第一回
春である。
ほのかに暖かみをはらんだ風が気だるげに吹き、晴れやかな空には街路樹の桜が花弁を舞わせている。
バス停から学校までの道を歩く学生達は、なんとなく浮き足立った雰囲気を漂わせている。
それもそのはずだ。今日は始業式。今年度初めての登校日にして、これから一年間過ごすクラスが決まる日でもある。
仲のいい友達や、好きな異性と同じクラスになれるだろうか。担任は誰になるだろうか。
多くの生徒はきっとそのようなことを考えながら、来たるべき別れや出会いへの期待と不安を募らせているのだろう。
俺とてそのような気持ちがないでもないが、しかしどこのクラスにいったところで俺はまた去年のように目立たずひっそりとした学校生活を送るに違いない。
余計なことは喋らない。他人に借りをつくらない。何より絶対に目立たない。
それが、高校に入学する際にたてた俺の信条である。
この信条を遵守した結果俺はなんと、誰からも嫌われなくなった。
副作用として他人との交流が薄くなったが、そんなことは些細な問題でしかない。
誰からも嫌われないように。疎まれないように。憎まれないように。
空気を読むのが苦手な人間がとれる選択肢は、そう多くないのだ。
そんなことを考えていると、気づけば学校はもう目の前だった。
県立姫ノ宮高校。
校門の塀に埋め込まれたプレートには、俺が一年間通い続けている学校の名前が彫られている。
俺は校門を抜け、昇降口でサンダルに履き替え階段を上った。
階段を抜けて2年の教室があるフロアにでると、すぐそこにちょっとした人だかりができていた。どうやら新しいクラスの名簿が掲示されているらしい。
人混みは嫌いだが、確認しない訳には行かないので仕方なく掲示の前の群衆に混じる。とはいえ長居する気もないので、俺は自分の名前だけ確認するとさっさと教室に向かった。
二年三組。ここが俺が今日から属するクラスである。俺は扉の前で深呼吸し、控えめに引き戸をずらした。
教室の席をまばらに埋める人々は入ってきた俺にちらっと目を向けたが、知り合いでないと察知すると興味を失ったように視線を戻す。
俺はそれを気にすることもなく、黒板に貼られていた座席表に従って自分の席に荷物をおろし着席した。
ちなみに幸運にも俺の席は、一番後ろの窓際という、最も他人の目につきにくい俺にうってつけの席だった。
ふう。水筒の水を流し込んで一息つきつつ、俺はクラスを見回した。
新しいクラスとはいえ全くのゼロから人間関係が始まる訳ではなく、既に部活の知り合いやら元同じクラスやらでなんとなくコミュニティが形成されているようである。
一年間も学校生活を送っていれば、大概の奴はクラスの内外に、それなりに知り合いもできるのだろう。──俺のように会話を拒もうとさえしなければ。
多くの人間が仲間内で談笑するこの場において、俺は完全に孤立していた。
つまり──暇である。
まぁ一人で暇を潰す方法なんて幾らでもあるし、その気になれば妄想だけでも小一時間は過ごせる。多分。
始業まではまだそれなりに時間がある。俺は暇つぶしとばかりにスマートフォンを取り出し、アルバムのアプリを起動した。
「俺」というフォルダを開くと、たちまち画面がメイド服やら何やら様々な格好をした美少女の画像で埋め尽くされる。
うわぁ気持ち悪いとか思ったそこのお前。安心しろ、これらの画像は実はすべて男だ。というか俺だ。フォルダ名そのまんまだしな。え?余計に気持ち悪い?るっせ。
俺には、他人に隠している趣味がある。それはすなわち女装だ。
俺は元々華奢な体格で男にしては身長が低く、かつ自分で言うのもなんだがそこそこ悪くない顔立ちをしている。
つまり、女装の素材として俺の体はかなり適しているのだ。
最初は鏡の前で化粧やコスプレをしたり、上手く行けば自撮りを保存したりといった具合に独りで楽しんでいたが、次第にだれかに見て欲しくなり、ついには女装のまま外出までするようになった。
もっとも最近は、女装での外出はやや控え気味になっている。
原因は、春先に起きたあの忌まわしい事件だ。
ある夜女装で道端を歩いていた俺は突如痴漢魔に襲われ、絶体絶命のところを通りすがりの少女──確か、「つもとあまね」と名乗っていた──に救われた。
しかし痴漢に衣服を脱がされ半裸になっていた俺は、無様にも我が息子を助けてくれた少女と駆けつけた警官の目の前で晒してしまったのである。
思えば短い人生の中で警察のお世話になったのも、家族以外の女性に息子を見られたのも、あれが初めてだった。
いやもうほんとね、しんどかった。警察の事情聴取の間、機嫌を損ねたのか少女は終始目すら合わせてくれなかったし、本来は男とはいえ女にしか見えぬ格好で夜道を1人で歩くのは危ないと警官には説教されるし。
唯一の救いといえば、人生を捨ててまで襲った相手が男だと知った時の痴漢魔の絶望的な表情くらいか。
まあいい。事情聴取も完全に済んでいるし、もう彼らと会うことはないだろう。
あの事件が俺の心に残した若干の傷跡も、いずれ時間が癒してくれるに違いない。
あの日以来幾度か自分に言い聞かせた結論を俺は噛み締め、指先をスマートフォンの画面の上に──無論周りの人間に画面を見られぬよう注意を払いつつ──踊らせた。
写真を一枚一枚スライドさせながら眺めていると、思わず口元が緩みそうになる。
ヤバい。俺超可愛い。
こんなにかわいい男の娘を好き勝手に弄べるとか、俺はもう一生童貞でも構わない。いっそ俺と結婚したいまである。
そんなしょうもないナルシズム──ちなみにこの場合のナルシズムの意味は、本来の語義に近い──に浸っていると、不意に隣の椅子がひかれ、誰かが腰をおろす音が俺の耳に入ってきた。
そのまま写真の観賞を続けてもよかったが、これから授業でのペア学習の相手にもなる隣の席の人間が果たしてどのような人物なのかという好奇心が勝り、俺は隣に視線をやった。
そして。
俺の目は、たっぷり五秒間はそいつに釘付けになった。
頭の後ろで束ねられた、短めの黒髪。
化粧っ気はないものの、健康的で整った風貌。
間違いない。
俺の隣に座ったそいつは、あの日俺を痴漢から救った──そして寒さで縮んだ俺の情けない息子を目の当たりにしたあの少女だ。
「何?」
俺の視線に気づいた少女は怪訝そうな表情で言った。
いきなり声をかけられた俺はつい動揺を露わにし、「あ」とか「いや」とか「別に」とかいうふうなことを口篭りつつ顔を逸らした。
こいつ、ここの生徒だったのかよ。
しかもよりにもよって同じクラスの隣の席など、想定外にも程がある。
目だけを動かして隣の様子を伺うと、彼女はなぜかこちらを凝視しており、俺は思わずどきっとする。
「君……どこかで会った?」
そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼女は再び俺に話しかけた。
「いや、初対面かと」
俺は背中に嫌な汗がじんわりと滲むのを感じた。
「そう」
少女はなおも得心がいかないというような表情だったが、しかしそれ以上追求してくることはなかった。
学校内で目立つようなことなどあってはならない。女装趣味バレなど以ての外である。
幸い向こうは俺があの日の女装男だと気づいていないようである。このまま隠し通せば、恐らく今後もこの趣味が知られることはないだろう──。
「あっやべ」
ほっとした弾みで手が滑り、俺はスマホを落とした。
画面にはまだ俺の女装写真が表示されている。誰かに見られる前に拾わなければ。
だが落下したスマートフォンに最初に触れたのは、不運なことに俺の手ではなかった。
きっと善意からだろう、少女は俺のスマートフォンを拾い、その画面に写った画像を──俺の自撮り写真を見てしまった。
「あ」少女は声を漏らし、俺とスマートフォンの画面を交互にみる。
「ああーーーっ!」
続いて少女が発したのは、絶叫とまではいかないもののそこそこ大きな喚声であった。
終わった。完全に気付かれた。
実の所、俺は女装趣味を他人に知られるのが怖い訳では無い。
ただもしこの女がこのことを周りに広めるようなことがあれば、俺は少なからず注意を浴びるだろう。
いままで空気だった俺の存在が認知される。──それも女装趣味というレッテル付きで。
そうなったとき、空気の読めない俺は、恐らく自然に対応することはできないに違いない。きっとまたかつての──およそ一年前までの日々のように、余計なことを言って無駄に傷つけたり傷ついたりするのだろう。
そういうのは、もう御免なのだ。
ただ実は、それを回避する方法もまだ残っている。
それはつまり、この事実が広まる前に少女に口止めをすることである。要は広まりさえしなければ、変に目立つことはないのだ。
となれば、大変不本意だがまずはこの少女と意思疎通を図らなければなるまい。
もちろんここで下手をこいたら元も子もないので、必要最低限の会話を心がけ、ではあるが。
俺は呆けた顔の少女に向かい、口を開いた。
「あ、その、えっと、スマホ……返してもらえませんか」
……俺、コミュ障すぎじゃね?
いや分かってたけどさぁ、人に向かってはっきり話すって結構難しいよね。
おまけにこの少女案外器量がよく、純情な少年たる俺は思わず目を逸らしちゃったりする。てへぺろ。
「あ、ごめん……はい」
少女ははっと我にかえったようになり、慌てて俺にスマートフォンを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「いや、別に」
「……」
「……」
いや終わっちゃったよ、会話。
コミュ障あるあるその一、会話の広げ方がわからない。
なんて言っている場合ではない。このままでは口止めなんて夢のまた夢である。
さて、どうしたものか。
もはや諦めにも似た心境に達してると、
「ねぇ、君」
少女が再び俺に声をかけてきた。
あまりにも唐突だったため、初め自分が話しかけられていると気づかなかった。
コミュ障あるあるその二、めったに話しかけられないため呼びかけに反応できない。
「話したいことあるんだけど、放課後時間ある?」
どういう訳か、少女の方から俺との対話を打診してきた。無論俺に拒否する理由などないが、一体何の話かというのも気になる。
「いいけど、話って──」
俺は詳細を聞こうとしたが、その瞬間に予鈴のチャイムが鳴り響き、俺の言葉は掻き消された。
いつの間にか教壇に立っていた教師が点呼を取り始め、少女との会話は中断を余儀なくされる。
本来この学校において、授業中やHR中に生徒が私語を発すること自体はさして珍しい光景でもないのだが、まだクラス内の人間関係が発達していない現段階で迂闊な真似をしたがるものはおらず、点呼への返事を除き皆一様に口を慎んでいる。無論俺もわざわざそんな状況で会話を続行する訳にはいかない。
仕方ないか。
ひとまずこのことは忘れ、放課後を待とう。
気づけば点呼は終わり、始業式を行うべく体育館への移動が始まる。
俺は立ち上がって軽く伸びをすると、これから始まるであろう退屈な儀式に気乗りしない気持ちを噛み締めつつ教室を出た。