将棋マスター優
俺の名前は藤沢優、プロの棋士をやっている。今日は、竜王がかかった重要な対局だ。相手は業界でも名を轟かせている鳥居9段。知的にメガネを押さえて何かを考えている姿は、プレッシャーを感じさせる。
今日は、勝負飯にカツ丼も食べてきた。そして、鳥居9段の癖や思考を、過去の対戦履歴からしっかりとリサーチしてきている。この戦いだけは負けるわけにはいかない。待機時間に対戦用のノートを見返していると時間が来たので、俺は対局の行われる会場へと向かった。
鳥居9段と向かい合い、間にはタイムキープの女性が座っている。そして、合図と同時に対局が始まった。
序盤はお互いに定石通りの手を打ち合い、その後の試合経過に思考回路を巡らせていた。相手の動きに従い、2手先、5手先、10手先と、読んでいく。極限の集中状態の中で、時間内に次の手を考える。
「十秒」
女性の時間を知らせる声が聞こえてくる。
俺は、その後の展開も考慮した上で、確実かと思われた一手を打とうと、持ち駒から歩を取り出して、相手の歩兵の前に置いた。
数秒の沈黙の後、俺は盤を見て、ある可能性に気づいた。
ん…これ、ニ歩じゃね…?
俺は改めて盤の全体像を把握した上で、歩兵の直線上にもうひとつの歩を、たった今おいてしまったことに気づいた。
しまったああああああああああああああ!
俺は心の中で絶叫した。最悪だ。この大一番でこれまで一度もした事もあるはずのないニ歩などという初歩的なミスをしてしまうとは!
俺は、反射的に鳥居9段を見上げた。すると、鳥居9段は、何かを考えているような表情ののち、ゆっくりと頭を抱えた。俺は、ゆっくりと隣の女性を見た。すると、女性は真顔でどこか宙を見つめていた。タイマーも、通常通り動いている。
あれ…?バレてない…?
俺は、そのひとつのあり得ない可能性にたどり着いた。
動悸が高まり、息が荒くなる。俺の心拍数は最大限に高まっていた。改めてタイマーを見ていても、着々と鳥居9段の持ち時間が減っていっていた。俺は、とりあえず次の一手が来るのを待つしかないという結論に辿り着いた。その時、
ニヤッ
と、鳥居9段の口元が歪むのを俺は見た。まさか…バレている??そりゃそうだ。達人である鳥居9段がニ歩という圧倒的なミスを見逃すはずもない。これは何かの間違いで、この対局は俺の負けだ。それは確定した事実であり、この時間は俺に敗北を告げるまでの猶予に過ぎない。しかし、
パチッ
という音と共に、鳥居9段は持ち駒を取り出し、盤の上に置いた。すかさずタイマーを見ると、出番は俺に移っている。
俺の出番が回ってきた…?これは、続行という事なのか?俺は、さっきの鳥居9段の不敵な笑みも含め、訳がわからないが、とりあえずニ歩が見逃されているという状況を受け入れるしかないことに気づいた。しかし、歩は依然として同じ列の延長線上に二つ乗っかっている。いつ反則の証拠を上げられてもおかしくない、と考えていると、俺は鳥居9段がたった今置いた駒の異変に気づいた。
駒の名前を見ると、そこには「神」と書かれていた。
か、神ィ!?!?
もちろん、将棋に「神」という駒はない。この一手は、二歩を超える禁じ手中の禁じ手だ。鳥居9段を見上げるが、特に常軌を逸した行動をとった様子は感じられない。いつも通りメガネを押さえて考え込む姿勢がそこにはあった。俺は、訳がわからず歩を前に動かす一手を打つことしかできなかった。
すると、
「ワールドブレイク」
「ワールドブレイク発動」
鳥居9段の宣言と共に、女性が右手を掲げて何かを宣言した。すると、盤上に置かれていた俺の全ての歩が置かれていた盤がスライドして穴が出現し、歩が落ちていった。
えええええええええっ!
つい先ほどまでそこにあった9つの歩が、一手にして消え去った。訳がわからないが、どう考えてもニ歩が消えて霞むほどの反則であることは間違いない。俺は、何かのトリガーを引き、この対局を将棋ではない別のものに変えてしまったのだろうか。だが、黙ってこの対局を進めるしかない。俺は、左隅に置かれていた角を動かし、斜め延長線上の「神」を取った。すると、
「グハッ!」
キュキュキンキュイーン!
鳥居9段の唸り声と共に、何か攻撃を食らった時のSEと共に、右側のタイマーに示された数字が、3000から1000へと減った。
「鳥居9段、残りライフ1000」
女性がそう宣言した。ライフ制だったのかよ…。俺は、何かのカードゲームをやっているような錯覚に陥ったが、これで確信した。これはもう将棋ではない。しかし、対局が始まってしまった以上、敵に背は見せられない。この波に乗るしかないのだ。数秒の逡巡の後、俺は、
「ゴールデン・ソルジャーの効果を発動!敵の香車を2体破壊する!」
と、持ち駒から「金将」を取り出してそう宣言した。
………。
重苦しい沈黙が続いた。女性は真顔で宙を見つめたまま何も言わない。
「藤沢さん」
鳥居9段は、メガネの位置を直し、言った。
「ニ歩です。」
「張り倒すぞてめぇ!」
The end