03-02/銀の男 Pt. 1
木製の手桶に数枚の大きさが異なる手拭、乳白色にやや黄色みを帯びた手の平位の大きさの石鹸を霊夢から手渡されて、俺は黒猫を先頭に鳥居まで歩いてきた。
霊夢曰く「鳥居の階段を降りてそのまま歩いてけば温泉の案内を書いた看板があるの。後はそこに書かれている事に従えば温泉に行けるわ」だそうで、そこからでないと博麗神社から温泉には行けないそうだ。
とは言ってもそれは空を飛べない者限定の手段でしかなく、それでもその案内の看板があるという事はこんな僻地の温泉にまでわざわざ足を運ぶ人がいるということを示唆している。
そして霊夢が言われたとおりに鳥居まで歩いてくと確かに麓まで続く石段があった。ただ問題なのが山頂にある神社や寺にあるような急勾配な階段の例に漏れないような、急な階段であることであり、憶測ではあるが……その段数が数百をゆうに軽く超えているということだ。
「……」
某所の遊歩道のように3333段あるわけでもないが、急勾配故にこの段数には目が眩むような錯覚を感じた。転倒防止の手摺りがあれば杞憂に終わったのだが、そんな大層な物は見当たらず、転倒の場合によっては死を伴う可能性がある。
「にゃ?」
俊敏な動作で、石段を数段降りた双尾の黒猫が俺に振り返り、「早く降りよう」と視線で訴えかける。そんな猫の視線を受けつつ俺の脳裏に浮かぶのは、「降りるのは仕方ないが、猫には些かこの石段の段差はきついのではないか」……という考え。
もし想像通り、途中で黒猫が音を上げて石段で休みだした場合は、担いで降りた方が手っ取り早い。
因みに黒猫がなぜ一緒なのかというと霊夢曰く「道案内」だそうで、俺が仮に間違った道を歩いていった時の為の保険でもあるそうだ。当初、猫が道を案内できるのか? と訝しんだが、よくよく考えてみたら黒猫は妖怪で、且つ大抵の知識があるから霊夢の言う通り案内は可能な筈。
「……やれやれ」
嘆息して階段を降りる俺。段差はそう高くなく、石段に足を着地させた時の衝撃はそんなに響かない。これ位なら後は転ばないように注意すればすんなり降りられる。
とはいっても高い場所からの俯瞰であることには違いないので、下の景色を見ると俺としては物凄く不安に掻き立てられ、壮観とも言える段数を見てるだけでも眩暈が……。
「まあ……階段を降りるだけだから、そこまで根詰めなくてもいいだろう……」
と諦観を交えて前向きに開き直ると、尻尾をゆらゆらと揺らしながら降っていく黒猫の後を追うことにした。
◆
延々と階段を降り続け、距離感に多少違和感がありながらも何事も無く地面まで降りられた。同時に地面に降りた黒猫も身体を舐めて毛繕いしてその場に座って小休止。
俺もそんな黒猫の仕草を横目に、深呼吸をして息を整える。
「うあ……」
困憊の唸り声を小さく漏らす。昨日は足場の悪い森の中を悠々と歩いていたというのに、それ以上に今日の階段を降りる方が疲れた。多分薪割りの疲労が今頃になって浮いてきたきたのだろう。
そしてよくよく思えば幻想郷に来る……いや自分の意思で来た訳ではないので拉致? ……される前までの普段の生活から顧みると、日頃常に怠惰に過ごしてたのも関連して、運動不足も誘因関係であるのは至極明白。
かといってそれの所為にする意外にも、薪割りはあながち身体の筋肉を行使するので、この疲労は運動不足云々より必然的な流れかもしれない。
「……」
とはいえ、この疲労は身体に堪える……。一刻も早く温泉に浸かって休みたい……。
「……よし、道案内頼む」
「にゃ」
呼吸を整えて背筋を伸ばすと、俺の言葉に黒猫は「当然だ」と言わんばかりに鳴いて悠然と前へと歩き始め、俺もその黒猫の後を数歩分開けて追う。
とはいえ黒猫も俺も急いでいる訳でもないので、自然と歩幅差で追い抜かないように気をつけながらだが。
「……ところで」
「にゃ?」
「お前の名前……何だ?」
歩きながら黒猫にそう問いかける。すると黒猫は立ち止まって俺の方に振り向くと、「ふにゃ?」と疑問の鳴き声を上げる。
どうやら霊夢はこの黒猫の名前を知っている素振りだったが、その名を知らない俺からすれば何のことやらと怪訝に思う。しかし名前を知らないのは事実なので、俺としては呼び方に困るので名前を知っておきたいのだが……
「答えられるわけがない……か」
「にゃあ?」
嘆息すると黒猫は俺の顔を不思議そうに首を傾げて尻尾をパタパタと横に振る。先程とは違い振りはあまり大きくないのだが、その動作はどうも人間臭過ぎて、「何を言ってんだこの人間は?」とでも言いたげな雰囲気。
「お前の正体ついて現状わかっているのは妖怪だけだが……、そもそも何の妖怪だ?」
猫の妖怪として代表される猫又は10年以上、あるいは40年以上、もしくは数百年以上生きた飼い猫が変化した妖怪とも言われている。
仮に俺の前にいる黒猫がその猫又だとすれば、長い間飼い猫であり続けたが為に人間臭い所作を覚えたりするのは至極当然かもしれないし、人語を解するのも頷ける。
だが、だ。今俺に道案内をしている黒猫が猫又である、と結論付けるのも早急すぎる。なので黒猫の名前と正確な正体については、後程戻って霊夢に訊くまで保留にしておくか。
「……行こうか」
「にゃっ」
話題を打ち切り再び温泉へと向かう俺と黒猫。草木が切り開かれた大きな道が1つしかないので、そこを辿っていけばいいみたいだ。
それに道中、1度たりとも妖怪や獣にも遭遇することはなかった。てっきり人が通る道だからそれらの類が待ち伏せでもしているじゃないかと多少警戒してはいたが、それらの類の視線はおろか、殺気も微塵たりとも感じなかったのですんなりと道を進むことが出来た。
それにしても……道には地面と石ころと萎えてたり枯れていたりする草が生えているだけなので、ここまで殺風景だと……何というか、田舎の人通りの少ない未開拓の道を進んでいるかのような錯覚。そう思えば幻想郷は過疎化が進んでいる田舎と割り切れてしまうかもしれない。
「……」
だとしたらかなり物騒な田舎だ──なんて退屈紛らわしに適当な思考を巡らせつつある程度の距離を歩いた時、それは見えた。
「にゃっ」
「何だ? ……てあれは?」
急に黒猫が立ち止まったので俺も足を止める。すると視線の先には木で作られた看板とおぼしき物体が、地面に突き刺さって掲げられていた。
景色は同じだが、こんな何にも無い殺伐とした道に看板がぽつんと掲げてあれば嫌でも目立つ。
看板に近付き文字が読み取れる位置まで歩み寄ると、書かれている文字を読誦。
「『温泉はこの先』……か」
ご丁寧にも矢印までも書いてあり、温泉があるらしき方向を指しており、確かに霊夢の言ったとおりの道筋は真っ直ぐで、体感時間からしてここまで歩くのに然程時間を要していない。
ここまで道が明朗だと俺の傍にいる案内役の黒猫は必要なかったのではないかと思ったのだが、黒猫は気晴らしに付き合っただけかもしれないし、俺が向かう方角に用事があったからついでにと霊夢の頼みを承ったのどれかかもしれない。
だが看板に書かれている内容と矢印によると、温泉に向かうには今俺と黒猫がいる道を外れ、草木が鬱蒼と茂った場所を歩いていかなくてはならないらしい。
「迷わなきゃいいんだが…………ん?」
草木の間を縫って移動している際に黒猫とはぐれなければいいが……、と配慮したときに看板が示してある方向の草木が変に曲がっていたり折れていたりした。
「……ふむ……」
その奇妙とまでに曲がったり折れていたりする草木の間周辺の地面に生えた草に近づいて屈んでみると、……やはりというか、不自然に草葉が折れていた。
最初は真っ直ぐ葉が伸びていたのだが、急に上から質量よりも重い圧力がかけられたことによりその重さに耐えられなかった葉が2つに綺麗に折れていた……と考察してもいい位不自然とも言えるし、意図的な曲げられた……とも考えられる折れ方である。他の草も似たような折れ方であり、ぐちゃぐちゃに折れ曲がったりしている草もあった。
木の枝もそれと同様、自然な折れ方にも見えるし不自然な折れ方をしたものなど……。……つまりこれらが意味するのは人や何らかが出入りしているという証拠であり、獣道が出来ているという証だ。
そうとなれば後はこの道に沿って温泉に行けばいいだけであり、先程のはぐれた場合の問題はもう解決。
「……黒猫?」
「にゃ?」
「お前はどうするんだ?」
となると後は黒猫はどうするかだ。どうにもこの黒猫の判断は行動で示すしかないから尚更困る。妖怪だから話すんじゃないかと思ったのだが、どうにも黒猫は人語は理解出来るが話す事は出来ない……といった風なのでどうにも判断が難しいのだが──、
「にゃっ!」
「あ……」
黒猫は俺が思ったとおり行動でその判断を示し、来た道を戻っていった。それも駆け足で。
「……礼言う前に行くなよ」
しかし猫というのは気紛れな性格もあるから仕方ないかもしれない。
立ち上がり、作られた獣道に眼を向けてみると、その先には小さな小屋みたいなのが見え、その背後には人の背丈よりも高い垣根。更にその小屋と垣根の上からは煙が見えた。
あれが煙だとしたら燃している独特の焦げ臭いがここまで届く筈。しかし何かを燃やしているといった類の匂いは鼻が捉えてないので──もしかしたらあれは湯気か?
「……あれが?」
ここからその小屋までは然程遠くない。しかし見落としてしまう程あまり目立たないのも事実。向かってみると道は俺が思ったとおり獣道になっており、障害も何のなかったのでその小屋には直ぐに到着出来た。
「ここでいいの……か?」
一見風雨に長いこと曝されて風化している廃屋にしか見えないが、小屋の壁には確かに『温泉』と書かれた看板が掛けられていた。
「……」
戸があったのでそれを引いて開けてみると、薄暗い小屋の内部は至って簡素な木製の棚とそこに竹ひごで編まれた籠が置かれた脱衣所となっており、照明の類はおろか椅子さえも無かった。また壁には新聞や広告も貼られてはいるが、どれもがくすんでたり破れかかっていたりと、更に小屋の廃れた雰囲気を醸し出す。
それに温泉に入る際に料金を払うかと思ったんだが……それを納める料金箱やその役割を担う番頭も、管理人も見当たらないという事は入湯料は無料と解釈してもいいという意。
それがそうならば、財布の紐が緩まないで済むのはそれで嬉しいのだが……、
「……責任は一切問いかねません、と言った具合だな」
温泉を管理する人が配置されていないという事は、盗難窃盗等の防犯対策までされていないという事でもある。自分の荷物はあくまで自主管理、自己責任という旨か。それにこんな辺鄙な小屋まで来て人の荷物を荒らす奴がいるかどうかと考えてみると、荷物を荒らすにはここは穴場かもしれない。
しかしここまで来て人の荷物を漁る物好きがいるのか? と言った疑問もある。人間だとしたら周囲の妖怪や獣に警戒してまず近寄ることは無い筈で、妖怪なら食べ物を探すだろうから、金品の盗難は避けられるかもしれないが金品の代わりに携行食糧が盗まれそうだ。
そして人間を食べる妖怪がいたとしたら……やはりここは人間ではなく、妖怪にうってつけの穴場……かもしれん。
「……はあ」
温泉で浸かってて背後からガブリ、なんてことにはなるまいな……、と俺は不安に掻き立てながら肩を竦め、戸を閉めて靴の泥を落とす。適当な棚の前に立ってシャツのボタンを全て外し、籠の中に畳まず放り込む。上着はアリスが用意してくれたシャツが1枚だけなので、肌着も無いので上半身は無論裸になる。
「────」
そして右手で拳を作り、すかさず開く。何の変哲も無い、至極見慣れた自分の身体の一部の何気ない動作。
……なのだが、静寂を保っていた筈が徐々に沈黙を破り、振動を始めた。
「ちっ……」
顔を顰めて舌打ち。震えは微弱だから然程酷くはないしそれ以外に身体に違和感はない。手の震えは俺の中に蠢く欲求が表面に浮き彫りになっている証。正確に言うと自身でも抑圧が効かなくなった……といった表現が正しいかもしれない。
「酒が飲みたい……」
──否、正確に言うなれば「酒に呑まれたい」といった心境だ。全てを投げ出して、浴びる様にして呑んで落ちぶれて、記憶も失うまで呑んで呑んで……自分が更生不可能にまで陥らせて。
だが残念で遺憾で最悪極まりない事に、俺をここに連れてきた奴とその黒幕はそんな事を許してくれない考えらしく、それが自分の世界の出来事だったらそんなものほっぽり出して飲んだくれてるが、ここは俺が住んでいる場所とは全然違う世界。
よって現時点での俺は嫌が何でも、この世界の環境に即急に順応せざるを得ない状態なのだ……。
「……入ろ」
ひとまず身体が冷めない内に湯に浸かることにした。
靴を脱いで棚に置き、ズボンと下着を脱いで籠に入れて厚めの大きな手拭を腰に巻いて、霊夢に渡された温泉道具一式を持って温泉に繋がる戸を開ける。戸を開けた先はやはりというか温泉が広がっており、地面は石畳が敷き詰められて、外は人の背丈よりも高い竹垣で遮られ、屋根は張られていない。だがそれでも凝った造りをしているというのは誰の目から見てもわかるように、俺もそう感じ取った。
広さはそこまで大規模ではなく、数人入っただけでもう一杯になる位の狭さだ。しかしこの狭さが入湯する人の数を制限出来るので、ゆっくりするには丁度いいかもしれない。
木製の風呂椅子が竹垣に寄せて置かれてあったので適当なのを掴み、自分の前に置くとその椅子に腰掛ける。蛇口なんてものはやはり無く、持ってきた桶で温泉の湯を掬って足と身体をよく洗い流した後、ようやく温泉に浸かる。
「ふう……」
多少熱くは感じたが入れない程でもないし、疲れた身体には丁度良い。それにしても温泉が湧いているとは霊夢から聞いた時は俄かに信じ難かったが、本当にあるもんだなと少なからず自分でも驚いている。
恐らく俺が浸かっている温泉は、周囲に火山といった山が見当たらないので自然に湧出した温泉の類だろう。
「……取り敢えず幻想郷の道楽を楽しむか……」
と考えを振り払って1人ごちると、岩に寄り掛かり空を見上げながら温泉を楽しむ事にした。
「けど浸かりながら飲みたいものだ……」
なんて、欲求を馳せながらだが。
◆
「──にゃっ」
「あらお帰り……。てっきりアンタも温泉に入るかと思ってた」
「…………よっと──て、いやいや、あたいはあくまで休憩でこっちに来た訳だし、それに女ですし?」
「猫の姿なら大丈夫じゃない」
「女は女! 姿は違えど性別は一緒だよっ!」
「あ、そっか」
「そっか……て、相変わらずこの巫女は……」
「まあまあ落ち着きなさい。お茶でも飲んで」
「ったく。相変わらず掴み所がよくわからない巫女さんだこと……」
「そりゃどうも。……とそうそう、気になることがあるんだけど」
「にゃっ? 何?」
「どうして怜治さんを案内してあげたの?」
「……気になる?」
「てっきり嫌がるかと思ってたから」
「いや~、あのお兄さんから良い匂いがしてね。それで気になったんでちょっくら引き受けたのさ」
「良い匂い? ……汗を掻いた男が好みなの?」
「や、違うから。それとは違う“匂い”だよ」
「だからどんな匂いよ?」
「……巫女さん、あたいの正体知ってるでしょ?」
「…………まあ、ね」
「そゆこと。あのお兄さんはあたいの事をどうやら猫又と思ってたみたいだけど、半分正解で半分外れ。だけど正体を引き当てる勘は中々……」
「けど“本当”の正体には気付いてないんでしょ?」
「だね。けどアレは何なんだろう?」
「アレ……って?」
「う~ん、何て言い表せばいいのかな? 善人なのか、悪人なのかさっぱり。なのに……」
「なのに……?」
「……いや何でもないや。じゃあたいはそろそろ休憩終わるんで帰るね~」
「て、ちょっと──!? ……て行っちゃった……。ったく、何なのよもう……」
◆
身体を洗い終え、引き続き髪も洗う。使ってみてわかったのだが、霊夢が渡してくれた石鹸はただの石鹸ではなく、なんと米ぬかで出来た石鹸だった。鼻を近づけるまでただの石鹸だと思い込んでいたが、使っていく内にほんのりと鼻孔をくすぐる香りが気になって嗅いでみたら、その正体は米ぬか石鹸だったというわけだ。
米ぬかを石鹸にするという発想は思いつきもしなかった。が、そもそも石鹸の材料が手に入るのかという疑問が浮かぶ。
石鹸の材料は水酸化ナトリウム……俗に苛性ソーダと呼ばれる無機化合物さえあれば鹸化して作れるのだが、苛性ソーダは劇物に指定されている。なので購入するときには印鑑、場合によっては身分証明書等の提示が必要だ。
だが鍋に入れた水を沸騰させ,その中に炭酸水素ナトリウム……一般的には重曹の名で知られている……を入れることによって熱分解を起こして炭酸ナトリウムの水溶液を精製することも可能であり、こちらの方が苛性ソーダより安全であるとの話なので簡単に入手できる筈。
それに天然の温泉には重曹も含まれており、万人向けの泉質とのこと。ただアルカリ性によっては皮膚の弱い部位に軽微な炎症が起こるとあるので、温泉から出る際には真水で身体を洗い流しておいた方がいいかもしれないという話を以前耳にした事がある。
それと温泉に浸かっててわかったのだが、温泉の他にも冷水が俺が戸を開けて入ってきた脇の方に湧いており、出る際にはそれを自分の桶に汲んで身体を洗えばいいみたいだ。
「ふう……」
長い髪を洗い終え、適当に後ろに纏めて額が見える髪形にした。こうでもしないと水を吸って濡れた髪が顔にはりついて、前が見えなくなり邪魔になる。
一昨日風呂に入った際も濡れた髪が邪魔で、どうしたものやらと自分でも考えあぐねていた。しかし切りたくもないしかと言って放置したくもないから、後程昨日香霖堂で買ったリボンで髪を纏めようかと思案していると──、
「──おや? 先客がいたようですね」
あっけらかんとした声が背後から聞こえてきた。
「……?」
俺は洗顔をするため、石鹸を手で泡立てる動作を中断して背後を振り返る。
すると振り返ったそこには身体の半身を温泉に浸からせ、端正な顔立ちをした、映えるているようにも見え、脱色しているようにも見え、白髪のようにも見える銀髪の髪を生やし、開いているのか閉じているのかさっぱり見当つかない細目の1人の男の姿。
男の身体は鍛えられておらず筋肉の締まりが殆ど見受けられない。──が、かと言って贅肉らしき無駄な脂肪も見当たらず、比喩するならば細くも太くも無い至極中肉中背の体躯な、第一印象としてはミステリアスな風貌で、目立たない感じの男。
「……ん?」
銀髪の男の大体の認識をした時、この男はいつ温泉に入った? という疑問が。気配はおろか、物音も何もしなかった。
「ふむ、見たことない方ですね?」
まあ幻想郷も広いですから見知らぬ方がいるのも当然でしょうね、と銀髪の男は顎に手を添えて付け足す。
「……」
対して俺は、気配を感じ取れなかった言葉遣いも口調も丁寧な男に多少の警戒心を抱き、その一挙一動を見逃すまいと銀髪の男を軽く睨む。
「そんな怖い顔しなくてもいいですよ。私はアナタを食べるつもりなんてございません。何せ人間ですから」
「……本当か?」
「ええ、私は単に寛ぎに来ただけですから」
言い終えると男は温泉に肩まで浸かり、「はあ~極楽極楽……」と声を漏らす。様子からして男の言っていることは確かなようなので、俺は泡立てていた作業を再開し、程よく泡立った所で顔に泡をつける。とは言っても丹念に洗うことはせず、軽く脂を落とす程度に済ませて桶に残った残り湯で泡を洗い落とすだけ。
それに温泉に浸かっている男と話していると身体が外気で冷えてしまい、早く温まりたかったという気持ちが急かしていたのもあるが、それとは別に背後にいるであろう男にいつまでも自分の背中を向けているのが多少不安で仕方がない……という胸中も含まれている。
「……」
俺は男の言葉を鵜呑みにして信じているわけではない。だが俺の事は無視しても良かった筈なのに、自身から会話のきっかけを生んだ。そうとなれば俺の事情もかいつまんで話せばある程度の情報を男から訊き出せるかもしれない。
残りの泡を全て洗い落として、温泉に浸って銀髪の男と対峙する。……そういえば香霖堂の店主の森近も髪が銀髪だったな。幻想郷の男の頭髪は銀髪の比率が高いのだろうか?
「ここからくるまで結構長かったでしょう?」
「いや、俺は博麗神社からここに来た」
「霊夢さんの所からですか? 霊夢さんの浮ついた噂は聞いてはいないのですが」
会話の切り出しは銀髪の男から。男の訊ねに博麗神社から来たと俺が答えると、男は俺が霊夢と何らかの関係があると見たようだ。主に男女間の。
「そういうのではない」
勿論俺は霊夢とは出会って間もないので即座に否定する。
「ほう? では一体……」
「外から来た……と言ったらわかるか?」
そう切り返すと、銀髪の男は「ほうほう、それは驚きましたね」と驚いた口調で俺をまじまじと見つめる。口で驚いていると言っているが、驚いた、といった素振りが全く見受けられない。
「いやはや、という事はアナタは外来人さんですね」
「そういうことだ」
「ではこちらに滞在、もしくは永住のご予定でも?」
「不本意ながら滞在だ……」
男の言葉に昨日の八雲紫との会話が脳裏に駆け巡る。提示された条件を解決しない限り帰させない……なんて、こちらの意思を無視して話を進めるのは一体どういう魂胆が含まれているのだろうか?
あまつさえ“最後の魔女”の合意を得て、だ。そうなると今回俺が幻想郷に絡まれたのは外の事が関係しているのか? それとも単に紫が“最後の魔女”に手伝ってくれと頼まれたから、手が空いている俺に仕事を回しただけなのやらと、その厄介な事を不本意ながら受けざるを得ない状況に立たされている俺にとって紫や“最後の魔女”の真意は現状定かではない。
「滞在……では人間の里に行かれるのですか? あそこには宿があるにはありますが、数は限られてますよ?」
男の言う事が事実なら、宿を借りて紫の言うモグラを探し回ることになれば金が当然減ることになり、長期の滞在となれば更にかさむ。いざという時に金が必要になった場合、それだけは避けたい。
「それなら誰かの家に理由を話して仮住まいを頼み込むか、住み込みで働ける所を見つける」
「それが無難でしょうね。──と、そうそう、ご紹介が遅れましたね。私はレノン、唯のレノンです。どうか御見知りおきを」
言って銀髪の男は手を胸に添えて名乗る。かく言う俺はその名前に違和感を覚えて首を傾げ、
「……只野レノン? ハーフか?」
「いえ、レノンです。それにハーフでもないです」
「……」
変化が無い表情のままツッコまれた。声の起伏も然り。
「……すまない。俺は荻成怜治、レイとでも呼んでくれ」
「レイさんですか……なんとも甘美的な名ですね」
名を呼ばれてフフフ、と微笑を浮かべる男……レノンの言葉にどこが甘美的なんだよ、と言いたかった。──が、こちらも人の名前を間違えた手前、荒い言葉を吐く事は出来ない。
「とにもかくにもこれで仲間が増えました」
「仲間……?」
「実を言うと……私も外来人なんですよ。とは言っても記憶がありませんが」
「……」
呆気もなく自身を打ち明かしたレノンに一瞬、俺は何を言っているんだか理解出来なかった。
外来人? レノンが……? 元は外の人間……? それに……
「……記憶が……?」
「ええ、こちら……幻想郷に来た時は名前──正確には名字──しか覚えてなかったんです。その後目を覚ました当初の私は人間の里でお世話になりましたが、現在はこれ以上迷惑をかけられまいと別の場所で住み込みで働いています」
「それはいつ頃だ?」
「幻想郷に来て、住み込みで働き始めてから……ちょうど2年ですかね。いやはや懐かしい……」
過去のその時の光景を脳裏に描いているのだろう、レノンは虚空を仰ぎ見る。空は温泉から昇る湯気で曇っているようにも映った。
そんな曇った中でレノンが回顧しているのはレノンが幻想郷に来た時からの日々か、記憶を失う前のあやふやな自分の姿か──。
「……」
過去が凄惨極まりない記憶、極悪的で醜悪な性格の自分しかないのなら、いっそのこと忘れていた方が賢明かもしれない。だが逆の場合……家族や兄弟、待ち人がいたとしたらその記憶はどんな形であれども取り戻したいものかもしれない。
そしてその行為は自分の正体を知りたいという、記憶を失った本人の意志にしか握ることが出来ない絶対無比の権利であり、他人に記憶喪失者の過去を蘇生させる事は出来ない。
だが導くことは出来る。それはレノンのも出来た筈だ。しかしレノンは過去の『レノン』を破棄し、新たな『レノン』として第二の人生を生きている。
「……記憶を取り戻したいと思った事は?」
そんな風に、俺は知らず知らずレノンに訊ねていた。
「特段困ってもいませんし、記憶を取り戻すよりも現状に満足できておりますし、思い出せなくても生活は苦じゃないので」
「……そうか」
前向き。何と言う前向きな意思であり、揺るぎない意志。それは過去の自分におびえることはなく勇気ある行為とも呼べるだろう。俺の場合だったらずっと忘れていたい。しかし俺の過去は酒を煽ってばかりで最早、言い逃れと現実を避けての逃避。直視しないにも程がある。
「…………」
ふと……いっその事、俺も頭を強く打ち付けて記憶を失ってやろうかという考えがよぎる。ここは幻想郷であり、外の世界ではないからリセットするには都合がいいかもしれない。
しかしそんな事を俺を連れて来た紫が許す筈が無い。そうなると俺は否が応でも『荻成怜治』という人物で幻想郷であり続けるしかなく、破棄するにせよ承諾が必要と来た。
「話題は変わりますが、私はどうやら結界の綻びから幻想郷に迷い込んだみたいですけど、レイさんはどのようにして幻想郷に?」
「……拉致だ」
レノンの釈然としない態度と、俺自身の葛藤が胸中を駆け巡る中、俺は岩に寄り掛かりそう答える。それ以外に強制連行という言葉があれが、それ以外のもっと確かな手応えの答えがあれば知りたいものである。
「拉致?」
「そ、目がウヨウヨと蠢く世界を操る女にな」
「目が蠢く……ははあ、八雲紫様のことですね。比喩が中々的を射てますね」
すんなり理解されるということは、紫は俺がしたのと似たようなことをしているという意味か。
「流石『神隠しの主犯』と呼ばれる方ですね。最近迷い込まれる方はいないと聞き及んでおりましたが……」
「……そんな風に呼ばれているのか?」
「はい、神隠しと呼ばれる現象は紫様が持つ能力で境界に揺らぎを起こすために起こるといわれているそうでして、それに巻き込まれて幻想郷に迷い込まれる方もちらほらと……」
「……」
やっぱりロクでもない女だった。能力行使して何と言う迷惑行為。
「それにしても何でレノンさんは『様』付けで紫をそう呼ぶ?」
「当初迷い込まれた際にお世話になったことがあるんですよ。とは言ってもそこまで親しくはございませんが。あと『様』を付けるのは私の性分でして……。
それと私のことは呼び捨てで構いませんし、そんなかしこまったような口調でなくてもよろしいですよ。もっと気楽に話してください」
「そうか。じゃあそうさせてもらうぞ……レノン」
「そうそう、そんな感じで砕けてください」
因みに私はこれが地なのであしからず、とレノンは言い俺は頷く。レノンの喋り方に違和感が無いのは整った顔立ちのお陰もあり、訛りが無く流暢な言葉遣いの所為もあるだろう。それにここまで紳士的な振る舞い且つ、敬語が似合う男もそうそういない。
「ではこちらからの質問。レイさんは紫さんとは面識が?」
「外の世界でな……」
詳細は濁して、レノンの問いを短い言葉で返す。もしここで事実を話したら紫が昨日博麗神社で現れたのと同じ方法で空間から不意に出てくる気がしてならない。
「左様でございますか。あの方は外の世界に行来しているというから、外界の存在とも面識があるのは当然でしょうね」
「そうみたいだな……。俺の知人にも会った事あるようなそぶりをしているしな」
レノンはそう言うが、俺と紫が初めて言葉を交わしたのは幻想郷に来てから。外で最初に会った時は姿を認識しただけ。互いに干渉することはなかった。
だがそんな彼女とあの師父、そしてあの“最後の魔女”の接点が皆目見当つかない。しかしわかっているのは八雲紫の言葉は“最後の魔女”と同等であり、“最後の魔女”の言葉と受け止めるしかなく、俺はそれに従うしかない。
平たく言えば雇用者と雇い主の相関図に酷似している。雇用者は無論俺で、雇い主は“最後の魔女”。八雲紫はこの場合“最後の魔女”によって委託された現地の管理職兼監視人に近い。
「ふむふむ。やはり交友が深いというのは何よりですね。──とそうそう、幻想郷でちょっとした現象が起きているのはまだ霊夢さんから聞き存じておりませんか?」
「現象? 聞いてないな……」
そういえば紫はモグラ云々と言っていたが、これはその件と関連しているのか?
「最近妖怪が騒がしいんです。それも動物も例外ではないそうで」
「妖怪が……?」
「ええ、専ら妖怪の方は低級の本能に従って生きる妖怪ばかりですが」
「ふむ……」
それらを脅かす存在が来襲でもしたのか。それが正しいとすれば、来襲したのが紫の言うモグラに違いない。だが確証を得るにしてもまだ情報不足の段階、やはり自分の足で事実を探索するしかなさそうだ。
「それはいつ頃から?」
「そうですねぇ……買い物をしてた時に初めて耳にしましたから、おおよそ1週間位前ですね。なのでレイさんも注意して心に留めておいてくださいね。妖怪も獣も人間もその事で警戒してやや好戦的になっておりますから」
「わかった」
取り敢えず話は一段落。そろそろ温泉から上がって神社に戻るかと考えていると、ふとレノンの顔を見て気になっていた疑問があったので口にした。
「それと今更なんだが」
「はい、何でしょう?」
「俺が女だったらどうしたんだ?」
勘違いもあった筈。なのにレノンは堂々と温泉に浸かって俺に声を掛けた。ここは男女のどちらでもないし、混浴かもしれない。男女用云々の類や、この時間は男専用と言った看板が無いので仮に女性がいたら気まずくなるのは言わずもがな自明の理。
……それにしても本当に誰もいなくてよかった。男ならともかく、女がいたら間違いなく誤解される。
ただでさえ慣れない環境下にいるのに変なレッテルを貼られてしまうと、今後の行動が難しくなるし、その誤解を解くのに無駄な時間を浪費してしまうからできるだけ避けたいものである。
「そうですねぇ、後ろ姿を見た時は女性かと思いましたよ。髪が長かったもんですから」
「ほう」
「けどすぐさま違う事に気付いて、私はレイさんを男と認定したんですよ」
「何故?」
「体格ですよ。女性にはつけられないような筋肉の締まりと身体つきをしておりましたし、それに……」
「それに……?」
ああ、けど言っていいものやら……とレノンは唸る。それに俺は怪訝に思い首を傾げる。
「構わない。言ってくれ」
俺はレノンに促す。そしてようやく俺の言葉を聴いて決意したのか、レノンはおずおずと口を開いた。
「────背中が傷だらけだったんですよ。それも常人には有り得ない様な傷だらけ。そんな女性がいるとは私は到底思えなかったので」
オリジナルキャラが登場しました。名前はレノンです。
由来はThe Beatlsのメンバーであり、シンガーソングライターとしても世界的に有名なJohn Lennonから。