1章 『千里』 ちる1
飛び散った血が徐々に渇き、変色し始めた。
黒アゲハはいないようだった。
先頭に乃亞、後方に茉莉、その間に護られるように千里がおり、ある場所へ向かって歩いていた。
「その食堂にまだ人間が残っているかもしれないと?」
「…うん」
食堂にまだ生き残ってる人間がいるかもしれない…
千里はそう思った。
食堂以外の部屋をまわったとき、たった一人の遺体だけが見つからなかったのだ。
「どーせ死んでるわよ〜。人間1人が妖怪相手に勝てるわけがないんだから」
茉莉はぶつぶつ文句を垂れる。乃亞はキッと茉莉を睨むが特に注意をしなかった。
それにしてもさきほどあれだけ群れていた黒アゲハは全く姿を見せなくなった。食堂につくまでに何人もの子供の死体が転がっていて、心が痛くなった。
食堂の前につくと、乃亞はピタッと止まり、眉間に皺を寄せた。食堂のドアは閉まっている。
「…っ」
乃亞と茉莉は同時に警戒態勢になり、その場で剣を取り出し構えた。
「どうしたんだよ?中に入ろうぜ?」
「中から微弱ですが妖気を感じます。」
「これは…地獄黒蝶のものではないわね。」
「茉莉、千里様の傍にいろ。」
「はーい」
乃亞はゆっくりと食堂のドアに手を当てた。目を閉じて瞑想をしているかのように集中していた。
「乃亞くん…?」
乃亞はゆっくりと目を開けた。
「この妖気は…」
乃亞は勢いよくドアを開けた。
開いたとたんに凄まじい妖気が外へ飛び出して3人とも弾き飛ばされた。
「兄上!!!この結界は…」
「結界が張ってあるようでそうではない。この妖気も本物ではない…幻術だ…」
「幻術?」
千里は服についた埃を落としながら乃亞の方を向いた。
「無いものをまるで有るかのようにみせかける高等妖術です。」
「しかも私たち3人にしか感じる事ができない標的を絞った幻術よ。」
茉莉は千里と手をとり乃亞の後についた。
「こんな事ができるのは…」
「兄上!!まだ時期が来ていないはずよ!!!」
千里は2人の会話を理解することができなかった。雲を掴むような話をしないでしっかり自分にもわかるようにしてほしい。
「そうだ…時期は来ていない…」
乃亞は地面を蹴って滑り込むように食堂に入った。千里と茉莉も後に続く。
食堂に入ると、千里はその光景に愕然とした。
大きなテーブルとたくさんの椅子が並べられ、その中央に2人の人間が座っていたのだ。
1人は院長の上山裕子。千里達の方を向いて座っていた。
もう一人は千里達に背を向けており、誰かはわからなかった。
「院長…!!!」
院長の上山裕子は生きていた。たくさんの子供と職員が殺された中、裕子だけ死体が見つからなかったのだ。千里は生きていてほしいと願っていたので、安堵の息を吐いた。
「千里ちゃん…」
裕子は千里達の乱入に一瞬目線をこちらに向けたが、すぐに向かいの人間に視線を戻した。
千里はその人間を見た。藍色に桜の刺繍を施したマントのような物を被っており、頭髪すら見えなかった。
「お前…誰だよ…!!院長になんの用だ!!!」
千里はズカズカとその人間に近寄り、肩を掴んで無理矢理こちらを向かせた。
「……っ!?」
その人間は白い狐の面で顔を隠していた。
狐の面は独特の雰囲気をもっていて千里は思わず畏怖してしまった。
無理矢理こちらを向かせても全く喋ろうとしない寡黙な人間のようだった。
「なんだ…お前…」
微かに震える千里を乃亞が支えた。乃亞は視線を狐面の人間の方へ向け、跪き、口を開いた。
「まだ時期が早いはずでは……姿を現わされるなら何故僕達にお教え下さらなかったのですか……?」
同じく茉莉も跪き、顔だけを上に上げていた。千里は狐面の人間と乃亞、茉莉を交互に見据えた。乃亞たちとこの不気味な人間は何の関係が……?
「どうしてこの子達の侵入を許したのかしら?」
裕子はティーカップを手に取るとゆっくり紅茶を啜った。
「それともわざとかしら…」
「……」
狐面の人間は椅子から立ち上がって千里の前に立った。意外に小柄で華奢なようだったが、やはり何か不気味な感じがした。
千里はあることに気がついた。
「まさか…お前…狐…様?」
千里が『狐様』と言ったとたん、全身を隠していたマントと仮面が光の砂となってキラキラと消えていった。
「あ…」
マントと面が完全に消えた。千里はそのあまりにも美しい光景に声も出なかった。
マントと面を取ったその姿は、小柄で華奢なふんわりとした雰囲気の少女だった。18、19歳ぐらいに見える。
綺麗な金色の長い髪に、ルビーのように美しい瞳。巫女服に桃色の薄い羽織を纏っていた。
そして何よりも目についたのは、頭部にある獣耳だ。なんだかとても神聖なオーラがあるような気がした。
「本当に…あんだが狐様…なの?」
金髪の少女はこくん、と頷いた。その表情はとても切なく、哀しい……
千里はまるで自分と少女が2人だけで別の空間にいるような感覚がした。
暖かく……心地がよかった。