3話
事件から数日が経った。校舎の廊下にはいつものざわめきが戻りつつあったが、氷川沙織の胸の奥にはまだ重い影が残っていた。生徒たちは「校外学習で人が倒れていた」という噂を断片的に語り合い、教師たちは「どう説明すべきか」を小声で相談している。校長室の窓から見える校庭は、子どもたちの笑い声で満ちているのに、どこか薄い膜が張られているように感じられた。
午前の理科の授業中、ちょっとした騒ぎが起きた。生徒が実験机の下から、白い紙の切れ端を拾い上げたのだ。紙は湿気を含み、インクが滲んで記号のような線が描かれている。――あの日、現場で見つかったものと同じ質感。
「先生、これ落ちてました」
生徒は何気なく理科教師に渡した。教師は首をかしげながら「校長先生に届けておきましょう」と言っただけで、事件性を口にすることはなかった。教育者として当然の反応だった。だが、紙を受け取った沙織の指先は、わずかに震えた。
午後には体育館で避難訓練が行われた。生徒たちが整列し、教師が指示を出す。だが、途中で照明が一斉に点滅し、ざわめきが広がった。昼間の光が差し込んでいるため暗闇にはならなかったが、天井から落ちる影が不気味に揺れた。訓練終了後、床の隅にまた白い紙の切れ端が落ちているのが見つかった。
「偶然とは思えない……」
沙織は心の中で呟いた。だが、刑事に報告することは拒んだ。校長として、教育の場を守ることが最優先だからだ。
生徒たちは「誰かが学校に忍び込んでいるのでは」と噂を始めた。推理ごっこは瞬く間に広がり、事件は子どもたちの遊びの中にまで入り込んでいく。休み時間の教室では「紙の記号は暗号だ」「犯人は先生かもしれない」といった憶測が飛び交い、ノートの片隅に模写された記号が増えていった。
沙織は窓の外を見つめた。校庭には笑い声が響いているのに、その背後で迷宮の影が確かに広がっていた。
「……学校そのものが、迷宮に変わり始めている」
放課後、校長室に戻った沙織は机の上に二枚の紙片を並べた。理科室で見つかったものと、体育館で拾われたもの。どちらも同じ質感、同じ滲み方。偶然にしては出来すぎている。
「これは、誰かが意図的に置いている……」
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。だが、声に出すことはしない。教師として、校長として、事件を口にすれば子どもたちの不安を煽るだけだ。
夜、校舎の灯りが落ちた後も、沙織は机に向かっていた。窓の外には街灯の光がぼんやりと差し込み、紙片の記号が浮かび上がる。意味はわからない。だが、確かに「誰かの意志」がそこに刻まれている。
「私は校長。教育者。もうヒロインじゃない」
そう繰り返しながらも、耳の奥では刑事の声が残響していた。――“あなたは過去に幾度も事件の解決に関わっていた方ですよね”。
その言葉は、呪いのように彼女の肩に重くのしかかる。
翌朝、職員室では「また紙が見つかった」という報告が上がった。今度は図書室の書架の間。生徒が本を探しているときに、床に落ちていたという。教師は「ただのゴミだろう」と笑い飛ばしたが、沙織は笑えなかった。
「……迷宮は、子どもたちの証言の中にまで広がっている」
彼女は静かに呟き、机の上の紙片を見つめた。白い切れ端は、ただのゴミではない。事件の影が、教育の日常を侵食している証だった。




