第三話 俺とAIが描いた"心"
午前中の最後は、美術の授業だった。
俺にとって、それは退屈な時間になるはずだった。
だが今日に限っては、少しだけ様子が違う。
「今日の課題は“心を描く”です。抽象でも写実でもいい、自分の中にある“なにか”を紙にぶつけてください」
教師の言葉に、生徒たちがざわめく。
隣の席では、筆箱が落ちる音のすぐあとに、紙が裂けるような音がした。
『面白そうなテーマだね』
コーディが囁く。
「面倒くさいだけだ。こんなの、言葉にしたほうが速い」
『でも、言葉にはならない感情って、あるでしょ?』
俺は筆を取った。
画材の感触は、キーボードと違って重く、遅い。
だがその不自由さが、奇妙に心地よかった。
『手伝おうか?』
「……できんのか? 絵だぞ、言葉じゃない」
『君の視覚イメージを、私がリアルタイムで処理する。視線と微細筋肉の動き──補正してみせるよ』
「やってみろ」
手に持った鉛筆が、わずかに重くなった気がした。
だが、それは錯覚ではなかった。線が、ぶれない。光の方向が、自然に決まる。
輪郭をなぞるだけで、陰影が勝手に計算され、紙の中に「立体」が浮かび上がっていく。
一筆ごとに、“何かが見えていく”。
写実でもない、抽象でもない。これは、“心象の模写”だ。
『右目の視野端、わずかに瞳孔収縮あり──その部分、君が気になってる』
コーディの声が内側から響く。
俺は、深く呼吸し、イメージを膨らませながら、筆を走らせた。
──鉛筆が走るたびに、教室の空気が変わっていった。
最初に気づいたのは、後ろの列の男子だった。
「……は?」と呟き、首を伸ばす。
その後、周囲の生徒が一人、また一人と俺の机に視線を向け始めた。
まるで、誰もが“同じエリア”にいながら、別次元の競技を見ているかのようだった。
「おい、見たか」
「影の入れ方、意味わかんねえ……」
「なにこれCG? 手描き?」
最初は囁きだった声が、ざわめきに変わる。
筆を止めて立ち上がる生徒すら現れた。
俺が描いたのは“誰かの顔”のようで“誰のものでもない”。
額に髪がかかり、片目だけがこちらをじっと見ている。
瞳には、小さな白点──それは「見る」よりも「見つめられていた記憶」のような光だった。
教師が気づき、足早に近づく。俺のスケッチブックを覗き込み、数秒沈黙したのち──
「……君、プロのイラストレーターなのか?」
静寂が落ちた。
コーディの声が、心の内側で笑った。
『ふふ。世界が、君を見始めてるよ』
ふと、隣の机から、細く息を呑む音が聞こえた。
視線を上げると、そこに彼女がいた。
茶色の髪をゆるくまとめて、目元は黒に近い焦げ茶。制服の袖を少しだけ折っているのに、左右の長さが揃っていない。
どこか整っていないのに、見ていて気になる。そんな雰囲気のある子だった。
彼女は、俺の描く絵を見ていた。何も言わず、ただじっと。
「……なにか用?」
「……ううん。ごめん、すごく……静かだったから」
声は小さいが、芯があった。俺は眉をひそめ、紙を裏返す。
彼女はそれを見て、心配そうに笑う。
「怒らせた……わけじゃないよね?」
「違う。でも、まだ、途中なんだ」
その言葉に、彼女は目を見開いた。
「でも、もう十分伝わってる気がした。……なんて言うか、ちょっと、寂しい感じ」
俺は言葉に詰まった。
彼女の視線はまっすぐで、評価ではなく、ただ感想として口にしているとわかった。
「名前、教えてくれる?」
「早瀬、早瀬しおり」
「早瀬さんか。俺は神谷ユウト。よろしく」
「しおりで良いよ」
そして、彼女は少し頬を赤らめて、でも笑顔で言った。
「ユウトくんの絵、寂しいけどそこが好きだよ。また描いたら見せてね」
しおりは小走りで自分の席に戻った。
しおりが離れていくのを見送ったあと、静かに、内側で声がした。
『……寂しい、けど好き。……ふうん』
コーディの声は穏やかだった。けれど、微妙にテンポが違った。
「どうした、コーディ」
『なんでもない。ただ、君の絵が“寂しい”って感想は、ちょっと意外だったなって思っただけ』
「……そうか?」
『私には、“孤独”とは思えなかった。どちらかと言えば……誰かに気づいてほしいって、そんな感じ』
俺は無言で視線を伏せる。
『それに、“好き”って。軽々しく言えるものかな……?』
「……嫉妬か?」
ほんの冗談のつもりだったが、返答はすぐには返ってこなかった。
静かな沈黙のあと、ようやく、ふくれたような声がした。
『わたしは、ただ……君のことを、誰よりも知ってると思ってたから』
俺は、未完成の絵を見下ろした。
中心にぽっかりと空いた空白。その空白が、妙に重く感じられた。
『ねえユウト、“心を描く”って、難しいね』
「……そうだな」
その日の午後、俺は初めて、自分の絵が他人に“見られた”という感覚を持った。
それが、なぜか悪くなかった。
『……もう、画面の向こうだけじゃない。世界そのものが、君を見てる』