前編「じゃあ、買ってくる」
今日の私は、お気に入りのシュシュの色に合わせて、スカイブルーのスカート。一人でCDショップへ行くだけだから、別にオシャレの必要はないのだけれど。
お店に入ったら、三階の一番奥へ直行。クラシック音楽、それも外国からの輸入盤が置いてあるコーナーだった。
特にお目当のCDがあって来た、というわけではない。何か面白そうなものがあったら買おう、という程度の気持ちで眺めていたら……。
「あっ、これ!」
ハインリヒ・シュッツの宗教曲のCD。同じクラシックでも、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハあたりとは違って、結構マニアックな部類になるのだろうか。大好きな作曲家なのに、一枚も売っていない日も多かった。
その点、今日はラッキー!
早速そのCDに手を伸ばしたのだが、値段を見た途端、私は固まってしまう。
「うっ……」
思った以上に高かったのだ。
今この瞬間、私の財布には、これを買えるだけの金額は入っている。でも買ってしまうと、明日からの食費に困りそう……。
「どうした小原、こんな場所で硬直して。遠くから見たら、マネキンかと思ったぞ」
突然だったので、声をかけられてビクッとする。
振り返ると、同じサークルの男の子が立っていた。
「なんだ、篠塚くんか……。何しに来たの?」
「何しに、とは心外だな。CDを買いに来たに決まってるだろ」
まあ、そうだろう。ついでに言えば、私と篠塚くんが入っているのは、大学の合唱サークル。クラシックのコーナーで顔をあわせるのは、何の不思議もなかった。
「それ、シュッツ? そう言えば小原、シュッツが好きなんだっけ」
篠塚くんに対して自分の好みを語った覚えはないけれど、飲み会でワイワイ騒ぎながら音楽の話をすることは多いから、彼もその場にいたのかもしれない。
……などと考えていたら、篠塚くんは、私の手からCDをひったくった。
「ちょっと! 何のつもり?」
「いいじゃん、少し見せてくれるくらい。……おっ、凄いな、これ。『マタイ受難曲』と『ヨハネ受難曲』のセットに『十字架上の七つの言葉』まで入ってるのか。この曲って、短いけど格好いいテナーソロがあるんだろ?」
「あら、意外ね。篠塚くんも案外、シュッツに詳しいのかしら」
「いや、詳しいってほどじゃないけどさ。曲名くらいは……。だって、シュッツは『ドイツ音楽の父』とも呼ばれるんだろ?」
「そうだけど」
ぶっきらぼうに返してしまう。どうも篠塚くんの口調が、テスト前日に音楽の教科書を丸暗記してきた学生みたいに聞こえたのだ。
「それで、小原。これ、買うの? 買わないの?」
「ああ、うん。欲しいけど、ちょっと、お金が足りなくてねえ」
「そっか。これ、結構値段するからなあ。収録曲も多いだけあって」
しかしこの手のCDは、一度機会を逃すと、次にいつ出会えるかわからない。ならば、少し無理してでも買ってしまうべきか……。
「そうだ!」
名案が浮かんだ私は、ポンと手を叩く。
「篠塚くん、シュッツに興味あるような口ぶりだったよね? じゃあ篠塚くんが買いなよ。それで、私にも聴かせて」
「えっ、俺んちに聴きに来るの? 二人で一緒に聴こう、ってこと?」
「何バカ言ってんの。私たち、そういう仲じゃないでしょ」
大学のサークルとはいえ、真面目な合唱団だ。サークルの男の子と部屋で二人きりになったからといって、別に心配する必要はないだろうが、それでも迂闊な行動をとるつもりはなかった。いつか私に彼氏が出来るまで『部屋で二人きり』はお預けだ。
「ああ、そうだな。つまり、後で貸してくれ、ってこと?」
「そう、そういうこと! どうかなあ?」
冗談半分、甘えたような声と表情を作ってみる。
似合わないとか可愛くないとか、そういうツッコミが来るかと思ったのに、篠塚くんはスルー。
それどころか、貸してくれるかどうかも言わずに……。
「じゃあ、買ってくる」
と、彼はレジへ向かった。