07、客
「呼んでない……」
完全なる場違い感ごと吹き飛ばすようなハイテンションに、珠緒は呆れたようにため息を吐いた。
肩上で切り揃えられた茶色の髪、焦げ茶の瞳は獲物を狙う猫のように笑んでいる。珠緒より身長はあるものの華奢で、どこか中性的な雰囲気がある。
侵入者と呼ぶには堂々としている上、玄関という正規のルートから入ってきていて。戸惑う倖とは違い、珠緒は寧ろ身内や友人といった親しい相手へ向けるような軽口で。相手が誰かわからないながら倖はそっと椅子に座り直した。倖にとって得体の知れない相手に違いないので、視線は尚も鋭い。
「あら、そういうこと言っちゃう? せっかく圭ちゃんお手製クッキーを持ってきたのに、いらないのね?」
「お茶にしよっか」
にやり。そんな例えが似合いそうな笑みで、珠緒の前に小さな紙袋をぶら下げた。途端、分かりやすく手の平を返した珠緒が面白かったのか、不審者は机の上に紙袋を置いた。
せっせとヤカンに水を淹れてお茶の準備をし始めた珠緒を放って、不審者は勝手に椅子に座る。つい眉を顰めかけた倖を、頬杖を付いて眺める。
「それで? いつから珠緒ちゃんは私に内緒で男を連れ込むようになったの?」
「!」
珠緒に向けるのとは違う試すような響きに、今度こそ倖は顔を歪めた。
二人の態度からして知り合いなのは確か。あちらからすれば、つい最近来た倖のほうが得体が知れないのだろう。だが、家主である珠緒の許可も得て、ここにいるのだと倖も負けじと視線を返す。脅迫に近い強引さで迫ったのはこの際置いておく。
「どうしたの?」
背中を向けていて状況に気付いていなかった珠緒は、不思議そうに二人を見比べた。手に下げたヤカンの注ぎ口からは湯気がもうもうと立ち上っている。倖は鋭いままの視線を珠緒に滑らせた。
「ヤカン持ったままでうろうろすんな! とりあえず置け!」
怒鳴られてビクリと怯えた様子を見せた珠緒だが、大人しく言われた通りにヤカンを置いた。倖は立ち上がって、カップを三つと茶葉を取り出す。来て数日だが、既に台所は倖の根城となっており、何がどこにあるかも把握していた。
珠緒に小さな皿を渡して手土産を載せるよう指示し、自身はテキパキとお茶の準備を済ます。それぞれの席へ湯気の立つカップを置いたところで、倖は再び席に付いた。ちなみに席順は、四人掛けのテーブルに不審者と珠緒が並んで座り、倖は珠緒の向かい側。
「ふふ、ありがとう」
先程までの邪気を引っ込め、にこりと笑う侵入者。嫌そうに顔を反らした倖は、珠緒に無言で念を送った。呑気な家主の視線はクッキーと倖を行ったり来たり。
「えっと、友人の杏ちゃんです」
「どうもー、初めまして。私は珠緒とは中学からの友人で、杏と言います。弟くんも杏ちゃんって呼んでね」
「……どうも」
語尾にハートマークが付いていそうな自己紹介に、倖は腕をさすった。珠緒は慣れているのか、杏の紹介にも倖の引き攣る表情にも反応せず、手土産のクッキーを幸せそうに食んでいた。
「噂には聞いていたけど、面白い子ねぇ。やってることと言ってること、ちぐはぐ」
「杏ちゃん。お父さん何か言ってた?」
「うん? 珠緒のとこに弟くんが行くことになったからよろしくって」
「そっか」
予想外の情報元に驚きつつ、巻き込まれないよう聞き耳だけ立てて茶を啜る。珠緒と付き合いが長いのはいいとして、娘の珠緒より明彦と連絡を取っている雰囲気なのが不思議で、倖は黙ったまま会話に耳を澄ませた。
「まあ、思ったより上手く行ってそうで何より」
上手く行っている。そう評されて珠緒と倖は顔を見合わせた。
合った視線を誤魔化すように逸らされた珠緒は、何か言おうとしたものの良い言葉が出てこなくて黙り込む。そんな二人を眺めていた杏だったが、思い出したように珠緒に向き直った。
「たま」
「ひゃん!」
「もう少し周りに興味を持とうね」
「……?」
ビシッと指で弾かれ、珠緒が鳴き声をあげて額を抑える。涙目で訴える珠緒を無視して、杏は倖へと向き直った。
「珠緒がこんな感じだから、明彦さんが単身赴任する時にスペアキーを託されたの。たまに様子を見に来て欲しいって」
羽根をモチーフにしたキーチェーンの先には、二つ鍵がぶら下がっていた。一つは自宅で、もう一つがこの家の鍵なのだろう。珠緒が言いかけていた家へ来る相手が杏だと知り、倖は罰が悪そうな顔をした。
珠緒の連絡手段が現代人とは思えないほどなのは倖もよく知っていた。連絡を取ろうにも家の電話はアテにならず、携帯を買った今も持ち歩く癖がついていないのでよく置き去りにしている。行き倒れても気付く人はいないし、連絡することもできない。
「どうせスペアキー持ってる人がいるって言ってなかったんでしょ。知らない弟くんに住居不法侵入で通報されたら困るんだから、ちゃんと言っておいてよね」
「……はい」
鍵を仕舞いながら珠緒を注意する口ぶりは、子どもを注意している親のよう。対する珠緒も、不貞腐れたように口をすぼめていて。昔からこういうやり取りを何度もしているのだろうと、見ている倖ですら想像がついた。鍵という貴重品を託されているのも頷ける。
「弟くん、転校の準備は出来てる?」
「!」
倖の顔色が変わる。
義姉であり、同居人である珠緒の口からも出てこなかった質問に、倖は口籠った。
「生活必需品は日々使う物だから買いやすいし、買い慣れてる。でも、環境がガラッと変わる時は準備の仕方がまた違うでしょ。人にあまり興味が無い珠緒と他人に甘えるのが下手な弟くんじゃあ、準備が終わってるとは思えなくてね。今日は届け物がてら、そこを確認しに来たの」
珠緒だけでなく倖の性格も知っているような口ぶりに倖はまたも顔を顰めたが、言っていることは的を得ていて。図星を指された倖は、観念したように頭を掻いた。
「住所変更とか転校に必要な書類は全て出したはず、です」
そもそも急に決まったことなので、明彦と聡子は倖の転校関係だけに過葛っていられなかった。
倖は自分で書類を集めに行き、両親と確認しながら自分で提出した。抜けはないと思っているが、やはり心配は尽きない。
新しい学校へ行くまで一週間を切り、倖は誰にも不安を言えないまま過ごしていた。
「転校関係は私も噛んでるから状況は把握してるわ。来週から転校生として行けるはずよ」
当人である倖や身内の珠緒ですら知らない事を、何でもないことのように言う杏。倖が聞きかえすより早く反応したのは、珠緒だった。
「コウくん、天校に行くの?」
その問は倖へではなく、杏へ。明らかに動揺している珠緒に、倖は聞こうとしていた事を忘れて見守る。倖には聞き覚えのない単語だが、優雅にお茶を飲んでいた杏はカップを置く。
「弟くんが行くのは涼風高校。天音じゃないわ」
「……そっか」
「天校って?」
「私達の母校で、私の仕事場でもある天音学園の愛称よ。急なことで時間がなかったのと、涼風に知り合いがいるから、手続き関係に勝手に首を突っ込ませてもらってたの」
珠緒じゃあ頼りないからね、と二人の疑問を端的に解決していく。教師だったのかと軽く衝撃を受けていた倖だが、杏の説明の仕方は分かりやすく慣れているのが窺えた。
二人に納得の色が見えた所で、杏は立ち上がって玄関へと向かう。
「はい、これが弟くんの制服と教科書ね。あっちも色々忙しそうだったから、転校手続きの確認兼ねて受け取ってきたわ」
珠緒へのお菓子はついでで、杏の届け物のメインは倖の転校必需品だった。
制服や体操服等の衣類と教科書十数冊をどさっと机に置く杏。両手で一気に持ってくる量にしては多く、見た目の華奢さと違って力持ちらしい。
「さて、他に必要なものは?」
暗に必要なものがあるなら揃えると言ってくれてるのを察し、倖は杏に頭が上がらない思いで「大丈夫です」と伝えた。




