エピローグ
夜、沙織は机に向かっていた。窓の外には街灯の光がぼんやりと差し込み、川面の記憶がまだ瞼の裏に残っていた。逮捕された男の叫び声、警察官たちの押さえ込む手、そして自分の震える指先――すべてがまだ鮮明だった。
「結局、私はまた作品の中にいた」
そう呟いた自分の声が、部屋の静けさに溶けていった。
彼女は校長を辞めても、事件から逃れようとしても、結局は「推理小説のパターン」に巻き込まれていた。社会は彼女を「事件を解決した校長」として報じ、評論家は「皮肉にも彼女こそが最後の鍵だった」と語った。だが、沙織にとってそれは栄誉ではなく、呪縛だった。
「作品からは逃げられない……」
その言葉は、彼女自身への皮肉だった。
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だが、彼女は抵抗を選んだ。教育者としての道を閉ざし、事件から距離を置くために。
「普通の生活を選ぶ。見合い結婚をして、主婦になる」
それは彼女にとって唯一の抵抗だった。推理の舞台から降り、家庭という平凡な場所に身を置くことで、物語から逃れようとしたのだ。
沙織は見合いの席に座り、静かに微笑んだ。相手は真面目な会社員で、事件のことなど何も知らない。彼女は過去を語らず、ただ「家庭を大切にしたい」とだけ言った。
「主婦として生きる。それが私の選んだ道」
彼女はそう心に刻んだ。
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だが、作者の見えない魔の手はすでに始まっていた。作者は「主婦探偵沙織シリーズ」を構想していた。家庭に入った彼女が、近所の事件や家庭の謎に巻き込まれ、再び推理を始める物語。主婦であることが新たな舞台となり、彼女は再び「作品の中」に引き戻される。
沙織は知らなかった。だが、読者は知っている。彼女の抵抗は、次の物語の序章に過ぎないことを。
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夜、沙織は台所に立ち、湯気の立つ鍋を見つめていた。平凡な生活の象徴。だが、その背後には物語の影が忍び寄っていた。
「私は主婦になる。事件からは離れる」
そう呟いた彼女の声は、静かな部屋に響いた。だが、その言葉は未来の物語に飲み込まれていく。




