4話
事件から十日が経った。校舎の廊下にはいつものざわめきが戻りつつあるように見えたが、空気はどこか重かった。生徒たちの間では「白い紙の切れ端」の噂が広がり、ノートの片隅に記号を模写する遊びが流行していた。教師たちは「ただの落書きだ」と笑い飛ばそうとしたが、子どもたちの好奇心は止まらなかった。
「この記号は犯人のサインだ」
「いや、地図なんだよ。宝探しみたいな」
「校長先生が隠してるんだって」
教室の中で飛び交う憶測は、やがて保護者の耳にも届いた。夕方の電話で「子どもが変な暗号を持ち帰ってきた」と訴える声が増え、地域の掲示板には「学校で事件の痕跡が見つかったらしい」という書き込みが並んだ。
氷川沙織は校長室でその報告を受け、深く息を吐いた。机の上には理科室、体育館、図書室で見つかった三枚の紙片が並んでいる。どれも同じ質感、同じ滲み方。偶然ではない。だが、校長として事件を口にすれば、子どもたちの不安を煽るだけだ。
翌日、刑事が再び学校に現れた。スーツ姿で、校長室の空気を一段冷たくする。
「先生、学校内に犯人が痕跡を残している可能性が高い。生徒の証言も食い違っています。協力していただけませんか」
沙織はきっぱりと答えた。
「私は協力しません。校長として、生徒を守ることだけが私の役割です」
刑事は苦笑し、しかし言葉を続けた。
「保護者からも問い合わせが来ています。説明会を開かざるを得ないでしょう。その場で事実を隠すことは難しい」
その言葉に、沙織の胸が締め付けられた。教育者として、子どもたちを守りたい。だが、保護者の前では「校長」として説明責任を果たさなければならない。
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数日後、体育館で保護者説明会が開かれた。椅子が並べられ、保護者たちが次々に入ってくる。ざわめきは緊張を帯び、空気は張り詰めていた。壇上に立った沙織は、原稿を手に深く息を吐いた。
「先日の校外学習での出来事について、まずはご心配をおかけしたことをお詫びいたします。生徒の安全は確保されております」
だが、会場の空気は収まらなかった。
「子どもが暗号のような紙を持ち帰ってきました。これは何ですか」
「学校の中でまた見つかったと聞きました。犯人が入り込んでいるのでは」
「警察はどう動いているんですか」
質問が次々に飛び交い、沙織は言葉を選びながら答えた。
「確かに紙片が見つかっています。しかし、現時点では事件との関連は確認されていません。警察が調査を進めています。学校としては、生徒の安全を最優先に対応しております」
壇上の横に立つ刑事が一歩前に出た。
「現在、学校内で複数の紙片が発見されています。偶然ではない可能性が高い。引き続き調査を進めます」
その言葉に、会場のざわめきはさらに大きくなった。保護者たちの視線が沙織に集まる。――校長として、事件に触れざるを得ない状況。
沙織は深く息を吐き、言葉を絞り出した。
「私は校長として、生徒を守る責任があります。事件の解決に関わることはありません。しかし、学校の中で起きていることについては、隠さずにお伝えします」
会場の空気は少し落ち着いたが、緊張は残った。説明会が終わった後、沙織は壇上に立ち尽くした。保護者の視線、刑事の言葉、子どもたちの噂。すべてが重なり、彼女の肩にのしかかっていた。
「……学校そのものが、事件に巻き込まれている」
沙織は静かに呟き、体育館の天井を見上げた。照明の光が白く広がり、紙片の記号が脳裏に浮かび上がる。意味はわからない。だが、確かに「誰かの意志」がそこに刻まれている。




