03-01/朝餉と双尾の黒猫
…………目が覚めた。しかも最悪の目覚め。よりにもよってあの時の夢を見たときた……。
「…………あー」
頭がふらふらして視界が定まらず、口もあまり動かず、思考も覚束ない。寝起きだから仕方無いことかもしれないが、久々に嫌な目覚めだ。とは言ってもロクな目覚めなんて最近ご無沙汰だが。
何でそんな昔の出来事の夢を見たのだろうか? と思ったのだが、よくよく反芻してみると、昨日魔理沙の箒に乗って空を飛んだのが原因かもしれない。それで誘発されて、俺が空に対してトラウマを患った出来事を夢で見たのだろう。
そう言えば空を飛んだのは、あの出来事以来ではないだろうか? トラウマさえ無ければあれ程移動が楽で、尚且つあんな思いもしなくていいのだろうが……過去にああいう目に遭ってしまった手前、やはりというか抵抗を覚えてしまっている。
「……眩しい」
上半身を起こして周りを見渡す。寝惚けながらも見渡してみると、薄暗い部屋を明るい太陽の光が照らしていた。座敷には光を遮るカーテンなんてものは和室には勿論無く、障子と襖しかないため俺に直接陽が当たっていた。
となると自然の目覚めには違いないだろうが、俺としては夢見が悪くて起床したような形。だが昨日の目覚めよりか幾許かマシである。こう言っては何だが、酒を飲んだことによる好影響もあるに違いない。
寝ている間に硬くなった筋肉を前屈、腰を捻ったり腕を伸ばして軽くほぐし、立ち上がって障子を開けて廊下に出る──と障子を開いたのと同時に、眩い光が俺の目をつんざく。
あまりにも強い日差しの眩さに目を細めて顔を手で覆い、ゆっくりと目を開くと廊下から見た庭の景色は青い色に彩られ、空の下で太陽の光が燦々と地上に降りそそがせていた。
天気は快晴。太陽の位置からして時間は7、8時といった具合。庭には数羽の雀が囀んでは地面や草を啄んで餌を探し、雲を悠然と運ぶ爽やかな風が俺の寝惚けた脳内を覚醒させる。
「あ、起きてた」
至って平凡な光景を目にしつつ、風を浴びながら小さく頭を振って冴えてきたのと同時に呆気に取られたかのような声が聞こえた。声がした方に顔を向けると、博麗がこちらに向かって丁度歩いてきたところだった。
寝る間際にはあの巫女装束から寝巻きの浴衣に着替えていたが、今は巫女装束を着ている。倦怠的な言動からして起きるのは遅い方だと思っていたのだが、博麗は俺の予想とは裏腹に意外と早起きだった。恐らくそれは多分巫女である所以の習慣かもしれん。
「おはよう」
「おはよう怜治さん。朝餉出来てるけど食べる?」
挨拶を交わすと博麗が俺の名前を呼び捨てにし、朝餉……所謂朝食を食べないかと問われた。対して俺は名前を呼び捨てされたことに対して不快には思わず、一言「無論」とだけ答える。
「じゃあ昨日の座敷に来て」
「わかった。布団を片付けてから行く」
言い、俺は一旦座敷に戻って布団をたたもうとしたが、
「待って。片付けるなら少し陽に当ててからの方がいいわよ」
「え? ああ……」
と博麗に促されて……一瞬躊躇ったが、障子を全開で開けて布団を座敷の入り口まで引きずり、掛け布団と敷布団を並べて日差しに当てる。
布団は主に綿で作られているから、睡眠時に排出される寝汗で水分……つまり湿気を吸っている。となるとそのまま放置したまま使い続けるとカビが生え、同時にダニが発生する原因も伴う。故に水分を無くし、且つ衛生を保つために天日干しして乾燥させる必要がある。
だが物干し竿は博麗神社の庭に見当たらず干そうにも干せない。なのでその場に並べることにしたのだが……、
「これでいいか?」
「ええ。じゃあ行きましょ」
これでよかったのだろう、博麗は頷くと踵を返して廊下を歩き出す。単に並べて日光を浴びさせるだけで充分みたいだ。
となれば完璧に乾燥と殺菌もする必要もあるので、このまま大体30分位経過させた後裏返さねばならない。だが時間を計るにしても生憎時計なんて持ち歩いていないので、自分の体内時計か、或いは太陽の位置でしか時間を計る方法は無い。
そして俺は博麗の後を悠然とした足取りで追う。先を行く博麗はゆったりと歩いているので直ぐに追いつけた。
「──そういえば」
前を向いたまま唐突に、博麗が声を上げる。廊下には俺と博麗の足音と床が軋む音しか聞こえないので、博麗の声は明瞭に響いた。
とは言っても廊下には外と住居を隔てる窓や雨戸がないので外にも声が無論届いて拡散するので、それ程木霊していないが。
「昨日誰かいた?」
「昨日? ああ、そういえば夜に紫と一緒に酒を嗜んだ」
「そう。怜治さん以外の声が聞こえたから誰かと思ったら、そういうことね」
ふーん、と博麗はそれで納得したのか話題はそれで打ち切られ、目的の座敷の前に到着する。
場所は昨日案内された座敷だ。昨日の博麗の説明によるとここは博麗の私室も兼ねているそうで、そうなると座敷の隅々まで掃除が行き届いているのも至極納得できるし、あの掛け軸も至極納得。
しかし博麗はいつも朝食を自分の部屋に運んで食べるのだろうか? 神社……和式の建築物であるから台所に隣接する土間で食べればいいのだが、もしかして今回は俺がいるからわざわざ知っている部屋まで朝食を運んで気を利かせてくれたのか?
仕切りの障子は開かれたままなのでそのまま座敷の中に入る。座敷の中央には昨日見た食卓と、その上に並べられた調理されて映えた食材達。
献立は至って明白で単純。木目の長方形の盆に並べられているのは藍色の茶碗によそわれた白米に、漆黒の漆と紅色の装飾が地味ながらも力強い印象を抱くお椀に大根を具にして満たされた味噌汁、小皿には山菜とおぼしき和え物。そして長方形の質素な色合いの土色の皿には川魚らしき魚の開き。
正に典型的な日本の朝食。見ているだけでも食欲がそそる。
だが俺としては朝食に和風か洋風のどちらかを食べるとしたら、躊躇う事無く洋風が主体の朝食を選択する。和風だと具も多いし、寝起きの状態で食べると腹がもたれるような気がしてならない。
しかしだ、手間を掛けて俺の分の食事を用意してくれた博麗の恩恵を無碍にする訳にもいかない。それと夕食の時に博麗が用意してくれた食事は筆舌に尽くし難し。故に朝食もそれと同等の期待を内心抱いている。
「熱いうちに食べて」
「ああ」
畳の上に敷かれた座布団の上に博麗と向かい合う形で座り、背筋を伸ばすと、
「いただきます」
「いただきます」
自然の恩恵と、調理してくれた博麗に感謝の気持ちを篭めた、謙譲語による定番の挨拶をするとまず左手で白米がよそわれた茶碗を手に取り、右手で陶製の箸置きにのせられた漆黒の漆塗りの箸を取る。その箸は昨日の夕食にも使われたのと同様の物なので見覚えがあった。
漆塗りの箸だと掴んだ食材が滑りやすいと思われがちかもしれない。しかしそれは箸が悪いのではなく、自身の箸の持ち方が悪いのだ。
だからちゃんとした正しい箸の持ち方さえすれば、漆塗りの箸でもちゃんと食材を掴めるし、菜箸でも料理を食べられる。多分。
それに箸は素材や作り方に、質、仕上げによっては個人の嗜好が分かれ、自分に合った箸を使うのが無難であり、要は愛用の箸で料理を食べたほうが、味も格段と変わると言ったほうがいいかもしれない、というのが俺の私見だ。
頃良い量の白米を箸で摘んで口の中に運ぶ。
「……」
昨日夕食時に食べたので概ね把握してはいたが、やはりというか博麗のこの米はかまどで炊いているみたいだ。理由として挙げるとしたら米のふっくらとした仕上がり。それに精米と水分も程よい加減で水っぽくなし、米の質も中々良い。これ程米本来独特の風味を引き出した味と食感はそんじょそこらの炊飯器では到底出せない。
更にその理由を強調できる結論として挙げるとするならば、幻想郷では科学技術が乏しく、電気も通っていない、という憶測も含まれている。
だがその電気が通っていないというのは、あくまでまだ仮説段階であり、他に建築物や、衆人集う場所に行けば更に科学技術の水準を計ることが出来るのだが、それは機会があればにしよう。
しかし今朝食を食べている座敷や、俺が寝た部屋では照明などの電気系統の類は見つからなかったので、それでもある程度の確証は得られた。
話が逸れたので、米に戻そう。
昨今では同じように炊き上げられる性能の良い電気炊飯器に変わり、かまどで米なんて炊くことは最早夢物語のように語られる位しか利用率が希少だが、美食家が通う高級料亭ではまだ現役との話だ。
とは言っても師父から噂程度に聞いただけという話であるから信憑性はほぼ皆無に近いが、それでもかまどで炊いた米は美味いに限る。
日本ではなく海外でかまどで炊かれた米を何度か食べたことがあるが、博麗の炊いてくれたこの白米は俺が過去に食べた米よりも数倍も上回る出来栄え。
「どう?」
「……美味い」
食べながら話すのは行儀が悪いので、全て咀嚼して胃の中に流し込んでから博麗の訊ねに答えてやる。それに博麗は「新米みたいだからそりゃあね」と答えて、俺と同じ献立の山菜を箸で掴んで口の中に運ぶ。
俺も気になったので山菜を摘んで口の中に運んで食す。
頬張りながら口にしている山菜には苦味やアクも若干感じたがアクはそれ程酷くはなく、うっすらとだが良い具合に塩味が効いていた。恐らくだが塩でもんだ後、水で長時間浸してアクを抜いて味付けしたのだろう。
これもまた絶妙な塩加減であり、寝起きで低血圧な頭をすっきりさせるには丁度良い塩梅。
「む……?」
さてここで昨日の夕食同様、気になっていた疑問が浮かんできた。それは至極単純な、そもそも幻想郷には塩があるのか? という謎だ。
話の限りでは幻想郷には海の概念や理念が無いらしく、そんな環境下でどうやって塩を入手できるのだろうか? と不思議に思い首を傾げた。
塩の原材料は大きく4つに分類される。結晶化した塩化ナトリウムから精製する岩塩、塩田塩を作る海塩、海水をいったん濃縮した後に煮詰めて作る塩、死海に代表される塩類の濃度が通常の淡水湖よりも高くなった湖……塩湖から作る湖塩によるこの4つ。
まず俺が幻想郷で考えられる今摂取している塩分は岩塩からだと思う。だが幻想郷とは結界で隔離された世界、そうとなると限定されている手前、採掘出来る岩塩の量にも限度がある。
となると幻想郷で塩が不足したらどうするのだろう? ……しかしながら今そんな事を考えてても今は朝食中の手前、疑問は後回しでも構わないか。
「……ふむ」
漆塗りの椀の味噌汁を口に含む。味は大根が具であるからあっさりとしているし、かといって塩辛さも多少目立つような気もするので、使っていると思われる味噌は多分赤味噌。
「……」
……さてさて、塩の疑問について後にしたばかりなのだが、またしても俺の疑問が浮上した。
大根はともかく、味噌の原料は大豆、米、塩、麹から作られる。仮に塩が幻想郷で採れた岩塩で精製されて使われているとしたら、麹はどうやって作られているのだろうか?
唯一考えられる幻想郷での麹の製法としては米麹と豆麹と麦麹といった具合。他には伝統的とも言われる、カビを繁殖させて作る麹は2種類あるのだが、仮にその2種類のうちどちらかを使うとしたら加熱した穀物にカビを繁殖させて作る撒麹かもしれない。
理由を挙げるとすればその撒麹の黄コウジ菌が日本酒、味噌、醤油を作るのに主に使われているからであり、その確証性を増させる証拠として昨夜に紫が俺の所に持ってきた日本酒がそうである。
かと言って本当にその麹が使われているのかどうかは定かではないし、考えていても料理が冷めるだけなので箸を進める。
とここでようやく川魚の開きに手を出そうとした時、博麗が
「開き干しした干物を用意したんだけど、味大丈夫かしら……?」
と心配そうに言って来た。成る程、釣った場所でそのまま食べるんだったら焼くだけで充分かもしれないが、ここは朝の食卓なのだ。朝から内臓を除ける作業は手間取るし面倒だ。だったら最初から取り除いてあるのを用意すればその手間は省くことが出来るし、すんなりと魚の味を楽しめる。
それに干物というのは主に保存食。日が経つにつれて味も落ちてしまうし。
身を箸先でほぐすと湯気が上った。本当に焼いて間もないのだろう、と思いつつ箸で身を摘んで口に含む。
開きというからには塩水……正確には食塩水に浸けておいたのだろう、味もそこはかとなく香ばしくも感じ、濃厚な味わいが魚の味を更に際立たせる。
「問題ないぞ」
「そう」
と俺の様子を見て博麗も魚の身を口にする。すると「うん、風通しの良い場所に保管してて正解だったみたいね」と頷く。そして次々と箸で料理を摘んで胃の中に収めていく。
そんな博麗を見ながら俺も食事を再開……て、待て。俺ってもしかして毒味されてた? ということは俺が食べた干物はいつ頃作られた物なんだ……?
「……」
内心不安に掻き立てられながらも今や身が少なくなってしまった件の魚を見るが、経過を計ることは最早不可能だった。
だとしたら一番わかり易いのは食後の様子を見ることなのだが……
「……焼いてあるから大丈夫だよ……な?」
と結論付けるとさっさと朝食を済ませることにした。
◆
わだかまりを抱きつつ朝食を食べ終え、食後の茶を啜りながら胃を休める俺と博麗。天気も晴れてるし、腹も良い具合に膨れているので寝そべってしまうとまた寝てしまいそうだ。
しかし考えることや紫が言っていたモグラの件もある。それをまず調べないといけないのだが、如何せん情報不足だ。それに集めるにしても人脈も必要不可欠。紫のあの態度では俺の知りたい事はそうすんなりと教えてくれそうにも無いからな。
となれば……と俺は、眠たそうに茶を啜る博麗に声を掛ける。
「博麗、何か手伝えることはあるか?」
「ん~? 急に何を?」
「食事も用意してくれたし、泊まらせてくれたからその礼がしたいんだが……」
と提案する。こんななりの俺を泊めてくれた挙句に食事を出してくれたんだから、その恩を俺は礼として返してやりたい。
情報を集めたいのは山々だが、まずは幻想郷がどんな場所なのかを知る必要性が紫の発言で増した。となればその情報を収集するに至って親交や親睦をまず築かねばなるまい。
そんな意図を含んで今博麗に言ったのだが、
「そう言われてもねぇ……」
うーん、と腕を組んで首を傾げる博麗。いきなり雑用も何も無さそうである。神社は広いが住人は博麗と神出鬼没の人物がいるだけという密度の少なさから、雑用は博麗1人だけで事足りているかもしれない。
だが「あ、そうだ」と博麗は思いついたかのように手を打つと、すかさず立ち上がった。
「男に丁度良い仕事があったわ。ついてきて」
そのまま俺の傍を通り廊下に出る。その突発的な行動に俺は怪訝に思いながらも茶を飲み干して食卓に茶碗を置くとすぐに立ち上がり、博麗の後を追う。
「まあアレだったら男である怜治さんにはうってつけね」
「……力仕事か」
「そゆこと。それと靴は私と同じ場所に移したから」
博麗に先導される形で廊下を歩き出す。そういえば靴履いて昨日縁側で脱いでそれっきりだった。横目に縁側に脱いである靴を探してみたが見つからず、博麗の言葉通り、場所を移されたのだろう。
そのまま歩いていると戸で仕切られた部屋が1つ。そこを博麗は横に押して開くと年季が伝わってくる良い感じに燻った色合いがした木の床とその中央には囲炉裏。そしてその少し奥にはかまどが3つ並べられていた室内。……やはりかまどであの白米は作られていたみたいだ。
「ここ、ここ」
推測は当たってたみたいだな、と思っていると博麗がちょうど床の端に移動し、その下を指差していた。
博麗が佇む場所まで歩いて視線を下げてみると、そこは丁度土間と調理場の境目が区別出来、その下には見慣れた緋色のローファ1足と、黒色を基調として、その両サイドに白い線が入った1足の、計2足の靴が並べられていた。靴が置かれている場所と、俺と博麗が佇んでいる場所の高さにして大体踵から膝の辺りといった所だ。
博麗は床に腰掛けると靴を履き出す。一瞬垣間見ただけだったが、博麗は足袋ではなく白い靴下を履いていた。てっきり白足袋かと思っていたがどうやら俺の勘違いだったらしい。
俺もその博麗の隣に並んで横に座って自分の靴を履く。
「……そういえば」
……今更ながらこの靴は誰のだろうか? という事に気付いた。アリスが用意してくれたのは服だけみたいで、自然と俺はこの靴が目覚めた時、ベッド下に並べてあったので履いたのだが、それについてはアリスは何も追及してこなかった。
となるとこれは俺が外で履いていた靴だろうか? しかし俺の記憶ではこんな靴は見たことも一度もないし、他人のである可能性も否めない。だとしたら魔理沙がアリスの家に置いていった代物か? ……いや、魔理沙のにしてはやたらと足のサイズが大きすぎるし、デザインが無骨的でもあるから男物か。
だとしたらこの靴を用意したのは紫か、はたまた“最後の魔女”と言った所か……。
「? どうしたの?」
「ん……」
土間に腰掛け、そのまま靴を見つめていると博麗の呼び掛け。顔を上げると博麗はとっくに靴を履いて立ち上がり、俺を見つめていた。
「いや、なんでもない……」
それに対して俺はそう言って立ち上がると同時に博麗はそれを確認した後、戸まで歩き、そのまま横に滑らせて戸を開ける。その土間と外を隔てた開かれた入り口を博麗はくぐり抜け、俺も後に続く。
そのまま博麗は神社の裏に回りこむかのように悠然と歩き出す。それに俺は何も言わず後に続いていくと、
「──あれ」
不意に博麗が立ち止まり、その先を指差す。
「? あれは……」
博麗に案内されて指で示された場所は神社裏の小さく開けた場所。そこには平らに切られた切り株と雨で色褪せた小さな小屋と、何の隔たりも無い、小さな屋根の下に積まれた大小様々な大きさの大量の材木達。
要するに博麗が言いたい事とは、つまり──
「そ、薪。怜治さんには薪割りを頼みたいんだけど……」
「薪割り……? 構わないが……?」
それ位ならお安い御用だ。力仕事には違いないが、単純な作業には変わりない。
「そう、ならお願いするわ。因みに道具はあの小屋の中にあるから好きなの使って。それと割る量はあの小屋の中が一杯になるまでで充分だから」
「わかった」
概ねの事を言い終えた博麗に俺は頷き返してやると、博麗は立ち去ろうとした。……が、数歩歩いた所で立ち止まって俺に振り向くと、
「あ、私の事は霊夢で充分よ。私も怜治さんって勝手に呼ばせてもらってるからこれでおあいこ」
それじゃまた後で、と結われた髪を左右に揺らして博麗……霊夢はそのまま歩き去った。
「“cikuni”……、か……」
これで博麗神社には電気、ガスが通ってないという事を立証出来た。となれば他の場所も似た様な感じなのしれない。
小屋に向かい戸を開ける。施錠の類は見つからなかったので、単に開け閉めするだけみたいだ。中を見てみると、切り揃えられた薪が数本と、その隅に立て掛けられているのは鉈と斧。中には材木と刃物しかないのだから鍵は必要無いのも当然か。
取り敢えず刃物を両方とも取り出して感触を確かめてみるが、斧は多少大きすぎるような気がする。かと言って鉈だと大きな薪を割るには適さない。この場合、割る薪の大きさに応じて薪割り道具を変えればいいのだが、そんな面倒な事はしたくない。
だとしたら斧で薪を割った方が早いかもしれない。それに薪割りをする斧は刃の厚いものと重さのあるが良いし、手にしている斧はその条件に見事適合していた。
よって鉈を中にしまい、斧を手にする。その斧を切り株の上に置いて外気に晒された、手頃な大きさの割られていない薪を1本手に取る。触感からして水分はもう抜けて乾いているから、割ってもいい頃合か。他にも数本触って確認してみると、どれもが乾いていた。
それと小枝がその傍で纏められて積まれていたが、流石にコレは無視しても良いか。
「……やってみるか」
シャツの袖を肘まで捲くり、手にした薪をそのまま切り株の上に置いて両手で斧を掴む。そして身体の中心と、斧、薪が一直線になるよう下半身を安定させる。
そのまま持ち上げて軽く薪に下ろすと、ちょうど薪の真ん中に斧の刃が当たった。
「……よし」
……後は斧を振り上げて踏ん張れるよう、利き足を前にゆっくりと出す。
そしてさっきと同じように軽く薪の上に斧を下ろして同じ位置に当たるのを確認して、斧を一気に振り上げ────
「にゃー」
一気に脱力。振り上げているから斧の重みで後ろに転びそうになったが、かろうじて踏み止まり斧を足元に下ろす。
「……?」
周囲を見回すが音の発生場所がわからない。確かに聞いたのだが……。
「……ぬ」
ふと小屋の影で今何かが動いた。その物体はのらり、と蠢き、陽光に当たる場所に動いて俺の前に姿を現す。
何が出るのかと思い、咄嗟の事態に備えて身構え、その物体を見据えると……
「にゃっ」
……黒猫だった。
「……」
単なる黒猫か。どうやら小屋の日陰で寝ていたようなのだが、俺が来て目を覚ましてしまったようだ。
とにかく正体がわかったので安堵し…………
「……は?」
待て、何かがおかしい……。猫には違いないんだが、その黒猫は緋色の双眸で、尻尾が2本あるような……。
「……」
瞬きをして黒猫を見て、今一度目を擦る。そして瞬きをした後もう一度猫を見るが、見間違いでも幻覚でも錯覚でもなく、やはりその黒猫は緋色の目と2本の尻尾を生やしている。
という事は今俺の目の前にいる黒猫は現実に存在している猫だということ。翼が生えた猫とキャビットの存在は知っていたが、2本の尻尾の猫を見たのは初めてだ。それに目の色が赤い猫というのは聞いたことも無い。
虹彩の色──つまり目の色──はメラニン色素の量で目の色は決まるのだが、色素が多いと茶色や黒、少ないと青や灰色になり、ゴールド、グリーン、オレンジ、イエローといった色は毛色や親猫の遺伝子によってそれぞれ微妙な色の違いが生じ、また遺伝子の働きで虹彩異色症で目の虹彩の一部が変色したオッドアイを持った、特徴的な猫が生まれる。
だが今目の前にいる黒猫はその挙げた目の色のいずれにも属さず、正に異例とも言えるし、例外的な瞳の色をしていた。
「……」
黒猫が不思議そうに俺の顔を見上げて尻尾を振らす。方向は右に行ったり左に行ったりと大きく横に揺れている。
──これ即ち、不快だという意思の表れ。
「……すまないな、休んでた所を邪魔してしまって」
地面に膝をついて目を合わせて謝ると、双尾の黒猫は視線を外してそっぽを向いて右前足で顔を洗う。聞く耳持たず、と言いたげな、かなりご機嫌斜めなご様子。そして顔を洗い終えると俺の方に向き直って短く「にゃっ」と鳴く。
「……」
「……」
黒猫が見つめてくるので俺も視線を外せない。こういった猫の行為は敵意がある事を意味し、つまり俺は黒猫に警戒されているということ。それもその筈、霊夢だったら顔見知りかもしれないから直ぐに両目を閉じるだろうが、俺とは初対面。警戒せずに好意を寄せるなんて事はまず有り得ない。
その後短い間だけ睨み合っていたが黒猫が先に顔を背け歩き出す。そして俺から少し離れた場所……気付かなかったがそこにはキノコが生えた小さな切り株があり……に登るとそのまま箱座り。
「にゃー」
そして俺にまるで「することがあるならさっさと済ませたらどうだ?」と訴えかけるような鳴き声で、俺を見据えながら語りかける。
「ふむ……」
確かに薪割りを再開したいのはやまやまなのだが、木片が黒猫に飛んだりして危なくないだろうか? と心配と不安が自然と生まれる。しかし黒猫はそこから動きそうにもなく、双尾を揺らしてその赤い目で俺を窺うかのように鎮座しているのみ。
「……木片が飛んできても知らないからな」
だったら黒猫が今鎮座している切り株から動かないことを祈りつつ、俺は薪割りを再開することにした。
「よ……」
先程と同様、身体の中心と、斧、薪が一直線になるよう下半身を安定させる。次にそのまま持ち上げて軽く薪に下ろしてちょうど薪の真ん中に斧の刃が当たることを確認したらそのまま利き足を前に出す。
「……」
そして斧を振り上げ、胸を張り、膝に力を入れて、
「ふ──!」
薪目掛けて一気に振り下ろした────。
◆
「はかどってる?」
「……む? ……ああ霊夢か……」
最初の薪が真っ二つに音を立てて割れたのは中々爽快だった。その後は他の薪を手頃な大きさに割ったのだが時を忘れて、そのまま薪を割り続けては小屋の中に押し込んで薪割り再開……といった動作を繰り返し、今し方まで霊夢に声を掛けられるまでは周りがどうなっているのかも気付かなかった。
足元は斧で手頃な大きさに割られた薪が数本転がっており、顔には疲労による汗が流れ、腕と足の筋肉が痛みを訴えていた。
その筋肉の痛みは然程ではないが、如何せん疲労の方が比例が大きいような気がする。薪割りなんて事は現代では全くしないから普段使う事が無い筋肉を駆使する訳であるから、そうなるのは自然の摂理ともいえよう。
「あらかた割ったんだが、大きさを確認してもらっていいか? 少し休む……」
嘆息すると斧を切り株に立て掛けて、未だに立ち去ろうとしなかったあの双尾の黒猫の傍に歩み寄って、その隣に腰掛ける。俺が薪割りをしている間、この黒猫はずっと俺を見たまま薪割りを眺めていた。
何が楽しくて薪割りを見ていたんだろうか、と気になったのだが生憎猫に訊きたくても言葉がわからないし、使い魔でもないから訊ける訳が無い。
その悠然と座っていた黒猫は俺が隣に座ると、お疲れ様、と語りかけるように「にゃー」と小さく鳴いた。先程とは態度は変わり、警戒心は解いてくれたようだ。
それと薪を割った時に生じるあの「パカーン」という音を聞いてもこの黒猫は驚いて逃げるどころか臆せず変わらぬ表情で、その場から動こうとしなかった。それが意味するのはこの黒猫が人に慣れているという事の証明に他ならぬ。
「あら? 珍しい」
俺の傍らにいる黒猫を見て、霊夢が少し驚きを含めた声を上げる。丁度都合が良いので霊夢に隣の黒猫について訊ねてみた。
「そういえば霊夢、この猫は一体何だ?」
「何って……妖怪だけど?」
「……」
確かに緋色の目で、2本の尻尾を生やした猫なんていないな……。てっきり人為的に遺伝子を組み換えられた猫かと思っていたのだが、やはり俺の予想は違っていたらしく、もしかしてと思っていた妖怪ときた。
「これが……妖怪か……」
しげしげと黒猫を見つめる。そんな俺の視線を浴びながら黒猫は物怖じすることなく、俺の方に振り向いて「そうだけど?」と言わんばかりに、
「にゃっ」
と鳴いた。そして大きく口を開いて欠伸をする。
「……」
妖怪……というより、やっぱ一風変わった猫にしか見えない……。
「見るのは初めてじゃないでしょ?」
「? どういう意味だ?」
「だって昨日だって会ってるじゃない」
「……何?」
会ってる……? 俺が……? 妖怪と……? いつ……?
「はて……?」
怪訝に思いつつ記憶を掘り起こしてみるが、これと言って妖怪というモノに会った記憶が1つも無かった。会ったのはアリス、上海、森近、魔理沙、紫、霊夢といった面子。
妖怪なんて存在はどこにも見当たらず、上海は使い魔という概念に存在している人形だからこの場合該当しない。
しかし会ったという記憶が本当に無いのだが? 一体……と、俺の疑問を汲み取ったのか、霊夢が口を開く。
「紫」
「……あ?」
「アリス」
「…………は?」
「あと霖之助さん」
「………………へ?」
思わぬ人物達の列挙に言葉を失う。俺は、知らず知らずの内に妖怪と遭遇していたのか……。
しかし妖怪がいるとはアリスの話で聞いていたが、よもやおどろおどろしい姿ではなく、紫や森近といった綺麗な女性に若い男の姿とは……。
今更ながらアリスよ、自分の正体を俺に明かしても良かったんじゃないか……? とも思うが、俺にそこまで言わなくてもいいと判断したのだろう。それに魔法使いについては何も言ってこなかった。
ただ魔力──魔法といった言葉に、執着心と本心だけが垣間見えただけ──俺にはそんな風にしか見えず、単に魔法を扱える妙齢の少女だと思っていた。
「正確に言うとアリスは『魔法使い』というれっきとした妖怪の“種族”よ。霖之助さんは人間と妖怪のハーフで見た目より長く生きているわ」
「……“種族”? どう違うんだ?」
単に魔法使いが総称の事だと思っていたが、妖怪に分類されているとは……。
俺の問いに霊夢は腕を組んで答える。
「そうね……身体の原動力が魔力になっている妖怪で、魔法使いは2種類存在するわ。生まれながらの魔法使いと、人間が修行で魔法で自らに身につけた魔法使いとがあり、話によるとアリスは後天性だとのこと。
また自らに不老長寿の魔法を使える者を完全な『魔法使い』としているみたい」
「……アリスはどっちだ?」
「ん~? どうも後者らしく、まだ日が浅いって本人が言ってた」
「そうか……」
先天性、後天性とあると魔術師同様、病的な種族のような響きだ。
「む……?」
とここで脳裏に、昨日会った普通の魔法使いと名乗った少女の顔が咄嗟に浮かび上がる。
「……魔理沙は?」
魔理沙は確かに自分の事を『普通の魔法使いと』呼んでいた。だが“種族”は人間と言っていた。だが仮に『魔法使い』だったとしたら、彼女は俺を騙した事になる。
「魔理沙? 彼女は人間よ」
「? 待て、けど魔理沙は『普通の魔法使い』と名乗ったぞ」
「だから人間の『魔法使い』だから、故に『普通の魔法使い』」
「……そういうことか」
俺の疑問を余所に、霊夢はあっけらかんと答える。まるでとんちみたいな会話だ。
「とにかく見た目で判断しちゃいけない。それだけは胆に銘じた方がいいわよ」
「ああ……」
霊夢は俺が割って放置していた薪を小屋の中に放り投げて量を確認すると「うんバッチリ」と満足げにそう言った。どうやら薪割りの仕事はもうしなくてよいみたいだ。
「お疲れ様。後は適当に寛いでていいわよ」
と言い、対して俺は「わかった」と頷いて額の汗を手で拭って、手に付着した汗を払う。手拭いやハンカチは持ってないので拭き取ろうにも拭き取れない。
そんな汗を掻いた俺を見て霊夢は、
「そういえば怜治さん、昨日お風呂入った?」
「……入って…………ないな」
と訊ねたので、俺は首を振る。
よくよく思い返してみれば、昨夜は湯に浸かってない事に気今更付いたあの後霊夢に用意してもらった食事を頂き、紫と酒を交わし、眠ってしまったから風呂なんて入ってない。
「お風呂用意しようにも、もう掃除しちゃったし……」
困ったな……といった雰囲気で腕を組む。風呂が沸くまで別に待っててもいいのだが、どうにもその手間が霊夢は面倒な様子。
──とそれも束の間、霊夢は閃いたかのように「ぱん!」と手を合わせて鳴らした。
「そうだ。温泉行ってきたら?」
「温泉?」
「そ、温泉。近くに湧いてるから入ってきたら?」
霊夢は切り株に立て掛けた斧を小屋の中にしまって戸を閉めると、そのまま住居まで歩き出す。
「ほら怜治さんついてきなさい。あとそこの黒猫も」
と俺は黒猫と顔を見合わせて「さてどうしたものやら……」と首を傾げると同時に立ち上がり、霊夢の後を双尾をぴんと立たせた黒猫と共に追うのだった。