02-06/幻想郷の賢者 Pt. 1
庭から縁側を通って座敷に案内されると、博麗は「お茶淹れてくるから待ってなさい」と言い置いて、俺達が入ってきた廊下側から外に出て姿を消した。
その間、博麗が茶を運んで座敷に戻ってくるまでは少々時間が余る。よって暇だ。魔理沙と上海を一瞥すると、両者は各々の楽な姿勢で寛いでいるので俺もそれに倣って座布団の上に胡坐をかいて座ると、退屈紛らわしを兼ねて室内を観察することにした。
室内の造りは外見が神社とあってやはり木造の和様式で、床には畳が敷かれており、部屋の中央には四角形の食卓。目測からするに室内の広さは大体8畳から10畳辺り。
雨漏り等のシミやカビの無い綺麗な木の天井、年月を感じさせる壁際の飴色の箪笥、大きな傷が無く、大切に使い込まれている食卓と相まって、さながら奥ゆかしい日本の和を模倣的に再現したような雰囲気が伝わる造りだ。
……ただ、床の間に掛けてある『賽銭する人は神様』なんていう、正直どう反応していいのやら困る掛け軸が部屋の中で一番異彩を放っており、その所為で奥ゆかしい和の部屋が異質な空間になってしまっている。
掛け軸の字の横には博麗霊夢と名前らしき筆記があるので、掛け軸は間違いなく博麗が書いた事を表している。
となると、話がてらに茶を淹れてくれるのは単なる偶然で淹れてあげるのではなくて、賽銭を入れてくれた礼のつもりなのか? だとしたら掛け軸の言葉の意味を至極納得出来る。
だが掛け軸の言葉と彼女の行動をそのまま鵜呑みにしていいのだろうかと疑問を思ってしまうと、それはそれで失礼なような気が……。
「……最近、茶ばかり飲んでいるな」
なんて、茶のことを含め、今までの行動を反芻してみると、アリスの家、香霖堂でも茶をご馳走になっている。幻想郷の住人の間では茶話がブームなのだろうか?
確かに幻想郷の和やかな空気は茶話をするには適してはいるが、如何せん和やか過ぎるような気もする。
「なんだレージ、茶が嫌いなのか?」
俺の言葉を怪訝に思ったのか、帽子を脱いだ魔理沙が畳に後ろ手をつきながら話しかけてきた。因みに上海は食卓の中央に腰掛けてまったりと寛いでいる。
「嫌いではない。ここに来てからよく飲んでるなと思っただけだ」
「そういうことか。まあ大半暇な時は茶を飲むのが専らだから、言いたいことはわかるぜ」
ははは、と魔理沙は笑みを浮かべると、途端に「ああ、そうそう」と会話を切り替える。
「香霖に頼まれたから連れてきたのはいいが、これからどうするんだ?」
「帰るさ」
問いを返し、そして魔理沙によって返された問いを俺は淡々とした口調で答える。俺自身、それ以外の目的もないし、それ以外にここにいる理由は存在しない。仮に残ったとしても何処かで燻って周囲に迷惑を掛けるだけだろう。
故に、幻想郷に俺の存在意義は微塵として無い。
「帰るって、外の世界にか?」
「それ以外に何があると?」
「てっきり私は幻想郷に残るんだろうと思って、霊夢に説明しに来たのかと」
「違う。店主にここに来れば元の世界に帰れると聞いたからな。……ふぅ」
言い終えると同時に息を吐き出し──嘆息。どうも先程から全身がだるい。原因は恐らくも無く十中八九間違いなく、空を飛んだ際の精神的疲労が原因。今はなんとか喋れるのだが、動くとなれば話は別になり、立ち上がれるかどうか正直怪しい。
理由は床──畳に座って生きている事を実感しているのと、その精神的不安から解放された安堵から、足腰に力が入らなくなったの2つ。情けない話かもしれんが、今こうして座っているのも凄く嬉しいとも思っている。
上海が道中慰めてくれなかったらどうなっていたことやら……と、上海に感謝しても仕切れない。
なのでもう絶対、空なんか飛ばないと決意した。この決意は何が何でも譲るつもりは一切無い。
「……」
それにしても静かだ。さっきから人気が無い……否、無さ過ぎるぞ。
耳を澄ませても人が廊下を往来する足音や襖を開ける音、話し声も参拝客の喧騒も微塵も聞こえず、唯一聞こえてくるのは神社の庭で餌を探しに囀る鳥の鳴き声のみで、それを除けば神社はひたすら静寂と閑静に包まれている。
だがその静謐さと閉塞感が俺に神聖な神社内部にいることを再認識させてくれる。
……とは言っても、生活臭が丸々感じるが。特に床の間の掛け軸とか。
「ふむ……」
疲れているのだが聴覚と神経を研ぎ澄ましてみても、やはり俺と魔理沙以外の人間の気配を感じない。となると……、博麗はここで1人で暮らしているのか? 苗字や年齢からして身内の手伝いとかではなくて……。
「魔理沙」
「ん~? なんだレージ」
魔理沙に声を掛けると、彼女は食卓に寝そべるようにして寄りかかり、上海の髪をいじくっていた。対して髪をいじくられている上海は迷惑そうに首を捻っているが、その態度とは裏腹に手を払い除けることがないから、満更不愉快ではないみたいだ。
「この神社にはあの巫女しか住んでないのか?」
「あ? ああ、もう1人いるんだがそいつは神出鬼没でいたりいなかったりするから、霊夢が1人で住んでるようなもんだな」
ふむ、と俺は腕を組む。
おおまかに外見でしか把握していないのだが、この博麗神社の建物は意外と大きかった。そんな広い建物内の一室で博麗が1人で暮らしている姿を想像すると……
「……寂しいな」
「そうか?」
「ああ、その神出鬼没の奴を例外とすれば、彼女以外誰も住んでいないんだろ?」
外の世界の年頃の女性なら自由奔放とあちこち遊びに行っては娯楽に浸る。だがここは外の世界ではなくそんな娯楽性とは無縁な幻想郷という、いつ死が訪れても不思議でもなんでもない弱肉強食の世界。
それに博麗の住まいの博麗神社は空から見た限りでは見通しが悪い、鬱蒼と覆い茂る森に囲まれた山の上にあるので辺境に近い。
これは俺個人の推測だが、参拝するにはあの道を通らざるを得ないと考えてみると、参拝客がめっきり来ない理由も合点がいく。あそこには魔法の森ほどの瘴気は然程感じることはなかったが、反面、その障害が無いから尚更あの森には大量の妖怪や獣が蔓延っているだろうし、そんな危険極まりない道を行くことで博麗神社に向かうのだから誰も来ないのは明白であり、摂理的だ。
そんな孤立した地理条件もあってか、博麗神社に人が訪れる機会がないのは少し寂しくも思えたから唐突に漏れた言葉。
しかし、他人の生活を想像して感傷的になるのは俺らしくない。何故だ?
思い返してみれば、アリスの家では彼女と上海しか見かけていないので、人形であり使い魔の上海を類外すると1人で暮らしている雰囲気。
そうなると同じ土地──魔法の森で暮らしている魔理沙も──
「魔理沙も1人で暮らしてるのか?」
「そうだぜ。それが何か?」
「いや、訊いただけだ……」
同じく1人暮らし、か。1人で暮らしているのは各人の事情があるからだろうが、それでも魔理沙の表情は生き生きとしている。その瞳には寂寥感や孤独感が微塵たりとも映っていない。
その理由は、みんな、皆……孤独に…………1人に慣れており、友人に恵まれているから────?
「……」
それはなんとも羨ましいな。だからあんな感傷的な言葉が咄嗟に出たのだろう……。
「お待たせ」
思索に耽っていると、博麗が湯飲み茶碗と急須を載せたお盆を持って座敷に現れた。
「おー待ちわびたぜ」
上海の髪から手を放し、さあさあと博麗の持つお盆に手を伸ばす笑顔の魔理沙。どうやら本当に待ち侘びていた様子。
「──ッ!!」
一方、その魔理沙の手からようやく逃れた上海は素早く俺に駆け寄ると、跳躍するように一気に飛び、俺の頭の上に着地するとうつ伏せに寝転がる。
「~♪」
寝転がるなり足をバタつかせ、すりすりと頬を俺の頭に擦り付ける。
「……」
解放されたから嬉しいのはわかるが、何故俺の頭の上? それとバタつかないで欲しい。足によるバタつきで頭に痛みが……。
「はいはい、今用意するからもう少し待ちなさいってば」
嘆息して食卓まで歩んで畳に膝を着くと、博麗はお盆から湯飲みを手に持ち食卓の上に並べる。
「すまん」
「別に構わないわよ、茶の1つや2つぐらい」
「そうそう、だから差し出された茶は飲んで飲んで飲むのが礼儀だ」
「……魔理沙、アンタはもうちょっと自重しなさい」
半眼で魔理沙を睨みつける博麗だが、その視線を受けている魔理沙は「おう自重するぜ」と言い、口の端を吊り上げて小さく微笑みさあさあと手を伸ばし続ける。態度や口振りから自重する気が無いのは目に見えて至極明白。
「はあ……やれやれね」
魔理沙の態度を見て嘆息し、肩を竦めた博麗は急須を取り、湯飲みに茶を注ぐ。その所作は大雑把な感じがしたが、そつが無く、自然な動作。
博麗は魔理沙に対して口ではうんざりしている様子だが、それでも茶を淹れてやっているのはあながち嫌がっていない証拠か。
いや、言っても無駄だから単に諦めているだけかもしれんが。
「緑茶か」
「そうよ。玉露だから味は保障出来るわ」
薄黄緑色の液体に満たされた湯飲みから湯気が上る。俺の前に置かれた湯飲みの中をよくよく観察してみると、底に細かくなった茶葉の破片が沈んでおり、尚且つ茶の表面に何やら薄透明な物体が浮いていた。
それはまるできめ細やかな埃のような、産毛にも見える。
「ほう……」
思いがけない発見に、俺は感嘆とした声を上げる。
さて、茶に詳しくない人の殆どはそれを埃と勘違いしてしまうだろう。しかしこれは埃ではなく、れっきとした茶葉の毛である。
玉露に使われる茶葉の新芽の表面には細かい毛が生えており、葉が成長しすぎるとその毛は無くなってしまう。
なので成長しすぎて摘まれた茶葉だとこのような細かな毛は浮かばない。故に使われた茶葉は博麗の言うとおり、上質である証拠。
「茶葉は開いてるのか?」
「勿論。私は開かせてから飲む派ね」
博麗は茶の嗜み方を知っていると見込んだ。
「それでは早速頂くぜ」
魔理沙が自分の前に置かれた湯飲みを手にし、口に運ぶと茶をゆっくり喉に通す。俺も前に置かれた湯飲みを手に取り、味わう様にして茶を飲み込む。
「ふぅ……」
思ったとおり、茶は甘いにも関わらず清々しく、渋味も強すぎず優しい風味を醸し、快い後味の香りが鼻腔にまで広がり、そのまろやかな味は俺の疲れた身体にはうってつけであり、骨の髄にまで染み渡らせ骨肉を弛ませる。
これ程の味を引き出すにも茶葉もそうだが、博麗の淹れ方や沸かした湯の温度も玉露に適した温度だからこそ可能な玉露本来の味。正に至高とも言えよう。
「どうかしら?」
様子を見守っていた博麗が俺に問いかける。それに俺は淀みなく「美味い」とだけ答える。それに博麗は「そう」と満足げに頷くとゆっくりと自分の湯飲みの茶を口に含む。
「いやー、相変わらず霊夢の淹れた茶は美味いな」
ごちそうさん、と魔理沙が湯飲みを食卓に置く。見てみると魔理沙の湯飲みは空だった。
……早過ぎないか?
「たまには自分で淹れたらどう?」
「いやいや無理。私は手間が掛かる事はしたくないんだ」
手をひらひらと振って意見を切り捨てる魔理沙。
「全く……うんざりするわ」
はぁ……と、憂いを帯びた嘆息をする博麗。森近の態度も博麗のそれと似たようなものだったので、その気持ちわからんでもないような気がする。
そして呼吸を吐き出して俺の方を向く。
「──さて、そろそろ話す頃合かしら」
「ん? ああ、茶も貰ったからな」
言われて俺は湯飲みを食卓に置いて、博麗に向き直る。頃合とは恐らく、俺が幻想郷にきた経緯と、今後の処遇についての話。
「魔理沙に外から来た男がいるとしか聞いてなから、詳細を話して」
「そうだな。昨日の朝目覚めたらアリスの家で寝てた」
「アリスの家で?」
不思議そうに首を傾げる。
「正確にはその前日の夜に倒れてた俺を見つけて運んだらしい」
「成る程ね。それで頭の上にいるそれはそういうことね……」
俺から視線を外し、その頭上の上海を見やる博麗。片や視線を受けている上海は動くのを止めて今はじっと寝そべっている。
「けど人見知りする彼女がよくもまあこんな無精男を家に運んだわね」
「だろ? 私もそこんところ同意見だ」
博麗の鋭い言葉に魔理沙もすかさず同調して言葉を発す。
「……」
言われてる事は事実なので反論出来ない。
「まあともかく、その後はどうしたの?」
気を取り直して再度博麗は訊ねる。
「……取り敢えずアリスの家で泊めてもらった後、魔法の森から香霖堂に向かった。そこで買い物してたら魔理沙と会った。
そして博麗神社に行けば元の世界に帰れると店主に聞いて、魔理沙に案内してもらって今に至る」
……と、簡素に説明を済ませて話し終えた俺は湯飲みを手に取り、茶を口に含む。……嗚呼、落ち着くな玉露。
とまぁ、概ねの経緯はこんなものだろう。多少魔理沙と会うのと帰れると聞いた時の話の順序が逆になっているが、筋は間違ってはいない筈。
「ふぅん……」
話し終えた俺を見て博麗は納得したかのように呟き、腕を組んで視線を外すと黙り込んで思考の海に埋没する。
「……博麗大結界には何の綻びも破壊されたという気配も痕跡も無い。しかし彼が幻想郷の『幻想』に“招かれた人物”……、自ら世界に迷い込んだとしたらそれはそれで納得出来る。
だが見た限り、彼は幻想郷に呼べる程の力の持ち主でも稀有な存在でも希薄な人物でも無い。その証拠に彼は自身の意思とは違いここに居る。だとしたら何者かによる意図的な企みによって彼が幻想郷に呼ばれたとしたら……?」
途端、ぶつぶつと小声で何やら呟きだした博麗。それを見て俺は何だ? と若干驚き、魔理沙はそれを見て極めて冷静に「相変わらずこういうことになるとすぐ考え込むな」と肩を竦めていた。
「こういうこと?」
「おう。霊夢は考え事があるとたまーにだが、こうして口にして結論を見出すんだ。傍からすれば不気味かもしれないが、勘は鋭いぜ」
と俺の疑問に答えた魔理沙は急須を取り自分の湯飲みに茶を注ぐと、俺の湯飲みにも茶を注いだ。
「ありがとう」
「どーいたしまして。これくらいならお安い御用だ」
屈託のない微笑を浮かべる魔理沙。それにしてもよく笑う娘だとしみじみ思いながら茶を啜る。
「“招かれた”。しかし結界に変化が無く、状況からして関与しているのはやはり──」
とふと、博麗が言葉を切った。それに反応して俺と魔理沙は彼女を見やる。
すると、
「紫っ! いるんでしょ!?」
頭を上げ、途端虚空に向かって大きく声を上げる博麗。
「……は?」
唖然。傍からすればなんとも滑稽且つ、危ない人を見ているような心境。いきなり叫びだしたんだからそういう反応をしてしまうのは至極当然じゃないかと。
考察するに、もしかしてその紫という存在は虚空に……博麗の視界にしか映らない特別な存在? いやそんな先走った判断は凄く失敬かもしれんが、本当にそんな風にしか見えんのだ。傍から見た俺の目からすれば。
気になったので小声で魔理沙に質問してみる。
「……何をしてるんだ?」
「呼んでるんだ」
「呼んでる?」
「そう、頭の中の精霊を」
言うや魔理沙は手の平を自分に向け、目を大きく開いて天井を見上げると、「カモン! 精霊さんっ!」なんてポーズを取って小さく叫ぶと直ぐに解く。そして自分でやってて恥ずかしかったのか、居心地悪そうに頭を掻く。
「……」
……嗚呼、博麗霊夢。服装もだったが、頭の中もやはりちょっと変わった子だったか。何故世界はこうも可憐な女性に対して、変わった性格を与えるのだろう?
「冗談だ」
生暖かい視線で博麗の動向を見つめていると、魔理沙がそう声を掛ける。冗談だったのか。半ば信じてしまったぞ。
「けど呼んでるのは事実だぜ」
「は?」
誰を、と問いかけようとしたところ……、
「────ええ、いるわよ」
「ッ!」
──途端、虚空に響く玲瓏な女性の言葉。しかもそれがどこから発生されているのかさっぱりわからなかった。
近くも無く、遠くも無く、魔力の感知も無い。だというのに言葉はくっきりと俺の耳を震わす。ということは座敷の中にいる? しかし、一体どこから……?
「ほら噂をすれば」
俺の態度とは反面、頬杖を突いて退屈そうに魔理沙がおもむろに呟いたと同時に、
眼前の世界が横に裂けた。
「な──ッ!?」
瞬時に起きたこの摩訶不思議な出来事に俺は驚きを隠せなかった。否、空間が裂けるという現象も事象も聞いたことが無い。よって俺の反応は至極普通かもしれないが、魔理沙はというと俺のように驚いている様子は全く無く、至って平坦とした面持ちで茶を啜っている。
「やっと来た」
やれやれと肩を竦めた博麗はそう呟き、その空間の中を見つめる。俺もそれに倣って空間の中を見ると、空間は1本の線から上下に分かれ、1つの空間を生み出していた。
開かれたその中に蠢いていたのは、あろうことか、目と目と目と……目目目目目────の世界。
「…………」
あまりにも常識離れした光景に──瞬間、背筋を震わせ、言葉を失う。とてもではないが、口には到底出来まい光景。
ただ強張った思考が巡らせるのは、常軌の概念を超越したかのような、まるで世の魑魅魍魎が跋扈している様を可視にしたかのような不可思議な世界であり、さながら魔境の風景。
狂気の巣窟……。しかしそんな言葉では生ぬる過ぎる。何と言えばいいのだろうか?
それはとても不快で、
それはとても不愉快で、
それはとても不吉で、
それはとても不気味で、
それはとても知りたくなかった────世界の顕現。
『■■■■』
うっすらと耳朶が捉えたその言葉は幾重にも木霊す幻覚、幻聴、錯覚、夢幻の類。
語る騙る……、奴らは戯言を交えてこうほざく。
奴らは哂っている。奴らは狂気している。奴らは断言している。奴らは恨んでいる。奴らは賛美している。奴らは唱えている。奴らは誇張している。奴らは自嘲する。奴らは殺したがっている。奴らは賞賛している。奴らは憂ている。奴らは憤慨する。奴らは絶望している。奴らは慟哭している。奴らは足掻いている。奴らは告げている。奴らは諌めている。奴らは洒落込んでいる。奴らは自棄になっている。奴らは喋っている。奴らは罵倒している。奴らは軋轢している。奴らは嘲笑っている。奴らは驕っている。奴らは豪語している。奴らは叫喚している。奴らは糾弾している。奴らは訴えている。奴らは宣言している。奴らは放恣している。奴らは哄笑している。奴らはのたまっている。奴らは讃えている。奴らは潰したがっている。奴らは勧告している。奴らは弾劾している。奴らは狂喜している。奴らは壊したがっている。奴らは謳っている。奴らは叫んでいる。奴らは泣いている。奴らは憤怒している。奴らは遊んでいる。奴らは驚嘆している。奴らは喚いている。奴らは悲愴している。奴らは悟っている。奴らは楽しんでいる。奴らは蔑んでいる。奴らは憎んでいる。奴らは病んでいる。奴らは断定している。奴らは憎悪している。奴らは警告している。
『■■■■』
故に…………目の存在でしかないのにそんな風にして感情を含み、奴らは玲瓏に一言、こう囁く。
“コレ”が“世界”だ───と。
「──ッ」
聞き違いであり空耳。だというのに目の前の小さな世界は何故こうにも臓腑に重油のようにどろりとした、零度近い冷たい液体のような、せき止め切れない程に湧き出した同属嫌悪、生理的嫌悪に近い感情を俺に曝け出させる?
抑揚の無いその一気に込み上げる、得体の知れない感情……“モノ”は俺の思考と脳の回転を凍らせるには充分な威力があり、何度も何度もフラクタル分裂を繰り返し、俺に答えと正体を明かさせようとしない。
故に俺の眼窩に嵌め込まれた水晶体が映すソレは次々に変貌し、淡々と紡ぐのは有象無象、森羅万象、輪廻転生、混沌、攪拌を幾度となく繰り返して変わる世界の……真の姿。それを可視にした光景だ、と俺の目は残酷にも玲瓏にも実直に伝える。
「………………」
心臓の鼓動が早鐘を打ち、驚愕と凝然と言った感情が俺の中で比率を占める。その蠢く目達が俺の目と合う度、脳裏から漠然と浮き上がってくるのは懐かしい感情、そして俺はそこに“居た”という既視感。それに俺は少なからず憧憬を覚え────身を震わせる。
「よ……っと」
なんて、全く機能していない俺の思考とは裏腹に、目の世界から聞こえてきたのは暢気な声。声音からして先程の声の人物と同一であるのは間違いない。
そして目の世界の縁に白い手……白い手袋を嵌めた五指の手がその縁に手を掛けていた。
やがてその手の主が俺達の前に、座敷に乗り越えるようにしてその人物は舞い降りる。
「────」
固唾を飲み込む。いや、飲まざるを得ない。
目の世界から座敷に悠然と現れたのは膨らみのある不思議な帽子を頭に被り、美しい金色の髪を腰元に及ぶまでに長く伸ばし、その流れるような髪の端の所々を小さな赤いリボンで結び、紫色のワンピースに近いドレスのような豪奢過ぎるが上品過ぎず下品過ぎない、洋服姿の1人の女性。
だが生憎と顔は俯いているので窺う事は出来なかった。
が、女性は肘までを覆う白い手袋を嵌めた手を口元まで運ぶと、
「まだ日中なんだから眠いのよ私?」
ふぁ……、と口元を隠して欠伸をして俯かせた顔を上げて、その顔を見せる。
口元の手を退け、顔を上げた女性の顔は目鼻立ちが端正に整ってすらりとしており、眉も綺麗に整い、先程は俯いていて気付かなかったが首に赤く細いリボンを巻いていた。世界を映す瞳はうっすらとした茶色に染まっており、その色はとても神秘的な雰囲気を醸し、同時に妖艶な輝きを放っていた。
更にその淡雪を髣髴させるような白い肌は、瞳と鼻と一の字に結んだ桜色の唇を優雅に演出し、スタイル抜群の体躯も相まって、その人間離れした美貌に俺が脳裏に浮かべた言葉は絶世の美女、魔性の女。そんな賛美的な言葉が突如現れたその女性に正に相応しい。
だがそれで括ってしまうと、どうも違和感を覚える。確かに絵に描いたような美女には違いないが、容姿がそのまま絵に描いたような美しさを纏っているのが問題なのだ。
──さて、そんな想像を形にして具現化させたかのような存在は実在するのだろうか? もし仮にいたとしたらそれは奇跡どころか奇蹟に等しく、宝玉のような輝く存在。だがその筋が有力だとしても別方向に思索を働かせてみたら、辿り着く結論は女性は……人間でないことは想像に容易い。
その説を有力にさせる理由として挙げられるのなら空間に突如として現れた目の世界から舞い出てきたこと。そんな事が人間に出来るだろうか?
故に女性の美貌は人ならざるモノの証。
人には持ち合わせていない、人の魅力を纏う存在……。
「……」
だが俺にはその存在を決定付ける正体が思い浮かばない。いっその事人間離れした美女と決め付けてしまった方がいいかもしれん。疲れてるし。
「……ん?」
ふと佇む女性の顔を眺めていると、頭の中で何かが引っ掛かった。だが答えは輪郭がぼやけていて曖昧な形をしており、明らかではない。
一体、何だというのだ…………一体……。
「寝てたの?」
「当然。起床予定の時間帯より早いんだから」
俺の疑問とは余所に会話は進み、女性は足を屈めて魔理沙と博麗の間に座る。そうなると自然俺と対面する位置になる。
「で、私に一体何の用かしら。あと私のお茶も頂戴」
そう言うと目の世界に手を入れ、何かを探るように手を動かす女性。そして程なくして引っ込められた手が握っていたのは…………湯飲み茶碗。
「……」
物入れ? にしても嫌な物入れである。
「ほれ」
「あら、ありがと」
魔理沙が手元にあった急須をドレスの女性に渡し、受け取った女性は自分の湯飲みに茶を注ぐ。その動作の1つ1つはゆったりとしている。
その動作にもどこか見覚えがあるような気がする。しかしまだそれはピースという破片でしかなく、形にするにはまだ情報が足りない。俺の中の疑問を解決へと導く、もっと明瞭としたピースがあればいいのだが。
「それで、私を呼び出したのは何の用かしら」
「わかっているでしょ。この男よ」
あごをしゃくって俺を指し示す博麗。せめて指で示してくれ。
「ふぅん?」
博麗に示した先にいた俺に女性は目を向ける。真正面から見ると更にその美貌が際立って見え、博麗や魔理沙がその所為か幼く見えてしまう。
「……」
俺は何も言わずに視線を受け止める。ピースがまた埋まった。顔はやはり見たことあるような気がする……。やはりどこかで会った事が……? しかしまだまだピースが足りない。
女性は俺の顔を見、そして頭から胴体までを目を窄めて眺める。平然とした表情で見てはいるが、その艶かしくも見えてしまう瞳に篭っているのは観察だけではなく、何かを探っているような雰囲気まで窺えた。
まるで心理まで、骨肉や心の髄までを抉るような、透かしたような、搾取するような……。女性の視線は俺が苦手としている類の観察の仕方に該当する。
やがて観察し終えると、女性はうっすらと笑みを浮かべ、
「衰えたわねぇ────怜治」
静かにそんな言葉を紡いだのだった。
「………………………………は?」
その言葉に俺は思わず間抜けた声で反応を返してしまった。女性は俺の反応を無視して言葉を続ける。
「うんうん、あの時はどんな状態なのかをじっくり観察することが出来なかったからさっぱりだったけど、やっぱり昔より衰えてるわね」
まあ加齢とその無精顔の所為もあるでしょうし……、と女性は目を細めて小さく笑む。
「……」
対し俺は女性の顔を見つめながら沈黙している。笑みを浮かべているその表情は優雅そのもの。しかし口は笑えども目がこれっぽっちも笑ってなかった。そんな含みが有りそうな笑みの所為でどこか胡散臭い。
だが俺の名前を言ったのだ。それも知っているかのような素振りで。つまり間違いなく俺と彼女は何かしらの接点がある筈。
「あ……?」
そんな女性の笑顔胡散臭げな笑みを見て何かに気付いた。似たような笑みを見た事があるような気がする。しかしそれがいつ頃見たものなのかが思い出せない。
「ちょっと2人とも、どういうこと?」
「そうだそうだ、知ってる仲か?」
女性の発言が気になったのか、割って入る博麗と魔理沙。
「ええ、ちょっと……ね?」
俺に視線を送ったまま意味ありげに2人の疑問に答える女性。それに俺は反論するつもりはなかった。
彼女とは会った事が…………ある。しかし謎なのがそれがいつ、どこで、どんな風に、という問題。それがはっきりすれば、女性の正体が明確に判明できる。
「あら、私のコト忘れちゃったの? ヒドい男ね~」
はぁ……、と頬に手を添えて悲しげに嘆息する女性。だが表情は愉快そのものであり、全然悲しそうに見えず、至極胡散臭過ぎる。
その時、首に巻かれた赤いリボンが外から、障子が開いたままの座敷内へと吹き込んできた風で小さく揺れた。
「……あ」
その揺れる赤いリボンを見た途端、何かが埋まった。それも特大のピース。最大のヒントには違いないが、回答にはまだ遠い。
当て嵌めようとし、リボンを更に追究する。
目の前にいるのは首に『赤いリボンを巻いた女性』。それを目前の女性がそもそも人間なのかさえ疑問になってしまうがこの場合、首に『赤いリボンを巻いた人』と置き換えてみよう。
それだけで充分だ。後は俺の記憶の中から該当する人物を掘り起こせばいい。
「むむ……」
徐々に彫られていく記憶。しかし幾度掘り起こしても該当する人物はいない。なら次に言葉を崩してみるとどうなる?
赤いリボンを巻いた人?
赤い……リボン……巻いた……人?
赤……巻いた……人?
赤い……人?
赤い人──。
「…………そうか」
人間離れした容姿。
笑み。
そして浮かび上がった────赤い“あの”人。
「あら、私のコト思い出してくれた?」
ふふ、と俺の様子を悟ってか、嬉しげに薄い笑みを浮かべる女性。それに俺は首肯する。
鮮明に思い出した。
4年前、あの赤い人の後ろで物言わずじっとしていた人物。服装と髪型、そして表情が目にしているのとは異なっていたので、一見で気付かなかった。
「アナタはそうか……」
もし……もし俺の解答が正解なら、彼女は、間違いなく────
「師父の愛人か」
────ピキンッ!
その時、世界が音を立てて凍ったような気がした。
常温だった温度が一気に氷点下に達したかのような、急に冷え込んで零度に耐え切れなかった物体がヒビ割れたような音が。
「あ……あ…………あああああああああああああああああああああああ?」
目だらけの世界から現れた女性は俺の発言に先程の玲瓏げで、胡散臭げな雰囲気を一転、狼狽して口をぱくつかせ、大量の汗を顔に流して困惑している表情に。だが容姿端麗なだけあって滑稽な表情には全然見えない。
「……」
「……」
片や博麗と魔理沙は目を点にして俺を見て固まっている。
「む……む?」
あまりの静けさに気になって座敷を見回してみると、空気が凍てついている。空間が凍てついている。人が凍てついている。
「……」
空気がこんなんなので、とりあえず自分も凍っておこうと頭上で寝ている上海も凍てついている、ような気がする。
とまあ、こんな具合に世界が見事に凍ってました。さながら氷河世界。
「な、なあ……レージ……?」
そんな世界が瞬時に氷結した最中、最初に口を開いたのは顔が強張った魔理沙。
「何だ魔理沙?」
「いや、その紫の…………師父の………………愛人……て?」
「それはだな、昔──」
「わ、わわわわわッ!? わひゃぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあッ!? わあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!! きえぇぇぇぇぇぇぇぇいいい──っ!!」
魔理沙に説明しようと口を開こうとしたら突如、叫びにも近い甲高い大声で台詞が遮られた。
「うるさいわっ!」
「あ痛ッ!?」
その奇声の直後に何かを叩く鈍い音。何事かと思い目を発生源に向けるとそこには、博麗が妙齢の大人の女性……師父の愛人の頭をはたく光景。
「痛いじゃないのよ霊夢っ!?」
「アンタがいきなり叫ぶからでしょうがっ!? おかげで私の耳は痛いったらありゃしないわっ!!」
頭のはたかれた部分を両手で押さえ、目尻に涙を浮かべる女性に対し、理由を問われると至極ごもっともなお答えを返す博麗。
それには同感であり、俺もちょっと耳が痛い。
「~ッ?! ~ッ!?」
上海も苦悶じみた動作で身をよじって、耳を押さえている。そもそも耳なんてあるのか? と疑ったが、反応からしてみるに耳があるのだろう……多分。
「ぐおおおおおお……っ!? 耳が痛いぜよっ!? 耳が! 耳があぁ~!?」
そんな大声を真横で喰らった魔理沙は博麗とは違い、耳を押さえながら畳に転がっている。
……哀れなり、霧雨魔理沙。
八雲紫氏初登場時の情景描写は、King Crimsonのアルバム「The ConstruKction Of Light」収録の“Coda: I Have a Dream”を意識してみました。
「奴ら~」のくだりは紹介した曲を聴きながら読むとぞっとするかもしれません。多分。(コラ)