03、名前
「ここ……」
ショッピングセンターに辿り着いた倖が最初に寄ったのは、携帯ショップだった。
珠緒がお試しの機械を眺めている間に、倖は店頭にあるパネル横にいた店員に何事かを話しかけていた。頷いた店員は、笑顔で紙切れとパンフレットを差し出す。
「ほら」
人差し指でおっかなびっくり触っていた珠緒に、倖はずいとパンフレットを押し付けた。
「……?」
「操作が簡単なのはこれとこれ。流石にシニアとキッズは嫌だろ。デザインで気にいるのがあったら、そっちでもいい」
「?」
「聞いてるのか?」
聞いてはいる。意図はわからないが。
倖が指差したページには初心者向けと書かれたスマートフォンが、モデル顔負けに輝いていた。父にいるかと言われて首を振り、友人に持てと言われたのにも首を振って、今の今まで持たずに来た。そんな珠緒に何を求めているのだろう。
倖はそんな珠緒に気付かず、ページに載っている機種を目で探していた。
「あれだ」
実機を見つけた倖に呼ばれて、珠緒も見る。
薄っぺらくて無機質な板は磨き上げられたつやつやしている。角が丸く、パステルカラーのスマートフォンは、馴染みのない珠緒にはおもちゃにしか見えなかった。これで世の人は電話をかけたりメッセージを送ったり、もっと色々な事をしているのかと思うと、変わった世の中になったなあとしみじみしてしまう。
「触ってみろ」
言われるがまま手に取る。画面は真っ黒で、電源ボタンを探す。横から伸びてきた指が、黒い画面の下にある円を押した。途端に息を吹き返したように色を溢れさせた画面が眩しく、目を瞑る。
「何でだよ……」
呆れたように珠緒の手からスマホを取ると、慣れた手つきで画面を操作していく。早すぎて珠緒には何をしているのすらわからないので、機械が置いてあった台の文字を眺める。
シンプルな使いやすさの他にはカラーバリエーションの豊富さも売りらしく、可愛らしい色のサンプルが置いてあった。その内のオレンジを手に取り光に翳すと、照明を受けた艶やかな光沢の中にキラキラした粒が見える。よく見なければわからない程度のラメが入っているらしい。
そうこうしている内に、倖と話していた店員さんが呼びに来た。
案内されたカウンターに座るなり始まった会話は、すでに珠緒の分かる範囲を越している。勧められるまま隣に座ってしまったので、珠緒はせめて邪魔にならないよう大人しくしておこうと、ぼんやりと店員と倖のやり取りを眺めていた。
「機種はお決まりですか?」
「これで。色は、オレンジがいいのか?」
「え?」
先程まで触っていた機種を指差してこちらを向く。急に二人の視線を向けられて固まった珠緒に、倖はまた怪訝な顔をする。
「……あのな。誰の携帯を見に来てると思ってるんだ」
ぱちくりと瞬きをして、ようやく珠緒は自分の携帯を買いに来たのだと気がついた。
てっきり倖の用事で来たと思っていたので、当事者だとは考えもしなかった。珠緒の反応から察した倖は、溜め息を吐いてもう一度説明をした。
「いいか。要るとか要らないとかじゃない、持て。じゃないと何かあった時に俺が困る」
「で、でも……」
「支払いが嫌なら俺宛の仕送りから出せばいい。どうせ大して使わないだろうし、料金もたかが知れてる。最低限の使い方は、覚えるまで俺が叩き込んでやる。わかったら色だけ選べ」
底知れぬ営業スマイルの店員と、どこまでも上から目線の倖の物言いに退路を絶たれ、珠緒は色を一つ選ぶ他なかった。
休日のショッピングセンターは予想通り、人でごった返していた。着いた頃より、一つ買い物をした今のほうが増えている。
珠緒ははぐれないように、倖の服の裾をぎゅっと強く握る。その胸元ではオレンジ色のスマホが歩く度に揺れていた。
「行くぞ」
スマホと一緒に透明なソフトケースと首からぶら下げられる付属の紐を購入した珠緒だが、プラン諸々は全て倖任せで支払いのみの、まさに財布の役割だった。
人並みを掻き分けて進んでいく倖の背中に隠れるように付いていく。地元にずっと住んでいる珠緒よりも、フロアマップ片手に進む倖のほうが迷いがない。
予想外の寄り道をしたものの、目的の布団達を買うために階を移動していく。布団などの大きな荷物は纏められるだけ纏めて配送を頼み、手荷物が出来るだけ少なくなるよう買っていく。買い物慣れしている倖に付いていくだけの精一杯の珠緒が疲れた頃、倖は喫茶店へ入った。
「悪い。先に食べたほうがよかったな」
買い物が一段落したのか、メニューを珠緒に見せながら謝罪する。倖に謝られるとも思わず、謝られる理由も思い浮かばず。きょとんとした珠緒だが、急遽外出することになったので朝ご飯を食べ損ねていたのを思い出した。
元々、仕事の都合や自分の気分で変動する不規則な生活の中、少食な珠緒は一食や二食抜いたところでどうってことはない。むしろ、体力が皆無なので食欲よりも疲れが勝っていて。正直、あまりお腹は空いていなかった。
「決まったか」
「え、と……。これ」
「他は?」
ふるふると首を横に振る。珠緒の選んだサンドイッチは明らかに量が少ない。特に育ち盛りの倖には到底信じられない量だったらしい。他も頼めと目線で訴えた倖だが、珠緒の困り顔に気付いて取り下げた。代わりに勧めた紅茶は大人しく選んでいたので、本当にそれ以上は食べられないのだろう。
「大方は買い終わったから、後は食材だな」
頼んだランチセットを減らしながら、スマホを操作し食後の予定を決めていく。異論も決定権も持ち合わせていない珠緒は、サンドイッチに齧り付きながら頷いた。
「おい」
「?」
食後の紅茶を飲んでいた珠緒に、倖は怪訝な顔をする。じいと見つめる視線をぼんやり見つめ返していたら、倖は徐ろに立ち上がった。
「先に会計済ませてくる」
「あ、はい……」
「いい。これくらい払える」
財布を出そうとする珠緒を押し留め、レシートを摘んでさっさと行ってしまった。帰ってくるまでに飲み終わらなければと、まだ少し熱い紅茶に息を吹きかける。
「行くぞ」
珠緒が飲み終わったのを確認し、二人は店を出た。
すっかり掴み跡が出来た倖の裾を握り、はぐれないようちょこちょこと後を付いていく。ふと気付くと、ショッピングセンターの出入り口まで来ていた。不思議に思って、珠緒はくいと倖の服を引っ張った。
「お買い物、いいの?」
「ああ、手荷物増えたしな。さっき調べたら家の近くにスーパーがあるらしいから、そっちで買う。あれだけスカスカの冷蔵庫を埋める食材を買うなら、一旦荷物置きに帰ったほうがいいだろ」
躊躇いがちに見上げる珠緒に、倖はスマホの画面を見せた。
言葉から、この辺りの地図なのはわかったが、普段地図を見ない珠緒には家の場所とスーパーの位置関係は掴めない。一先ず家に帰ることだけ把握して頷くと、倖は再び歩き始めた。
家に帰る。
その一言に、ほっと息を吐く。思った以上にショッピングセンターで気力と体力を消耗していた。ぎゅうと握った服に導かれるように下を向いて歩く珠緒は、倖がちらちらと後ろを見ながら歩いていることには気付かなかった。
* * *
「んう……?」
うっすら開いた視界に、白い天井が見える。照明には明かりが灯り、カチャカチャと何かの音が聞こえた。
ぼんやりとした頭で考える。ここはどこで、自分は誰で、今はいつ?
答えが出るまで動いてはいけない。横たわったまま、もう一度目を閉じようとしたその時。
「起きたか」
「!」
覆い被さるように覗き込んだ影に、目を見開いた。咄嗟に起き上がってしまい、影と思い切りぶつかる。
「ひゃん!」
「いてっ」
互いに頭を抱えて丸まり、声にならない呻きを上げた。
その痛みで一気に夢から現実へと引き戻される。のそりと起き上がった影にびくりと肩を揺らすと、影は眉間に皺を寄せてこちらを睨んだ。
「急に動くな。危ないだろ」
赤くなった額を抑えて睨む姿に、視点が定まる。
見つめ返すと鋭かった目はすいと泳いで、代わりに手が伸びてきた。再び肩を揺らして身構える体に、その手は優しく触れた。
「起きれそうなら、ゆっくりでいいから来い。腹は空いてないかもしれないけど、スープくらいなら入るだろ」
ふわり。そんな表現が似合いそうな触り方で頭を一度撫でると、影は背を向けて去っていった。ぼんやりその背を見送りかけて、慌てて追いかける。掛けられていた上着が床に落ちた。
「おい、ゆっくりって……」
「名前」
「は?」
「名前を……その……」
「名前?」
寝起きで動きの悪い頭と口で必死に何かを言おうとするのに、纏まらない思考に言葉が滑る。あれも違う、これも違う、と脳内の引き出しを引っくり返して、それでも言葉が出てこない珠緒に「ああ」と影は合点がいったような声を出した。
「前言ったこと、覚えてたのか」
前。それは三年前の、初対面での一言だ。名前を呼ぶな。そう自分で言った事を思い出した影は、間を置かずに答えた。
「コウ。そう呼べ」
「こう、くん……」
本名を嫌う影は、嫌いになった瞬間から周りにそう呼ぶよう強要した。それは親友だろうと産みの母だろうと例外ではない。当然のように指示された偽名を、ぼんやり反芻する。
「おう。あと、前も言ったけどアンタのことを姉と呼ぶ気はない。そうだな……マオでいいか?」
義理の弟であり、年下のはずの倖が言う偉そうな言葉に、マオという新しい愛称を得た珠緒はへにゃりと笑った。
「うん。コウくん、おはよう」