第三回
どうしてこうなった。
始業式の日から数日経った土曜日、俺は久々に、女装──それもいつもより若干気合の入った──をして駅前を歩いていた。
それも一人ではない。
斜め前では、いまいち冴えない雰囲気を醸し出す眼鏡の男性が俺をエスコートしている。
まるでデートである。
いや実際これはデートなのだが、あえて普通と異なる点を挙げるとすれば、どこにでもいそうなカップルにみえて、実は両方男であるという点であろう。
今この場でそれを知っているのは俺一人のみだ。斜め前を歩く男は、俺が完全に女だと信じ切っている。
そう、この男こそ、湊元周の兄・湊元康太だ。ネットに出会いを求めた挙句サクラに釣られて大金を失った憐れな彼に女性経験を積ませるため、なぜか俺が一肌脱ぐはめになった、というのがここに至る経緯だ。……偽物に騙されぬよう偽物で経験を積ませる、というこの計画が抱える致命的な欠陥については、企てた少女の思考の中では瑣末な問題に過ぎないようなので、もはや何も考えるまい。そもそも──これはあくまで俺の勝手な所感だが──今日の本当の目的は実は別のところにあるのではないかと俺は思うのだ。
「まだ時間ありますけど、どうしますか?」
不意に康太さんが振り返って、俺に尋ねた。
言葉の内容は至って自然なのだが、しかしどうも態度が伴っていない。トーンが高く震えた声に強ばった笑顔と、かなり緊張しているのがはっきりとわかる。女性慣れしていない、というのはどうやら本当らしい。
「そうですね……ちょっと早いですけど、先にお昼にしませんか?」
現在の時刻は午前11時。今日見る予定の映画の入場開始は1時半くらいからなので、時間はそこそこある。もとよりそういうつもりで集合時間や観る映画を決めたので──俺ではなく彼女が、だが──当たり前ではあるが。
「どこか行きたい所とかありましゅ……ありますか?」
……噛んだな、今。
まぁ俺はいい「女」なので、気づかない振りをしてやろう。
「私はどこでもいいですよ?」
で、でた〜〜!「どこでもいい」とか言いつつ全然どこでも良くない奴〜〜!!いや実際使い勝手のいい台詞ではあるんだよなこれ。まぁ、俺は男だしこの場合はそのままの意味に限りなく近い「どこでもいい」だ。例えこってこてのラーメン屋だのお好み焼き屋だのに連れていかれたとしても喜んでついていってやろう。やべ、想像したらラーメン食いたくなってきた。
「なら、ちょっと歩くんですけど僕のオススメの店があるんで、一緒に行きませんか?」
そんな俺の意図を汲み取ったものではないだろうが、以外にも康太さんははっきり行き先を提案した。
もちろん俺は頷き、康太さんについて行く。
曲がり角で身を翻した康太さんの手元──スマートフォンの液晶画面にメッセージアプリのトーク画面がちらりと見える。トーク相手は「あまね」。また、これから行く先と思われる飲食店の地図情報が添付されたメッセージが「あまね」から送られているのも確認できた。
なるほど向こうもかの少女の操り人形らしい。なんだかいよいよ茶番劇じみてきた。
康太さんに案内されたのは、駅から徒歩5分程度の、やや奥まった場所に有る、チェーン店ではないものの決して気取らないパスタ専門店だった。デートにイタリアンというのはお決まりといえばお決まり、無難なところだろう。
落ち着いた照明に小洒落た内装の店内はまだ微妙に早い時間ながらそこそこ繁盛しているものの、幸い空いた席はいくつかあった。俺達はそのなかでも壁際の二人がけのテーブルに案内される。
メニューを流しみて適当に注文を済ませ、料理が来るまでの間、湊元の指示通り俺は康太さんとの会話に興じようと試みた。
といっても初対面だ。一応待ち合わせの時に軽く自己紹介をしたが、もう一度改めて名乗っておくのがいいだろう。
「では、改めて──蓮実ミカです。妹がいつも周ちゃんにお世話になってます。今日は、よろしくお願いしますね」
一応今の俺は、湊元周の友達の姉──蓮実ミカ、ということになっている。この『設定』は、湊元が康太さんにデートの約束を取り付ける際、既に伝えられているはずだ。
「い、いえ、こちらこそお願いします──湊元康太です」
対して康太さんも爽やかな笑顔で答える。それにしてもこの男、服装や所作はぱっとしないものの、あの湊元周の兄だけあって容姿はなかなか悪くないのである。なんなら俺が軽く嫉妬しそうになるくらいに。ってかこの人会った時からずっと思ってたけど痩身だし女装似合いそうなんだよなぁ。
料理が運ばれるまでの間、自己紹介を済ませた俺と康太さんはぎこちなくも会話を重ねた。如何せん初対面ともなると共通する話題が乏しいため、お互いの趣味とか好きなテレビ番組とか当たり障りのない内容に終始していたが、康太さんの人の良さもあって思いのほか会話は弾み、俺が予期していたような惨状──たとえばコミュ障どうしによくある「あっすいません」が発言の7割を占めるような状態などにはならずに済んだ。
しばらく話していると、若い男性の店員が「お待たせしました」と料理を運んできた。俺はしっかり手を拭いてフォークを手に取ると、粉チーズがたっぷりかかったカルボナーラを丁寧に巻き取り、上品な仕草を心がけつつ口に含んだ。
うまい。
生パスタを使用しているらしい、もちっとした麺の食感が非常に心地いい。噛みごたえのある、いわゆるアルデンテな麺もそれはそれで好きだが、やはり家庭で一般に使われる乾麺では再現しずらい、こうした食感は店ならではであろう。
濃厚でまろやかなソースも麺とよく絡まり、ときおり舌を刺す黒胡椒の刺激もとても良い。
なんだろう、最近のjkってこんなハイセンスな店に行くのが当たり前なの?子供らしくファストフード的なチープな店で済ますんじゃないの?普段は小洒落たイタリアンを嗜みつついざとなれば痴漢のおっさんにドロップキックかますとか、昨今の女子怖すぎじゃね?いや助けられた俺が言うのもアレだけどさ。
ちなみに今この店で食事をする客の中にも、やたらスカートの短い制服の女子高生の2人組もいる。まぁまだ子供といえど女の子だ、まして生まれた時からコンクリートに囲まれて過ごしたのならば洒脱な趣味を実践することに躊躇いはないのかもしれない。男でありながらも女性的な趣味に興じることを厭わない俺のように。てか俺も全然人の事いえねぇな、女装のとき一人でブティック覗いたりしてるし。あーなんか恥ずかしくなってきた。
などと取るに足らないことを考えていると、いつの間にか周りのことを忘れて自らの思考の内に閉じこもっていたようで、俺ははたと我に返った。
いかん、ソロプレイが板につきすぎてつい無意識にぼっちの固有結界を発動させてしまっていた。
放ったらかしにされ気分を害していないだろうかと康太さんに視線を向けると、彼は魚介類を豊富に使ったスパゲッティ──確かペスカトーレといったか──を口に運んでいる最中であった。
俺はこほん、と雄っぽくならぬよう小さく咳払いし、康太さんがペスカトーレを飲み込んだタイミングを見計らって声をかけた。
「あの──おいしいですね」
康太さんは口元を拭い、笑いかける。
「そうですか、良かったです」
「素敵なお店ですね。良く行かれるんですか?」
「え? ええっと……そうですね……」
いや誤魔化すの下手くそか。声裏返ってるぞ。
「実はここを教えてくれたのは妹で……僕も来るのははじめてなんですよ」
嘘でもよく行くって言っとけよ。サクラに騙されるだけあって、素直だなぁこの人。
「そうだったんですか。じゃあ、あとで周ちゃんにお礼言っとかないとですね」
まぁ言いませんけどね。むしろ言われる側まである。
「そっそういえばミカさんは、妹さんとは仲がいいんですか?」
気恥しいのか、康太さんはやや食い気味に話題を変える。
だがその内容は、俺にとってあまり好ましくないものであった。
一応、湊元との打ち合わせにおいて「蓮実ミカ」とその妹の設定を考えてはおいたが、ボロが出る可能性を踏まえ俺のプライベートや架空の妹に関する話題は避けたいのだ。
「え、えーと、な、仲よしな方だと思いますよ」
笑顔がひきつっていないか心配しつつ、俺は答える。
「そうですか。──うらやましいなぁ」
幸い康太さんは気にしていないようである。できれば下手なことを言ってしまわないうちに話題を変えたい。
「康太さんも妹さんと仲がいいみたいですね?」
質問の返答に困った時、同じ質問を相手に投げかえすというのは一種の常套手段であろうと考えて俺はこう発言したが、しかし受け取りようによっては嫉妬ととられかねないことに言ってから気づく。
かといってそういう意図はないことを自分から言及するのはかえって白白しいので、どうしたものかと口を噤んでいると、康太さんが口を開いた。
「いやぁ、どうでしょう」
康太さんの表情に浮かぶのは俺への悪感情ではなく、苦々しく自虐的な笑みであった。
「反抗期っていうんですかね、家ではかなり当たりきついですよ。兄妹なんてそんなものかもしれませんけど」
うわー、すげぇありそう。あの少女が棘のある口調で康太さんに文句を言う光景が脳裏にありありと浮かぶ。
かちゃ、と音を立てて康太さんがフォークを置いた。先程までの爽やかさとはうってかわって、康太さんが纏う雰囲気が重苦しさを帯びる。
「僕に兄としての威厳があればまた違ったかもしれないですけどね……迷惑ばかりかける、我ながら不甲斐ない兄です」
後悔、であろう。おそらくは、騙されて大金を失った、例の事件への。
俺は本来部外者だから、あの事件のことはもちろん知らないことになっている。下手なことは言えない。
だが、それでも──自責の念を湛えた目で手元を見詰める康太さんをみていると、何か言わずには居られなかった。
「そんなこと、ないんじゃないですか。周さんもきっと、恥ずかしがっているだけだと思いますよ」
我ながら中身のない言葉だ。優しさだの思いやりだのというには、その内容は俺自身が自覚しうるほどに身勝手で無責任にすぎる。
「……そうですか」
だがそれでも、康太さんは俺の言葉を受けとめてくれたらしい。気づけばまた爽やかな笑みを取り戻し、陰鬱な雰囲気はどこかへ行っている。俺は安堵してお冷を喉に流し込み、食事を続行した。
その後も俺と康太さんは料理に舌鼓を打ち、あるいは食後の心地よい満腹感に身を委ねつつ会話を楽しみ、ゆったりとした時間を過ごした。
──だが。
思いのほか楽しい時間に気を取られ、俺たちは重大なミスを犯していた。
談笑していると、突如マナーモードしておいたスマートフォンがバイブレーションが鳴る。最初は無視していたものの、お構い無しに震え続けるのでしつこさに耐えかね確認すると、湊元からの電話だった。
康太さんに断りを入れて席を外し、電話に出る。
「もしもし」
「あ、やっと出た。ねぇあんたなにやってんの? 馬鹿なの!?」
「なにやってんのってそりゃもちろんデート中だよ、お前の兄上と」
「そういうこと言ってんじゃないの! 時間みて、時間!」
「時間?──あ」
スマホの時計が指す時間は、1時44分。上映開始時間はとっくに過ぎており、上映開始後しばらくは宣伝であることを鑑みても時間はない。おまけにここから映画館までは徒歩15分程の距離がある。
「これは……間に合わんなぁ」
「ちんたらご飯食べながら喋ってるからでしょバーカ」
ぐうの音も出ない。……って、なんでこいつ俺たちがまだレストランにいるの知ってんだ?
「ちょっと待って、お前今どこいんの?」
「どうでもいいでしょそんなこと、それよりいいから急ぎなよ!」
「あっちょ──」
切られた。
まぁいい、湊本には後ほど糾弾するとして、今は映画だ。
すぐに席に戻り、康太さんに時間がないことを伝えると、康太さんは青ざめた顔で了承し、二人で急ぎ店をでた。なお会計はさらっと康太さんが全額支払ってくれた。やばい、惚れそう。でもついこないだ大金を失ったばっかなのに大丈夫なのか。
俺と康太さんは二人映画館への道のりをひたすらに急いだが、しかし。
映画館に着く頃には、もう2時も近くなっていた。思わず「あっちゃー」と声を漏らす。
「本当にすいません、僕が気づかなかったばかりに」
「いえ、こちらこそすっかり失念してました……でも、どうしましょうか」
今日見る予定だったラブロマンス映画の次の上映時刻は6時頃。かなり待つことになってしまう。
「待つのも億劫ですし……違うのを観ますか」
あるいは映画を観るという予定そのものを変更するという手段もあるが、ここまで来て引き返すというのも後味が悪い。
「違う映画、ですか」
本日上映予定の作品と上映時間が表示された液晶の案内板に目をやる。
今から時間的に丁度いいのは『スペースウォーズ』『君が心臓を食べた』それから『エマと炎の魔女』あたりだろうか。
『スペース・ウォーズ 3』は、アメリカの有名なSFアクション映画だ。第一作、第二作ともにCGを多様した迫力のある映像が魅力で、世界中にファンをもつ根強い人気作である。今作が公開を開始したのは数ヶ月は前だが、人気は後を絶たないらしく未だ上映し続けているらしい。
『君が心臓を食べた』は小説を元にした邦画だ。余命宣告を受けたヒロインと主人公の心の触れ合いをテーマとした感動作で、なんとかいう有名な賞をとったとかで巷で話題になっている。おそらくクオリティに疑いの余地はないだろう。
『エマと炎の魔女』は、ウィリアム・ディズリー・カンパニーの子会社ミクサーが制作したCGアニメーション映画だ。基本的には子供向けのメルヘンな話だが、大人が観ても楽しめる内容ではある。何より多大なコストを支払い作られた映像だ。間違っても退屈させられることはそうあるまい。
とまぁ、どれも名作を名乗るに相応しそうな映画ではある。しかし生憎と今日は一人で来ている訳では無い。雰囲気を壊すようなものは避けるべきだろう。
となると……『スペースウォーズ3』はまず有り得ないな。『エマと炎の魔女』は、まぁファミリー映画をカップルで観ることに違和感はないが……気心知れたカップルならまだしも康太さんとはまだ会ったばかりだ。敢えて選ぶこともないだろう。
つまり──。
「『君が心臓を食べた』なんかは、どうですか?」
恐らくこれが最適解だろう。確信のこもった俺の提案に対し、
「ああ、『きみしん』か。……いいんじゃないかな」
康太さんは快く了承してくれたが、しかしその台詞は何故か、今日会ってから康太さんが発したどの言葉よりも嘘くさいように感じた。
俺は不思議に思い、康太さんをまじまじと見つめた。俺の視線にまるで気づかない彼は、聞き取れたのが幸運としか言いようのない、気を向けていなければスルーしていまうような本当に小さな声でぽろっと呟く。
「……そういや忙しくてまだ観られてないんだよなぁ」
見落としてしまいそうな程に小さく、だが無視できない哀愁を孕んだその呟きに、俺の心は強く揺れ動かされた。何か──何か、間違えてはいないか。建前ではなく、本当に優先すべきことを、俺は読み違えてはいないか。
いつの間にか康太さんはまたあの爽やかな、しかし同時に無理をしているような違和を微かに湛えた笑顔を取り戻して言った。「じゃあ、チケット買ってきましょうか」
ポケットから財布を取り出し、歩き出す。そのとき、ふいに革財布の端で揺れる小さなストラップに目がとまった。
金属製の、青と白のキャラクターのイラストがデザインされたストラップ。俺はそのキャラクターに見覚えがあった。
R2-PO。某有名映画の登場人物で、高度な人工知能を搭載した自律式のロボットという設定である。作中で主人公を助けつつ、物語の根幹をなす重大な役割を担うと同時に、小さく愛らしい見た目やコミカルな動きで映画のマスコットとしても人気のあるキャラクターである。
そして、その映画の題名とは。
『スペースウォーズ』である。
見間違いではない。そんなことはありえない。一作目は上映期間中に3回視聴し、二作目は受験と被って映画館へは行けなかったものの、入試終了後すぐさま買っておいたブルーレイを合計4回は観た重度のファンであるこの俺が。三作目である今作も、公開初日に(土曜授業をサボって)観に行ったこの俺が。万が一にも、その映画の主人公格の登場人物を間違えることなど、あろうはずがないのだ。
今日の目的が湊本の言っていた通りならば、俺は無難なデートを目指し、より女性らしく行動すべきであろう。SFアクション映画など言語道断である。
だがもし違うとするならば──。傍若無人にみえたあの少女の態度が本当は照れ隠しか何かであり、このデートの目的が本当は「康太さんの女性経験を養うこと」ではないとするならば。
ならば、俺の取るべき選択肢は違うのではないか。
思い違いかもしれない。いやむしろ、その可能性のほうが高いまである。しかし俺は、妙にリアリティを伴ったその疑念を、違和感を、無理矢理飲み込んで押し殺したまま当たり障りない態度を決め込むことは出来なかった。
「あの」
俺の発したやや大きな声が、歩き出した康太さんの足をその場に縫い付ける。
振り返って、笑顔で、康太さんは応答する。
「何ですか?」
意を決して俺は言った。
「その、やっぱりこっちにしませんか?」
『スペースウォーズ3』の文字が踊る看板を指さしながら。
「え」
康太さんの目に、動揺がはしる。それから、心底意外そうな顔をして言った。
「その……いいんですか?」
「実は、ずっと観たかったんですけど機会がなくて……私の趣味に付き合わせる訳にも行きませんし、嫌ならいいんですけど」
「いえ……いえ、そんなことはないです。ええ、観ましょう。チケット買ってきます」
康太さんは先ほどより心持ち軽めな足取りで券売機に向かう。
少なくとも康太さんの心情については読み違えていないようで、俺はひとまず安堵する。無論確定的な証拠があるわけではないが。
安堵したついでに、
「……あ」
今まで無視していたあることに気がついた。
──あの人、まさか映画代も奢るつもりなのか。
男は見栄を張りたがるものとはいうが、事情を知ってしまっている俺としては正直困るんだよなぁ。
……あとでちゃんとお金渡そう。