31、襲来
「ど、どうして……」
それ以上言葉が続かない。
話で聞くのと、実際に体験するのとではこんなに違うなんて思わなかった。倖の渋面を思い出し、珠緒は早くも後悔していた。
「こんにちは、お義姉さま」
絶句する珠緒の前には、にっこりと愛らしい笑みを浮かべる少女。
昨日、兄である櫂に連れ帰られたはずの愛梨がそこに居た。
* * *
倖は予定通り、朝の内にオープンキャンパスへと向かった。朝食を取っている間も残るべきか悩んでいた倖だったが、昨日の内に連絡していた杏が昼前には来れるというので任せることにしたのだ。見送る珠緒にくれぐれも戸締まりと、来客は誰であっても入れるなと念押しして出ていった。
だと言うのに、なぜ彼女は家の中にいるのだろう。
「ど、どうしてここに……」
「不用心ね、玄関の鍵が開いてましたわよ」
「え」
驚きでありきたりな事しか言えない珠緒に、愛梨はわざとらしく肩を竦めてみせる。
そんなはずはない。倖にこれでもかと念を押されたのだ、今日ばかりは確実に閉めたと断言できる。だがしかし、それは心の中でだけ。ほぼほぼ初対面の愛梨に指摘できるほど珠緒は強かではなかった。
「驚かせてしまったのならごめんなさい。私ね、今日はお義姉さまと仲良くなりたくて来ましたの」
「え……」
愛梨の話し方は至極丁寧で。猪原家が裕福なのかは知らないが、どこのご令嬢かと思うような話し方。その内スカートを摘んでカーテシーでもし始めそう愛莉に違和感を覚えたが、言えるはずもなく。
「だっていつかは私のお義姉さまにもなる方ですから。仲良くなりたいと思うのは当然でしょう?」
愛梨の言葉に開いた口が塞がらない。あんなに分かりやすく倖が嫌っているにも関わらず、愛梨は倖と結ばれると信じて疑わない。一途と言うべきか、それとも純粋と言うべきか。ぞわりとした感覚を持て余し黙り込む珠緒に愛梨は続けた。
「倖君も酷いわ。私と久しぶりに会えて嬉しいからって、お義姉さまを除け者にするなんて」
「除け者……?」
「そうでしょう? もっとお義姉さまとも話したかったのに、あっちへ行けと。ふふ、きっと恋人と話す所を身内に見られるのが恥ずかしかったんだわ」
ここに倖がいれば、恥ずかしくてではなく遠慮せずに怒れるようにだと蔑みの一瞥をくれたことだろう。だが、ここには珠緒と愛梨しかいない。
口下手な珠緒は、完全に会話の主導権を握られていた。
「だからね、お義姉さまに伝えに来ましたの。昨日、お義姉さまがいらっしゃらなくなってから、私達が何の話をしていたのか。知りたいでしょう?」
倖は愛梨との出会いや思い出は語ってくれたが、珠緒が部屋に行った後の会話は教えなかった。知りたくないといえば嘘になる。けれど、珠緒は首を横に振った。
倖は愛梨と会わせたくなかったと言っていた。それが珠緒への心配からくる言葉なのは、倖を見ていればわかる。だから断った、つもりだった。
「ええ、気になりますよね。ご安心くださいな、私が全て教えて差し上げます」
「え、いや……」
「そうですわね、あまり遡りすぎても話が長くなってしまいますし、倖君から私のことは聞いているでしょうから。倖君と私が遠距離恋愛を強要された辺りからにしますね」
微かに頬を染めて微笑む姿は同性から見ても可愛らしい。が、その瞳はここではない何処かを見つめ、珠緒ではない何かに話しかけている。そうとしか見えない愛梨の様子に、珠緒は腕をさすりながら一歩下がった。
「お義姉さまはご存知かしら? 倖君はとても照れ屋さんで、私と目が合うと表情が変わるんです。奥手だから自分から話かけられなくて、でも私から声をかけると照れて逃げてしまうの。ふふ、可愛いでしょう? 倖君の色んな表情が見たくて、もっと一緒に居たくて。ついつい会いに行ってしまうのだけど、恋人だからいいわよね」
愛おしそうに微笑む愛梨。潤んだ瞳に映っているのは、きっと珠緒ではなくここにいない倖なのだろう。
所々、昨日倖から聞いた話と合致する箇所があったが、二人の受け取り方の落差が酷い。
「なのに、皆が邪魔をするの。愛する二人を邪魔するなんて、馬にでも蹴られたいのかしら」
すっと温度が下がった声音に、珠緒が怯えた視線を向ける。
「倖君が転校した事、新学期に知ったのよ。すぐ兄様に事情を聞こうとしたけど、教えてくれなかったわ。兄様も父様母様も、みんな倖君とは関わるなと言うの。酷いでしょう? 私の家族がそんな事を言うから、倖君は私に転校することを言えなかったんだわ。でも、周りの妨害になんて負けない! だって私達は愛し合っているんだもの! 倖君が私に近付けないのなら私から会いに行く、前世を忘れてしまったのなら思い出させてみせる。今時、待ってるだけのお姫様なんて流行らないわ。私の王子様は私が迎えに行ってあげる」
徐々に声音に禍々しい熱が込もり、狂気を孕み始める。
空調で適温にしてあるはずなのに寒い。腕をさすり、止めどなく溢れる倖への気持ちをぶちまける愛梨は留まる所を知らない。
普通の人が聞けば夢を見すぎてるなり、前世なんて無いなり、否定する言葉が出るだろう。だが、珠緒には前世があり、妄想に酔う相手を止める術はない。
「兄様と倖君は前世から仲がいいの。昔は二人乗馬に出掛けたりするのが羨ましかったけど、倖君はいつも私にお花を摘んできてくれたわ。だから、今でも二人の仲が良くて嬉しい。今日行ってる大学がね、兄様の第一志望なの。兄様は文武両道で努力を怠らない人だもの、受かるに決まってますわ。そうなれば、倖君はあなたと暮らす必要が無くなる」
「え?」
「当然でしょう? お義姉さまとは言え、数年前に書類上でそうなっただけ。血の繋がりもなければ、絆もありませんよね。ですが、兄様や私とは前世から現世に至る深い絆がある。どちらと暮らしたほうがいいかなんて、分かりきったことですわ」
愛梨の言葉が脳内で繰り返される。なのに噛み砕けなくて、珠緒は焦った。考えれば考えるほど、纏まらない。
そんな珠緒を鼻で笑い、尚も倖への言葉を重ねる。
「そうなれば私と倖君を阻むものはなくなる。私の高校卒業を待って二人で暮らすの。子どもも欲しいけれど、暫くは倖君と二人きりで過ごしたいわ。やだ、こんなこと言ったらまた倖君が照れちゃうわね。うふふふ」
確かに珠緒は倖と暮らし始めてまだ四ヶ月程しか経っていない。付き合いが長い愛梨や櫂には敵わない。好きなものや嫌いなもの、何を想って何を厭うのか、何も知らない。
しかし、珠緒だからこそ言える事が一つあった。
「前世は過去。覚えていたとしても、現世とは違う。覚えてない人に前世を押し付けるのは、ダメ」
勇気を振り絞って伝える。前世の記憶を持ち、前世に振り回されてきた珠緒だからこそ思うこと。
例え前世で繋がりのある相手を見つけても、相手は現世を生きている。前世で大切だったからこそ、前世を思い出して苦しんで欲しくない。懐かしむ気持ちに蓋をして、珠緒は一人前世と現世の狭間で生きてきた。
「は?」
「ひっ」
途端、豹変した愛梨に珠緒は後退る。
表情全てを削り落とした能面のような顔、地を這うような低い声。ここではないどこかを見ていた瞳はしっかりと珠緒を捉え、ゆらりと近寄る。
「自分の価値観押し付けてんじゃないわよ、この泥棒猫。倖君の優しさに付け込んで同居した挙句、私と倖君の仲にまで口出ししてくるわけ? びくびく怯えてりゃ誰かが助けてくれると思ってるんでしょ。はん、お生憎様。見た目も悪いし、要領も悪い。料理も出来ないんですってね。ならあなた、何が出来るの? 息を吸って、倖君の足手まといになる他に、一体何が出来るっていうの? 答えなさいよ」
「……っ」
愛梨の容赦ない言葉が鋭利な刃物となって襲いかかる。
いつの間にか壁際まで追い詰められ、逃げ場なく正面から罵声を浴びせられる。恐怖に喉が引き攣って言葉どころか息も上手く吸えない。震えて浅く息をする珠緒に、愛梨は思い切り手を振り上げた。
「消えろ」
トドメとばかりに投げつけられた低い声音と、衝撃。
横へ吹き飛んでぶつけたお尻の痛み。遅れてやってきた頬の痛みと熱。
叩かれた頬を押さえて呆然とする珠緒だったが、差し込んだ影にハッとすると慌てて立ち上がり、横をすり抜けて玄関へと走る。そのまま玄関を飛び出した珠緒の視界には、怖いくらい澄んだ青空が広がっていた。




