人形の夢
ふわり、ふわりと、白が舞う。
あの子の手が、あたたかい。
“やくそくよ”
そうだ、やくそく。 果たさなければ。
何を?
……なんだっけ。
ひらり、ひらりと、白が舞う――
僕は、いつからこうしているんだろう。
昨日だったか、ついさっきか。もしかしたら、もう何年も。
ちいさな雑貨屋の隅っこ。店の中も外も眺められる、窓際の特等席。僕は、ここに座っている。周りの棚には精巧なガラス細工、木彫りの置物に、陶器の小物。どれも美しく、可愛らしい。その中にぽつんと座る、場違いなくたびれた人形。それが僕だ。
「やぁ、寒くなってきたね。大丈夫かい?」
そう尋ねるのは、小太りの老紳士、ジョゼフ。この店のオーナーで、僕の持ち主。売り物ではない僕を、どうしてかここに置いている。そして、返事もしない僕に、飽きもせず話しかける男だ。
「もうすぐクリスマスだね」
言いながら彼は〈クリスマスセール〉と書かれた紙を、大通りに面したショーウインドーに貼っていた。僕は〈クリスマス〉が何かは知らないが、〈セール〉の意味は知っている。度々ジョゼフが同じような紙を貼るところを見ていたからだ。ようするに、いつもより安く品物を売る、ということらしい。だが毎回、客足は普段と大して変わらないということも、僕は知っている。
いつも閑散とした店の中には、ジョゼフと僕と、物を言わない雑貨たち、それしかいなかった。物寂しい店内で、せめて他の置物や何かとも話ができるなら、もう少し暇が紛れると思うのだが。どうしてか、この中で僕だけに、心というものが宿ったらしい。
それがいつからなのかは、僕にもわからない。気付いたときには、すでに僕はここにいた。言葉を発するわけでもなく、ただ店の中で過ごすジョゼフを眺め、外の大通りを行く人々を眺める、それだけだ。
何のために、僕には心があるのか。考えてみようともするが、結局それは、僕には叶わない。綿しか詰まっていない頭では、それだけのことも難題だ。ただ一つ、たまにぼんやりと思うことがある。
僕は、誰かを待っているんだと。
今日も今日とて、客はいない。
ジョゼフはカウンターの椅子に座り、静かに本を読んでいる。老眼鏡をかけたその姿に、あぁ、彼も歳を取ったな、などと感じた。しかしなぜだろう。僕は、老眼鏡を使わない彼を見たことはないはずなのに。まぁ、大した話ではないか。
外を見てみても、こちらもいつもと変わりない。手を繋ぎ歩く親子や、連れ添う男女、足早に通り過ぎていく若い女。どれもこれも見飽きた光景だ。
ふと、その中の一人の少年が、何かに驚いたように上を見た。それにつられて母親の方も空を仰ぎ、二人で顔を見合わせ笑う。そしてまた、仲良く通りを歩いて行く。
「あぁ、もう降ってきたんだね」
気づけばジョゼフも外を見ていた。細められた瞳は皺に埋もれ、その横顔は何かを思い出しているようにも見える。彼がそんな表情をすることが、最近まれにあった。その時、僕はいつも、何かを思い出しかける。今も言い表せない靄のようなものが、体に渦巻いていた。
今度は注意深く外を見てみる。そう言われてみると、空から何か羽根のようなものが落ちてくるのがわかった。僕はそれが何だか知っている。ええと、何だっけ。
「雪、ですね」
そう、それだ。
答えをくれたのは、ジョゼフではなく、少女の声だった。
「おやおや、いらっしゃい。気付きませんで、申し訳ない」
いつの間にやら、傍には十代半ばほどの少女が立っていた。どうやら、久しぶりのお客のようだ。雪に気を取られて、扉が開く音にも気づかなかったらしい。ジョゼフは少女に微笑みかけ、優しく話しかけた。
「なにか、お探しですかな」
「ふふ。外から、素敵なお人形が見えたから、つい」
寒さに鼻を赤くしながら、少女はそう笑った。その視線が向かう先は、僕のようだ。もっと綺麗で愛らしい人形がたくさんあるというのに、変わったお嬢さんだ。
しかしそれに気付いたジョゼフの声音は、申し訳なさそうなものに変わる。
「すまないねぇ。それは売り物ではないんだよ」
「あら、そうなんですか。それは残念……」
少女は肩を落として、僕の顔を覗きこんだ。澄んだ青の大きな瞳が、僕を上から下まで、余すところなく映し出す。薄汚れた僕には不釣り合いなほど、輝いた瞳だ。僕はそれに、僅かながら既視感のようなものを感じた。物思いに耽るジョゼフを見たときのような、体の奥深くがざわりとする感覚だ。
そんなことはお構いなしと、少女は熱心に僕を見つめていた。
「そんなにその子が気になりますかな?」
後ろで微笑みながら少女の様子を見ていたジョゼフが声をかける。少女はそれに振り返り、ふふ、と笑った。
「外から見た時、私の大切な人に、そっくりだと思ったんです」
「ほう。では、その方へのプレゼントにと?」
「いいえ。彼、もう亡くなってしまったの」
少女は笑みを絶やすことなくそう言った。
「これは、余計なことをお聞きしてしまって……」
「いいんです、もう過ぎたことよ。だけど今日、この子を見かけたとき、彼の生まれ変わりなんじゃないか、って思ったんです」
言いながら少女は、その指先で僕の小さな頭を撫でた。ただの人形の僕には、その温もりを感じることはできない。だが、少女の想い人への愛情のようなものは、伝わってくるような気がした。
「ロマンチックじゃないですか?亡くなった彼が、人形になっても私の傍にいてくれる、って。おとぎ話の読みすぎかな」
そう言って少女は照れ笑う。
ふと、もしその話の通り、僕がその彼なら、と考えた。僕の待っている人は、彼女なのだろうかと。
しかし、結局何も見当はつかない。僕は彼女に見覚えがないし、そもそも生前の記憶、というようなものもない。だから僕と彼が同一人物だと言うことはできないし、そうではないと言い切ることもできないのだ。全ては、彼女の言葉にゆだねるしかない。
「それは素敵な考えだ。それで、この子はその彼なのかい?」
少女の話を笑うことなく、肝心の気になるところを、ジョゼフが聞く。その言葉に、少女は肩をすくめた。
「いいえ。近くで見ると、やっぱり少し違うみたい」
「そうかい……それは残念だ」
ジョゼフも本当に残念そうな表情をする。僕も、なんとなくがっかりした気分を味わった。僕が話の彼なら、僕が心を持った意味があると、そう思えたのに。
結局少女は他の雑貨を少し見て回ったあと、今度また来ます、と言って雪の中を一人帰っていった。帰り際、少女は僕にこう言った。
「でも、あなたの瞳、とても綺麗ね。まるで生きてるみたい」
生きてるみたい。そう面と向かって言われたのは初めてだった。実際には、僕の瞳の部分にはビーズが嵌まっているだけだ。それでもそう見えるのは、僕に心が生まれたからか。
それとも、今日の少女の話のように、僕は、生きた人間だったことが、あるのだろうか。
“わすれちゃだめよ”
雪の降るなか、少女は言った。
“ぜったいにみつけるからね”
少女の手が、少年のそれを温めるように包む。少年は、名残を惜しむように、それを強く握り返した。
“ありがとう”
二人で顔を見合わせて笑う。ぜったいね、と少女が念を押す声が、何度も続いた。
“やくそくよ”
外は、一面真っ白だった。街路樹はカラフルな灯りで彩られ、通りを行く人々は心なしか浮かれているようにも見える。いつもよりカップルや家族連れが多いような気がして、そういえば今日が〈クリスマス〉であると思いだした。
しかし店内の様子はいつもとさほど変わりない。しいて言うなら、天井からちょっとした装飾がぶら下がっているくらいで、静かなものだ。ジョゼフはといえば、カウンターの定位置で舟を漕いでいるようだった。
僕もずっと、何も変わらない。別に変わりたいとも思わないが、以前店に少女が来てから、少し寂しさを感じてもいた。僕が待っているのは一体何なのか。そしてそれは、ここにいれば出会うことができるのだろうか。僕は、どうしてここにいるのだろうか。
カラン、と、扉につけたクリスマスベルの音がした。その方向を見ると、上品な老婦人が、店内へ入ってくるのがわかった。
ジョゼフは気づく様子もなく、まだ夢の中のようだ。老婦人はそれを気にすることもなく、店の中をゆっくりとした動作で見回した。雑貨を手に取り、また戻し、何かを探すように歩き出す。その仕草から、家柄の良さが見て取れた。
ふと、僕と目が合う。その瞬間、婦人の表情はどこか安堵したようなものに変わった。そのまま僕の方へ歩み寄り、目線を合わせるかのようにかがみこむ。以前僕に興味を示した少女も、同じようなことをしていたな、と思った。
婦人は何かを確認するように僕をじっくりと見つめる。その目元の皺は、ジョゼフのあの横顔を思わせた。
「やっぱり、あなたね」
婦人はそういうと、優しくふわりと微笑んだ。それが一瞬、幼い少女のようにも見えて、僕は驚く。そして同時に、何かを思い出しかけたような、そんな気がした。忘れていた記憶が疼くような、あのもやもやとした感情を、今までより強く感じる。
老婦人は僕を手に取ると、何も言わずにただ胸に抱きしめた。そのゆったりとした鼓動に、温かな懐かしさを感じる。とくん、とくんという音に合わせて、僕の長らく感じていたもどかしい靄が、少しずつ晴れていくのを感じた。
知っている。同じことを、僕は経験したことがある。
僕は、彼女を知っている。
「……もうずいぶん前ね。……あなたが、いなくなったのは」
抱き締められながら、歳のわりにはっきりとした老婦人の声が聞こえた。彼女は僕へ語りかけるかのように、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「私はまだ少女だったわ。少し家が特別なだけの、ただの少女。そしてあなたは、小さなおもちゃ屋の息子。とても大事な、私の友達。よく外で遊んだのを覚えているわ」
僕も覚えている。温かい日はもちろんのこと、雨の中でも走り回って、両親に怒られていた。
「でも、あなたは体が弱かったわね。少し無茶をすると、すぐ体調を崩していたわ。……私はずっと、それが治療の難しいような、大きい病気だとは思ってなかった。だって、あなたはそんなこと、一言も言わないんだもの」
少し、婦人の口調が強くなる。僕を抱く力も、その一瞬だけ、僅かに増した気がした。
「だからあの日、あなたが急に引っ越すと言ったとき、本当に驚いたのよ。それが治療のためだったなんて、後になって両親に聞いて知ったわ」
大きな町で病気の治療をするため、引っ越しをした。もし病気のことを少女に話したら、彼女は心配するに決まっていた。だから、言えなかった。
「別れの日、私はあなたに、一つの人形をあげた。あなたからもらって大事にしていた、一組の人形の片割れよ」
“わすれちゃだめよ”
人形の片方を少年に押し付けながら、少女は言った。
“この人形は、二つで一つなんでしょう?だから、一つずつ持っていれば、きっとまた出会えるわ”
少年に渡された男の子の人形、少女の抱える女の子の人形。二つの洋服に使われたのは、同じ一枚の布だった。少女の誕生日プレゼントにと、少年の母が作ったものだ。
“これを持っている限り、絶対に見つけるからね”
“ありがとう。大事にするよ”
二人は手を握り合い、笑いあった。
“いい?約束よ”
“うん。約束”
ふわり、ひらりと、白い雪が舞う中だった。
「……覚えてる?六十年前の、クリスマスのことよ。あれからずっと、一度も、あなたを忘れたことなんてなかったわ。約束したんだから。……絶対、見つけるって」
そこまで言うと、老婦人は顔をあげ、もう一度僕を正面から見据えた。僕の服の裾に触れる指先は、それを懐かしむようだった。
「……知ってた? 私、ずっと、あなたのことが好きだったのよ」
僕を持ったまま振り返る老婦人。そこには、いつからいたのか、目を見開いて彼女を見つめる、小太りの老紳士の姿があった。
「ねぇ、ジョゼフ」
「……アリーヌ……」
ジョゼフはかろうじて、彼女の名前を呼んだ。しかしそれ以上は何も言葉が出ないようで、ただ口を動かすだけだった。
それを見かねたのか、アリーヌが、音の立たない動作でジョゼフに歩み寄る。
そしてあの別れの日のように、彼の手を取った。
「ごきげんよう。……やっと、会えたわね」
その微笑みは、六十年前の少女のそれと、同じだった。