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03-04/深紅の女王 Pt. 1

「着いたぜ」

「………………」

 

 

 湿気と冷気を帯びた風を強烈に浴びながら、魔理沙の言葉に俺は無言で項垂れていた顔を上げる。顔を上げてみると、確かに昨日の見覚えのある景色が眼下に広がっていた。

 

 

「……?」

 

 

 だが雨の兆しの所為なのか、湖には霧に覆われ、昨日のように全景を見渡すことは叶わなかった。

 

 霧というのは大気中の水分が飽和状態に達した時に生じるが、冬によく見られる霧……放射霧の場合だと晴れた冬の日などに地表面から熱が放射され地面が冷え、そうして冷えた地面が地面に接している水蒸気を多く含んだ空気を冷やすことで発生する。

 

 この場合、今にも降り出しそうな天気と湖を覆っている霧との因果関係については暖かく湿った空気が、冷たい空気と混ざることによって発生する蒸気霧の可能性もあるかもしれないが、今の俺には霧の発生原因について考える気力がなく、今すぐ横になって楽になりたいという思いで占められている。

 

 

「適当な所に降ろすぞ」

「ああ……」

 

 

 そして霧のかかってない開けた場所にゆっくりと着地。

 

 

「それじゃあ私はこのまま行くけど」

「ああ、気をつけてな……」

 

 

 箒から降りて一呼吸すると魔理沙が話し掛ける俺はそれに答えるのだが、抑揚の無い声だ。それに身体が冷たいのはきっと自分が掻いた汗が空中の冷気に触れた所為だろう。

 

 

「なに、大丈夫さ。レージも厄介な氷精に絡まれない様に気を付けてな。じゃーな」

「氷精……? それって、おい──」

 

 

 聞き慣れぬ存在にそれは一体何の事だ──、と訊ねようとしたがその前に魔理沙は一瞬にして空を飛んで霧へと向かっていく。その遠ざかっていく後姿を見つめながら更なる疑問が重なったと認識。

 

 恐らく魔理沙が言う氷精というのは妖精の仲間だろうとは思うが、いかんせん身体がだるいので考える気力も湧かない。

 

 

「…………ぐあ」

 

 

 魔理沙の姿が完全に霧の中に隠れて視界から消えると、蛙の鳴き声みたいに呟いて仰向けに倒れる。理由は言わずもがな魔理沙の昨日以上に飛行速度は速く、意識を手放さないよう張り詰めていた心身の疲労が一気に限界に達したからだ。

 

 

「ッ!? ~ッ!? ~ッ!?」

「……大丈夫だ上海、大丈夫だ……」

 

 

 俺が突然倒れたことに驚いた上海が身体を揺さぶる。そんな彼女に大丈夫と諭すように頭を撫でてやる。だが動悸が激しく、肩で息をして視界が霞んで眩暈もしている手前、説得力が無さ過ぎる。

 

 とはいえ暫くはこうして休んでいたい……、と俺は目を閉じた……

 

 

「……む」

 

 

 ……のであったが、頬に冷たい感触が当たり、寝るのは諦めざるを得なかった。閉じた眼を開いて曇天の空を見上げると空から地に向かって小さな雫が幾多にも降り注いできた。

 

 

「……そう簡単に寝かせてはくれないか」

 

 

 軽く舌打ち、立ち上がる。雨粒の量は然程多くないのでこのまま一気にアリスの家か香霖堂に駆け込もうかと思ったのだが、いかんせん疲労が完全に抜けてないので走るにも途中で力尽きてそのまま雨水を浴びて疲労が重なるどころか、風邪をこじらせる可能性も否めないので、どうしようかと考えあぐねる。

 

 

「~ッ」

「ん? どうした上海……」

 

 

 袖を引っ張られ、そちらに目を向けると上海が何か言いたげな雰囲気で魔法の森を指していた。

 

 

「……走る抜けるのか?」

「~ッ!」

 

 

 首を横に振る。なら──

 

 

「…………雨宿り?」

「~♪」

 

 

 頷く上海。確かに今の俺の状態では走るのは少々厳しい。それに魔法の森全体の地理も完全に把握しておらず、上海が一緒でないとアリスの家には辿り着けず道に迷うだろう。

 

 

「それが現状無難だろうな……」

 

 

 とりあえず適当に葉が繁った1本を求めて魔法の森入り口に向かう。だが天気は俺をゆっくり歩かせてはくれないらしく、先程の穏やかな降り方が急激に変化した。

 

 

「うぉ……っ!?」

「──ッ!?」

 

 

 本格的に振り出し、その冷たい雨粒が露出している肌に当たったので俺も上海もその冷たさに驚いた。上海の場合は俺の声に驚いたようにも見えるが、雨量の変化に驚いたようにも見えた。

 

 このまま歩いていては雨宿りする前に衣服が完全に濡れてしまうので、一気に魔法の森へと駆け出す。

 

 

「──っ」

 

 

 とはいえ走るのは数えてみると2年振り。無論急な身体の動きに疲労した筋肉がついていける訳も無く……、

 

 

「あ」

 

 

 ズシャ。

 

 

「……」

 

 

 転びました。見事に草が覆われてない地面に。更に地面が雨でぬかるんで泥状になっているから被害が凄まじい。

 

 

「ッ!?  ~ッ!?」

 

 

 前に先行していた上海が俺がいないことに気付いて、後ろを振り返って驚いた素振りを見せる。

 

 

「だ……大丈夫だ……」

 

 

 上海に無事を伝えつつ、転んだ際に口の中に混ざった砂利を唾液と共に吐き捨てて立ち上がる。

 

 

「──ッ!?」

 

 

 引き返してきた上海が俺の腕に掴まり「大丈夫?」と心配そうに見上げてくる。

 

 

「何とかな。それよりも早く雨宿りをしよう……」

 

 

 そう答えて服に付いた泥を落とすのを後回しにし、再び魔法の森入り口へと歩き出す。転んだ際に足は捻っていないし、身体も痛めてないので支障を来たさない。

 

 しかし雨に濡れた事には俄然変わり無く、濡れまいと思っていたのに結局濡れてしまい、あまつさえ転んで泥で服が汚したときた。

 

 

「……最悪だ……」

 

 

 最悪というのは勿論転んで泥で服を汚してしまった事。今着ているのはアリスが用意してくれた服だから、この姿を見た途端何を言われるのやらと不安になるのと同時に、憂鬱になってきた。

 

 ともあれ魔法の森の入り口に到着したのだが、香霖堂が見当たらない。視線を巡らせると俺達がいる場所より離れた場所に香霖堂が寂しく佇んでいた。

 

 このまま森の入り口の木々を屋根にして香霖堂に向かえば、森近に雨宿りを兼ねてこれまでの経緯を説明する手間も省けるのだが、いかんせん疲労のお陰で気力が無い。

 

 

「少し……休むか……」

 

 

 適当な木にもたれ掛かり、足元が濡れていないのを確認すると胡坐を掻いて地面に座る。そして上海は汚れていない俺の足の上に立つと心配そうに口元を隠して俺を見上げる。

 

 

「顔に泥付いてるか?」

「……」

 

 

 シャツの袖とズボンの膝に泥が付着していたのでそれを手で払い落とし、顔や髪に付いているとどこに付着しているのか確認出来ないので上海に訊ねてみたところ彼女は小さく頷き、唐突に浮かび上がると俺の頭に触れる。

 

 

「……触らないほうがいい。汚れるぞ」

 

 

 上海の行動を察して拒もうと声を上げたが上海は小さく首を振り、泥が付いていると思われる部分を叩く様にして払う。

 

 すると頭上から細かい砂の粒子が落ち、その一部が目の中に入って眼球が痛みを発した。が、上海の好意に苦痛の声を漏らすのは些か失礼な気がするし、今口を開いたら砂利が口の中に入ってしまうだろうから無言でそのまま上海の行動を見守る。

 

 

「~♪」

 

 

 程なくして満足気な雰囲気で上海が下降してくる。どうやら髪の泥を落とし終えたらしい。そして次に俺の顔に手を伸ばして触れるとしたが、上海の手を見ると細かい砂の粒が付着していた。恐らく俺の髪の泥を落とす際に付いてしまったのだろう。

 

 

「ありがとう上海。……だが手に付いてるぞ」

 

 

 俺の顔に上海の手が到達する前にその手を掴んで泥と砂を払い落としてやる。それが済むと自分のシャツの袖で顔を拭うと一呼吸。生憎拭くものが無く、アリスもこれ位なら許してくれるだろう……と願う。

 

 

「さて、これからどうするか……」

 

 

 泥を拭い終え、手で触って泥や砂が付着していないのを確認すると何気無く上海に向かって呟く。とは言えこのまま雨が止むまで暫くここで休んでいるつもりだが、雨水に濡れて身体も冷えてきているから、様子を見て早めになるべく温まれる場所に移動したほうがいいかもしれない。

 

 

「もう少ししたら移動しようか?」

 

 

 俺の訊ねに上海は小さく頷く。そして視線は上海から雨空へと移す。雨の勢いは治まる様子も無く、ただ平然と地面を濡らす。そして視線を空から地上へ下ろすと湖を未だに霧が覆い隠しているという何とも不思議な光景がまだ続いていた。

 

 雨で霧が晴れるかと思っていたが、どうやら俺の思い違いのようだ。だが霧が晴れないのは些か謎であり、俺の記憶では大抵の霧は雨と同時に霧散するものだったような気がする。

 

 これは仮説かもしれないが、湖に霧を発生させる原因……というか根源があるとしたら、晴れないのにも合点がいく。しかし根源が本当に実在する場合、雨だというのに何でわざわざ湖に留まって霧を発生させているのかが些かおかしくも見受けられる。

 

 またもう1つの仮説としては地理の関係もあるかもしれないのだが、幻想郷の地理をまだ完全に把握している訳ではないのでその可能性は限りなく低いかもしれないが留意しておく。

 

 

「……ん」

 

 

 とまあ湖の霧の正体は調査しようにもこの天気で尚且つ俺はこの有様なので調べるならまたの機会にすることにして、時間潰しがてらに口の中で舌を転がし、歯を舐めて砂利が残ってないかと確認する。

 

 

「んむ……?」

 

 

 すると泥や砂利は無いのだが、舌触りが砂といった類とは別の妙な不快感を覚えた。なんと表現するべきなのか、歯は唾液で湿っているのは当然の事なのだが、そこに更に膜が張って粘着が強まっているというべきか……。

 

 

「……あー」

 

 

 不快感の正体に辿り着くのはそう長くは掛からず、単に歯を磨いてないことから起因する歯垢が溜まっていたからだ。

 

 ……ふと今日に至るまでの行動を思い返してみれば、一度も歯を磨いたという記憶が存在しないし、口をゆすいだ記憶も無い。

 

 

「……」

 

 

 そう気付いた途端に急に口の中が気持ち悪くなってきた。無視をしようにも口の中を意識してしまい、粘膜が歯はおろか、口内や舌に纏わり付くような錯覚。それをこのまま放置してう蝕が進行した挙句、虫歯になるのは必定だがそれだけは御免被る。

 

 しかし歯ブラシや爪楊枝が無い手前、爪で歯垢を落とすだけでは範囲が限られるし、それに手が汚れているのに衛生面的に考えて悪い。なので──

 

 

「よ……と」

「?」

 

 

 上海の背中を掴んで頭上に乗せると立ち上がり、背後に生えていた木から筆位の頃良い太さの木の枝を探し、丁度条件に合った枝を見つけるとそれを折る。

 

 そして折った枝の断面を端にして歯で噛んで柔らかくすると、その端を自分の歯に向けて擦り付ける。

 

 歯ブラシが無い手前、急ごしらえの歯ブラシでも歯垢を落とすのは構わないだろう。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 俺の行動が不可解なのか、上海が驚いた様子で俺を凝視する。……いきなり木の枝を銜えて歯に擦り付けるんだから、傍からすれば確かに驚く行為だろう。

 

 

「……変なもんかもしれないが、歯を磨いてるんだ」

 

 

 木の枝は歯ブラシの代わり。正確には楊枝、或いは歯木といい、なんでも仏教の開祖である釈迦が広めたそうだ。歯木に使われる枝には種類があり、古代インドではニームという木が歯木に用いられ、その樹液の中にはむし歯や歯周病の予防薬が配合されていたそうだ。

 

 またイスラム教の開祖マホメットも釈迦と同様、歯木で歯を磨くことを広め、中国ではインドから仏教の伝来以来、柳の木でつくられた歯木を使って歯を磨いていたらしい。

 

 現在の歯ブラシの形になったのは日本では明治末期と意外と歴史が浅い。それに当時の日本以外の諸外国では歯ブラシは既に今の形になって普及しており、中国では10世紀、西洋では17世紀といった具合に既に形が完成していたとある。

 

 尚、その当時の歯磨剤……練り歯磨きの材料は細かい砂にチョークの粉、細かく砕いた煉瓦、食塩や混合樹脂にシナモンや焦がしたミョウバン、黒胡椒、焦げたパン……などと国や地域によって千差万別。

 

 

「……うぁ」

 

 

 下顎の奥歯を歯木で擦った途端、樹液の苦みが舌に伝わり、そのあまりにも酷い苦味に顔を顰める。その折、魔法の森には瘴気を発するキノコが群生しており、木にも影響を与えてたような事を今思い出した。

 

 となると、その瘴気を浴びた木の樹液を口に含むのは今更ながら危険過ぎるかもしれない。後先遅しとはこういうことだろう。

 

 

「…………まあ、大丈夫だろ」

 

 

 気になったので枝を折った木の根元にキノコが見当たらない事を確認すると、安堵する。そして歯研磨を再開して歯の外側を磨く。

 

 現時点での歯磨きの目的はある程度口の中の違和感が取れればいいだけであり、うがいをするのに必要な水は大きな葉で雨水を集めれば補える筈。

 

 その為には雨に打たれながら湖でうがいをするか、なるべく雨水が溜まる場所──小さな穴を探すべきだろうと思案し………………違和感。

 

 

「……?」

 

 

 歯木を動かす手を止める。違和感の正体はそう遠くない。しかし何で今になって気付く? そういえば場所はずれているが、昨日香霖堂前から博麗神社に向かう際に感じていた視線を思い出した。

 

 もしかしたらすぐ傍で俺の様子を窺っていた……?

 

 

「……いや、それだと都合がよすぎる」

 

 

 だとしたら俺の行動が向こうには筒抜け。しかし俺の正体も知らない輩が俺を見張ってても得られるメリットが存在しない。それがモグラだとしたらその考えは否定的になるが。

 

 口に枝を銜えながら気配のする方……木の反対側へと足音を殺して回り込む。無論相手の行動に備えてカバンに手を入れ、いつでもナイフを取り出せるようにする。それに雨音で周囲の音を聞き取るのが難しいのに忍び足なのは、いつでも相手の懐に一気に駆け込むようにして入り込み、押さえつける為。

 

 ただ押さえつけるのは人だった場合であり、獣とかだったらこっそり引き返そう。その場合反対側にいる存在の性格にもよるが、なるべく温厚であることを願いたい。

 

 

「……」

 

 

 ナイフを使うのは些か躊躇いを覚える。しかしアレを使うよりかはナイフでの対処方法のが豊富だ。それに人だとした妙な警戒心を与えて刺激してしまう。

 

 ゆっくりと、そして的確に木の枝を踏んで相手に気付かれないように木の裏に回る。するとそこには獣の姿ではなく人の姿。

 

 

「──」

 

 

 獣ではなかったことに対する安堵と共に息を呑む。陰の所為で人の輪郭をしているが、それが今まで会って来た奴等と同様、あくまで“人間”だという保証は無い。

 

 それに温泉に案内してくれた黒猫のような、人語を理解し頭の回る気さくな妖怪もいるのだから構えなくてもいいかもしれない。

 

 しかし先程から感じ取れる、何とも言えない違違和感のお陰で構えを解きたいのだが構えざるを得ない。

 

 肌から感じ取れる違和感は何というべきなのだろうか? 重圧? 高圧? 殺気? 暗澹? 剣呑? 憎悪? 閉塞感? 圧迫感? 忌避感? 逼迫感? 忌憚? ……そのどれかに似通うっているようにも感じるし、似つかなくも感じる。

 

 淡々と違和感の正体を探ろうと考えを巡らせるがいかんせん判然とせず、ただ息が徐々に詰まる感覚。このまま無視を決め込むよりも、ここは危険を覚悟して相手を見極める為にも声を掛けたほうがいいだろう。

 

 

「……誰だ」

「…………それはこちらの台詞だ。アンタ……君は此処で何をしている?」

 

 

 俺の問いに相手は反応し、返したのは幼げな女性の声。口調は多少苛立った雰囲気が混じっているのが嫌でも伝わって来るのだが、向こうは警戒らしき身振りを全くしない様子。

 

 一先ず疎通を図るのは可能みたいだが、聴いた限りの態度だと言葉によっては機嫌を損ねてしまうだろうから注意が必要だろう。

 

 

「見ての通り雨宿りだ」

「奇遇だな。私もだ」

 

 

 話しかけながら相手の姿を見ようと、相手に警戒されないようゆっくりと近付く。そうすることによって陰に隠れていた女性の容姿が俺の目に明確に、明瞭に映る。

 

 

「……」

 

 

 太い木の幹を背中に地面に膝を抱えて座っていたのは年齢は10代に達するかそれ未満の、背丈の小さな幼い1人の少女だった。

 

 肩口で切り揃えた少々ウェーブが入った髪は青に似た髪かその色が掛かった銀髪かのどれかであり、頭の上には昨日会った紫と似たような不思議な形をした白色が強いピンク色の帽子を被り、肌は血管が見えるんじゃないかと錯覚すら覚える程透き通るまでに薄く、さながら白い淡雪の様。

 

 衣服は陰や座っているのも相まってどんなものかと確認出来なかったが、一見見た限り抱いた第一印象の感想は身体が弱そうな令嬢だと思った──が、その印象を吹き飛ばすかのように、少女がそんな華奢な存在に該当する柄には見えなかった特徴が映えていたのを見逃さなかった。

 

 その証でもあるのは、吊り上った目の内に宿る瞳の色であり、その眼を染める色は明るい赤。

 

 

「────」

 

 

 瞬間、その瞳の色に意識が吸い込まれるような、脳裏とその心内が見透かされるかのような幻覚と錯覚に襲われて、思わず息を呑む。

 

 

 

 

 その赤はまるで情熱を示すような色で、

 

 その紅はまるで薔薇の如く美しい色で、

 

 その朱はまるで鮮血のような深い色で、

 

 その丹はまるで力の象徴のような色で、

 

 その絳はまるで太陽のように眩しい色で、

 

 その赭はまるで警告を発するような色で、

 

 

 

 

 見る者を戦慄させ畏敬させ魅了し、魅惑に誘い、果ては真っ赤に咲かせる残酷で悲しげで、暴君が啜る民衆の粘度の高い血の色のように暴虐で、力強い幽玄な濃淡な色に見え、その反面、可憐で不気味で灯籠の灯りの如く寂寥的で、強くも弱くも窺えた。

 

 そして仄暗く静謐に包まれた森の中の一部を薄暗く照らし、我を主張するかのように悲壮的で悲愴的、香蘭的で撹乱的、旋律的で戦慄的な目で暗い暗い、孤独にも思える世界を見つめる怖気が走る孤高の瞳。

 

 だからこそ本能でわかった。木に寄り掛かって座る幼き少女は八雲紫と同じ場所に位置する存在であり…………妖怪だ──と。

 

 

「……」

 

 

 しかしそれはあくまで少女の外見に抱いた印象であり感想。まだ少女が妖怪だという確証は無い。ただ少女が妖怪だとしたら、俺はとんでもない奴に声を掛けてしまったのかもしれない……。

 

 

「人間……か」

 

 

 瞳の色に圧倒され、様々な思いが渦巻き、一方少女にどう話し掛けるべきかと逡巡と躊躇が脳裏を駆け巡る中、唐突に少女が声を掛けてくる。声を掛けられたことに気付いて俺は「いや、君も人間だろう」──と言おうとしたところで口を……閉ざす。

 

 

「……羽? いや翼……?」

 

 

 少女の背中には折り畳んでいたので気付かなかったが、黒い翼が二本生えていたのがはっきりと見えた。それも禍々しくも見え、力強く。

 

 それが完璧に意味するのは彼女は『人あらざる者』であるという証明。そして俺の予想を完全に棄却させた。

 

 

「そういうことだ人間。しかし見ない顔だな」

 

 

 いや、よくよく考えれば面識というのは必要最低限なだけか──、と少女は呟きながら俺の顔を覗き込む。

 

 

「見たところ生きてはいるが、死人みたいな雰囲気……しかしそれでもその心の奥底には貫徹にも近い意思が宿っているから、そこらの軟弱な輩とは大分違うな。

 ……にしては随分と存在というか気配が希薄で曖昧な……?」

 

 

 あどけない顔立ちをしている割には年相応な言葉ではなく、どこか老輩じみた喋り方をしつつ少女は首を傾げる。

 

 

「驚いたな。有翼人か……」

 

 

 かく言う俺は少女の言葉よりも、背中の一対の翼に視線を注いだまま驚きの声を小さく漏らす。

 

 有翼人──人間の容姿をした背中から一対の翼を持ち──ごく僅かながらも二対以上の翼を有する者もいる他、腕が変形して翼になっている者もいるそうな──、蒼穹たる青の大空を庭園の如し自由に飛び交い、風に愛され天にも愛されているという、何とも神妙な種族。


 一部外見と容姿が人間とは異なる種族が多くを占めている者が多いが、その血脈は人間と差異が無い亜人種という見解。

 

 それを知った時は俄かに信じ難かったが、時を経る内に種族の出自を神話やその土地に於ける風土説、民俗学を辿ってみるとすんなりと納得出来たのは未だに記憶に新しく、そんな空想上の存在が御伽噺や神話だけかと思いきや、驚いたことに“最後の魔女”や師父によると有翼人は実在するそうだ。

 

 かといって見れるのかと問われると現代に於いては極稀有らしく、最早架空の存在でしか有り得ないと定義が確約しているそうで、俺自身も生まれてこの方見たことなんて無いので当然半信半疑。

 

 しかしここは幻想郷、人外魔境宜しく有翼人が平然と存在していても然程不自然ではない……かもしれん。

 

 

「有翼人? ……ああ、この翼か。これは蝙蝠のだ」

「蝙蝠?」

 

「そ。さてお前に問い掛けだ。蝙蝠と聞いて想像出来る印象は?」

 

 

 にやり、と冷笑を浮かべると少女は小さく口を開いて歯を覗かせる。その時僅かにだが犬歯が通常の人間より長く、尖っているのが垣間見えた。

 

 

「……鬼?」

「近い近い。確かに私は豆は嫌いだ」

 

 

 少女は愉快げに冷笑を浮かべて答えを待つ。しかし言葉からするに正解に近いようだ。

 

 

「ふむ……」

 

 

 鬼か……。鬼といえば頭に角と巻き毛の頭髪、口に鋭い牙、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男……を彷彿させたが、いかんせん目の前の少女と俺が想像する鬼の姿とでは相違が凄まじく、口の歯が鋭い程度しか共通点が見当たらない。

 

 また京都と丹波国の国境の大枝に住まう鬼の頭領と知られる酒呑童子の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、背丈が6メートル以上で角が5本、目が15個もあったといわれるから少女と外見は異なる。

 

 ただ俺が想像したのは日本伝承の鬼の姿であり、諸外国の鬼とは異なるかもしれない。現に中国の鬼というのは死霊、死者の霊魂のことを主に指す。

 

 だとしたら他に何がいるのだろう? オーガは違う……なら……

 

 

「……吸血鬼?」

 

 

 駄目元で少女に答えてみる。それにしても何で俺が少女の謎掛けに答えねばならんのだ? かと言って無言のまま未知数の力を秘めているであろう少女の前に佇んで怒りを被るのも危険だから、最善な判断か。

 

 

「正解だ。久々に私を知らない奴がいたから、悪いが楽しませて貰った」

「つまり俺は遊ばれてたと……」

 

「そうなるな。いやいやすまない……」

 

 

 吸血鬼の少女は冷笑を浮かべて小さく笑い声を漏らす。どこからどう見ても謝罪している様には見えない。

 

 

「吸血鬼……ね。……本当か上海?」

 

 

 頭上に視線を動かし、上海に訊ねる。上海は頭の上から降りて俺の目線に合わせて浮かぶと小さく首肯。

 

 

「おや、魔法の森の魔女の人形か」

「知ってるのか」

 

「そりゃもう」

 

 

 どこが面白いのか、にやけた笑みを浮かべて上海を見つめる。

 

 

「……ッ!」

 

 

 その悪意なのか善意なのかわからない視線を浴びた上海は怯えた様に身体を小さく震わせると、俺の背中の後ろに隠れてしまう。

 

 

「怖がらせないでくれ。それにそのだだ漏れの気配を引っ込めてくれると嬉しいんだが」

 

 

 カバンから手を抜き、銜えた歯木を口から離す。コミュニケーションが取れる以上、凶器を持ったまま離すのは些か不当と判断したからだ。

 

 それとさっきから纏わり付く違和感は少女の傍まで来た途端、それが足元からじわじわと身体中に張り付く錯覚を覚え、落ち着こうにも身体が強張ってしまうから、早く何とかして欲しかったというのが心情の本音。

 

 

「ん? すまないな、どうにも雨は昔から嫌いなもんでな……」

「それは吸血鬼だからか……?」

 

 

 吸血鬼はヨーロッパ圏では主に不死者……アンデットを指し、絶大なる力を有していることからいつの時代でも畏敬の念を送られているが、そのあまりにも強大さ故にそれを危惧し、倒さんという研究者によって発見された弱点も多く存在している。

 

 その中で専ら有名であるのは日光、聖水、銀製の武器や道具、魔除けのニンニクや香草、十字架、川などの流れる水を越えられない、白木の杭を心臓に打ち込むといった類。

 

 とは言え、」その弱点の殆どがキリスト教の教義や伝承から由来し、それが事実かどうかは定かではないので、過信しない方がいいかもしれない。

 

 しかし雨が嫌いと少女は言っていたので、先程挙げた弱点の川などの流れる水を越えられない……流水を渡れないとしたら、それは事実という事になる。

 

 

「そんなところだ。……でだ、人形に懐かれている人間、名前は?」

 

 

 少女から発せられていた気配が徐々に薄まり完全に消えた。それを確認すると肺に鬱積していた酸素を吐き出し、深呼吸をすると少女に向き直って名乗る。

 

 

「荻成怜治だ。好きに呼べ」

「ふむ荻成怜治か……怜治、レイジ、レージ、レイ……レイか? ……うん、レイと呼ばせて貰おう」

 

 

 本来なら名乗らずに元の場所に戻って雨が止むのを待てば良かったのに、俺は少女に名乗り、俺の名前をしっくりとくる呼び名を少女は小さく呟き反芻。

 

 そして呼び名が決まると小さく頷いて俺を見つめる。

 

 

「勝手にしろ。それで俺が名乗ったんだ、そちらの名前も聞きたいだが……」

「私か? 私はレミリア・スカーレット、見ての通り吸血鬼さ」

 

 

 やんわりとした口調で名前を訊くと、少女──レミリア・スカーレットは肩を竦めて名乗る。

 

 それにしても、吸血鬼ときたか……。

 

 

「ドゥッベルジュガーではあるまいな……」

 

 

 諸説で吸血鬼になるには、生前犯罪を犯した、信仰に反する行為をした、惨殺された、事故死した、自殺した、魔女であった、人狼であった、葬儀に不備があった、何らかの悔いを現世に残している、死者の上を猫やその他の動物が横切った、などの沢山の例が挙げられるから信憑性が胡散臭い。


 その吸血鬼の種族の中でもドゥッベルジュガーとはドイツ北部、ハノーバー地方に伝わる吸血鬼の事だ。離乳食に切り替わった赤ん坊にまた授乳させて死なせるとなると言われる。

 

 ドゥッベルジュガーの特徴は伝統的な吸血鬼に見られるような血液の摂取ではなく、棺桶に収まったまま魔力で人間の生命力を奪い取るというのだ。

 

 その犠牲になるのはまず生前の家族や親戚からであり、やがて一般市民へと徐々に手を広げていく。

 

 だがレミリアと名乗った少女はドゥッベルジュガーの特徴とは大きく異なるから、別の種族の吸血鬼か。

 

 

「ドゥッベルジュガー? 何それ?」

「吸血鬼の一種だ。知らないなら知らなくていい」

 

 

 俺の言葉にレミ……スカーレット嬢は言及がするつもりがないのかふーん、と小さく呟くと身体を濡らさない様更に木に寄り掛かり体重を預ける。

 

 

「でレイとやら、お前は何者だ?」

「何者と言われても……一応、外から来た……と言った方がいいか」

 

「へぇ、外来の人間か」

 

 

 外からの来訪者……否、招かれた俺をスカーレット嬢は俺の顔を興味深げに見つめる。

 

 

「……にしては身だしなみが酷いな。外の人間はもう少し整っていると思ってたんだが……」

「……準備をする前に強引に連れてかれたからな」

 

「連れてかれた? ……ああ、そういうことか」

 

 

 思い当たる節があるのか、スカーレット嬢は納得するかのように1人呟く。

 

 

「大方八雲紫か。やれやれ、アイツは何がしたいんだがよくわからんよ」

「有名なんだな」

 

 

 有名と言っても、悪名の方が大きいような気もするが。

 

 

「有名も何も、寝惚けて人間を幻想郷に連れてきてしまうことがあるからな。しかしこんな騒がしい時に幻想郷に連れて来られるとは、運がないなレイとやら」

「騒がしい……?」

 

 

 そういえばレノンも温泉で低級の妖怪が云々と騒がしいと言っていた。となるとスカーレット嬢が触れる騒がしいという話は、レノンが語っていたのと同様の内容に触れている可能性がある。

 

 ただあくまで噂は噂、信憑性が欠いている情報だという事は否めない。それが真実味を帯びていたら霊夢や魔理沙がその件の噂についての発言を最初からするだろうからだ。

 

 だが霊夢と魔理沙は何も言わなかった。彼女達からは何かしらに対しての言葉は窺えず、終始和んだ様子で過ごしていた。

 

 だとしたら浮かぶ仮説はその噂は妖怪を限定に広がっているという事か? 平穏な時に混じった不純物のような微弱な不穏な空気を? それを妖怪だけが感知できるのだとしたら至極納得出来る。

 

 ただそうなるとレノンが何故この事を知っていたのかという疑問が思い浮かぶ。

 

 可能性として高いのは妖怪に聞いたか、はたまた単に本当に噂を聞いただけなのかもしれない。

 

 

「私もその噂が気になって、ついさっき里まで赴いてその噂について聞きに行こうとしたんだが、別件で騒がしかったので聞きそびれてな」

「別件?」

 

 

 スカーレット嬢が肩を竦めて落胆する。どうやら当初の目的を果たせなかったのを気にしているみたいだ。

 

 

「そ。人間の男が1人死んだ。それも滅茶苦茶に、だ」

「そうか……」

 

 

 スカーレット嬢の隣に佇み、手にしていた枝……歯木を銜えて中断していた歯磨きを再開する。……嗚呼、樹液が苦いったらありゃしない。

 

 

「驚かないのか?」

「俺は幻想郷に来てから日が浅いし、知らない奴が死んでも俺には無関係だ」

 

 

 生き死には場所を移してもどこも一緒で共通だ。俺がこうして歯を磨いている間に世界では秒間5人以上が死んでいるという数字が算出されているのだから、いちいち反応してたらキリが無い。

 

 それが無関係な人間だったらまだしも、顔見知りか身近な奴の場合は衝撃を受けるし悲観的になるに違いない。それが人と人との間との距離であり親密の差だと思う。

 

 だから悼む気持ちも労わりの気持ちも無く、哀れみの言葉や嘆きの慟哭や讃歌を送ること無い。ただ「ああそうか」と感嘆とした一言で済ませるしかない。

 

 

「達観してるな……。同種なもんだから、てっきり偽善的な発言をするかと思ったんだが」

「“酷い”や“可哀相”とでも言えと……? 生憎だが知らない奴に送る言葉は皆目検討つかん」

 

「ほう? その考えはどこから湧いてくるのか気になるね」

「…………生きていると無駄に馴れるものだ」

 

 

 口から歯木を離し、スカーレット嬢を横目に話し掛けた後に嘆息。

 

 生命の死も、剥奪も……自分がしてきた事に対して何の感情も浮かびやしない。ただ「どう思う?」と問われても、結局導かれるのはスカーレット嬢と同様の短い、感情も篭らない、答え。

 

 結果、その俺の呟きに対して相手から大抵返ってくるのは「思いやりが無さ過ぎる」とか、「達観してる」とか、「酷い奴」、「無慈悲」……挙句には「人でなし」ときた。

 

 今にして思って過去を振り返ってみると、自分の愚かな行いを散々と思い知らされる。故にその世界に浸りすぎた結果、常人と同じ様な感情を返せないのだろう……。

 

 

「…………」

 

 

 いや……返せるかもしれない。だが返せないのはもしかしたら、言葉を知らないだけかもしれないし、感情の沸点が低いからかもしれない。その点を踏まえると59年も生きていて何て無様だろうか……。

 

 ──だが、そんな酷い有様の碌でも無い時間を送ってきた俺でも光明に照らされた事があり、多くの人がそれを『幸せの時間』と呼んでいて、それに俺も浴びていたのは事実だ。

 

 となると、やはり自分が過ごしてきた59年もの時間は酷いと受け取るべきなのか、悩むものである。

 

 言葉で表すとしたら恐らく……『酷く』、『楽しく』、『気持ち悪くて』────

 

 

「……で、その帰りに雨が降ってきたからこうして雨宿りか」

 

 

 一抹の思考を振り払い、スカーレット嬢との話を続ける。とは言えもう話す事は全て済ませて、終わってしまったが。

 

 

「若干経緯が異なるがそうなるな。いやぁ雨に遭遇するなんて災難災難……」

 

 

 スカーレット嬢はその通りと小さく頷いて、眉を顰める。

 

 概ねの事情はスカーレット嬢の話した通りだとすると、多少腑に落ちない点がある。

 

 

「日光は?」

「ん?」

 

「吸血鬼は日光が嫌いというが、どうやって移動したんだスカーレット嬢?」

 

 

 陽があるように陰がある。陰……闇というべきか夜の種族である吸血鬼が日中堂々と徘徊して移動できる筈が無い。

 

 しかしスカーレット嬢は今は雨で太陽が隠れているが、雨天前の晴れた天気の下で行動していた口振り。その点についての疑問と謎が、俺には気になって仕方が無かった。それに昼行性の吸血鬼なんて聞いた事も無い。

 

 だが不死の存在故に長年性格が変わり者の奴もいるらしく、何の対策も無しに日中を堂々歩き回る吸血鬼もいるとかいないとか曖昧な話もあるから、俺の疑問は単なる偏見かもしれないし、吸血鬼という概念に対する思い込みかもしれない。

 

 

「日光? ……ああ、日傘を差してた。だが雨が降る前に最悪な事に風で吹っ飛んでったよ。……しかしスカーレット嬢さんか……ふふふふふふ、お嬢さんか……お嬢さん…………ふふふ……ふふふふふふふふふ……」

 

 

 スカーレット嬢は両手を挙げて徒手であることを表すと、俺にお嬢さんと言われて思う事があったのか、顔を俯かせて肩を震わせて小さく笑う。

 

 ……いや、「笑う」というより「哂う」ないし「嗤う」だな。

 

 

「……~ッ!」

 

 

 気圧されて上海が身体を震わせて俺のシャツを強く握って寄り添う。確かに幼い子どもが見たら不気味で泣きたくなるかもしれん。……いやそもそも上海は子どもなのか? と思ったが、俺も多少そのスカーレット嬢の不気味な笑いに引いている。

 

 こんなあどけなさが残る少女もとい、吸血鬼に暗い笑みを浮かべられたらどんな者であれど、自然と色々勘繰ってしまう。

 

 

「いやいやレイ、お前は私がこの容姿なのは知っているな?」

「吸血鬼だから……か?」

 

「そ。だから幾年月経てもこの姿ということ」

「? ……あー、そうか」

 

 

 吸血鬼は不死者の別称、故に長命種族でもあり、容姿とは非常に異なり長命の吸血鬼がやたら多いのだ。

 

 その特異さ故に目撃された吸血鬼は不老不死の研究対象とされて乱獲されては人々に畏怖の対象として多くが虐殺され、中世では“魔女狩り”と共に吸血鬼狩りが活発に行われ、人間に住処や一族郎党等が虐殺されて今では数が激減している。

 

 だからこそ吸血鬼は今や伝承の存在と位置付けされており、現代では時代と共に姿形を変化させるなりして併せて人目に付かぬ様終わりなき流浪の旅を送っているとされ、人間が近寄る事が到底不可能な秘境に居を構え静かに生活してたりするのが殆ど。

 

 しかしスカーレット嬢は人間の姿はせれど、蝙蝠の翼を晒している。となると随分と……判断できないが……プライドが高い稀有に等しい古種の吸血鬼なのだろう。

 

 それとも単に全てを受け入れる幻想郷という土地に、自分の存在を証明出来るからと知っているからこそ、本来の姿を晒しているのか定かではない。

 

 

「いやはやスカーレットと呼ばれるのは懐かしいものだ。……しかし、スカーレット嬢と呼ばれるのも随分と久しい気がするぞ」

「呼び方に困ったんでな、そう呼ばせて貰った。迷惑か?」

 

「別に。名前でも良いし、呼び捨てでも構わないぞ」

 

 

 専ら私は名前で呼ばれているんだ、とスカーレット嬢は口を隠して欠伸。

 

 

「……となるとスカーレット、又は……レミリア?」

「ふむ、私もお前をレイと呼ばせて貰ってるんだ、名前で呼びたいのなら別に構わない」

 

 

 ともまあこれでおあいこ、とスカーレット改めレミリアは続ける。

 

 

「さて、死んだ人間の話に戻るがな、どうにも聞いた話では下手人は人間では無く妖怪の仕業──が、私の知っている妖怪とは異なるみたいだ」

「異なる? どういった点で……?」

 

 

 俺としてはこの話は終わった様なもの。しかしレミリアはその件について引っかかる箇所がある素振りなので、俺は無関心ながらも相槌を打って話を聴く。

 

 

「人間と妖怪の力量の差は知っているな? その力量にハンデ? というべきかな、争い事が起きたらスペルカードルールというもので勝敗を決めるんだ」

「はぁ……?」

 

 

 聞いた事の無い単語がレミリアの口から出てきたので、俺は首を傾げて曖昧に返事を返す。

 

 

「ああそうか、レイは外の人間だからスペルカードルールを知らないんだっけな。スペルカードルールというのは、賛同側の妖怪が作った原案を元に制定、導入された決闘の1種で、どちらかと言えば競技に近いな。

 ──ま、要約してしまえば“殺し合い”を“遊び”に変えたルールだな」

 

「だとしたら、その男の死因は度を越えた“遊び”じゃないのか?」

 

 

 言って、歯木を口に銜えて歯磨きを再開しようとしたが、レミリアは首を振る。

 

 

「いや、スペルカードルールの敗者は敗れたら素直に引き下がって禍根を残すな、とも言われている。が、そんな事をお構い無しに──」

「殺された……と」

 

 

 レミリアの言葉を引き継ぐようにして紡ぐ。その俺の言葉に彼女は小さく頷く。

 

 最初から約束を破る為にその──スペルカードルール──で決闘を行ったのなら、納得がいく。また、その決闘方法を用いずに惨殺したのならそれなら尚更不運としか言いようがない。

 

 

「無抵抗な人間を襲う妖怪ならいるんじゃないか?」

「どうだろうな。いたぶる妖怪なら幾つか知っているが、ここまでいたぶって殺された人間は近年では稀だ。だから私も気になってるんだ。

 さて、ここからが謎だ。雑魚な妖怪は人間を捕食するものだが、今回食べずにそれ……人間をぐちゃぐちゃにして残した。レイ、その点についてお前はどう思う?」

 

「…………」

 

 

 ……対抗する相手に存在を知らしめる為に行った警告、また逆らうとこうなるというメッセージとも受け取れる。

 

 だが幻想郷で抗争というのはまず有り得ないかもしれない。俄然見聞不足なのだが紫といった具合にパワーバランスが存在しており、スペルカードルールのお陰でそれは拮抗しているようにも窺える。

 

 となるといたぶる癖のある妖怪の仕業としか思えない。

 

 

「上海、加虐好きな妖怪を知っているか? それも死ぬ位に」

 

 

 俺の問い掛けに呼ばれた上海は俺の前に浮かぶと小さく首を横に振り、「知らない」というのを俺に伝える。

 

 

「レミリアは?」

「昔はかなりの数がいたが、今はスペルカードルールで殆どが大人しいか、寿命で死んだよ」

 

 

 上海同様、レミリアも存ぜぬ様子。が、今になってその昔の癖がぶり返したとなると、その行動は目立つ筈だ。

 

 だとしたら、死体を残したの最大の理由はやはり……

 

 

「片付けが面倒になった。或いは……見せしめ、と言ったところか」

 

 

 だろうな。

 

 

「そうか?」

「妖怪にも人間と同等か、それ以上の知恵があるのはレミリアと紫を見て大体は知っている。仮に片付けが面倒だった場合の仮説を前提として挙がるのは、普段大人しい妖怪が人間をいたぶって“玩具”として遊んだか、単に死ぬまで身体を弄ったかだろうな……」

 

 

 だとしたらその男を殺した妖怪はかなりのサディズムな性格か、極度の病的な奴だろう。

 

 

「もう1つの見せしめは自分は強いんだぞ、という意思の表れか、単に人間を怯えさせたかっただけかもしれない」

 

 

 時代は変わっても、古くから見せしめという行為は確実に、対象に畏怖の感情を抱かせる。ただ現代ではそれは取引に応じなかった場合に主に用いられ、最悪の手段とも言えよう。

 

 ただ取引とは違い、今回はただ単純に殺しただけかもしれないが、直接の死因を調べてもないし現場検証もしてないので、概ね思いつくのはこんなところだろうな。

 

 

「……というのが、俺の考えたその男の死因だ」

 

 

 とは言っても確実とは言えんがな、と付け足すと口を閉ざす。歯垢は完璧に取れたみたいなので、歯磨きはここで終了。だが口の中の樹液がかすかに残っているので口内が苦い。早い所、水で口をゆすがねば……。

 

 

「見せしめ……ねぇ。だとしたら拷問でもしたんだろうか」

「あ? ああ、有り得るな」

 

 

 拷問も仮説の中に含むとしたら、かなり有力かもしれない。そもそも口さえ動かせれば他の身体の部位の有無なんて折られていようが、切断されていようが問題ないのだ。

 

 となると、恐らく下手人の妖怪は何かを訊く為に男を殺したのか、それとも単に加虐したかっただけか……。

 

 

「ま、いずれにせよ俺には関係無いな」

 

 

 歯木をほうり捨て、上海の襟首を掴んで肩に乗せてやる。太い木の裏側……森の中にいるので雨足がどうなっているのか空を見上げても、森の木々の密度が高い所為で見渡せない。

 

 しかし聴覚が捉える雨音は先程よりは弱くは聞こえるので、一旦確認の為に戻る。雨足が弱くなっているようなら、さっさと香霖堂に移動した方が得策だろう。

 

 

「だな。先程の会話でお前がどんな人間か大体わかった」

「…………人間観察は楽しかったか?」

 

 

 ……やはりと言うべきか、レミリアも俺を観察していたみたいだ。だがそれはタチの悪い“観察”で、比喩すれば人格把握と心理分析であり、更に要約すれば所々で問題を提示して、俺がその問題を解いてどのような人間なのかを計るための試験に近い。

 

 内容は些か酷いものだったが、さしずめレミリアはそれを利用して俺を最初から試していたようで、気分的には雨で動けないから退屈紛らわしの遊び相手と言った所か。

 

 だからこそその俺を計っていたレミリアに内心舌打ち、目を険悪に顰めて睨む。が、前髪が邪魔でその表情が相手に届いているかはわからない。

 

 

「おやおや怖いぞ? そんな目をしたら人形ちゃんが怯えるじゃないか」

 

 

 それにそんないい顔なんだから、とレミリアは俺の視線を受け止めながらも、愉快そうに冷笑を浮かべる。そんなレミリアの態度を見て俺は、これ以上一緒にいたくないという感情がふつふつと湧き起こるのを自覚する。

 

 

「……そろそろ動かないといけないんでな」

 

 

 感情が嫌でも嫌悪に染まっているのを自覚し、それを頃合だろうと判断した俺は木から離れ、湖側へ足を向け立ち去ろうとした所、

 

 

「まあ面白かった事には違いない────が、1つ気になる事がある」

 

 

 と、レミリアが呼び止めた。どうやらお嬢様は本当に退屈を紛らわして欲しいようだが、俺にはその気は毛頭無いし気変わりするつもりも無い。

 

 

「お前はそんじょそこらの次元の人間ではないな。そんなに血の匂いがする人間がまずいるもんか」

 

 

 そんな俺の心中とは余所に、唐突にレミリアが不可解な発言。それに俺は無言で振り返ると、彼女の目が先程以上に爛とした輝きを放ち、剣呑な雰囲気を纏いながら俺を見上げていた。

 

 

「───」

 

 

 その瞳は相変わらず紅色。しかしそれはまるで宝玉のように輝き、血のように濃い闇のような深紅。

 

 先程の会話でもう見慣れた筈。だというのに背筋に冷たい感触が伝うのが嫌でもわかり、それに気付いた途端胸中から「コイツには関わりたくない」という思いが喉元まで一気に込み上げた。

 

 ……これはレミリアと会う直前のあの気配──? それと類似している気もするが、あの時感じ取ったのとは異なるような感覚。

 

 

「根拠がわからないな……」

 

 

 得体の知れない気配と、その剣呑な視線を正面から受け止めつつ俺は平面を装いつつ言い返す。だが──、

 

 

「……匂い」

「匂い……?」

 

 

 ──と、恐ろしく怖ろしい紅玉の眼で俺を視界に捉え続けながら、レミリアが衣服に付着した土と草を払って、ゆったりと立ち上がる。

 

 

「雨に遮られてよくわからなかったけど……そのカバンから血の匂いがする」

 

 

 俺のカバンに悠然と歩み寄って近付き、鼻をスンスンと鳴らす。その鼻を鳴らす姿は滑稽に見え、同時に立ち上がった事でようやくレミリアの衣服を間近で窺える事が出来た。

 

 レミリアの衣服は帽子に倣ったピンクと同色で、その襟は太い赤い線が入ったレースがついており、両袖は短くふっくらと膨らみ、袖口は赤いリボン色で蝶結びに結ばれている。

 

 また服もレースで仕上げられた服で、その服を装飾も何も無い小さなボタンで留め、襟には蛇が交互に絡まりあった様な不可思議な装飾があり、腰にはベルト代わりなのか赤い紐で結ばれ、その巻き方は着物の腰紐に相当しなくもない。

 

 スカートも服を基調とした同色で、くるぶし辺りまで長く伸びており、これにもやはり赤い紐が刺繍されてる。

 

 靴は見たところローファの類でサイズは至って小さめ。 そのローファが泥で汚れているのは座っていた所為か、はたまた泥になった場所を踏んで汚したかのいずれか。

 

 一言で済ませるとしたら、年相応な格好とも言えよう。だが彼女は吸血鬼の一族の者である……のだが、自分から正体を晒す発言や言葉遣いをせず、尚且つ翼がなければ単なるおませな幼い少女にしか見えなくもない。

 

 しかしそれが無くても少女の発する雰囲気は尋常ではなく、人外の類。外見で惑わさず、侮ってはいけない。

 

 

「レイ、被虐癖や自虐癖があるのか?」

「あったとしたら、何だ?」

 

「カバンの中から、お前と同じ匂いがする様な気がする……」

「…………そうか」

 

 

 思わずその場に留まる。離れたいのはやまやまなのだが、レミリアがカバンに密着してるので思うように動けないのだ。

 

 しがみ付いていないのでこのまま場を離れてもいいのだが、レミリアはいたくカバンの中が気になるらしく、離れたとしても好奇心に後押しされてこのままついてくるかもしれない。

 

 

「…………」

 

 

 匂い……か。よりにもよって俺に似てるなんて嫌な事を言うもんだ。いや、カバン自体が俺の所持物だから、俺と同じ匂いがするというのは至極当然かもしれない。

 

 だがレミリアは俺と同じ様な匂い、と言った。つまり俺以外の奴の匂いがするということだ。

 

 だとすれば、それはきっと、2年前の────

 

 

「────」

 

 

 レミリアの言葉の意味に気付き、思い出した途端視界が暗転し、胃の中が気持ち悪くなってきた。同時に手先が震え、足先の平衡感覚が定まらなくなる。

 

 それを気付かれぬ様、即座に木に体重を預ける。

 

 

「どうした?」

「いや、ちょっとな……身体が冷えてきたんだろう」

 

 

 変化に気付いたレミリアが問うが、俺はそれを曖昧に濁して誤魔化す。

 

 この急激な悪寒と嘔吐感はあの時と同じだ。

 

 苛まれるよりも、このまま寝込みたい。だが寝て起きても結局は空虚な日々が続くだけ。

 

 そんな何も無い日々が怖くて哀しくて苦しくて痛ましくて、縋り付いたのが酒浸りの日々──という、苦しみを紛らわす幻覚を夢見る為の悪循環。

 

 そして生まれたのが今の荻成怜治。最早何も無き1人の咎人であり、燻り続ける愚者。

 

 

「それ意外にカバンからは──お?」

 

 

 俺の心中を余所にレミリアは話を続けようとしたが途中、口を閉ざし頭上を見上げる。

 

 

「……どうした?」

 

 

 うだる頭を上げてレミリアに訊ねてみる。

 

 

「雨が止んだ……」

 

 

 レミリアの言葉を聞いて俺は耳を澄ませると彼女の言葉通り、雨音が消えていた。確認の為木の表側に回り込み、空を見上げてみる。するとレミリアの言った通り確かに雨は止んでおり、雲の隙間からは眩しい太陽が顔を覗かせていた。

 

 天気は晴れでも、俺の心は晴れることは無いが。

 

 

「……さてと、これからどうするかな」

 

 

 レミリアが俺の隣にやって来る。立ち位置は日陰の場所で、日光が当たっていない場所。その事がレミリアが吸血鬼だという事を改めて再認識させる。

 

 

「俺は香霖堂と、上海を届けてやらないといけない。レミリアは?」

「私か? 曇天になるまでここで寛いでるよ」

 

 

 だがな、とレミリアは俺を見上げ、

 

 

「そんな状態でアリスに会ったら家に入れてもらえないんじゃないか?」

 

 

 俺の服の状態を指を差して指摘した。

 

 

「……あ」

 

 

 そう言えば転んで汚れが付着したんだった。木の下に着いて直ぐに泥を払い落としたが、それでも服の汚れは酷く、あまつさえ濡れている有様。

 

 それに俺の状態も恐らく宜しくない。この場で小休止しても逆に悪化させるだけだろう。かと言ってこのままアリスの家に向かっても、衣服の件で色々と小言を言われそうな気がする。

 

 香霖堂で新たに衣服を買うという選択肢もあるが、あそこは商品が乱雑し、ホコリが凄いので不衛生極まりないから躊躇いを覚える。

 

 ──が、アリスはそんな場所で俺の服を買ったと言うのだから、何を今更……

 

 

「私の屋敷に来るか?」

 

 

 と考えあぐねていたら、レミリアがそんな事をのたまった。

 

 

「いいのか……?」

「退屈な話に付き合ってもらったからな。それに風邪を患いたいなら別に構わんが」

 

「……ふむ」

 

 

 上海に顔を向けて、「どうする?」と視線で訊ねてみる。俺に見つめられた上海は首を傾げたが、すぐさま俺の言いたい事を悟ると口元を手で隠して俯き、暫く間を置くと小さく頷いた。

 

 ただその首肯は仕方ないといった様子で、且つ渋々といったところ。上海本人はどうにも納得しかねないみたいだが、果たしてどういう事だろうか……?

 

 

「ただしギブアンドテイク、私に傘を用意してくれ。そしたら屋敷に案内してやる」

「傘……ね」

 

 

 妥当な条件だろう。俺はカバン以外に荷物が無いので傘は無論、持ってなどいない。だとしたら購入するか拾うしかないだろう。

 

 取り敢えず香霖堂に向かうか。ガラクタの山と言えど、あそこなら傘の1つや2つは見つかる筈だ。

 

 

香霖堂に行こう。そこなら傘が幾らかある筈だ。ついて来てくれ」

「わかった」

 

 

 レミリアの事を考慮し、森の木々を屋根に香霖堂に向かう。そうすれば陽に当たらずに日陰から日陰へと移動出来るし、日光を浴びながら移動するより幾許かは体力の消耗は避けられる。

 

 足場は雨でぬかるんで多少悪く滑りやすいが、態勢が崩れやすい歩き方をしなければそう転びやしない。

 

 

「……お前は変な奴だ」

「唐突に何だいきなり……」

 

「私を気遣って日陰を辿って移動してる」

 

 

 人間だというのに吸血鬼に配慮するなんて可笑しいもんだ、と俺の少し後ろでレミリアは小さく笑う。

 

 

「変か?」

「そうだな……それにあまり濡れてない場所を歩いてるから、変と言えば……変だな。吸血鬼を見た人間は大抵敬遠とした態度をするもんだから、お前のような奴は中々珍しい」

 

 

 その口振りだと、吸血鬼なんて聞いたら誰もが警戒し、近付くのを恐れると言っているのだろう。

 

 だが俺は外の世界の経験で、相手の雰囲気で危険か否かを察知出来るので、その経験から言えばレミリアはそんな雰囲気を発していないので警戒せずに自然に振舞うのが無難だと判断している。

 

 

「雨が嫌いなんだろ?」

「そうだ」

 

 

 首肯するレミリア。その姿を見つつ言葉を続ける。

 

 

「だからこうして、木の葉や枝を屋根にして歩いてるんだ」

「ふぅん……。そんな風に考えて行動するというのは、親切心からか?」

 

「……さあな」

「さあなって……ははっ、やはり変な奴」

 

 

 親切心と言われれば、確かに親切心から湧いた配慮かもしれない。しかしそれは相手が苦手だという条件を前提とした行動であるから、親切心とは多少異なる様な気がする。

 

 

「……ところで話を変えるが、そんなに血が好きなのか?」

「そりゃあ吸血鬼だからな」

 

「だったら自分の身体でも傷付けて血でも舐めればいいものを」

「自傷か? 私にはそんな性癖は無いよ。レイは?」

 

「生憎俺にも無い」

「そりゃ残念。お前の血は然程甘美な味だろうに」

 

 

 血にも味というのがあるのか……? とても嗜好するような代物ではないと思うのだが、犯罪史を見るからに食べるのを目的としたカニバリズム……人肉嗜食……を目的とした殺人犯の大抵は、殺した相手の血を飲んでいるからその手の者には嗜好品なんだろう。

 

 まあ血液というのは栄養価が高いのは確かだし、サバイバルを強いざるを得ない状況では動物の血液ほど有り難い物はない。

 

 因みに俺が飲むと言っているのは動物の血の事であり、決して人間の血を飲むという前提ではない。それ以外では血なんてあまり飲みたくない。

 

 

「外の世界には人工血液があるんだが、幻想郷には…………ないか」

 

 

 人工血液……正確には代替血液……なのだが科学はおろか、医療技術や近代的技術とは到底無縁で、のどかな景色が広がる幻想郷にそんな優れた物が有るのが思い浮かばない。

 

 仮に存在してたとしても外の世界同様、実用性や有用性に欠けているだろうからまだまだ研究の余地が必要だろうし。

 

 

「人工血液……? それはつまり作られた血液ということか?」

 

 

 レミリアが怪訝に訊ねてる。その表情は多少嬉々としているように見えるのは恐らく“血”と聞いたからであろう。

 

 

「ああ。と言っても酸素と親和性の高い物質を血中に投与することで赤血球の代替にする物だから、俺達の血液とは多少異なるな。

 それに人工血液の主な用途は手術時の輸血の代用だ。断じて飲料用じゃない」

 

「よくわからないが、なんだ? ……結局は血じゃないのか……」

 

 

 残念だ、とレミリアは落胆する。傍目から見るとその様子は演技でも無く、心底残念そうだ。

 

 

「なら牛乳を飲め。知ってるだろ? 牛乳は血液なんだぞ」

「本当か? あ、でも牛乳は苦手だな……」

 

 

 正しくは血液が胃や腸から吸収した、牛乳に必要な材料成分を乳房に運ぶと言う表現の方が正しく、乳房が血液の赤み……赤血球を取り除く事によって、乳になる……そうだ。

 

 それが本当か否かは俺にはわからないが、牛の血の味は牛乳と同じと言われているからその話は信憑性は高いかもしれない──が、よくよく考えてみれば味は確かに似ている様な気がする。

 

 牛の血をそのまま飲用しているアフリカの先住民族がその良い例で、かく言う俺もとある経緯上で止むを得ず飲んだ事あるし、その味には何気に覚えがあるのだ。

 

 つまり牛の血の味は牛乳でした──、と。

 

 

「……」

 

 

 今頃気付くとは、我ながら間抜けすぎる。いっその事、気付かぬまま忘れていたかった……。

 

 

「獣の血だとどうも臭う様な気がするんだ。私はその独特の癖が苦手でな、そういうのはどうしたらいいんだ?」

「はあ……」

 

 

 俺のショックを余所に、レミリアは喋り続ける。会話が先程から血の事ばかりで辟易する。

 

 だがそれを反面的に考えてみると、吸血鬼という種族との会話ではこれが当たり前であり、日常会話かもしれない。吸血鬼ではない俺からすれば傍迷惑極まりないが。

 

 

「……気のせいだろ。それに臭いが気になるなら味付けすればいい」

 

 

 地面から露わになっている木の巨大な根を跨ぐ。その根は岩肌や隣接している木々にも張り付いており、魔法の森の木の生命力は尋常ではない事を認識させる。

 

 

「血を味付けだと? 不純物も無く、独特の匂いを純粋に愉しむ為に飲むと言うのに、それを味付けするだなんて言語道断だ。味と質がかえって損なわれだろうが」

「だったら作れよ……」

 

 

 何というわがまま吸血鬼娘だろうか……。ああ言えばこう言うとは正にこの事だろうか。最早呆れを通り越して頭を抱えて蹲りたい。

 

 レミリアが娘かどうかは知らんがさておき、血液の成分は大きく2つに分けられ、それぞれは有形成分と液状成分と分類される。

 

 その内の容量中の45パーセントが有形成分であり、その構成は赤血球が96パーセント、白血球が3パーセント、血小板が1パーセントと言った具合である。

 

 そして残った全体の55パーセントは液状成分で占められ、構成は水、糖、たんぱく質、脂質、無機塩類であり、それをひっくるめて血漿と呼ばれる。

 

 そうとなれば擬似的な物質を見つければ人為的に作る事は不可能ではないかもしれない──が、それは先程述べた様に科学や医療が発達してたらという条件を前提にしてだが。

 

 

「似たような物なら幾らでも見つかるんじゃないか? あくまで代用だが」

「そうだな。今度調べてみようかな。

 それと最近、人食のレシピを蔵書の中から偶然見つけたんだが、それを機に料理でも始めてみようかなと思ってるのだが、どうするべきだと思う?」

 

「……そんなレシピ捨てろ」

 

 

 ……なんて傍からすれば物騒な会話しながら、俺達は香霖堂へと一路歩み続けた。

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