1章 『千里』 視線2
布団に入って何時間たっただろうか。一向に眠気がこず、ソワソワと布団の中で動いた。
かなり暑苦しくてとてもじゃないが寝られない。
コヨーテの泣き声は消えていた。風が吹く音だけが耳に入る。
この蒸し暑さを無くすために窓を開け、レースのカーテンだけ閉めた。
「あれ」
窓の縁の水滴が増えている気がする。
無造作に水滴がこびりついており気持ちが悪い。
「!!?」
千里は背中に誰かの気配を感じた。
ジリジリと焼き付くような眼差しで見られている。
千里は振り返ろうと試みるが、それはかなわなかった。
金縛りのように体が動かないのだ。
徐々に近づいてくる(感じがする)その気配。
一歩…一歩…
(来るな…来るな来るな!!)
気配が千里のいるベッドに近づき、今は千里の真後ろにいる。
(茉莉じゃないよな…さっきの狐とはわけが違う!!)
身体中から汗が吹き出し、体温が下がった気がした。寒くもないのに体が震え、鳥肌が立つ。
気配は千里の後ろに立ったまま動かず何もしてこなかった。
頼むから早くいなくなってほしかった。
……ブニ…………テ…タ…
「ひっ!!!!!!!!」
突如耳元で聞こえた薄気味悪い声。
呟くような…呪いのような。
汗がさらに吹き出た。千里の恐怖心は頂点に達し心臓を速く動かす。
千里は必死に体を動かし枕を投げた。
枕は勢いよくドアの方に飛び、むなしく音をたてて落ちた。
「いな…い…」
息を切らして肩で呼吸をする。さっきまで確かにあった気配はどこにもなかった。
気のせいなわけがない。
あんなにもリアルに声が聞こえたのだ。
誰かがいた感覚が消え、安堵の表情を浮かべる千里。
今夜はもう眠れないだろう。
「幽霊いるなんて聞いてねーよ」
投げた枕をベッドに戻して布団を頭まで被った。
まだ夜は長い。雲で霞んだ月がやけに輝いていた。
長い夜が明け太陽が少し顔を見せた頃、早番の職員がパタパタ廊下を行き来していた。
あれから千里は結局一睡もできなかった。
体を起こすのもダルい。
まるで誰かに呪われたように体力が削られている。若干熱もあるようだ。
「千里ちゃんお早う!!」
「茉莉…」
今何時だと思ってんだと怒声をあびせようとしたができなかった。声が擦れてまともに話もできない。
ふと窓の縁を見ると、奇妙な水滴は無くなっていた。茉莉は千里に近づき人差し指を口にあてて小さな口を開いた。
「狐様が来てくれたのね!!」
「は?」
茉莉は狐様だ狐様だと小さく飛び跳ねながら喜んでいる。
「茉莉、いい加減にしろよ。狐様なんているわけ…」
「いるよ!!!!!!!!」
千里の言葉を遮るように茉莉の怒声が響き渡った。
「昨日千里ちゃんのところにも来たでしょ?」
茉莉の周りになにか黒い影なようなものが見えた気がした。
「は?来てねぇって」
「キタ」
「茉莉?」
「タイシンキュウビノカミハゴコウリンナサレタ!!」
「茉莉!!落ち着けって!!!」
「オロカモノメ!!!####ガアノカタノナヲナノルナンテアルマジキコト!!」
「おい茉莉!!」
茉莉の瞳孔は開ききっており、黒いオーラは茉莉の身体を取り巻いていた。
千里は茉莉を平手打ちにし、黙らせた。茉莉は尻餅をついたまま動かない。
「ちさ…とちゃん…痛いよぅ…」
瞳孔は元に戻り、黒いオーラも消えていた。
「あんまり気味が悪いこと言ってると友達無くすぜ」
千里は座ったまま動かない茉莉を残し、その場を立ち去った。
千里は昨晩の気配について考えていた。気配があるはずなのに姿が見えないアレはなんだったのだろう?
茉莉の言うとおり狐様だったのだろうか。とにかくこの子供は気味が悪すぎる。
「こんな糞宗教施設なんてこりごりだ。」
千里は廊下の隅で座り込み顔を膝に埋めた。
朝食のいい匂いがした。
千里は食欲が全く無かったので食事には参加しなかった。
子供達は食堂に集まって食事をしているので、廊下には誰一人いない。
「……」
こんなにも1人が心細いと思ったことはなかった。
狐様の視線を感じるかもしれないから?
狐様が怖いから?
「馬鹿みて…」
窓の外の紫陽花に溜まった朝露が日光に反射して光り輝いていた。