2話
翌朝の校舎は、まだ事件の余韻を抱えていた。生徒たちはざわめきながら登校し、職員室では「昨日のこと」が小声で繰り返されている。氷川沙織は校長室の机に向かい、書類を整えながら深く息を吐いた。――昨日の出来事は教育の場にとって余計な混乱でしかない。自分は校長、事件に関わるつもりはない。
だが、扉を叩く音がその決意を揺らした。
「氷川校長、警察です。昨日の件で少しお話を」
入ってきたのは、昨日現場を仕切っていた刑事だった。スーツ姿で、校長室の空気を一段冷たくする。
「生徒の安全確保については感謝しています。しかし、現場での先生の冷静な対応を見て、やはり協力をお願いしたい」
刑事の声は柔らかいが、言葉の芯は固い。
沙織は椅子から立ち上がり、きっぱりと答えた。
「私は協力しません。もう教授ではないのです。校長として、生徒を守ることだけが私の役割です」
刑事は苦笑し、机の上の書類に目を落とした。
「ですが、昨日の発見者は生徒。彼らの証言を整理するには、先生の同席が必要です。教育的配慮という意味でも」
「それなら校長として同席します。ですが、推理や捜査には一切関わりません」
沙織の声は低く、揺れない。
刑事は数秒沈黙し、窓の外を見た。校庭では生徒たちがボールを追い、笑い声が響いている。
「……なるほど。では、最低限の協力だけお願いしましょう。先生の立場を尊重します」
その言葉に、沙織はわずかに肩の力を抜いた。だが、心の奥では知っている。――事件は必ず彼女を巻き込む。作者の都合という見えない力が、校長室の扉を開けてしまったのだ。
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午後、学校内の小さな会議室で「第一発見者の生徒への聞き取り」が始まった。刑事は穏やかに質問を重ね、沙織は同席して生徒を守る役割を果たす。
「倒れている人を見つけたとき、どんな様子でしたか」
「顔は伏せてて……動いてなくて……」
「誰か近くにいましたか」
「……わかりません。木の影があったような気もするけど」
その言葉に、刑事が眉を寄せる。別の生徒の証言では「誰もいなかった」とされていたのだ。
次に呼ばれた女子生徒は、少し違うことを言った。
「人が倒れてるのを見たとき、誰かが走り去った気がしました」
「どんな人でしたか」
「……暗くて、よく見えません。でも背が高かったような」
証言は食い違い、断片的で、曖昧だった。刑事は手帳に走り書きしながら、沙織に視線を送る。
「先生、こういうときこそ経験が……」
沙織はすぐに遮った。
「私は協力しません。生徒の証言を守るために同席しているだけです」
刑事は苦笑し、質問を続けた。だが、聞き取りが進むほどに、事件の輪郭はむしろ曖昧になっていく。走り去る影を見た者、誰もいなかったと言う者、赤い紙切れを見たと証言する者。
会議室を出た後、沙織は深く息を吐いた。
――教育の場で、子どもたちが「証人」になってしまう。これこそ避けたかったこと。
校長室に戻ると、机の上の書類がやけに白く眩しく見えた。事件は学校に入り込み、生徒たちの記憶を揺さぶっている。
「……迷宮は、子どもたちの証言の中にまで広がっているのね」
沙織は静かに呟き、窓の外の校庭に視線を戻した。子どもたちの笑い声は確かに響いているのに、その背後で、見えない迷宮が形を変えていた。




