠢く。何故彼女はあの瞬間に一気に近付かなかったのか? 余裕? 吸血鬼と人間の差を制限したハンデキャップの履行? それとも俺の滑稽な姿を見て愉悦に耽っていた為……? ────いや、どれもこれも曖昧で明確な回答ではない気がする。
だが先程憤りの感情を言葉で覗かせたので、流石に前述の理由はあり有り得ない。
とすれば、フランドール嬢は次の足止め手段を画策し始めたと考えても良い。だとすれば……走ってる最中なので全体を見渡した訳ではないが……、廊下には部屋のドアらしき物体が見当たらなかったので、再びドアの投擲という手段に講じない筈……。
ならば次の手段として考え得る可能性は、物体の投擲ではなく本人の手による実力行使か。そうとなれば一番無難な対策は、接近される前に離れる事に限る。
「……お」
紅の内装色と相互して照明はおろか、薄暗い廊下の先に目を向ければ数少ない窓に加えて道が途切れてる……ので一瞬行き止まりかと思いきや、よくよく凝視してみれば曲がり角が見えてきた。
途端、その先に部屋や階段があればフランドール嬢から撒く事も出来る、と内心で嬉々。
「む……」
と言っても曲がり角のすぐ傍に部屋があって、すかさずその室内に隠れたとしても忽然過ぎる俺の姿の消失に違和感を感じたフランドール嬢が室内を捜索するだろうし、所詮は気休め程度かもしれん。
階段もそれも同じく、昇降のどれか片方しか備わってなかったら危険性は不変のままで、逃げ道が追加されただけに過ぎない。
よって現状維持で走り続けるしかないが、一先ず、これより先考えるのは曲がり角の先がどうなっているかによる。それによっては生死を分け…………なくもないな。
「……ありゃ、やっぱりドア細かくなっちゃった。強すぎたかな?」
遠くからだというのに、間近に届くフランドール嬢の声。
静謐な帳に垂れた空間に一滴の雫が水面に落下して強く誇張するかのような、明瞭な彼女の発音は俺達以外の何者もいない空間に木霊し、しかも自覚があったのか、あの投擲は尋常ではない力を籠めて行使したようだ。
しかし本当にあんなに体躯の細い少女があの勢いでドアを投げたのか? ──と短く反芻するが、確信しても尚、心底信じ難いと半信半疑の思考を繰り返す。
だが現実なのだ。奇想天外でも夢想でも空想でも仮想でも無く、現実として。
ほんの一瞬でしか遭遇しないような、確率の低い一抹でも泡沫の出来事のような悪夢でも無く、真実として。
疑惑も猜疑も疑念も必要無い。目で映ったソレこそが俺が邂逅した出来事。
フランドール・スカーレットという少女が見せた、吸血鬼という種の力……。
「能力は…………う~ん、何かうっとうしく言われそう」
だがここで変化が窺えた。先程とは異なり、彼女が躊躇の言葉を静かに漏らしたのだ。口から漏らした躊躇の言葉に滲ませた感情は本心からであるか否かは知らず、まかりなりに言葉の淵に覗かせたのはレミリアに対する遠慮か。はたまたメイド長の肩書きを持つ十六夜に対する遠慮か。
それともいずれの誰にも該当しない、俺の知らない紅魔館に住まう第三者に対してか……? ……とはいえ、今更思慮の念が働くのも些か不自然過ぎる。
彼女の言葉から察するにして、ドアの投擲以上の行動を起こすつもりなのかと概ね推測出来るが、それ以上の事とは果たして……。
「そうとなれば……────ね?」
と、思考を途絶させた彼女の呟き。だが最後の呟きは小さ過ぎて、俺の耳に届くことはなかった。
口振りからしてフランドール嬢が何らかの行動を起こした事には違いないが、それが何なのか念の為確かめようと後ろへ振り返ろうとすると、
「痛っ────?」
──直後、首筋の辺りがなんだか痛くなった。
先程壁に転んだ際の痛みをまだ引いているのかと思いきや、それとは違う痛覚だ。
手を伸ばしてさする。──が、何てことも無く、ドアの木片……棘が刺さってる事も無く全く無傷。だというのに首筋のヒリヒリした痛みに戸惑う。
この痛みは何と表現すべきか、比喩にすれば火傷の余韻……日差しの熱の名残……日焼けの後……いずれにも該当するようで、全く異なる。
……駄目だ、痛むにしろどうにも的を得ない表現だ。更にはそのヒリヒリした痛みにしても、ささくれたった木の枝でなぞられたそうな、鋭利な刃物でなぞられたそうな煩った痛覚までもが誘発。
──痛む。痛覚が訴える。筋肉はおろか、神経までもが痛みを放つ。何ともむず痒過ぎる痛みに舌打ちし再び首筋に手を添え、
悪寒と共に全身に迸ったのは、────本能による危険信号の伝播。
「────」
全身を電撃の勢いで駆け巡る悪寒に身震いを起こし、信号受信に呼応するような形で肩が竦み上がるのと同時に、不穏な空気を察知して咄嗟に身を屈めた瞬間──、頭上から何かが飛来し、またしても髪を掠めて飛び抜ける。
「……ッ?!」
無音。髪を掠めた飛翔物は風切音はおろか何も聞こえず、物体が接近するという気配さえ微塵も感じなかった。
音とは物体の振動が空気を伝わって発生し、例えば飛翔してきた物体が音速の勢いだとしたら空気の壁を破り、自然と爆音にも似通った衝撃音を発生させるものであって、それは運動エネルギーが作用した物体の全てに於いて例外ではない……筈。
しかし、俺の髪を掠ったとおぼしき物体……いやまだ未特定だからこの場合存在か? ……は、その音速の勢いで爆音どころか、俺の耳朶を轟かせることはなかった。
ならば通常の概念で知られる音速より7から8割以下の速度の亜音速? それとも最初から無音だった? ……いや、質量の関係上どんな飛翔物にも多少なりとも風切音が耳朶に届く筈だ。それに付け加えドアの例外も含めて熱気及び冷気も皆無なので、最早暗器の類。
仮にだ、もし本当にフランドール嬢が暗器の類を行使したのだとしたら、どんな暗器なのやら……と、頭上を掠めた物体を目視で確認してみたところ────
「──は?」
なんか飛んでた。正確に、ありのままに言えば…………2つもの光る物体が飛んでた。それを見た瞬間、場にそぐわない間抜けな声が自身の口から零れる。
閃光の眩さの光弾は丸い形状をしており、色は青と紫。その速度は目にも止まらない勢いではあらず、その緩やかな感じで飛翔する光景は何故か海中を漂うクラゲの姿を彷彿させた。
寒気と共に直感で避けたつもりが、頭上の接近物が予想外にも大したことなかった拍子抜けした後、光弾を見据え続けていると頭上を通り過ぎた2つの光弾は進行方向先の曲がり角の突き当りに当たるや────爆散し、跡形もなく霧散。
その際光弾は壁に触れた直後、風船を割った時のような「パン!」という破裂音を立てた。
ただし前述したのはあくまでそれに近い擬音であり、正しくはそれと異なるかもしれんが。
「……」
何とも形容し難い現象に、思考が瞬時に困惑に染まる。そして次に壁を凝視して、身を屈めた──うつ伏せ状態のまま目をこする。
目をこするという行為は本来眼球の角膜と毛細血管、瞼の皮を傷付けるのであまり推奨出来る行為そのものではないが、数知れぬ眠気を覚ます常套手段でもある…………のだが、
「…………」
目が覚めない。意識が急に暗転して自分の部屋で目覚めて、今までの出来事が夢なんじゃないか? としばたたかせるが一向にその兆候が窺えず、これは自覚がある明晰夢でもあらず、紛うことない正真正銘の現実の光景であることを突きつける。
それならあれだ、予想外の出来事の続出に混乱して、それが見せた幻覚なんだきっと……。
まさかね、光の塊が後ろからクラゲさながらゆっくりと飛んできたのかと思いきや、それが伏せた俺の頭上を通り越して壁に着弾したら爆発して壁の一部を削ったとか────てな感じで、混乱状態に於けるパニック症候群が脳に及ぼす一種の幻覚とかなんとか……。
「……………………おい」
と、現実逃避してみるもやっぱり今の出来事はすべて現実。そして我ながら気が動転してるのを自覚しつつ、非難じみた批難の声を1人ごちる。
しかしその小さな呟きは空しくも虚空に霧散し、誰の耳朶にも届かない。その代わり、声に応える形で彼女が近付きつつある気配を背後から察知。
「いつもの癖で、高く放っちゃった」
無論、彼女とはフランドール・スカーレット嬢。そして台詞の後に足を止めるなら足元目掛けて放たないと──と、付け加える独白を漏らす。
その声はまたしても俺の耳元で囁いているようにも聞こえる。恐らく俺達以外の誰の気配も無く、紅魔館全体が静寂に包まれているからこそ、むしろ静かに、明瞭に彼女の言葉が大きく響き渡るのだろう。
不気味な残響音と共に────。
「……」
…………着弾と同時に爆発して壁を削るアレを、今度は足元目掛けて……?
「冗談だろ……」
彼女の言葉を聞くや、産毛が逆立ち、意識は再び冷静さを取り戻す。あの光弾がもし頭に直撃したら、絶対頭もろとも粉微塵に吹き飛んでた可能性は高い。
そんな殺傷能力抜群の物体を今度は足元に……?
「では今度は──あ」
フランドール嬢が言い切る前に即刻立ち上がって、一気に疾走。戦慄が後押しした所為か脚力は俄然力強い。
ドアも恐ろしかったが、アレが足なんかに直撃した時には絶対致命傷は免れない。何せ壁材を削ったのだ、それと対比するまでも無く柔らかい人間の肉だとそんなの防げる筈も無く、確実に足と胴体がお別れする。
言うなれば榴弾を回避せず受け止めるようなもの。逃げるのに必死になるのも過言ではない。
「~ッ! ~ッ!」
「……上海」
光弾の直撃によって砕けた紅い壁を背後に、曲がり角の傍にはいつの間にか傍から先行していた上海の姿を見つける。
恐らく俺が屈んだ直後に先に到達していたのだろうが、屈んだ際見失ったので一瞬あの光弾に巻き込まれたんじゃないかと案じたが、どうやら杞憂だったようだ。
「にしてもあれは何だ……」
上海の小さな姿を視野に捉えつつ、先程の出来事を呟く。
飛翔してきた物体……光弾の正体を探ろうにも、現状を含めていかんせん情報不足。他にも過去の体験及び記憶をたぐってはみたものの、過去に遭遇したどれにも全く該当しない。
唯一手掛かりとして判明しているのは、フランドール嬢による言動こそがあの光弾は彼女の手によるものと証明されていることのみだが、その光弾が放たれた瞬間を目撃していない以上、それが本当に彼女自身によって放たれたのかは定かではない。
しかしそれ以外の手掛かり並びに正体は皆目見当付かない。また足とお別れする可能性が高い現状、今は光弾の正体を明白にする以前に逃走する事に最善を尽くすべきだ。
「~ッ!」
曲り角から上半身のみを覗かせ、せわしない動作で手招きする上海。それに導かれ、あとちょっとで曲がり角に差し掛かろうとした直後──、
「……っ!?」
また首筋が痛くなった。しかもさっきよりもなんだか背筋が薄ら寒いおまけも付く。
その感覚からして、先程同様とてつもなく嫌な予感がすると予想し、その状態のまま駆け抜ける勢いで角を曲がると何かが背後を通り過ぎた気配と、連続して風船の割れる音が幾多に響く。
「どわっ!?」
小さな衝撃とそれに於いて発生した幾重の破壊音に驚きたたらを踏む。それでも何とかして足を大きく一歩踏み出し、そのまま数歩小走りすることによって転倒を防ぐ。
今度は何事かと後ろを振り返れば、壁には複数の穴とその欠片と粉塵が巻き散らかった光景。
どうやら角を曲がったのと同じく先程襲った光弾が再び壁や、その手前の床辺りに着弾したようだ。耳朶に捉えた破壊音からして、それも複数に。
「──っ」
唖然として、呼吸とも言葉にも似つかない息を小さく開いた口から漏らす。何という偶然にも重なった幸運か。あと少しでも曲がり角に到達していなければ、幾多もの光弾を浴びていたことだろう。光弾の着弾地点からするに腕、足、胴……頭に。
明らかに人体の一部を欠損しかねない量の光弾の回避に、これは本当に運が良かったとしか言いようがない。──しかしながら危険をすんでの所で回避したのを喜べず、その裏腹で占められた感情は逡巡と、焦燥の2つ。
走ってたのもあり、曲がり角に至るまでの経緯もあってか動悸が激しい。それに追い打ちする形であの正体不明の光弾だ。平然としていられる訳がない。
……とは言え流石に身体に堪えたのでを少しぐらい休んでもいいかなと、一息つく小休止の合間を兼ねてふと眼前の光景──床に視線を巡らせてみれば、深紅のカーペットを穿った小さな窪み状の着弾孔が映る。
床の材質はカーペットに覆われてたので定かではなかったが、どうやら床には建築資材の基本ともなる木材を用い、次に視線を移した壁は……石膏ボードか? 実際には異なってるかもしれないがそれに似た既視感を覚える。
外観や内装は単色に染まって傍からすればどう見ても異色だが、やはり根本的な建築資材はどこにでもありふれた代物みたいだ。俺自身の本懐だとそれ以外にも何かあるような気もしたんだが、気の所為だったか。
────っと、呼吸も心臓の動機も少し落ち着いたみたいなので、そろそろ逃走を再開しよう。流石にこれ以上立ち止まってるのは危険すぎるし、何より状況が状況だ。呑気に……
「……」
「……」
呑気に……
「…………」
「…………」
呑気に…………考察し過ぎた。着弾孔を眺めていたらいつの間に距離を詰めたフランドール嬢がちょこっと曲がり角から顔のみを覗かせて、真紅の双眸で俺を見つめていた。
「…………やっほ」
「………………やあ」
そして互いに視線が交錯し、沈黙に耐えかねた彼女の短い投げ掛けに応える俺。
何ともまあのほほんとしたやりとりだ。尤も、不気味極まりないこの屋敷と、現在の状況、壁と床の穴さえなければもっと和んだろうに……。
「っ──!」
その後は言わずもがなすぐさま背後に振り返って、廊下を再び疾走。曲がり角の先はここまでの道順と同様に相も変わらない真っ赤な廊下。その所為でどこに部屋と階段があるのかさえわからない。
「む……」
……すると脳裏にて、何故か曖昧な記憶が刺激される。あの部屋に案内されてる最中、この廊下は十六夜と一緒に歩いた気も……しなくもない。
とすれば、このおぼろげな記憶通りにこのまま進めば、その先には階段があったような気が……多分。
それでも殆ど一緒の内装なので、どこがどうなっているのか正確性に欠如し、仮に階段があっても気付かぬまま走り過ぎてしまうやもしれぬ。
……嗚呼、齢59歳の俺には記憶力が本当に危ういから困る。特にこういった状況では特に命に関わり────
「──っ」
物思いに耽っていると、足元で何かが破裂する。それに意識を引き戻され、足元……床に目を向ければそこには着弾孔が1つ。
床に空いた穴を一瞥するにまたしても光弾が放たれたと気付いた時には時すでに遅く、俺の身体は横へとよろめく。
背筋に悪寒も走らず、本能も反射する以前の、不意打ちした形で放たれたフランドール嬢の光弾に不覚を取ってしまった。直撃を免れたとはいえ、足を止めるには充分な手段だ。──否、この場合だと明らかに逃げているのに意識を思考に埋没させていた自分が悪い。
対処、対策……既に手遅れなので放棄。そうこうしている間に体勢が崩れる。それでも足掻き交じりに身体を支えるべく壁に手を伸ばすが、その距離差は大きく、手は空しく虚空を掠める。
足を一歩踏み出すのも斜めに倒れかけてる以上、体勢的に難しい。転倒する身体を支える物もあらず、身体は徐々に床へと吸い込まれるようにして倒れ────
「ん……と……っ!?」
────なかった。それどころか強い牽引力によって強引に姿勢を戻された。そしてされるがままに謎の力によって引っ張られるような形で、無理矢理走らされる羽目に。
「……あれ?」
倒れるかと思いきや、何で走ってるんだ? 戸惑いだけが先走り、思考が全く追いつかない。が、この力強い牽引力は虚空を掠めた手の方から感じ、触覚もそれと同様に何かが手に触れていると伝える。
それにこの感覚はつい先程の、ドアの破片が投擲された際俺を壁に叩きつけられた謎の力と酷似しなくもない。だとすれば何かの力が干渉しているのは確かだ。
早速その原因及び正体を確認すべく、走りつつ手元に目を向けて見れば、
「あ~………………しゃ……、上海?」
俄かに信じ難い光景に思わず声がどもる。なんと俺の目には小さな上海人形が俺の腕をしっかりと両手で掴み、必死に引っ張る姿が映ったのだ。それも大の大人にも負けず劣らない力で。
「~ッ!」
「え、何……何だ、コレ……?」
踏ん張るように俺の手を掴んで牽引する上海を見た途端、これは夢ではないのかと空いてる手で目をこするがやっぱり目が覚めない。それに強くこすりすぎた所為かちょっと目元が痛い。
ならばと今度は頬をつねってみるが、これでも一向に目が覚める気配が無い。それとも何だ、上海以外の第三者が糸でこっそり引っ張ってくれてるのかと、彼女と手元を凝視するが微塵たりともそんな力を感じない。
だとすれば、本当に上海が俺を引っ張って……?
「……」
光弾に続き、背丈の差が漠然とした人形が大人の人間並みの筋力とか信じられん。ここまでくれば幻想郷とは、俺が住んで世界とは本当に──いや、俺も日常から桁外れな世界で仕事してたので言えた口ではないが、──常軌が桁外れ過ぎる。特に住人とかに関して。
「あれ。転んだかと思ったんだけど……?」
内心、漠然とした驚愕の感情を持ち合わせていると、背後からフランドール嬢の怪訝な言葉が投げ掛けられる。確かにフランドール嬢の視点は俺を追っている手前、俺の背中を見てる位置からすれば転んだかと思いきや、急に立ち直ったのだから疑問は尤もだ。
そして客観的視点からすれば、引き摺られてるようにも窺える筈だろう。
「…………」
…………や、事実か。
「もう大丈夫だ……」
「……ッ! ──ッ」
が、頃合いをはかって上海にもう充分との意を含めた言葉を与えると、彼女は俺の手から離れ、再び真横に並走……じゃなかった並飛行。そして一気にフランドール嬢から距離を取る。
「あ──」
呆気にとられて反応の遅れたフランドール嬢の短い声を余所に、廊下を一気に駆け抜ければ壁の一部がやや不自然な箇所を発見する。
「階段……!」
不自然な箇所──それは壁に穴を開けたような空洞が見えたことだ。光弾で開いた着弾孔とは比較にもなりはしない、意図的に削られた奇妙な空間が一瞥出来たので、即座にその場所に近づいてみれば、ようやく階段を発見した。
その階段も類に漏れず同じくカーペットと紅色に塗装されているが、唯一異なるのが欄干……手摺りが白色の石膏材のような仕上がりかと思われる。
これはロビーの階段にあった手摺りと同じ形状をしているので、差しあたって階段の素材は壁、床、天井と同じくほぼ統一されていると見なすべきか。また細部に至っては大雑把とは程遠い立派な彫刻までもが施されており、人目が向かぬ箇所でも丁寧に造りこんでいるのは拘りのある匠による業と見なされる。
建築美は歴史と文化の象徴であり、見ているだけでもその時代の歴史に一瞬でも触れられ、様式によっては中々に飽きないものだ。
──が、本来なら時間を掛けてその欄干やら紅魔館全体をもっと詳しく眺めていたいところだが、現状が現状なだけあって、今は逃げるに専念せねばならないのが至極残念で仕方がない。
それに階段は昇降の内、階下に降りる片道しか無く、階上へ逃げるのは実質不可能。それを可能にする方法は、発破なりフランドール嬢の光弾なりで天井を破れば上の階へ逃げることも出来るだろう。
が、しかし……だ。そもそも天井自体が高いので跳躍しても届かず、第一俺はそんな力をこれっぽっちも所有してないので素直に階下へ降りる。
「だからもうちょっと待っててば~」
またしても背後からフランドール嬢の非難の声が掛かる。無論、言葉通り悠長に待っていればあの光弾を喰らうか、ベッドやドアの様に粉砕されかのいずれかの末路を辿りかねないので、距離を詰められる前に駆け足で階段を下る。
踏み下ろした階段は、博麗神社の石段の段差よりは緩やかだ。これなら駆け降りるのも楽なのでそのまま勢いを殺さず階段の中腹、踊り場まで一気に降りると頭上からフランドール嬢の声が届く。
「がらがらー」
「がら──うおっ!?」
言葉の次に続いたのは何かが砕ける破壊音。階段の形状が折り返し階段式だったのが災いだったらしく、フランドール嬢は階上の欄干を壊してその破片を階段を下っている俺の頭上へと降り注がせてきた。
彼女が口にした擬音を瞬時に不審に思い声と破壊音に立ち止まったのが幸いしてか、謎の力で崩れ落ちてきた欄干の破片が頭に直撃する事態は未然に免れた。
「! おっと……」
「──ッ!?」
しかし俺の横に並び、素早い動きで飛行していた上海は突然の出来事に静止するどころか、勢い余って落下してきた欄干の破片に飛び込みそうになったので俺はすかさず手を伸ばして彼女の襟首を掴んで急停止させる。
崩れ落ちた欄干の破片は大小様々で量も多い。上海とてあのまま飛んでいたら、無事で済まなかったろう。
「~ッ」
「……すまん」
欄干の破片が全て階段に落ちたのを確認した後手を離し、両手を首元に伸ばして苦しそうに首をさする上海に謝罪した後、すかさず残りの階段を再び駆け足で下る。
階段上に散らばった幾多の破片を避けつつ降りた階は、さっきまでいた階上となんら変化も無い同じ空間が広がっており、振り返ってみれば降りた階段の横にまた階段が。
「──」
立ち止まり思案を浮かべる。──もう一度階下に降りるべきか? そうすれば地面に近ければ近い程、ロビー以外にも裏口等の外に至る通路が何かしらあり、仮に出口が見つからなかったとしても前述の通り、地面に近く接していれば怪我のリスク無しで窓から逃げるのも容易。
「とっと……」
どうするべきか考えあぐねていると背後からは足音と聞き覚えのある声が聞こえ、思案を浮かべる時間が切れたのを知らせる。
短い猶予だったとはいえこれ以上立ち止まってたらまた追いつかれるだけなので、階段を降りるのは……階上から降りてくるフランドール嬢の位置的に形勢上不可能になったので、再び廊下を駆け抜ける。
「…………はて?」
走り出した廊下は階上と遜色ない構造と内装だったが、階段傍の窓の前を走り過ぎるとまた窓が配置されてたので怪訝な面持ちになる。とは言え建築物に窓は必然なので、然程不自然でも無い。
だが奇妙なのが階上と比べて、窓がすぐ見つかったということだ。階上を走ってる途中、見かけた窓の数は片手で数える程だった気がする。しかし今俺と上海が走っている階は多く、視線の先──外側の壁に多く散見されるもんだから思わず訝しむ。
もしや階ごとに若干の構造と窓の数が異なる? ……なら今どの位の高さにいるかちょっとだけ確認。
「ん……」
窓際寄りに走りその前を通りかかった時、ほんの一瞬だけ走力を抑えて外の景色を一瞥。
窓の外は部屋で見た時と同様、茜色の太陽はとうに夜の闇に飲み込まれその姿を完全に消し飲み込まれていた。それに代わって空の遥か高い頂には青白い月が爛然と輝き、それよりも小さく、名も知らない遠い遠い恒星の星々と同じく、自分の時間が訪れたのを強く主張していた。
粛然とした静謐の来訪。藍色にもインクブルーにも似た光に染まった幻想郷は俺が住んでいた外の世界と異なり高層ビル等の高い建築物が皆無である為、より一層夜の静寂さと寂寥感を掻き立ててこの世界を神秘的な光と闇で包む。
「月が……」
青白い月が風に乗せて流れてきた雲に隠れ、その結果カーテン越しから窺える様な仄暗い月光が透き通り地上を照らす。
────がそれも束の間、雲は一瞬で過ぎ去り、月は再び地上を強くも儚くもある淡い光で照らす。
「……む」
雲と月を眺めているとふと、フランドール嬢と交わした言葉とあの時の仕草が脳裏によぎる。──いや、この場合閃きと形容した方が正確か。
そもそもアレはフランドール嬢にとってはほんの一瞬の自然な動作には違いないが、なぜ俺がいた部屋を当てられたのかがこの時に限って妙に気になった。
人間よりも遥かに優劣遠く、常軌を超えた力を誇る吸血鬼ならば気配云々はともかく、人間そのものの位置を簡単に捕捉するの容易い。
しかしそれ以外の要素で、俺がいた部屋を特定したとすれば納得。そうなれば気配の他に俺を感知出来る手段で、一番可能性が高いのは恐らく…………
「…………」
検証……、してみるか。
「……上海、向こうの窓を開けてくれ」
「? ……ッ!」
その時の光景と会話のやりとりを想起した後、隣で並行飛行する上海に向かってそう口にする。最初俺の要請に訝しげに首を傾げた上海だったが、鷹揚に頷くや一気に飛行速度を加速して俺より先に前へ進み、適当な窓の錠に手を掛ける。
「~! ──ッ!」
錠を外して力強く窓を開け放つ上海。窓はよく観察してないので種類が定かではなかったが、上海の素振りと窓の開き方からして考察するに開閉方法は両開き形式かと思われる。
すると密閉空間から開け放たれた窓からは一気に外気と風が紅魔館内部に押し寄せ、その風は屋敷内の廊下に一気に吹き込んで俺の頬と髪をそっと撫でる。
静けさの安堵を破って共に押し寄せる冷風が彷彿させるのは、全てが零下によって凍結して生きとしモノ全てが沈黙した氷河の世界。そしてその冷感の余韻に相乗して遅れて到来するのは……鼻孔をくすぐるにあの時の雨の名残か……、濡れた草葉の独特な香りの残滓──。
柔らかく且つ、みずみずしくも新鮮味のある草葉の匂いを含んだ、冷涼な風の奔流に俺の身体は寒さを覚えて肩を竦ませ身震いするも、吹き込む風の勢いは止むどころか次第に冷気を帯びた空気を紅魔館内の俺と上海、フランドール嬢がいる空間に充満させていく。
静かに浸透していく冷たさと寒さに、いつの間に冬が来たのかと俺の意識は錯覚を覚えた。────が、聴覚が微かに捉えた木に青々しく生い茂る緑葉達による、風になびかれることによって奏でられる静かな合唱によって意識の中に描かれた季節と、現実の季節は全く異なる事を再認識させる。
鮮明とも言えない弱々しく奏でられるその旋律は低音も高音も無く、どこかにたゆたいかねない儚くも溶けそうな希薄な生命の息吹そのもの。
その所為か、夜の安寧と夜の闇特有の不気味さを更に演出して、ただでさえ静謐で不気味な紅魔館全体を更に沈黙と不気味に包み込む。
笑いにも聞こえる嗤いにも聴こえる哂いにも訊こえる、その旋律を戦慄に奏でて。
「────」
髪と頬をそっと撫でる微風にこそばゆい感触を覚え、風速は強風とは程遠いが雲を早く運び、木の葉を鳴らす程強くそしてゆったりと吹き荒ぶ。
「風は……強いな」
今一度だけ、風速を確認すべく唾で濡れた舌を口腔から一瞬だけ露出して、風の吹き加減を確かめる。
風の吹き加減は前述の通りなので次に脳裏で駆けるのは一種の画策と……、それを果たす為に必至の条件。そもそも俺の脳裏で思い浮かんだ即席の画策とは上海に窓を開放して貰う直前によぎった閃きであり、果たしてそれが可能か否かの確認でもある。
──結果、その画策を敢行する為に必要な条件は奇遇にも満たされており、尚且つこれには現状を打破出来る可能性も含んでいるので決行する意味は大いに有る。
「────っ」
……計画に必要な要素を今一度脳裏で反芻。そもそもこれだけ窓があれば条件としては至極充分。それでも現時点で一番必要な要素が一部欠いてはいるものの、確率は怪しいが建築物内での逃走中に必ず揃うであろう要素なので、一計を案じるにさして支障はあるまい。
またこの仮説が証明出来れば、このままフランドール嬢の追跡から撒いても結局どう隠れようと全て徒労に終わる以上、試す価値は有る。
…………ならば早速、検証兼計画実行といこう。
「上海、他の窓も全部開けてくれ。──それも見えるもの全部」
「ッ!? ……──ッ!」
さっきと同様……、いや、多少付け加えて俺は上海に窓の開放を指示。彼女はそれを耳にした途端驚愕の反応を露わにしたが、すぐさま気を取り直すや先程と同様俺の走力よりも早く飛び去って、手早く窓の錠に手を掛けて1つずつ開放していく。
「~ッ! ~ッ! ──ッ!」
「……ぐっ!」
1つ、1つ……また1つ……。次々と上海の手によって開け放たれた窓から突風が吹き抜ける。開かれた窓の前を通る度、吹き通った風とその風速に於けて発生する風圧で身体が揺らいで体勢が崩れそうになるも、風が真正面を吹き抜けるのはほんの一瞬なので、窓を開けた途端に突風が来ると最初からわかっていれば造作もない。
「ッ! ッ! ~ッ!」
突風によって反射的に顔を腕で覆う俺のその傍らで、上海は俺を余所に次々と窓を開けていく。その都度紅魔館の廊下内に風と冷たい空気が立ち込め、紅魔館内部の淀んだ空気と徐々に入れ替わっていく。
もう充分か? ────いや、まだ足りないな……。
「……さっきから何をしてるかわからないけど────よっ!」
風が吹き抜ける。その時強い風切音と共に耳朶が捉えてたのは背後から迫る少女の声。だが彼女の声音からして想像出来るのは…………
「──とっ!?」
風の冷たさとは異なる体内から込み上げた怖気と共に、駆け足のまま前方斜めに大きく跳躍。すると先程まで走っていた位置からは案の定、幾つもの小さな炸裂音が轟く。
やはりというか何というべきか、またしてもあの光弾がフランドール嬢から放たれたようだ。とは言え、着弾したソレが果たして光弾なのかといちいち着弾を確認する暇なんてないが、耳朶が捉えた彼女のその声音から上海の不可解な行動に苛立ちが募り、それが自身の表面に露呈した気がしなくもない。
「あーもう! また避けーらーれーたー!」
背後からフランドール嬢の怒りの声と、カーペットを大きく踏み鳴らす音が届く。微かなる憤りは尤もだ。自分が追っている連中の内の1人……いや人形か……はひらすら窓を開け続け、もう片方は黙ったまま駆け続ける。
見ての通り、あからさまに何かをしでかすであろう人形の行動に一体何を起こすのかと分析はするものの、結局自身にとってそれが何の前触れであるかが理解し難く、結果、理解する前にその煩わしさのあまり光弾が放った……やもしれぬ。
「っ! 曲がり角……!」
仄暗い月の照明と奇妙な事に薄暗い不思議な色調に融和した廊下の奥、ふと目を凝らせばそこには──曲がり角が!
なんという僥倖か。これなら俺の脳裏に思い浮かんだ計画が予想通りになる筈。となれば残された問題は曲がり角の先。
願わくば曲がったその先は、俺の脳裏に描いた構造になっている事を今は一途に祈るのみ────。
「上海、曲がり角に行っても窓を開け続けろ」
「~ッ!」
念入りに追加の指示を上海に与えると俺は駆け足に籠める力を強くし、床を蹴る走力を更に加速させる。それに多少遅れつつも上海は窓を開け続け、共に曲がり角に到達。
「──っ! よし──っ!」
そして曲がり角の先の廊下を一瞥するや、してやったりと声を上げ、上海と共に一気に角を曲がったのだった。
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