1章 『千里』 視線1
参拝から帰ると孤児院の子供達は勉強の真っ最中だった。
簡単な足し算をやる子供から因数分解をやる子供まで年齢に関係なく勉強に取り組んでいる。
千里は勉強なんかやる気になれず、自室に戻ろうとした。茉莉はいつのまにかいなくなっている。
「千里ちゃん、勉強しなさい。狐様に怒られるわよ」
職員が千里を引き止める。
「どいつもこいつも狐様なんぞに心酔しやがって」
「え?」
職員の手をふりほどき、自分の部屋に足を進める。狐様参拝なんかに体力を使ってしまったのでもう一度寝たい。
サー…
「!!」
何かが自分を追い越した…気がした。しかし何もいない。
「茉莉?」
返事は無い。茉莉ではないのだろうか。
「…」
誰かに見つめられてる感覚。茉莉に見つめられてる時の感覚に似ている。
「茉莉ふざけんなよ。気持ち悪いんだよ!!」
しかし茉莉は姿を現さない。チッと舌打ちし、自分の部屋に戻りベッドにダイブした。
夜。
外から獣の鳴き声がする。コヨーテだろうと職員は言っている。
「煩くて眠れやしない」
千里は窓から身を乗り出し外へ出た。
涼しい風がスーッと胸元を通り、気持ちがいい。
相変わらずコヨーテの声が煩く、台無しといえば台無しだが。
「…っ」
また誰かに見られてる感覚がした。射るように突き刺さる感じが気持ちが悪い。
「茉莉の野郎か」
千里は視線を無視することにした。幽霊だろうがなんだろうが構ってられない。
自分をストーカーのように追い回す茉莉に溜め息を吐いた。
しかし茉莉は現れない。
先程もそうだったが、ただ見ているだけなのだ。
すると茂みから物音がした。
ガササッと大きな音を立てて何かが飛び出した。
鋭い眼光のその物体。
「おい、いい加減にしろよ茉莉!!!」
物体はこちらを睨み付けるように見つめてくる。
よく見ると人間ではない。目線はかなり低く、妙に威圧感があった。
「き…つね…」
くぅんと甘えるような声を出して千里の足元に擦り寄ってきた。
狐の毛は羽毛のように柔らかい気がした。
「ひっつくなよ」
顔を舐めてくる狐を引き離す。動物に懐かれるなんていつ以来だろうか。
野生の狐が人間に懐くことなど殆んど無い。
「お前、小さいな」
その狐はとても小さく、大人とは言いがたい。かといって小ギツネというわけでもなかった。
「家族の元に戻らなくていいのかよ」
狐の頭をゴシゴシ撫でながら問う。
狐はくぅんと鳴き腰を下ろす。
そのとき千里は悟った。
「家族…いないのか」
先程の鋭い眼光は全く見受けられない。悲しくて切ない、それでいて無垢な瞳だった。
「わたしもだよ」
膝を抱えて顔を埋める。
千里には家族の思い出が無い。父親も母親も、きょうだいはいるのか…
「私もお前も一人ぼっちだな。孤児院の連中がはりぼて笑顔で私たちは家族だよなんて言うけど、そんなふうに思えないや…」
千里は顔を上げない。必死に涙を堪えていたのだ。
星が慰めるかのように瞬いていた。
先程からの視線はこの狐のものかと思っていたが、
どうやら違うらしい。
未だに視線を感じる。
かと思えば急にその視線を感じられなくなった。
急に視線と気配が消え、不安が消えた千里は、
狐に別れを告げて窓に戻ろうとした。
「…?」
窓の縁に水滴がついていた。
雨が降った訳ではない。
「屋根に溜まった水…か」
千里は布団に入って電気をこだまにした。