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迷探偵の迷宮  作者: 双鶴


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1話

「今日は絶対に事件なんて起きない!」

氷川沙織、三十四歳。校長に就任して初めての校外学習の日、バスの中でそう宣言した。生徒たちは笑いながら「校長先生、また死体見つけるんでしょ?」と茶化す。沙織は苦笑しつつも、心の中では必死に否定していた。――もうヒロインじゃない、ただの校長なのだから。


秋の自然公園は、澄んだ空気と湿った土の匂いに包まれていた。生徒たちは虫取り網を振り、落ち葉を踏みしめ、笑い声を響かせる。沙織は「これこそ平穏な日常」と胸をなでおろした。だが、その平穏は長く続かなかった。


「校長先生! 人が倒れてます!」

男子生徒の叫び声に、空気が一瞬で張り詰める。指差す先には、山道脇の笹の陰に横たわる人影。靴のつま先が不自然に土をかき、腕は落ち葉に半分埋もれていた。


沙織は反射的に「近づかないで!」と声を張り、生徒を後ろへ下げさせた。呼吸を整え、携帯を取り出し、教員二名に付き添い役を指示してから、足元の斜面を慎重に下りる。湿り気を含んだ土が靴底にやわらかく絡みつく。倒れている人物の顔は伏せられ、肩の辺りに乾ききらない赤がにじんでいた。脈を確かめようとした手を、静かに引っ込める。――すでに、時間は過ぎていた。


通報からそれほど待たずに、制服と蛍光色のベストが林の間に現れた。ロープが張られ、コーンが置かれ、空気が一段階冷たくなる。先頭の刑事がひと通り目で場を押さえ、沙織の方に視線を向ける。


「引率の責任者の方ですね。お名前と状況を」

声は落ち着いているが、言葉の端にわずかな硬さがあった。現場では、近くにいた者から疑う――定番の手順。


「氷川沙織です。校長で、第一発見者はうちの男子生徒。場所は、集合場所から東の小径に入って五分ほど。生徒を遠ざけて、すぐ通報しました」

淡々と事実だけを述べる。刑事は頷き、手帳に走り書きした。


「失礼ですが、校長先生はこの方をご存じですか」

倒れている人物の身元を示すものは、まだ何も見えていない。名札も、財布も、こちらからはわからない。ただ、山用の丈夫な靴と、土にすり切れた布のジャケットが目に入る。


「いいえ。見覚えはありません」

沙織がそう答えると、刑事はわずかに目つきを鋭くした。


「校長先生は、この近辺で何かトラブルに関わることは……」

問いは淡々としているのに、疑いは淡く漂う。生徒の前では余計な揺れを見せない。それだけを意識して、沙織は静かに首を振った。


「ありません。今日は校外学習です。生徒を安全に帰すことだけが、私の仕事です」


刑事はふっと息を吐き、別の捜査員に指示を飛ばす。検視の準備、周辺捜索、聞き取りの段取り。場が「現場」として整えられていく。一人の若い捜査員が耳打ちし、刑事がこちらを振り返った。表情が、ごくわずかに変わった。


「……氷川沙織さん。失礼ですが、あなた、過去に幾度も事件の解決に関わっていた方ですよね」

言い方は控えめだが、言葉の芯は明確だった。ヒロイン。見えない外側の世界ではそう呼ばれてきた役柄。


空気が、ほんの一瞬、からかうように粘る。沙織は、笑わない。

「私はもう教授ではありません。校長です。教育の場に、事件を持ち込まないでください」


刑事は、わずかに肩をすくめた。

「事情はわかります。ただ、こちらとしては、現場に居合わせた豊富な経験をお持ちの方に、状況の見立てだけでも……」

口調は丁寧だが、手順を早めたい焦りが混じる。


「協力はしません」

沙織は、一度だけはっきり言葉にした。声は低く、揺れない。

「生徒を守るのが仕事です。私は、巻き込まれたくない。二度と」


刑事は目を細め、数秒だけ沈黙した。その沈黙の間に、遠くで鳥が飛び立つ音がした。

「承知しました。では、必要な確認だけ。生徒の動線、人数、あなたが倒れている方を見た位置。……それから、第一発見者の生徒に、後で別室で簡単な聴取をします。先生の同席はお願いするかもしれません」


「その範囲なら、校長として対応します」

線引きは、言葉にするほど薄くなる。それでも、言葉にしておく。


ロープの外側で、教員たちが生徒を整列させ、数を数え、肩に手を置いて落ち着かせている。ざわめきの向こうで、誰かがそっと泣き、誰かが空を見上げ、誰かが硬く唇を噛む。校外学習は、突然、別の授業に変わってしまった。


ふと、土の匂いに混じって、紙の匂いがした。近くの落ち葉の間に、白い切れ端が半分埋まっている。捜査員が手袋越しに拾い上げる。紙には濡れて滲んだ線と、読めるか読めないかの記号のようなものが刻まれていた。誰かのメモなのか、ただの地図のコピーなのか、ここでは判断がつかない。


沙織は、見ないふりをした。視線を、子どもたちの列に戻す。

――私はもう、あの役割を演じない。これは、学校で起きた出来事だ。私は、学校の人間だ。


それでも、背中のどこかが知っている。

この世界には、見えない力学があることを。誰かが紙の外から指で弧を描き、物語をゆっくり回転させるとき、私の足元の土は必ず柔らかくなることを。


「校長先生」

刑事がもう一度だけ呼んだ。声は現場の温度に合わせて低くなっていた。

「生徒の安全確保が最優先なのは、こちらも同じです。こちらでバスまで誘導します。先生は最後尾の確認をお願いします」


「わかりました」

短く答え、列の端に回り込む。生徒の肩、肩、肩。数字が重なり、名が重なり、点呼表の紙が手の中で少し湿る。


歩き出す列の後ろに、ロープの赤が小さく揺れた。風が、一瞬だけ、葉の裏をめくる。


――迷宮は、入口を隠さない。こちらが目を逸らしても、向こうが目を合わせてくる。


沙織は息を吐き、足元を確かめ、前だけを見た。列は、ゆっくりと安全な場所へ向かう。背後で、現場は静かに深くなる。生徒の数が一つも欠けないこと。それだけが、今の彼女の物語だ。


だが、心の奥底では知っている。事件は、ただの偶然ではない。作者の都合という見えない力が、再び彼女を物語の中心へと引き戻そうとしている。


「私は校長。教育者。もうヒロインじゃない」

そう繰り返しながらも、耳の奥では刑事の声が残響していた。――“あなたは過去に幾度も事件の解決に関わっていた方ですよね”。


その言葉は、呪いのように彼女の肩に重くのしかかる。


列がバスへと近づき、子どもたちのざわめきが少しずつ落ち着いていく。沙織は最後尾で振り返り、林の奥に張られたロープを見た。赤い布が風に揺れ、まるで「ここからが迷宮だ」と告げているようだった。


彼女は目を閉じ、深く息を吐いた。

――事件は始まってしまった。だが、私は協力しない。巻き込まれない。校長として、生徒を守るだけ。


そう心に刻みながら、沙織はバスのステップを踏みしめた。


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