一人憐れに嘆くよ献花
1匹の魔物が死んだ。病死だった。
彼女、モモセノ→モヨは豊かな巻き髪気味の茶髪を持つとても美しい雌の魔物であった。
今日はそんな彼女のお葬式の帰りであった。
曇天と小雨のあいまを行ったり来たりする湿度。アスファルトはもう既に濡れそぼっている。
暗澹とした雨天の色合いを切り裂くかのように1台の緑の「デミオ」が走行していた。
「モネ」
車内、女性と思わしき声が誰かの名前を呼んでいる。
「モネ? おきて?」
まるで生まれたばかりの柔らかすぎる赤ん坊に話しかけるかのような慈愛に満ちた声。
彼女は既に何度も何度もモネの名前を呼び続けていた。
そうしていないと彼女自身が事故の存在を確立できなくなるかのような、ある種の強迫的恐怖を想起させる繰り返しだった。
あまり大きくない、赤い車の社内。
車窓の外には、あまり「普通」とは呼べそうにない変な雨が飽きること無く降り続けている。
モネと名前を呼ばれた少女は車の後部座席ですやすやと眠りこけていた。
座席の右隣にはもう一人、セミロングの黒髪が艶やかな少女が座っている。
モネはその少女の肩に寄りかかりながら寝息を奏でている。
「モネ……」
再三、すがるように呼び続ける彼女の声に。
「ハルモルニカのモネのお嬢さんはまだお眠りの最中です」
モネではない誰か、別の少女の声が彼女に返事をしていた。
「彼女の覚醒には、恐らくですがまだ時間を要するでしょう」
別の少女はウィスパー気味な声音で状況を運転席の相手に報告する。
「それは致し方ないことです」
眠りから覚めようとしないモネ。
そんな彼女の安眠を守ろうとする。その行為を己の義務と課しているかのように、別の少女はモネの睡眠の正当性を生真面目に主張しようとする。
「わかってる」
しかし、運転席の女性は取り立ててディベートを重ねる気は無いようであった。
「分かっているよ、シキ・シズク」
彼女はもう一人の少女の名前を、まるで何かに対して確認を取るかのように呟いている。
「朝から今……夕方も終わろうとする時間まで、散々な目にあってきたからね」
「モノさん……」
シズクはモノと言う名前らしい、運転席の彼女に向けて呆れたような視線を向けている。
「曲がりなりにも大事な冠婚葬祭の儀なのですから、そんなあたかも悪辣のサバトを生き延びたかのような言い方をするもんじゃありませんよ」
「カッコつけてんじゃないわよ、このどら猫ちゃんがよぉ」
しかしモノはシズクの常識人素振りを真っ向から否定していた。
「君だって内心あのゴミクズみたいな親戚たちを一匹のこらず細切れにしたかったんでしょ? そうなんでしょ?」
まだ齢十五を終えていないような少女に向ける配慮とはとても思えない内容である。
しかしシズクはモノの指摘にぎょっと驚き、そしてすぐさまその花のかんばせをポポッと赤らめていた。
「イヤですよモノさん……ぼくの秘めたる邪な願望をそのように明け透けに言語化しないでくださいよ……」
「……あー……うん、そこで恥じらいを見せちゃう辺り大概君もかなり手遅れな部分があるよね」
シズクの内層に潜む暴力性と嗜虐心からわざとらしく目をそらしつつ、モノは再びモネの身を気遣おうとする。
「なんにせよ私が半ば強制連行するような勢いであのクソッタレ集会からそこのキャワイイお嬢ちゃんを救い出さなかったら、今ごろあの脂ぎった老害親戚連中はシズクちゃんの蹴り技とドス捌きの餌食になっていた、と」
「ええ、無用な治癒魔法の浪費を防いだことについて、今は素直に安堵を享受しましょう」
……どうにもこうにも先ほどから会話の雰囲気が血なまぐさいのは、ひとえに彼女たちが属する業種に関連しているのだろうか?
彼女たちは魔法使い、職業としての魔法使いに属している。
「そういえば新しい電池を手に入れたってホントなの?」
丁度を合わせるかのようにモノが魔法使いとしての会話内容をシズクに振ってきていた。
「なんでも並大抵の魔力電池の倍以上はバッテリーを貯蔵できるとかなんとか」
「な?! んななな……っ」
先ほどまでそれなりにリラックスした様子で会話を行っていたはずのシズクがやにわに動揺し始めていた。
「いつ? どこで? 誰からそのようなうわさ話をお聞きになったのです?? 事と次第によっては情報提供者を棺桶に詰めやすいサイズに加工する必要が出てきますよ?」
「やめなされ、今しがたこの世でもっとも見たくない棺桶姿を拝んできたばかりだと言うのに」
血みどろの気配を敏感に感じ取ったのか。
「んんぅ……」
車の後部座席、シズクの右肩の上でモネが小さく呻き声を発している。
会話内容、あるいは無意識に蔓延る殺気に意識を引き寄せられそうになっているモネ。
そんな彼女にシズクが静かにささやく。
「お嬢さん、まだ目的地には到着しておりません。仮眠を継続することを推奨します」
「んんんん……」
寝ぼけ眼のぼんやりとした思考回路のままモネは再びうたた寝の世界へと身を放り投げていた。
「んん……」
モネの片目がゆったりと閉じられていく、その様子をバックミラー越しに眺めていたモノが感心するように鼻を小さく吹かせている。
「しかしいつの間にモネちゃんにあんさんみたいなキャワイイお友だちが生えてきたんやろうね?」
ついこの間まで巷で一番かわいいぼっち美幼女であったはずだと言うのに。
などと姪っ子に対してかなり意味不明、と言うか叔母としてあるまじき下卑た品評を行っているモノである。
そんな先輩魔法使いを横目にシズクは車窓の外側へ何やら想いを馳せていた。
「他人の死を見届けたのは、二度目と言うことになるのでしょうか?」
どうやら質問の体を為しているらしいシズクの呟きに対しモノは曖昧な返事だけを返すだけであった。
「うん? うん〜? まあ確かに……来世感覚で考えればそういう事になるんやろうね?」
何やら無駄にスペクタクルな方向性の逡巡を向けられている気がする。
わたしは……たかが電池ごときのわたしにあろうことか場面説明を行える程度の知能と自由意志を有していることを今ここに事細かに説明しなくてはならない説明をあえて省かせてもらう。
その怠惰に関しては目に見えぬどこぞの他者に適当に謝罪するとして。
「もしもし魔王?」
わたしは黒髪の彼女……シズクの携える幾つかの荷物の山々の合間からささやきかける。
「ん? どうしましたか姫」
わたしたちは、あくまでもわたし達の間においてスムーズに話題を進められるオリジナルな呼び名を使用している。
「尊き魔法使い、僭越ながら発言をさせていただく」
「了解」
何もわざわざ認可を取る必要もなく、わたしが何を、如何様に話そうがシズクは特に気にかけないのだろう。
そう、気にかけないのだ。彼女はわたしの存在を「未だに」上手く受け入れられないでいる。非常に悲しいことに。
「彼女について思うことはございませんか?」
「思うこと、ですか?」
質問としてはかなり曖昧なものである。
しかしそれでもシズクにはそれなりに合点が行き届いたらしい。
やはり彼女にも思い当たるところがあるようだ。
「そうですね」
思考、とほぼ同時の速度でシズクは運転席のモノへ質疑を開始した。
「モノさん」
「何じゃらホイ」
「……」
シズクは少しだけ、ほんの少しだけ迷ったあとに、単刀直入に決定的な疑いの言葉を相手へ一投することを決意した。
「ここにはもう、彼女は存在していません」
「……」
彼女とは誰のことか?
シズクが発した質問内容はひどく曖昧で、ともすればただの意味不明な戯言のようなものとして認識されるに止められていた可能性が高かった。
可能性。
しかし、この未熟者な魔法使いの美少女の試みはそれとなく望むべき方角へと進んだらしい。
「ああ……」
ただし先に進んだ道の果に見えるものが善いものであるかどうかはまた、全くの別問題ではあるが。
「ああ……」
繰り返される吐息。
シズクはそれをモノからの返答として自己認識する。
「モノさん、お嬢さんはまだお休みなられてます」
だから、これから話す事柄を少なくとも彼女に……モヨ氏の愛娘であるモネに聞かれる心配性は限りなく低い。
だからこそシズクはある種の賭け事のようなものへと身を投じることにしていた。
「少しお話をしませんか? モノさん」
モノは少し考えたあとにシズクに答えている。
「モネが起きちゃうよ」
これは言い訳である。シズクはモノの逃避行動を素早く察知していた。
「その心配はございません。お嬢さんは一度寝るとかなり本格的なノンレム睡眠に陥るので」
「ほう? シズクちゃんがどうしてうちのプリチーぷりてぃプリティッシモな姪っ子ちゃんの睡眠事情をそんなに仔細にご存じなのかしら??」
それはもちろんシズクとモネが頻繁に同衾しているからである。
もっと詳しく事情を明かせば、少し昔にとある事件で心身共々に深傷を負ったシズクをモネがよく看病してくれた、その辺の事情で寝所を共にする機会が多かった。
といった事情を説明することはできる。わたしにもできる。
だがしかし、モノ女史は決してそのような情報を求めてなどいないのだろう。わたしは何となく思い悩む。
「単刀直入に言います」
シズクはまさに相手へ刀を振り下ろすかのような戦闘意欲に胸の内を滾らせていた。
「モモセノ→モノさん。あなたは今、とても傷ついている」
シズクの右目。……まだ比較的健康に、「普通の人間」らしく残ったままの眼球がモノの姿をとらえている。
黒猫のような彼女のエメラルドのような瞳が縦長の瞳孔にあわせて静かに、だが確かな鮮やかさを以て伸縮を繰り返している。
「はて? なんの事だろうか?」
シズクからの追求にモノはとぼけて見せていた。かなり簡略化された指摘ではあるがモノには既に規定値を越える勢いの「思い当たり」があるようだった。
「誤魔化す必要はございません」
逃げようとする相手の気配を敏感に感じとったシズクは容赦なくワードチョイスによる追従を継続した。
「何を取り繕う必要がありましょうか? 今さらです。ええ、ええ、あまりにも今更です」
シズクは自身の被毛を指先でくるくると弄くっている。
魔物と言う生き物の区分ではあるものの、基本的な身体機能はかつて存在していた「人間」のそれらとさして違いはない。
体毛は獣のそれより遥かに少ない。脳みそは現状2000年代の科学文明であれば躊躇いも違和感もなく享受することが可能である。
人間とあまり違いがない、だが何処か決定的な部分でヒト足り得ることは決してあり得ない存在。
となれば人として当たり前の機能は一丁前に取り揃えてしまっている、とも言える。
例えば、心などはもはや区別のしようがない程。
意識などの脳機能において魔物と人間の際はほぼ無いに等しい。
故に。
「そう。……そうよ」
魔物であるはずのわたしでさえも、運転席に座る彼女の鹿のような造形の耳が悲しみに震えている、その光景を以外だとは思わなかった。
思えるはずもない。失恋に悶え苦しむ女の姿などわたしの凡庸な人生(魔物生? ……語呂が悪い)において何度も何度も遭遇してきた。
失恋した女と言うものは実に恐ろしい!
あるものは己を業火に放り投げ、あるものはリビングの机の上でワインをあおって床に頭から転落したりする。
今聡明に車窓を見据えているモノ氏もまた失恋の苦痛に身を灼かれている。
シズクはそう主張したいようだった。
シズクはさらにモノに追求をする。
「あなたは、モヨおばさん……モモセノ→モヨを愛していた。心から愛していた」
問いただす、行為自体は尋問と同じジャンルになる。
だがシズクは問う事よりも相手への確認として仮説を継続させていた。
シズクは既に確信しているようだった。モノが自らの姉に情愛を抱いていたということに。
「これはあくまでぼくの勝手な予想ですが、おそらくモネさんは既に貴女の感情にお気づきになられているかと」
「ほう? してその根拠は」
かなりプライベートな領域に踏み込んだやり取りである。
「よそのガキがうちの何を知っていると言うのか? 返答次第ではこのまま君を湾へと連行することだって可能だよ」
東京湾か駿河湾好きな方を選べそして物言わず沈め。
特に何の工夫もなく殺意を主張しているモノである。
「……っ」
シズクは当然のごとく怯えていた。呼気が上ずり口腔内は過度に硬直しピリピリとしたしびれが発生する。
耐えがたい威圧感。
モノの……かつての侵略戦争を生き延びた魔法使いの生き残りの、並々ならぬ気迫。
怯える、怖がる、だがシズクは己の言葉を止めなかった。
「モノさん、死者に言い訳は通用しません、嘘もそうです」
殺意の塊のど真ん中においてシズクは言葉による透明な武器を胸の内に握りしめる。
「もう聞く耳など持たない相手に取り繕いをしたところで、ただただ自分自身が疲弊し苦痛を覚えるだけです」
「嘘を。あたしがモヨを諦めている、とっくの昔に自分の内側で納得……のようなものを拵えて過去の思いなんてものを捨て去っている。と言う嘘で身を守って平静を装っているとしても?
それこそ、今日のめんどくさいダルい法事をペーペーなガキの貴女方に代わってとりもって、塵芥よりも取りつく島の無い親戚連中の下卑た視線を掻い潜ってきた。それらの用事に役立った嘘、だとしてもかね?」
らしくないな。と言うのが率直な意見ではあった。おそらくわたしだけではなくシズクも、あるいはモネであっても同様の感想を抱いたに違いない。
らしくないのだ、あまりにも。
「モノさん。あなたは自分の責任を全て自分の内に片付けてしまう人です」
片付けてしまえる。とも言える、シズクはもはや痛みをこらえるかのような痛切な表情を瞳ににじませていた。
「ですが一人が抱えられる痛みには限界があります。どんなに心が狭くても、どんなに闇が深くても、限界は常に最低層に存在し続けています」
過度な緊張による眼球の感想、それにより増えているまばたきの数。
目蓋の裏の暗闇が繰り返される、明滅の合間にシズクは感情が産み出す針山のような空想世界を想像していた。
歩くだけで皮膚が傷つき血が流れる、痛みと共に肉がぐちゃぐちゃになる。
空想の中の出血。血液の熱、皮膚に触れて濡れるヌルリとした感触、ベタつき。
それら全てはシズクの空想でしかない。だが個人的なfakeで片付けるにはあまりにも生々しく、いっそ痛みさえも伴うほどのRealであった。
自分は、シズクという名前のぼくはこの痛みを、傷口から溢れるしびれと血液のぬくみを知っている。
経験則に導かれるままシズクは相手へ提案をした。
「泣くのであれば、おそらく今が一番の好機であると思います。このような機会はなかなか無く、そして今後ますます出会える確率が低くなるでしょう」
シズクは彼女にささやく。
「モノさん、あなたは正しく傷つくべきだ」
曖昧なままでは済まされないあまりにも多くの事が訪れてしまう前に落とし前をつけろ。
納得をしろ、折り合いをつけろ、そして本当に傷ついてしまう領域よりも前に、首の皮一枚で諦めてしまえ。
「でなければぼくは」
「憎らしさのあまりにうちを殺してしまう、と?」
モノに図星をつかれたシズクが喉を苦しそうに鳴らす。
殺意を向けられているというのにモノはいたって余裕綽々といった様子であった。
単純な実力さとして安易に殺されはしないと言う自負もあるのだろう。
だがしかし、それ以上にモノはシズクの意見に大いなる賛成と同情を抱いているようだった。
「同情なんてガラじゃないんだけどさ」
他社を思いやるという行為をひどく苦手としている。そんなろくでなしな部分をモノはこの期に及んで自覚しようと試みていた。
論点ずらし、と一瞬訝りそうにもなる。
だがすぐに見当違いに気づく。
「ああ、かわいそう、かわいそう」
試金石のようなものでしかないのだ。わたしはそう思った。
シズクは自分に頼れといった、だからモノは彼女に頼ることにした。
「失恋をしてまで人生を生きなきゃいけない女の姿がマジでかわいそうだわ」
この期に及んで、としか言いようがない。
助けを必要としている状態でさえ、誰かを心配し続けてしまうほどの病的な世話焼き根性である。
「ああ、うあああ」
モノは呻き声をあげていた。
車はゆっくりと路傍の片隅に停止させられる。
メインストリートからはぐれた静かさ、区画整理にすら視認されなかったただの道。
赤い小さな車はそこで動きを止めていた。
モノ曰く。
「実を言うと、結局一度もちゃんと告白をしなかったんだ」
シズクは話を静かに聞いている。
モノが語る。
「情欲に……いや恋心に気づいたのはあの人が既に他の誰かのかけがえのないものに変身した後だった」
他の誰か、の部分についてシズクは軽い想像を巡らしてみた。
無難なところで想定するならばやはりモモセノ・モヨの夫にあたる人物がまず挙げられるであろう。
モネの父親でもある人物。彼は家庭から蒸発した……とされている、少なくとも書類上においては。
有り体に言えば行方不明だった。
十六年ほど前に終結した侵略戦争の折、彼は兵士として徴兵され作戦に馳せ参じそのまま帰ってこなかった。
遺体もしくは個別の情報を特定する物品等は未だに見つかっていない。
「はっきり言っていまこの瞬間にでも地獄よりもっとひどい場所に落ちてほしい、と思っている」
過剰な表現などではなく、モノは本心と真心に基づいてここにはいない彼の不幸と苦痛を願っていた。
だが同時に上述した悪感情とは間反対の善意を彼女は抱き続けていた。
「うう、あぁ」
モノは小さく呻いている。
「ああ、ぁぁ。あんな奴。どうしてあんな奴に惚れてしまったんだ。ううぁあ。
いくらなんでも男を見る目が無さすぎるだろうよ?」
本当の事を言っている、だが同時にまったくもって正当性の無い嘘を垂れ流している。
「一目惚れがなんだってんだ、あんなのただちょっと目と鼻の左右のバランスがシンメトリーになっているだけだってのに。遺伝子の気まぐれでしかないってのに」
そういえば彼は娘のモネと顔が瓜二つらしい。
ともすれば、とシズクは肩越しにモネの花のかんばせを凝視して思考を巡らす。
ともすれば、かの夫君は相当なおんな泣かせであったに違いない。能動的であれ受動的であれなんであれ、とても罪深かったに違いない。
「顔の良さだったらうちだって負けてないはず……なのにぃぃ」
虚偽ではない。少なくともシズク(あるいはわたし)の油断ならない美的感覚によればモノ氏はかなりの美女に値する。
元よりモモセノ一族の女性陣は夏の向日葵冬の椿と称されるほどの溌剌とした美貌を代々受け継いでいる事でそれなりに有名、らしい。
その中においても稀代の大魔法使いと呼ばれたモヨ女史のハツ……もといハートを射止めた謎の伊達男のカップリングともなれば、何もモノ少女に限らず多くの魔物たちがハンカチーフをキイキイと食いちぎったに違いない。
「モネちゃんを身篭った時のあの人の微笑みの美しさといったら……」
枕元で無精も余裕、無いはずのスペルマでさえ捻り出せそうなほど。
と、さすがにそこまで直情的な言葉遣いをすることは憚りつつ、それでもモノは独白の流れを止めようとはしなかった。
「後悔しかない、それ以外に何があるってんだ? 物心が若干硬くなってきた頃からホの字だった女をいきなり生えてきた訳の分からん野良犬にかっさらわれたときのあの虚しさと言ったら!」
モノは苛立ちに任せてハンドルを拳で強く叩いた、車内が少し揺れる。
「奥歯が全部粉々になるまで顔面を殴打してやりたかったよ……!」
「だけど」
一通りの感情の嵐を見終わりシズクは話題をもとの場所に戻そうとする。
「あなたは何もしなかった」
「ああ」
「それが正しいと思っていたから」
「人殺しになるのはご勘弁だからね。ほら……将来とか生活とかあるし……」
「それは……」
シズクは少し悩んで言葉を選んだ。
「本当とは言えません」
「……」
不快感を示すわけでもなく、かといって激昂することもしなかった。
「うう」
ただ聞こえてくるのは苦しそうなモノの呻き声、ただそれだけだった。
「うああ、あー」
ついにそれはあからさまな泣き声に変わる。
「なんで死んじゃったんだよぉ。……まだ一回も好きだって言ってなかったのにぃ。ひどいよぉ……!」
結局のところはこうなのだ、とわたしは自分なりに頭のなかで要点をまとめようと試みた。
モノは、彼女は所詮悲しんでいただけ、そして悔やんでいただけに過ぎないのだ。そしてそれはそんなに悪いことでは無いはず、と少なくとも私はそう考えている。
「うあぁ。うう」
うえーん、うえーん。とモノはしばらく泣いた。
感情に区切りをつけるために、過ぎ去った「かつて」を全て捨てるように涙を流している。
それはまるで自分の皮膚を剥いでいるかのような悲惨さだった。
ややあって。
「納得できましたか?」
すすり泣きが静かに反響する車内にシズクの問いかけが投げ掛けられる。
モノは少し考えたあと。
「いいや、まだだね」
と、それだけ答えた。