05、再婚
倖にとって、父親の記憶はあまりない。
幼い頃、病気で亡くなった。生まれつき体の弱い人だったそうだ。
入院していた頃、看護師をしていた母と出会い、結婚。倖を産んだあと母は看護師として復帰し、仕事してはいたものの病気がちだった父はよく家で寝込み、幼いながら懸命に看病していたのを覚えている。そんな父が他界した後、母は倖を育てるためにとさらに働いた。
中学に上がる頃、母の変化に気付いた。
ほんの少しの違和感に近い、些細な変化。小学校から中学校へと環境が変わったことで敏感になっていた倖は、それに気付いていながらも自分のことで手一杯で何もしなかった。
その変化の理由を知ったのは、一年ほど経ってからだった。
「ねえ、倖。会って欲しい人がいるんだけど」
母から言われたその一言で腑に落ちた。恋人が出来たのだ。
すでに父親と過ごした時間より、いない時間を多く過ごしていた倖にとって、裏切られたとか、そういう感情はなかった。
「ごめんね、コウくん。君がお母さんと過ごす時間を、僕が分けてもらって」
明彦と名乗った中年の男は、申し訳なさそうに謝った。
落ち着いた雰囲気の穏やかな気性らしく、母より少し年上に見える。ゆったりとした明彦と忙しない聡子でテンポが合うのだろうか、と倖は無言でジュースを飲んだ。
「母さんが誰とどう時間を過ごすかなんて、母さんの勝手だろ。アンタに謝られることじゃない」
「もう、本当口が悪いったら。誰に似たのかしら」
「聡子さんは年頃の男の子は母親と過ごすのを嫌がると聞いて、必要以上に構わないよう気を付けていたらしい。だが、僕と会っている時間も、君がどうしているかをずっと気にしていた。良いお母さんだね」
「明彦さん!」
何でもないことのように言う明彦に、聡子は慌てて名を叫んだ。ほんのり顔が赤いのは、本人に言うつもりのなかったことを暴露された照れと怒りから来るものだろう。
「知ってる」
「そうか」
子から見ても聡子は良い母親だ。仕事で忙しいのにおくびにも出さず、母親業も手を抜かないよう気を巡らせていた。しかも、小学生になって突然理由も言わずに付けてもらった名前を拒絶した時、拒絶すら優しく受け止めてくれた。あの時の表情は、今でも忘れられない。
「ね? 親バカなのは分かってるけど、いい子でしょ?」
「ああ」
「……」
良い年した大人二人が頷き合うのに、倖はいつまでこの茶番に付き合わなければならないのかと心の中で溜め息を吐いた。いつまで、と言っても再婚して一緒に住むのなら、家を出るまでずっと付き合うことになる。母の幸せは勿論願っているが、つい顔を顰めてしまう。
「明彦さんもね。離れて暮らしてる娘さんをいつも気にしてて」
前以て相手にも大学生になる子どもがいるのだと聞いていた。子を持つ者同士で相談し合っている内に、自然とそういう仲になったのだろう。
「そんなに気になるなら連絡すればいいのに、邪魔しちゃ悪いからってひと月に一度しか連絡しないのよ」
「邪魔?」
一瞬、心を見透かされたのかと思った。
邪魔とまでは思ってないと自分で言い訳をしつつ聞き返す。年頃の娘が父親をぞんざいに扱うのはよくあることだと言う。ただ、少し話しただけでの昭彦はうざがられそうな父親には見えず、娘の歳からしてももう落ち着いて良さそうなものだが。
「娘は小説を書いているんだ。元から口に出すより紙に書くほうが性に合っている子だったんだが、友人の勧めで書き始めた小説が人の目に留まってね。今は大学生と小説家、二足の草鞋中なんだ」
「すごいわよねぇ。私はあまり本を読まないから知らなかったけど、倖は知ってる? 真昼ゆめっていう、中高生に人気の作家さんなんですって」
「知らない」
漫画ならまだ読むが、小説となると話は変わってくる。作品名を聞いたところで分からない自信しかなかったので、端的に返すと聡子は呆れたように肩を竦めた。
家にある本は聡子の専門書と学校の教科書だけなのを知った上で、試すように聞くほうが悪い。そもそも、姉になるかもしれないその女の本名より先にペンネームを知るのはおかしくないか。
その後も、時々振られる話題に素っ気なく返し続ける倖に、明彦は少しも機嫌を悪くしなかった。きゃいきゃいとよく喋る母、愛想のない息子、そのどちらにも明彦は変わらぬ態度で。何の問題なく、あっさりと初顔合わせは終わった。
「どうだった?」
明彦と別れてすぐ、聡子は何でもないように聞いてきた。普段通りに言ったつもりなのだろうが、その声はうっすらと緊張を孕んでいて。
聡子の話に相槌を打っていたことのほうが多かったが、明彦へ悪い印象は抱かなかった。むしろ、言動の端々に相手を思いやれる節が見て取れて。倖の名前が本当は“コウ”ではなく“サチ”と読むことも知っているだろうに、母同様何も聞かずに“コウ”と呼んでいた。それだけでも、倖としてはポイントが高い。
「いいんじゃない」
突き放すような言い方になったのは、聡子の緊張が伝染ったのか。きっと、倖が少しでも難色を示せば聡子は考え直す。別れるとまでは言わないが、再婚は諦めるのが目に見えていた。
それに倖自身も大学生になる頃には家を出るつもりだった。明彦が猫を被っていて本来と違っていたとしても、数年くらいやり過ごせるだろう。やり過ごせないくらい酷い男なら、黙っているつもりはない。
「ふふ。倖もそう思ってくれたのなら、母さん嬉しいわ」
まるで自分の行いを褒められた子どものように、聡子は無邪気に笑った。
明彦と初めて会ってから、数ヶ月が経った。
本格的に聡子と明彦は再婚の準備を始めた。頻繁に明彦を家に招き、倖と会う回数も増やす。聞き上手で必要以上に介入してこない明彦は、テリトリー意識の強い倖とも程良い距離で接することができた。
明彦が義父になるのなら、芋づる式で義姉も出来る。それを手放しで喜ぶほど、倖は短絡的ではない。むしろ、自分のテリトリーに他人を入れるなんてと、明彦と母の仲を認めた今でも、まだもやもやしていた。
「真昼ゆめ……」
だから、相手を知ることから始めた。
未成年の倖とは違い、あちらは成人している。わざわざ生まれ育った場所から呼んで、一緒に住む必要性はない。各々の都合を考慮し、三人だけで住む方向で決まっていた。
一緒に住まないのなら知る必要もないかと思ったが、荷物を引取りに行く際に聡子と倖も手伝いがてら顔合わせで付いていくことになった。二度目があるかも分からない相手だが、戸籍上姉になる。それなら、やはり知っておこうと図書館へ向かった。
「まひる……これか」
少し離れた市立図書館。学校の図書館は人の目が気になるし、家に持ち帰って聡子に見つかりでもしたら面倒だと、借りずに読んで帰るつもりで休日の朝からやってきたのだった。
検索機頼りに探した本はすんなり見つかった。中高生向きと聞いていたが、数冊ある上、思ったよりページ数がある。普段本を読まない倖は、これを読むのにどのくらい掛かるのかと少しうんざりしながらも、空いている椅子を探して腰を下ろした。
結果として、それほど時間は掛からなかった。
「ふうん」
一冊目を読み終わり、倖は閉じた本を眺めた。くるりと背表紙に書かれているあらすじをもう一度読み、頬杖をつく。
意外だった。
会ったこともなく、明彦から少し聞いている程度。そんなあやふやな情報で思い描いていた義姉と、今読んだ作品の印象はかすりもしなかった。
文章は素直で、捻りや難しい表現はあまりない。どこか淡々とした語り口の本文だが、描かれている情景は鮮やかで、人々の蠢きは生々しい。まるで本当に見てきたかのように描かれた内容は、慣れていない倖にとっても読みやすく。一気に読破した影響か、それとも内容によるものか。押し寄せる疲労に本を棚に戻すと、昼を食べがてら気分転換に外へ出た。
近くのファミレスで食事をしながら、倖は行儀悪く携帯を触っていた。
便利になった昨今では、手の平に乗るほど小さく薄っぺらい機械ひとつあれば、ある程度のことは知れる。むしろ、今日までにしておくべきだったと今更ながら思った。
デビュー作である一作目が『箱庭』。続いて『星屑の羽根』『slumloam』『ハニーレイン』の四作が現在刊行されているらしい。倖が読んだのは、三作目。口コミによると、一作目はイタリアの裕福な家庭での日常を書いたもので、二作目は天使がでる現代ファンタジー、四作目は森に住む生き物達の話。ネット上でもそれぞれの雰囲気が違いすぎると話題になったらしい。中でも三作目は異質で、交わされる感想も同じ作品を読んだと思えないほど差が大きかった。
真昼ゆめの三作目、『slumloam』はスラム街に暮らす人々を描いた作品だった。
傾き、今にも崩れそうな建物に囲まれた、陽の差さない場所。雨に濡れ、理不尽さに押し潰されそうになりながら、血を吐く思いで生き抜く人々の強さと切なさ。傍らに生える雑草や空の青さを感じるほど繊細に、生き生きと描かれた作品だが、暴力表現や読んでいて顔を顰めてしまうようなシーンも多々あった。だからこそ、ネット上で賛否が分かれているのだろう。
よりにもよって、異質と称される作品を最初に読んでしまったのかと、我ながら引きの悪さに溜め息が出る。だが、倖としては悪くない内容だった。綺麗な部分だけの上っ面の作品よりよっぽどマシだ。
腹も満たされた倖は再び図書館へと戻った。改めて書棚を見ると、真昼ゆめの著作は三冊。先程調べたタイトルの中で、デビュー作である『箱庭』だけが見当たらない。仕方なく、二作目である『星屑の天使』を手に取り椅子に腰掛けた。
「……雰囲気違いすぎないか」
『slumloam』は砂漠の中にオアシスを探すような、絶望と渇望の合間で生きる者達の話だった。その前作にあたる『星屑の天使』は、一変してライトノベルのような軽快なファンタジー。さらっと読めるのはこちらだろうが、倖からすると薄っぺらく、現実離れした理解しがたい物語に感じた。
三冊目を読み終わったあたりで時刻は夕方に差し掛かっていた。
返しに行った書棚に『箱庭』はない。検索機で調べると、現在は貸出中だが次の予約も入っていた。それでは義姉に会うまでに間に合わない。
図書館を後にした倖は、来た道とは別の道へと足を向けた。
その後、本屋にて入手した本を読んだ倖の表情は、煮えたぎる怒りと侮蔑の色を浮かべていた。