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雷道  作者: 青海 原
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第一話

 時間切れだったのだと思う。

 スポーツの試合が終わるように、仕事の納期が過ぎるように、食べ物の賞味期限が切れるように。

 妻と別れることになったのは、まさしく時間切れであったのだと思う。

 彼女はライドウにとって、もったいないほど良くできた妻だった。

 仕事と家事を両立し、ライドウが何かを手伝う余地すらないほどに、完璧にふたつをこなしていた。

 彼女の仕事はジャーナリスト。家に居られる時間を考えれば家事との両立などとても難しかったことは明白なのに、泣き言ひとつ言わなかった。

 正義感に満ち溢れる妻の姿を見た。よく彼女は長い髪を縛り、料理をしながら、調べている事件について語った。

 まだ裏が取れていなかったり、漏れてはいけない部分については触れなかったが、記事になることが決まった事件に関しては嬉しそうに語ることが多かった。

 そんな妻が仕事をする理由はお金ではない。危険な仕事ゆえに成功報酬は大きかったが、彼女は決してお金のためではなく、正義のために仕事をしていた。

 だけどライドウがそのことに気付いたのは、すべてが手遅れになった後のことだった。


「これ、何」


 それは妻が初めてライドウに向けた怒りだった。

 友人に勧められて始めた投資に失敗し、多額の借金を抱えたことが露見したのだ。その請求書を見て、その額を見て、妻は今までに見たこともない顔をしていた。

 ただその危険な仕事から手を引いて貰えたらと思って、自分が彼女の分も稼げるようになろうと思った。だけどそれが失敗だったのだ。彼女は決して、お金が欲しくて危険を冒していたわけではなかったから。

 妻は心底ライドウに失望した顔をして、離婚の手続きを進め、すべてが終わった後には一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

 昔、いずれは一軒家に住みたいねと話していた。その生活はこんなに小さい賃貸のうちに幕を閉じる。

 部屋を引き払うために家具も日用品もなくなり、声が反響するようになった綺麗な部屋は、一緒に思い出すらも流れて行ってしまったようだった。

 だからきっと、それは時間切れだったのだと思う。

 妻はライドウにはもったいない女であった。彼女には間違いなく、もっと相応な男がいる。そしてそのことに彼女が気付くまでの時間こそが、ライドウに与えられた期限だったのである。

 そういう意味の時間切れ。過ぎた時は戻らず、出て行った彼女は二度とライドウを振り返ることはない。

 『元』妻が、カエデが、ここに戻ってくることは二度となかった。



 多額の借金を親族の手を煩わせてどうにか返済したライドウは、しかし当然ながら家族から勘当された。

 もはや仕事もなく、金もなく、家もない。戯れにホームレスを狙いに来る若者から逃げたり、他にどうすることもできず山の動物を狩ろうとした辺りから、ライドウはただ生きることに必死になっていた。

 楽観的に、流されるままに、適当に生きてきた二十数年。そのツケが回ってきたのだと受け止めて、ならばせめてと必死に生きようとした。

 山道の動物注意の標識から山に入る。これが近くに動物がいるという目安になった。

 修学旅行生の忘れ物らしい拾い物の木刀とそこらに落ちていた石を数個持って、道ですらない場所を歩いて行く。

 しばらく進むと、猪の後ろ姿を見た。猪は周囲を観察しているようだが、まだライドウには気付いていない。

 今日は運が良かった。

 動物の側から先に発見されるなんてことはザラで、熊に襲われた時はさすがに死を覚悟した。だがそれでも生きるために足掻き、本能のままに戦い続けてきた。

 現代社会においてはあり得ない、闘争に塗れた現状。木刀と石を携え、山の動物を狩って暮らしている人間がいるなど、日本人の何割が想像できるのだろうか。

 都市部やスラムのような場所で暮らす選択肢もあった。だがそこで物乞いや空き缶拾いをして、いずれどこかのタイミングで野垂れ死ぬくらいならば、ライドウは戦うことを選んだ。

 何もかもを失い、一度原始の時代に戻ること。それはライドウの身体に五感の重要性を思い出させた。

 人間としてのスペックをフルに発揮して獲物である猪に迫る。まだこちらには気付いていない。経験上、あと三歩進めば確実に仕留められるはずだった。

 もはや恐れるものなど存在しない。ライドウには地位も名誉も、何もかもが残っていないのだから。

 ここで死んだとしても、誰も悲しまないのだから。


「――――」


 一度、利き手と反対の手でポケットに入っていたペンダントを取り出した。

 開閉式になっているチャームを開き、中に入っている写真を見る。そこには二人の男女が写っていた。

 ライドウと、カエデだ。

 結婚して一年が経った頃、記念日に彼女に渡したプレゼント。カエデが家を出て行く時、それを持って行くことはなかった。

 だけど、これだけはどうしても捨てられなくて。

 もう二度と戻らない幸せな写真に勇気を貰う。今や、これだけがライドウを『ライドウ』として証明する手段だ。

 住む場所も、身分も、何もかもをなくした今、これだけが自分の存在をこの世に繋ぎ止めてくれるのだ。

 ――カエデは、ライドウが死んだとしたら泣いてくれるだろうか。

 すでに行方不明扱いとなっているライドウだが、きっとまだ彼女は自分の失踪を知らないだろう。

 もしも自分が死んだとして、カエデがそれを知った時、彼女は少しでも、ほんの少しだけでも悲しんでくれるだろうか。


「――そんなわけが、ないだろう」


 それがライドウが自身を鼓舞する唯一の方法だった。

 カエデは悲しまない。絶対に、ライドウの死に感情を動かさない。それだけのことを彼女にした。

 だからこそ、死ねないのだ。


「いつか、真っ当な人間に――」


 こんな生活から脱することが叶うのかはわからない。何もかもを失った今、彼女と同じステージまで戻ることができるのかは想像もできない。

 けれど生きなくては、可能性はゼロだ。

 死んでしまったら、それまでなのだ。


「だから、死ねないってワケ」


 ペンダントを握りしめてからポケットにしまう。ブツブツと呟いてしまったせいで猪には気付かれていた。

 野生動物はすでに戦闘態勢に入っているようで、こちらに向けて唸っている。どうやら立派に敵として認められたようだ。

 もう逃げることはできない。否、逃げる選択肢など初めからなかった。

 だからライドウは獰猛に笑うと、右手の木刀を強く握り襲いかかる――。



 それからも山に篭り、動物を狩ったり木の実を食べたりしながら暮らしていた。だが何事にも限界というものは唐突に訪れる。

 冬だ。狩場にしていた山だろうが、これから移動する場所だろうが、日本ならば全土に訪れる自然の摂理。

 冬はどうしようもない。動物たちは冬眠するし、木の実などどこにもない。食べ物がどこにもなくなる。

 気付けば凍える寒さの中を彷徨い歩いていた。どこかに何かがあるはずだと信じて、毎日山中を歩き回った。

 しかし何も見つからない。冬は、自然はライドウが生きるための何もかもを奪い去った。

 もう、打つ手がなかった。前もって備蓄していた肉も底を尽きる。

 気付けば弾かれたように人里へと下りてきていた。ただ食べ物を求めて彷徨い歩いていた。

 田舎はダメだ。住宅ばかりで、どこにも廃棄された食品など存在しない。そうして都会を目指すようになり、気付けば闘いとは無縁の、ただのホームレスへと逆戻りしていた。

 だがライドウはこんな惨めな姿になっても、万引きだけはしなかった。廃棄を漁ることももちろんいけないことではあろう。だが経営者に明確に不利益を与える行為だけは、絶対にしたくなかった。

 拾い物の薄い上着を何枚も重ね、臭いは度外視して寒さだけを必死に凌ぐ。たとえみっともなくても、死ぬよりはマシだと自分に言い聞かせた。

 そうして路地裏に行き、物乞いに紛れて寝そべっていた時、突然に声をかけられた。


「お前、もしかしてライドウか?」


 今の自分を『ライドウ』として認識する人間がこの世にまだいるとは思っていなかったから、その言葉にはひどく驚いた。


「ライドウだろ、なぁ? ハハッ、お前しばらく見ないうちにそんなんになっちまったのかよ」


 頬は痩けて、髪や髭は伸び、全身は汚らしく、おまけに老けた。遠目に見ても身長くらいしか一致するところがないだろうに、かつて友人だった男はライドウに気付き、声をかけてきたのだった。


「スイセン、か……?」


「ああ、そうだ。格好を見ればわかる通り、一発当てたって話なのよ」


「そう、か」


 スイセンはオーダーメイドのセットアップを着ていた。とてもこの薄汚い路地裏には似つかわしくない、細かなデザインが施されている。

 腕時計を見ても、一目で高い物であることがわかった。一発当てたとはつまり、そういうことなのだろう。

 スイセンはかつてライドウに投資を持ちかけた人物だ。そして彼の方はどうやら、投資に成功したらしかった。


「せっかくの再会なのにこんなところで立ち話ってのもアレなのよな。今の俺は、色々と狙われることも多いし」


「あ、ああ……そうか」


 金を持ったことで襲われる可能性も高まる。この世界はそういうものなのだろう。たとえそれが安全な国、日本だとしても。

 スイセンに手を引かれ、路地裏から引っ張り出される。彼はライドウの汚い手を、臭い身なりを、一度も気にしなかった。

 失敗したことを察し、それを労るようにして寄り添う。その態度が、今のライドウには辛かった。

 大通りに出ればすぐ、黒塗りのセダンが駐車していた。スイセンはそれを指差し、乗るように言う。どこに行くのかとは、聞けなかった。

 車に乗るや否や待機していた運転手は車を発進させる。目的地は決まっているのだと言うように、彼がスイセンと会話することはなかった。

 誰も口を開かず、音楽も流れていなかったため、車内には重苦しい雰囲気が生まれる。久しぶりの再会とはこんなものなのかと思いながら、ライドウは窓から街並みを眺めていた。

 やがて信号待ちで車が止まった時、スイセンはこちらを見る。


「お前は投資に失敗し、多額の借金を抱えた。妻には見限られ、家族からは勘当されたのよな?」


 突然の言葉。それは事実だ。そして、ライドウを切り刻む刃だった。

 答えたくない。だから首肯する。

 惨めな自分を思い出したくはなかった。けれどそれを、もはやただ一人となった友人は許してはくれない。


「家をなくし、行方不明者となり、何もかもを失って後がない。そんな体たらくになっちまったのかよ」


 だが元はといえば原因はスイセンに誘われて始めた投資だ。それを責めたい気持ちもあった。借金をしたのは自分だし、彼には何ひとつ悪いところがなかったとしても。

 その感情をギリギリで抑えて、話の続きを促す。スイセンはただライドウを傷つけたいだけではないだろう。きっと何か、ライドウに声をかけた理由があるはずだった。


「俺がお前を車に乗せたのは、とある目的があるのよ」


「目的?」


「――ビジネスチャンスさ」


 こちらを見定めるような目。乗りたくはない。それで一度、すべてを失っているのだ。

 だがこうも思う。まともな人間に戻れる機会は、今しかないのではないかと。


「もちろん、悪かったと思ってる。投資を勧めた俺にも原因はあるはずよな。だからこそ、お前にひとつ提案を持ってきたのよ」


「……『今の状態』だからこそできる、ビジネスってワケか」


「察しがいいな。そういうことなのよ」


 ライドウは今、行方不明者となっている。だが時間が経ちすぎた。もう警察にもまともに捜索するつもりはないだろう。

 そして、すでに行方不明となっている人間が重ねて行方不明になることはない。もう行方不明になっているからだ。

 つまり、『そういう人間』が必要なビジネスだということ。


「俺は今、とある実験に出資してる」


「――その、実験台になれと?」


「まぁざっくり言えば、そういう話なのよ」


 人体実験。きっとただの臨床試験などではない、この国で行うのは違法であろう実験だ。

 だからこそライドウなのだ。行方不明者は行方不明にならない。誰かを攫って実験台にするリスクに比べれば、圧倒的に軽い。

 おそらく同意を得ればだとかそういう次元の実験ではないのだろう。文字通り倫理に違反し、命に関わるのだ。

 それを、スイセンは『ビジネスチャンス』と言った。はたして本当にそうか、と考えてしまう。


「実験の内容は、命に関わるってワケ?」


「ああ、死ぬかもしれないのよな」


「そうかい」


 ライドウは目を伏せた。

 考えることは二つ。ここで車を降りて元の路地裏生活に戻るか、ビジネスチャンスに賭けるか。

 実験に参加しなければ少なくともすぐに死ぬことはないだろう。ここは都会だ。飲食店のゴミを漁ればまだまだ生活することはできる。

 だがそれでどうなる。冬を乗り切って、また山で狩りをするのか。それをこの先何年も続けていくのか。

 いつかは破綻する。その時までに社会復帰できる可能性が、もう一度でも降ってくるだろうか。

 ありえない。そう結論付けた。


「――参加するよ」


 ライドウはそう言った。この可能性に賭ける以外に道はないのだと、自分に言い聞かせる。今度こそ自分は選択を間違えないのだと、言い聞かせる。


「――ああ、悪いようにはしないさ」


 スイセンは何かを決意するライドウの姿に一度瞑目して、そう返した。

 そうして二人は黙り込み、車は走り出す。都会を去り、山奥の、見たことのあるような景色へと移り変わっていった。来たことはないが、それまでの生活がこの場所の雰囲気を嗅ぎ取る。

 ここにもおそらく、動物はいない。気配を感じなかった。

 そんなことを考えていると、隣のスイセンが遠くを眺めながら呟く。


「もうすぐ、着くのよ」


 その視線の先を追った。木々の生い茂る山の中で、ちらとコンクリート造りの建物が目に入る。

 大きく、円形の建物だ。立地も、秘密の研究をするにはうってつけというもの。

 ここでライドウは社会復帰の第一歩を踏むのだと、そう考えた。どこまでも、楽観的に――。

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