第一話
寝る前のひととき、私は伝説として語られる聖女と英雄の話を思い出していた。
かつて世界の半分を壊滅させたという邪竜を倒し、封印した二人の物語。彼らが邪竜を封印した夜は、青い月の夜だったと伝えられている。
そう。それはきっと今日のような――。
カーテンを左右に引きベッド脇の小さな小窓を開け放つと、樹々の隙間から覗く夜空に輝く月が見えた。そのあまりの神々しさと美しさに、私は感嘆と陶酔の溜息を零す。
夜空に浮かぶのは銀青の月。
月を包む暈は月よりも更に濃い神秘的な青。そのやわらかな青い光が優雅に夜空に広がり、世界のすべてを青く染める――そんな青い夜。
なーんて。
ちょっと格好つけすぎちゃったな。
ついこのお伽噺のような美しい世界の雰囲気に飲まれて、私の中の詩人が目を覚ましてしまった。でも青い月もいいけれど、向こうの世界の金色の月も懐かしいな。まあ、あと一ヵ月もすれば見れるんだけどね。
青い月が支配する夜は、今月で最後。来月になれば、夜は金の月の支配下へと変わる。
この世界では四つの月が三か月ごとに入れ替わり、夜を支配している。金の月、赤の月、緑の月、そして青の月。
でも月が四つある訳じゃなくて、周期によって色が変わるだけ。多分大気中の成分が変わるためなのかな、と私は思っているけれど、この世界の人間はそこのところは特に気にしてはいないみたい。これから先もっと時代が進んだら、そういうことも解明されるのかもしれないな。
あ、あと月の満ち欠けは以前いた世界とほとんど同じ。周期は約二十八日。満月も新月もある。もちろん三日月も。
そして今日は満月。灯りを消しても部屋の隅々まで見通せるほどに明るい夜だ。
さて。月見も飽きたしそろそろ寝ようかな。明日も早いし。
小窓は閉めたけれど、カーテンは開けたままにしておく。私はベッドに横たわり薄い布団を首元まで引き上げた。漆喰の壁と麻の布団のオフホワイトに青い月の光が降り注ぎ、部屋全体が青で満たされている。
――まるで海月になって海の中を漂っているみたい。
おっと、また私の中の詩人が騒ぎ出してしまった。いかんいかん。さっさと寝よう。明日も早いんだってば。
だけど目を瞑ってはみたけれど、ある事が気になりなかなか寝付けない。寝返りがやめられない。もやもやする。とても寝てられん。
私は隣のベッド(今は誰も寝ていない)を見つめ、また溜息を吐いた。今度はやれやれの溜息だ。
私は城に住んでいる。でもお姫様じゃない。王城に侍女見習いとして勤めている私は、城で働く使用人専用の部屋に住んでいるのだ。
侍女見習いの私の仕事は何でもありだ。雑用係、何でも屋、小僧のお使い。まあ、一般的な侍女が小間使いなので仕方ない。でも私は好き。身体動かすって気持ちいい。
もっと前の時代は使用人の中でも侍女は立場が上の上級使用人だったけれど、今はそうでもないみたい。侍女は女主人の身の回りの世話が主な仕事。私もいずれ王妃様や王太子妃様のおそばで働くことになるんだろうけれど、そのことを考えると、正直今から憂鬱だ。だって絶対粗相をするよ。
私が正式な侍女として認められるにはあと二、三年はかかるから、それまでにもし他の良い仕事でもあればそっちに鞍替えするのも良いかな、なんて思ってはいる。でも、住み込みで働けるし結構待遇もいいから、そうは言いつつも結局ずっとここにいるのかもしれないとは思っているんだけれどね。
それで、王妃様付の侍女にでもなれば一人部屋を貰うことも出来るのだけれど、それ以外は基本二人部屋だ。でも二人部屋だと割り当てられた人が変な人だと大変なことになる。プライベートで気が休まらなくなるからね。
例に漏れず私も相部屋だったけれど、でも住人には恵まれた。
この部屋のもう一人の住人は、今夜外出をしている。同じく城に勤める騎士の彼氏とデートなんだって。
こんな月の輝く美しい夜にお忍びデートかよ、リア充め。爆発しろ。
ああもう、羨ましい~。恨めし~。烏賊飯~。
……やばい、今度は私の中の親父が目を覚ましてしまった。この親父は一旦目覚めるとなかなか眠ってくれないのだけど――まあ、いっか。いつものことだし、心の中だけだしね。
まあ、何というか、ね。
私には小さな頃から前世の記憶があったんだよね。
中世と近世が絶妙に入り混じったようなこの世界で生を受けた私は、ここではないどこかの世界の記憶を持っていた。でも前世の自分のことはあんまり覚えていない。名前とか性別とか姿形とか。
これって今の自分を護るための一種の防衛本能なのかな、と私は思ってる。
けれど前世暮らしていた国の文化や常識、自分が好きだった食べ物とか、曲とか、小説とか。そういう記憶は覚えている。それに私が意識していない記憶とかも、日常のふとした瞬間に浮かび上がってくることがあるのだ。
彼女と出会った時もそうだった。今はいない相部屋の住人、ベルタ。
ふんわりストレートの朱色の髪に、キラキラと輝く大きな橙色の瞳。ちょっと垂れ目でめっちゃ可愛いの。
相部屋になって初めての挨拶をした時に、この子なんか見たことあるなって思ったんだよね。それも多分、今世じゃなくて前世で。そう言うのってなんとなくわかるんだ。
だから、私たちどこかで会ったことある? なんて、ついつい下手なナンパのようなことを言ってしまった私は悪くない――はず。
私の質問に、ベルタはちょっと驚いた顔で「いいえ」と答えた。でもそう言われても私のベルタへの既視感は消えなかったんだよね。
だから私はその後注意深くベルタと、その周辺に目を光らせた。私は積極的にベルタに話しかけ、一年が過ぎる頃には私とベルタは気の置けない友人になっていた。
ベルタは可愛いだけじゃなくて心根も優しい。いつもふわふわと微笑んでいて、でも芯は強い。いかにもなヒロイン気質である。
だから、私の予想ではここはきっと乙女ゲームか何かの世界で、ベルタは絶対攻略対象にちやほやされる主人公だと思ったんだけど――。
でもベルタの周りに攻略対象みたいな男性陣がいない。
定番の王太子様も第二王子様ももう結婚しちゃってるし、第三王子様もいるらしいけど何やら曰く付きで今何をやっているのかもよくわからないらしいし。――そしてそれについて聞こうとすると皆なんとなく口が重くなるので、そうか聞いちゃいけないことなんだなと私は引き下がることがほとんどだ。触らぬ神に祟りなし。
そして宰相にご子息はいないし、騎士団長は結構なお歳でご子息も妻帯者だし。魔術師もいるにはいるけどご高齢の方が多くて、若い人もいるにはいるがなんかしょぼい。
今夜の逢引の相手もまあまあイケてるけど攻略対象ってほどじゃないし。
しかもあの男、こないだ私とベルタ共通の友達であるリカナにも声かけてたんだよね。
あの感じは彼女の友達に声かけてたって感じじゃない。だって鼻の下のばしてニヤニヤしてたもんね。声かけてただけだからベルタには言ってないけどさ。
あーあ、もうおっかしいよねえ。ベルタあんなに可愛いのに。やっぱ私の気のせいだったのかなあ……って、あれ?
今何かに引っかかったな。
何だろう。リカナに声かけてたベルタの彼氏。あいつのこと思い出した時に私の記憶の何かに引っ掛かった。
うーん。うーん? うー……?
……そうだ。
ベルタだけじゃない。私あいつの顔も知ってるわ。
そう思った瞬間、私の頭の中にベルタとあいつのツーショット場面が思い浮かんで来た。いつもの城内での二人じゃない。暗い森の中で何やら言い争っている二人の姿が。
その場面には何だか既視感があった。
……もしかして。
もしかしてこの世界って、乙女ゲームじゃなくて私が前世読んでいた小説の世界じゃない? だってベルタとあいつって小説についていた挿絵の人物にそっくりなんだもん。
えっと。その小説は多分私が昔(前世)読んだことのあるファンタジー小説で、タイトルは忘れちゃったけどダークファンタジーに分類されるようなちょっと暗い内容だった気がする。
内容は――ある日突然蘇った《古の災厄》と呼ばれる千年以上前に大暴れして世界の半分を壊滅させたっていう邪竜を、すったもんだの末仲間たちと共に倒す物語だったはずだ。
その小説を読んでたのは小学生の頃だったから詳細な記憶は残っていなくて大まかなストーリーしか覚えてないんだけど、魔法あり、冒険あり、ちょっとした恋愛ありでなかなか面白かったんだよね――って。
……うん。待って? 邪竜?
もしかして、その邪竜ってあの邪竜じゃない?
この国――ううん。この世界の人間なら誰でも知ってる昔話。聖女と英雄の物語に出てくる、あの邪竜じゃない? そういえば邪竜の別名って《古の災厄》じゃなかった?
えっ。しかもあの小説って邪竜が復活したことで国一つなくなるんじゃなかったっけ。
えっ。その国って――
――いや、この国じゃん!
そうそう、そうだよ。《古の災厄》はこの国で蘇るんだった。邪竜が封印されていた祠のようなものをこの国の騎士が壊しちゃうんだっけ?
……おい騎士、何してくれてんだ? 今すぐ騎士辞めろ。魔力なんて超常的な力がある世界で何かが封印されてそうな祠を壊しちゃ駄目だろ? ていうかもっとわかり易く封印しといてくれ。
……ああそうだった。封印って言われているけど、別に邪竜は何かのお札とか箱とか、物に封印されているわけじゃないんだった。祠もあとから何か感じちゃう系の人によって置かれたんだっけ……。
――いやいや、本当に待って? それっていつの事?
私はかぶっていた布団を蹴り飛ばす勢いでベッドから起き上がった。心臓がばくばくいっている。驚きすぎてちょっと吐き気もした。
何でもうちょっと早くに思い出さなかったかな、私……。
いやいや、まだ間に合う。よーく考えよう。まずは――何で騎士は祠を壊しちゃうんだった?
えーと、確かたまたま恋人との逢引場所に邪竜が封印されている祠があって、二股をかけていたその男は恋人にそのことがバレて平手打ちを喰らって――って最低だな、その騎士。それでよろけた拍子に祠を倒して壊しちゃうんだった。
んー、でも祠が後から置かれたものなら祠を壊すだけで封印が破られるっておかしくない? 何かそれだけじゃないような気もするんだけど思い出せない……。
というか……あれ? もしかしてその二股かけられていた恋人って……。
ああ! やっぱベルタだよ! それで祠を壊す騎士ってベルタの彼氏じゃん! うん。何か途中から薄々気づいてはいたけどね。信じたくなかったというかね……。
しかもそいつが二股かけた理由って、いつまでたってもベルタが身体を許さなかったからとかいう理由だったな。うわー、最低だあいつ。さっさとベルタに告げ口しとくんだった。許すまじ女の敵め!
あっ。 ……まさか二股の相手って、リカナ? ……ふざけんなよ! 私の友達二人に何してくれてんだ!
――……って、落ち着け落ち着け。
今は二股野郎に憤慨している場合じゃない。その恋人との逢瀬っていつよ? 挿絵のベルタと私の知っている今のベルタには、恐らくだけど年齢的に大きな差異は見られないと思う。
あいつが本当にリカナと二股しているとなると、ベルタに二股がばれるのもきっと時間の問題だ。だってあいつがリカナに声かけていた場面って、私以外も見ているもんね。そして、逢瀬は夜に行われていた――となると。
私はちらりともぬけの殻のベッドに視線をやった。
――……うん。ちょっと、待とうよ。
いくら定番だからって、すぐにそれを信じるのはどうかと思うのだよ。異世界に転生ってだけでもすでにお腹いっぱいなんだよ。
確かに乙女ゲームの世界かも、なんて思ったりしたけれどマジのマジでお前そう思っていたのかよって聞かれたら多分違うと答えるし。
ノリですよノリ。異世界に前世の記憶持ったまま転生したら一度はやってみたいじゃない。ここってもしかして――ってやつ。
前世読んでいた小説の挿絵の人物に、ベルタとベルタの彼氏が似ていたってだけで決めちゃっていいの? もうちょっと検証した方が良くない? 絶対そっちの方がいいって。邪竜復活! なんて触れ回ってカスったら目も当てられないよ?
……でも、確か小説では青い月の満月の夜って書かれていたんだよね。
昔話で邪竜を封印したのも青い月の夜。妙に符号が一致していることが不気味だ。
そこまで考えた時、喉がヒュッと音を立てて空気を吸い込んだ。
……そうだよ。
青い月の満月の夜――は、今日、だ……。
「嘘でしょ……?」
私はカーテンが開けられたままの小窓から空を見上げた。青い空には丸い銀青の月が輝き、月の周りに棚引く雲が、月の暈の青い光を受けて夜空全体を青く染めていた。
まるで世界が青い宝石の中に閉じ込められたかのような、美しい夜。
こんなにも美しい夜にひとつの国が終わりを迎えようとしているなんて、とても信じられない。
――いや、信じたくない。
ほんの一瞬だけ、茫然と月を見つめていた私は次の瞬間ベッドから起き出し靴を履き、ランプと小袋を手に急いで部屋を飛び出した。
やっぱり私の勘違いかも知れない。でもだったらそれで良い。確認して間違っていたら、自分の馬鹿さ加減を笑えばいい。それで終わりだ。
一旦封印が解かれてしまえば、もう後はない。《古の災厄》である邪竜を倒せる人間なんて今この時代には……。
「あっ」
私はピタリと急ブレーキで動かしていた足を止めた。あまりにも急激に立ちどまり過ぎて前につんのめりそうになったけれど、なんとか堪えることができた。それよりも――。
……いたよ。いたいた。邪竜を倒せそうな人間。
なんかベルタとあいつのことを思い出したのを切欠に、どんどんと小説の内容を思い出してきたみたい。いいぞ。この調子で頑張れ私!
ここが本当にあの小説の世界だというのなら、今は小説の舞台となった時の十年前。復活した邪竜が倒されるのは今から十年後。
でも、生きているはずだ。今この時に。
小説の中に出てきた邪竜を倒す旅に同行した騎士。主人公の一人。邪竜によって滅ぼされた国の生き残り。
後の竜殺しの英雄、マティアス・レドフォード。
彼は今この国の騎士団にいるはずだ。
レドフォードは正確にはレッドフォードなのでしょうが、リズムが良いのでレドフォードにしました。