21、鍵穴
「おやすみなさい」
「ああ」
聡子が帰った夜。
いつもなら今から朝方まで仕事に励む珠緒だが、流石に疲れたらしくすでに瞼が閉まりかけている。ふらふらした足取りで私室へ戻っていった。
「……寝たか」
念の為に少し時間を置いて、出て来る気配が無いのを確認すると、倖は仕事部屋へと向かった。ちゃり、と家の鍵と謎の鍵がぶつかりあう微かな音を手で包んで隠す。
ノブを捻れば、何の抵抗もなく開く。リビングの光も届かない部屋は真っ暗で、壁沿いにスイッチを探すと、すぐにそれらしき物が手に触れた。
パチンと軽い音がして一気に明るくなる。
壁際に敷き詰められた本棚は大小様々な本が並び、部屋の真ん中には年季の入った木製の机が陣取っている。明らかに子供用の学習机ではなく、大人用だとわかる重厚な造り。ダークブラウンの天板の上にはデスクライトと、ノートパソコン。その周りに乱雑と散っている紙々。
「元は明彦さんの書斎だとか言ってたっけ」
いつだったかに聞いた話を思い出しながら、ぐるりと部屋を一周する。それほど広くもない中に大きな家具ばかり並べているせいか、圧迫感がある。
「地震が来たら、間違いなく死ぬな」
本棚が倒れなかったとしても、中にある本が雪崩のように襲ってくるのが簡単に想像できた。
本棚に並ぶ背表紙を何気なく眺めてみると、子供向けから外国語で表記された専門書らしきものまである。明彦の職業を思えば納得は出来るが、あまり珠緒の趣味と思える本は見当たらない。仕事部屋と言うだけあって、仕事に必要な本だけ置いているのかもしれない。
「鍵穴らしきものはない、か……」
本棚から本棚へ目を滑らせても、見えるのは背表紙ばかり。鍵を必要とするものは見つからない。というより本しか無いのだ。仕掛け絵本のように、取り出せば鍵を必要とするタイプだったらどうしようかと、無数の背表紙に嫌気が差して椅子に座る。
くるりと回転する椅子に背を預け、本棚を見上げる。
「……」
捜索をやめたからか、棚に並ぶ本が先程よりよく見える。
文庫と並んで収められている、誰もが知っているであろうタイトル。薄くて小さいそれは、子どもの手に馴染むように作られた絵本。開けば子ども向けのイラストとひらがなが載っているのだと容易に想像がついた。
あまり本を読まない倖だが、タイトルや本の装丁から対象年齢くらいはある程度察せる。絵本や文庫は珠緒が読んでいたものだろう。日本語ではないタイトルや、学術書を思わしき本は明彦のもの。
「……」
住んでいたはずの、もう一人の面影がない。
この家には写真を飾る習慣がないので、倖は珠緒の母親を見たことがなければ名前も知らない。これだけ本があるのならアルバムもあるのでは、と当初の目的を忘れかけた倖の視界の端に、ある物が映った。
机の天板下にある引き出し。深さに種類がある王道の引き出しだが、その一つに小さな鍵穴が付いていた。
「もしかして……」
引き出しに手を掛けて引っ張るが、動かない。何かに引っ掛かっているような感触に、倖は持っていた鍵を穴へと差し込んだ。すんなりと鍵穴に滑り込んだ鍵を右に捻る。指に慣れた振動が伝わり、倖は再度引き出しを引っ張った。
「開いた」
明彦の鍵は引き出しの鍵だった。
あっけなく見つかった宝の場所に、倖は内心ドキドキしながら手前まで引く。
そこに入っていたのは複数のノートだった。
積み重ねられ、優に数十冊はあるノートは年季が入っている。倖が使う学習ノートとは違う無地の表紙には通し番号の記載だけがされており、タイトルはない。たまに見返していたのか、一部番号順ではなく角が折れているものもあった。おおらかだが几帳面でもある明彦にしては珍しいと思いながら、一番上のノートを手に取る。
恐らく明彦が何かしらを書き記したノートなのだろう。しかし、勝手に他人のノートを見てもいいものか。躊躇いがちにノートに触れていた倖だが、鍵を託したということは見ても構わないという無言の許可だと信じ、ページを捲った。
「……そういうことか」
振られた番号的には比較的新しいと思われるノート。パラパラ捲りながらざっくりと書かれている内容に目を通していた倖は、すぐに閉じた。
立ち上がって、部屋のドアから廊下を覗き見る。珠緒が起きた様子はない。万一起きた時にバレないよう、デスクライトを点けて部屋の明かりを消した。椅子に戻ると、引き出しの底から一番古い番号を引き抜く。
何度も開かれたせいか、随分と傷んでいる。意を決して表紙を捲り、一ページ目に視線を落とした。
『妻が出ていった。もっと早くに気付いていれば。いや、もっと長く一緒にいることができれば。彼女は己を壊すほど思いつめる事はなかっただろう。愛する彼女に私が出来ることは、彼女を解放する。ただそれだけだった』
「ということは、マオの母親は生きているのか」
不穏な出だしを見る限り、珠緒の母親は何かしらの理由で精神を病んで離婚し、出ていった。明彦自身にも非があるのか、一ページ目は明彦の懺悔や後悔の滲む文章が並ぶ。悲痛な心情の吐露に、そっと次のページを捲った。途端目に飛び込んできた物に、倖は目を瞬かせた。
「なんだこれ……」
全てを塗り潰す、黒。
見開き全面を覆う黒は、鉛筆だけでなくクレヨンらしき跡もある。ノートの際まで黒くなっている部分は、恐らく勢い余って外へはみ出したのだろうと思うほど力いっぱい描かれている。
子どもの落書きだとは思う。だが、それにしては色の選択と塗り潰し方に執念を感じる。ページを捲るが、そこも全面が黒い。
「……」
ページを追う毎に紺や緑、赤も混じり始めた落書きだが、どれも似た印象だ。子どもは明るく純粋な絵ばかり描くとは流石に倖も思っていない。逆に、純粋だからこそ大人が思っていない切り込み方でぎょっとさせられることもあると、妹がいる友人が昔言っていた。
そうだとしても、この絵には見た人の不安を助長させるような雰囲気がある。これらは何を差しているのだろうかと、次のページを捲るとようやく文字が出てきた。
『少し色が増えてきたが、やはり黒が多い。珠緒が無心に描く絵には統一して、闇が映り込んでいるように思える。この子が五歳になった今も言葉を話さないこと、奇々怪々とした行動をすること、どちらにも理由があるはずだ』
少し癖のある字は一ページ目と同じ筆跡で、明彦のものだと知れる。
その後も、何を描いているのかわからない絵が並び、隙間に明彦が絵についての推察や日々のメモが書き足されて一冊目が終わった。
明彦の言葉から、このノートは珠緒が五歳の時のものだと分かる。ほとんどが謎の絵と、それに対する数行のメモだったのであっという間に見終えられたが、情報量としては多かった。
杏の言葉を思い出す。
珠緒の前世を聞かされた時、珠緒は生まれつき前世を覚えていて日常生活に支障を来していたと言っていた。その時は、単純にそうなのかと深く考えてはいなかったが、こうしてみるとようやく言葉の重みに気付く。
生まれつき前世を覚えていたのなら、人間に生まれ変わった自覚などなかっただろう。もしかしたら寝て起きた、くらいの感覚だったのかもしれない。
もう一度、黒く塗りつぶされたページを開く。
「……そうだよな。自分が死んだ時の記憶を覚えたままなのは、キツいよな」
倖は一冊目を横に置き、次の一冊を手に取った。




