コロナ・レイン
「月野さん、検査の結果、陽性と判定されました。」
…… 一瞬、言葉を失った。
「今後は保健所の指示に従ってください、どうぞお大事に」
電話を切り、しばし呆然とする。
思い当たること。
先週大学時代の仲間と川崎で飲んだこと。
仕事先の配送センターでたまに陽性になる人がいること。
それくらいしか思い浮かばない。
保健所からかかってきた電話の応対にそのように告げると、その仲間の連絡先と配送センターの連絡先を聞かれた。
それから直属の上司に連絡を入れると、そうかそれは大変だ、お大事にな、と軽い口調で言われ少し凹む。
まあ日頃からあまり相手にされていない感はあったけれど、こんな時くらいはもう少し優しい言葉が欲しかった。
青森の実家に連絡をする。
さすがに母親は
「おめ、大事にすなさいよ」
と故郷訛りの言葉をかけてくれ、不意に涙が込み上げる。
高校を卒業して東京の大学に入るため上京して九年がたとうとしている。東北の男は口数が少なく暗い、と言われているらしいが俺もまさしくその通りだ。
大学ではバイトに明け暮れサークルや部活とは縁のない生活を送った。就活にことごとく失敗し、今勤めている宅急便の配送センターにかれこれ五年は世話になっている。
正社員ではないのでボーナスもない。大学卒業してからは仕送りがないので家賃の安いアパートに住んでいる。
趣味もなく酒量もそれほどでないので、ギリギリ何とか生活は出来てきた。だが、これで二週間は仕事を休まねばならないだろう、収入は半減だ。
貯金もほとんどなく、来月の家賃や光熱費が今から心配になってくる。
翌日。保健所から手配されたバンに乗って療養先のビジネスホテルに送られた。シングルベットの入った狭い部屋だが、自分のアパートよりははるかに快適だ。それに朝昼晩の三食付きは正直ありがたい。
幸い高熱も出ず、ちょっとだるい程度の日々が続いている。こんなことならもっと早く感染しても良かったかな、なんて不謹慎な考えに首を振る。
だがそれが俺の現実だ。
大学時代の仲間の多くは就職し正社員として働いている。中には世帯を持っている者もいる。なのに俺は……
人前で喋るのが苦手で、就活では面接でことごとく失敗した。東北訛りが抜けず、他人に積極的に声がけするのが何より苦痛なのだ。
大学の就職課のスタッフにも俺のコミュ力について散々指摘されたのだが、どんなに頑張っても面接の時には震えが止まらず、終了後には脇の下が汗でぐっしょりであった。
100社近く受けたであろうか、最後の企業に落ちた時にはすっかり自分の存在意義がわからなくなり、寒空の下近所の公園のベンチに一晩座っていた。
どうして俺は……
実家の青森に帰ることも考えたが、帰ったところで就職先も無く、これ以上親に迷惑かける訳にもいかず。
以来、非正規社員、すなわちバイトとして生計を立ててきている。
これが俺の人生なのか?
貯金もなく、ボロアパートにひっそりと住まい、翌月の家賃と光熱費に怯える日々。もちろん彼女なんているはずもなく、ただただ月日が経つのを惚けたように見過ごしている日々。
そんな俺がやや古びてはいるがビジネスホテルに滞在できるなんて不思議な気持ちである。
俺はベッドに寝転びながら、これまでの人生、これからの人生に思いを馳せるしかなかった。
ホテルの小さな窓から通りを見下ろす。
ホテルは街中からちょっと外れにあるので、人通りはまばらである。
通りの向こうに見える公園の木々は緑深く、炎天下の街を大いに癒している。公園には小さな噴水があり、その周りに家族連れが水遊びを楽しんでいる。
そんな普通の風景が俺にとってとても眩しい。
家族。
俺はこの先、家族を作ることができるのだろうか。きっと今のままでは不可能であろう。
二七歳で貯金ゼロ。特技なし。免許もなし。
金も取り柄もなく、間もなく三十代が近づいてくる。
焦りと不安と、既にある諦め。
俺は眩しすぎる公園の噴水から目をそらし、ベッドに腹這いになって倒れる。
友人から安く買った、世代の古いスマホを眺めてみる。
ニュースにはコロナ感染者が爆発的に増え、今後はホテル療養も病院への転院も厳しい状況となるかも知れない、とあった。
こんな所に小さなラッキーがあるとは。俺の感染がもう少し後だったら、こんなホテル暮らしは到底叶わなかっただろう。
少しだけ明るい気持ちになり、夕食の弁当を取りに一階に降りていく。
今夜の弁当は唐揚げ弁当だ。弁当の横に山ほど積んである様々なカップ麺の中から天ぷらそばを選び、手を伸ばす。
同じタイミングで白い手が伸び、俺の手と重なり合う。
俺は慌てて手を引っ込める。
相手も素早く手を引いている。
相手は俺より少し年配の女性だった。いわゆるスッピンであるにも関わらず、目鼻立ちの整った大した美人さんである。
俺は瞬時に顔を赤らめ、軽く頭を下げる。
そして、どうぞ、と手をそばに差し出し、一歩身を引いた。
「あ、りがとう、ございます」
マスク越しのくぐもった声を聞き、頭を軽く何度も下げる。
俺は彼女の顔を見ることができず、そばに差し出される白い手をしっかりと見ている。女性の手をこれほどしっかりと眺めたことはない。
白い手がそっとカップそばを掴む。
何故か思わず溜息が漏れてしまう。
彼女が軽い会釈をするのを上眼越しに感じ、俺もまた頭を下げる。
結局彼女の顔を見たのは一度きりであったが、部屋に戻り弁当とそばを食べ終わっても彼女の整った顔立ちが脳裏から離れることはなかった。
* * * * * *
それ以来食事の時間が待ち遠しい。
いつもはサッと降りて行き、サッと受け取ってサッと部屋に戻っていたのだが、弁当を受け取った後もわざとらしく段ボールに詰められたカップ麺を物色し、それらを手にしてもブラブラとロビーを歩き回っている。
受付のスタッフが目で俺に用事が済んだらさっさと部屋に戻れ、と睨んでいるので仕方なくシュンとしながら部屋に戻る。
それを二度ほど繰り返すと、三度目にようやく彼女を見かけることができた。
少し離れてじっくりと彼女を眺める。背は俺よりだいぶ小さく、百六十センチ少々だろうか。細身の体におしゃれなスウェットがよく似合っている。
髪はやや短めで普段は後ろで結んでいるのであろうか。見た感じはOLで実際にもそうであろう、受付に積まれている経済系の夕刊をさりげなく一部受け取っている。
俺の視線が喧しかったのだろうか。不意に視線を俺に向ける。
俺はとっさに目をそらしつつ、軽く黙礼する。目を合わせる勇気が湧いてこない。持ち合わせていない。仕方のないことなのだ。
軽い脇汗を感じながら、俺は彼女よりも先にエレベーターホールに早足で向かい、一人エレベーターに乗り込んで震える指で自分の部屋の階を押すのであった。
部屋に戻り、窓の外を見ると街は夕暮れ時の淡い色に染まりつつある。見下ろす公園の噴水には人は誰もおらず、木々の緑が暗い色に変わりつつある。
そんな風景が今日は不思議と心に映える。
たった一人の女性を意識するだけで、何気ない日常がこれ程変わるとは知らなかった。
そう、意識するだけ。
明日も明後日も、決して声を交わすことはないであろう。目と目を合わせることはないであろう。それでも脳裏から消えないあの整った顔を想わずにはいられない。
どれほど公園を眺めていたのだろうか。すっかり暗闇に呑まれた公園にカーテンを掛け、冷めきった弁当を口にする。
味覚や嗅覚に異常は無い。なのに妙に味が舌に馴染んでいる。
予期せぬ心と体調の変化に戸惑いつつ、箸は進む。
翌日の朝食を食べ終えた頃、配送センターの上司から連絡が来た。
「どう体調は? 何か不自由していないか? 俺にできることがあればなんでも言ってくれよ。」
驚いた。
急に上司は優しく俺を励ましてくれている。
「早く元気になって、しっかり働いてくれよ。みんな待っているからな」
俺は脇の下の汗を感じながら、何度も頭を下げ電話を切った。
どうしたのだろうか。何なのだろうか。
ベッドに仰向けになり、スマホをそっと枕元に置く。
上司は俺よりも二つ下の大卒正社員だ。学生時代は体育会で活躍し一昨年俺の直属の上司となった。以来世話になっているのだが。
正直、俺は彼が苦手である。体育会特有の熱血さが面倒臭い。無駄な気合いがウザい。
なので彼も俺を嫌っているであろう、そう信じて過ごしてきた。
この二年間で何度も怒鳴られ何度も嫌味を言われた。俺のことなどどうでも良い存在だと思っているだろう、そう思ってきた。
現に陽性判定が出て連絡した時もそっけない言葉しか返ってこなかった。
だのに、何故急に?
目を瞑り、彼とのやりとりを走馬灯のように思い出してみる。すると今まで思ってもみなかったことが頭に浮かぶ。
別に、彼は俺を蔑ろにしていた訳ではないのではないか?
むしろ彼と距離を取るように努めていたのは俺の方なのでは無いのか?
苦手なタイプの人間と決めつけ、なるべく近寄らないようにしていたのは俺の方なのでは無いのか?
考えれば考えるほど、その思いを否定することは出来なくなってくる。
最近怒鳴られたのは、俺が勝手に宅配荷物を玄関前に置き配したため雨で濡れ、クレームが来たからだ。
その時はすみませんでしたと頭を下げながら、仕方ないだろこっちだって他に荷物いっぱいあったのだから、と溜息を漏らしたのだが。
今思うと、勝手に置き配にした俺が圧倒的に悪い。しかも雨が降りそうだったのに。
「何年現場駆け回ってんだよ、荷物だけでなく気も配れよ!」
その時は現場も駆け回ったこともないくせに生意気な奴、と思いながら作り笑いで頭を下げたのだが。
今思うと、全くもってその通りだ。宅配業社は荷物を運ぶだけではない、気持ちも運ぶのだ。
そう考えると、彼の叱責や小言は正鵠を得ており、彼の意見や助言を頭から退けていた俺がいかに愚かであったか、今頃になって気づいたのだった。
己を蔑み、己に絶望していた俺。
何もかも上手くいかず、それを社会や運のせいと決め込んでいた俺。
存在価値も存在理由もわからず、わかろうともせず、刹那的に日々を過ごしていた俺。
このままではいけない。
ようやく気づいた俺。
では、何から変えて行くべきなのか。
そうだ。今日はちゃんと挨拶しよう。彼女を見かけたら迷わず顔を見て目を見ながら挨拶をしよう。
自分を変えるきっかけを彼女に託すのは彼女に申し訳ないのだが、これも何かの縁と諦めてもらおう。
そして昼食の弁当を取りに行った時。俺は迷わず彼女に
「こんにちは。今日も外は暑そうですね」
彼女はポカンとした顔をした後、とってつけたように
「そ、そうですね。一雨欲しい所ですね」
と返事をくれた。
夕食時。
「今晩は。まだ外は豪雨ですね。」
彼女はふふっと笑いながら、
「一雨どころじゃなくなっちゃいましたね」
マスク越しのくぐもった声が耳に心地よく入ってくる。
* * * * * *
コロナウイルス感染者の専用宿泊施設であるので、原則俺たちは部屋から出ることができない。食事の時にだけそれを受け取りにロビーに降りることだけが許されている。
従って彼女と会うことも話すことも、一日三回しか機会がなく、それも一言話すのが精々である。
滞在は約二週間と決まっており、俺のホテルチェックアウトの日も近づいている。
あと二泊となった朝。朝食を受け取りにロビーに降りる。あの日以来七時十三分に部屋を出ると必ず彼女と下で会えることがわかっている。因みに昼食時は十二時二六分、夕食時は五時四二分だ。
「おはようございます。今日も暑くなりそうですね」
彼女はニッコリと笑いながら
「おはようございます。」
と返事をくれた後、俄に暗い顔になり、
「私、今日でチェックアウトなんです。」
俺は一瞬硬直し、上擦った声で
「それは…… おめでとう、ございます」
彼女は申し訳なさそうな顔で軽くお辞儀をし、弁当を受け取り去っていった。
それはそうだろう。
いつかはこうなるのだろう。
だが。
部屋に戻った俺は、朝食を口にすることなく、いつまでも窓の下を眺めていた、果てしない溜息を溢しながら。
その三日後。
俺のホテル滞在も終わりを告げた。
ほとんど歩いていなかったので、ホテルを出てから足が何度ももつれた。また途轍もない暑さで何度もしゃがみ込みそうになった。
二週間ぶりにアパートに戻る。
ドアを開けると吐き気がする程の熱気と異臭に気を失いかける。慌てて部屋を出てきたので、生ゴミが台所で腐り果てており、ベランダに干していた洗濯物が発展途上国の風景の様を呈していた。
半日かけて俺はそれらをすっかり綺麗にし、さらにこれまですることがなかった程部屋の掃除、整理整頓に没頭した。
夜になってコンビニで夕食を買ってきて部屋に入ると、別人の部屋かと思われるほど片付いていた。
上司にようやく家に戻り、明後日から仕事に復帰できそうだと伝えるとすぐに折り返し連絡が入り、来週からでよい、しばらくリハビリに励んで欲しいと言われ、その言葉に甘えることにする。
翌日から起床後、午前中は掃除洗濯に時間を費やし、午後は多摩川土手を暗くなるまで散歩し買い物をして帰宅する生活を続けた。すると週末には顔と腕が真っ黒になり、病明けとは思えぬほど精悍な顔つきになっていた。
週明けから出社し、元の生活に戻った。
上司は保険や市の補助制度などを調べてくれており、それに従ったお陰で翌月の家賃、光熱費の心配は皆無であった。
復帰して数週間後。ふと上司が、
「ツッキー、あんたコロナになってホント変わったよな」
と呟いた。最近彼は俺のことをこう呼んでいる。
「そんなことないんじゃないですか。ま、強いて言えば家を綺麗にするようになったかなあ」
上司はフッと笑みを溢しながら、
「ほら、それ。以前はさ、はあ、とかまあ、しか言わなかった奴がさ。ちゃんと俺と会話してくれる様になったじゃない。」
「そんなでしたかね。俺、ほんとダメな奴でしたね」
「ははは…… あ、それよりさ、こないだくれたりんごチップス、あれサイコー! またちょうだいよ!」
色々気をかけてくれたお礼に、親が送ってきた地元の産物を少々彼に渡したのだ。
「あんなんでよければ、また持ってきますよ。てか、美味しいですかあれ?」
「美味いって。ツッキーは食べ慣れてるから美味しく感じないのでは?」
「いや、地元の奴は誰も食べませんって」
「え、ええ? マジ、そうなの?」
「アレ食うの、田舎もんの観光客だけですよ」
周りにいた人達がプッと吹き出す。上司は大笑いしながら俺の肩を何度も叩く。
彼の手から以前はウザかった人の温もりがそっと伝わってくる。
以前より仕事が、職場が楽しくなってきた反面。
帰宅後、一人部屋にいるとつい彼女のマスク越しの声が思い起こされ、切ない思いに胸がいっぱいになるのだった。
名前も知らない。年も知らない。出身も、現住所も、勤め先も、何もかも知らない。
それだから? それだけに? 彼女への想いが募っていく。何を話した訳でもない、ただ挨拶を交わしあい、一言二言話しただけである。一日に二度か三度、わずか数秒話しただけである。
だのに何故、彼女への想いは深く重くなっていくのだろうか。
徹底した個人情報保護により、あのホテルに滞在していた人物の特定は不可能だ。強いて言えば、あのホテルに保健所が割り振ったことから、彼女は俺と同じ川崎市民の可能性が高い、それだけである。
俺は彼女に再会したいのか? イエス。
どんな手段を使ってでも探し出すつもりなのか? ノー。
では、俺はどうしたいのだ?
アイ ドン ノー。
ただ言えることは、
話したい。彼女を知りたい。
どこで生まれ、どこで育ったのか。
どんな学生生活を送り、今どんな仕事に就いているのか。
今どこに住んでいて、誰と住んでいて、今どんな生活を送っているのか。
コロナ陽性となって何を思ったのか、そして今何を考えているのか。
恋とも呼べぬこの想いを、一体何と呼べば良いのだろう。さすがにこの想いを上司に相談できる筈もなく、仕方なく毎夜孤独に思うばかりである。
翌年。
上司の勧めに従い、正社員登用試験を受けることになり、そして合格した。
正社員になった途端、途轍もなく忙しい日々が始まった。現場から離れ、デスクワークと顧客回りに忙殺され、彼女を思う夜が徐々に減っていった。
数名の女性と知り合いになった。バイトの女学生、新人正社員、取引先の社員など。数年後、俺はその誰かと家庭を持つのだろう、何となくそんな予感がしている。
去年までは考えられなかった、家庭を持つということ。即ち、結婚するということ。
忙しすぎて使う暇のないお金は驚くほどに銀行預金に溜まっていき、この調子なら十分に家庭を維持できそうである。
彼女達と知り合っていくうちに、どうしてもあの彼女の顔と声が思い出せなくなってきている。実は彼女は俺が見た幻だったのでは、そんな風にも思い始めている。
間違いなく。
俺はあの時、あの場所で。彼女のお陰で変われたのだ、変わったのだ。
実在しているのは確かだ。だが、それを証明する証拠がない。何も、ない。
いつしか俺は彼女を忘れてしまうのだろう。彼女の存在自体を忘れ去るのだろう。そのことが堪らなく寂しい。
駅のホームで周囲を何度も見回す癖はあれ以来抜けない。人混みを敢えて避けずに逆行する習慣もだ。
だが、そんなことも、恐らく、きっと。
数年後にはしなくなるのだろう。
恐らく、きっと。
* * * * * *
十数年後。
連日の茹だるような暑さに近所の公園のセミも大人しくしているようだ。熱せられた土の匂いが暑さに苛立った気持ちを優しく包み、目の前の噴水がその涼しげな様と音とで脳の火照りを冷ましてくれる。
不意に空が黒くなり、大きな水の粒が一つ、また一つと地面に衝突する。やがて土砂降りとなり、公園の管理室に駆け込んで雨宿りをしていると、娘がプンプン怒っている。
何を怒っているのかを笑いながら聞くとー
「だってママがあさにさ、さいきんあついから、ひとあめほしい、なんていうから!」